2019年05月24日

『スフィンクス・ステーキ―ミュノーナ短篇集』ミュノーナ Mynona (未知谷)

ユーモアに満ちた奇想小説やファンタジーを多く収録された異色作家短篇集。


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人の体毛の生え方をオルゴールの筒に移植して、その人間固有の音楽を奏でる『性格音楽−毛のお話』。

スフィンクスを食べてしまうタイトル通りの話『スフィンクス・ステーキ』。

まったく同じ名前、同じ行動をとる40人の集団を描く奇談『謎の一団』。

砂漠に現れた巨大な卵をめぐるナンセンスな出来事『不思議な卵』など、突飛なイメージが印象に残る。

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2019年05月22日

偉大な哲学者の名言たち

偉大な人物たらんとする者は、自分自身や自分に属するものをではなく、正しいことをこそ愛すべきなのだ。


驚きは、知ることの始まりである。


無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしない。


賢者は、話すべきことがあるから口を開く。愚者は、話さずにはいられないから口を開く。


だれに対しても、不正を不正でもって、悪を悪でもって、埋め合わせしてはいけない。よしんば、その相手にどれほど苦しめられていようとである。 


どんなにひどいことをされても、同じ手段で返したら相手と同じとなってしまう。復讐はさらなる復讐を生むだろう。


「弱いものほど相手を許すことができない。許すことは強さの証だ。」ーマハトマ・ガンジーー

 

「己の欲せざるところ人に施すことなかれ。」ー孔子ー

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2019年05月20日

『珈琲に遊ぶ―おいしいコーヒーを淹れるヒント』川中幸博(未知谷)

コーヒーに関するノウハウを越えたノウハウの一書。 コーヒーも究めると哲学になる。 誠実であることへの憧れ、熱中できることとの出逢い、そしてそれが他人の役に立つかも知れない。果たしてこれは仕合せではないのか―― 勿論ここにはコーヒーに関する実際的知識も溢れている。 ノウハウを越えたノウハウの一書。

http://www.michitani.com/books/ISBN4-89642-023-3.html

内容(「MARC」データベースより)

コーヒーの味を決定づける要素についての説明や、おいしいコーヒーを淹れるために役に立つ実践的な知識を中心に構成。ドリップ注湯の動作や悪い例、浅煎り豆と深煎り豆の抽出方法の違い、フライパンで焙煎する方法などを紹介。 



コーヒーをいれる時にお湯を沸騰させたり沸騰したのを冷ますと不味い。
注ぐ湯の温度は85〜90℃が適当で「完全に沸騰させない」というのが重要。沸騰の前後で湯に含まれる色々な微量成分が変化して、コーヒーの抽出に影響する。これは紅茶や日本茶も同様である。



川中幸博氏は1949年鹿児島生れ。武蔵野美術大学卒業後25歳でコーヒー業界に入り、7年余の研鑽の後独立「どりっぷ」を東京国分寺市に開店、25年間一筋にコーヒーを穿って現在に至る。


自家焙煎珈琲どりっぷ - 〒185-0021 東京都 国分寺市南町3-19-6 2F 

http://drip-coffee.com/

(メニュー例)
ブレンド珈琲 550円〜
ストレート珈琲 600円〜
ネルドリップ珈琲 800円〜
特製ソースの野菜ピザ 1100円
自家製ケーキ 400円〜
自家製果実酒 600円〜
など
「jazzが流れる落ち着いた雰囲気」

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2019年05月16日

『おおきな木』シェル・シルヴァスタイン作 ; 村上春樹:訳(原題:The Giving Tree)

リンゴの木と少年は友達であった。ともに遊び、心を通わせていた。
しかし少年は大人になってゆきお金が必要になる。
木は「私の果実を売りなさい」と言う。少年は果実をすべて持っていった。
しばらくして、大人になったその子は家が必要になる。
木は「私の枝で家を建てなさい」と言う。
その子は枝をすべて持っていった。
また時が経ち、男は「悲しいので遠くへ行きたい」と言う。
木は「私の幹で舟を作りなさい」と言う。
男は幹を持っていった。
木は それで うれしかった・・・
だけど それは ほんとかな。

時が経ち、男は年老いて帰ってきた。そして「疲れたので休む場所がほしい」と言う。
木は「切り株の私に腰をかけなさい」と言う。
男は腰をかけた。
木は幸せだった


訳者あとがきより
あなたはこの木に似ているかもしれません。
あなたはこの少年に似ているかもしれません。
それともひょっとして、両方に似ているかもしれません。
あなたは木であり、また少年であるかもしれません。
あなたがこの物語の中に何を感じるかは、もちろんあなたの自由です。
それをあえて言葉にする必要もありません。
そのために物語というものがあるのです。
物語は人の心を映す自然の鏡のようなものなのです。
(村上春樹)

いつでもそこにある木。成長して変わっていく少年。
それでも木は少年に惜しみない愛を与え続けた・・・
何度でも読み返したい、シルヴァスタインのロングセラー絵本。
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2019年05月15日

『ぼくを探しに』シェル・シルヴァスタイン

『ぼくを探しに』シェル・シルヴァスタイン,
Shel Silverstein,翻訳 倉橋 由美子

「何かが足りない それでぼくは楽しくない 足りないかけらを 探しに行く」
ころがりながら、歌いながら、自分に足りないかけらを探す旅。
みみずとお話をしたり、花のにおいをかいだり、楽しみながら、野を越え、海を越えていきます。
かけらを見つけますが、小さすぎたり、大きすぎたり。
ぴったりだと思っても、しっかりはめておかなかったので、落としてしまったり、きつくくわえすぎて壊れてしまったりします。そしてとうとう、ぴったりのかけらに出会います。ところが……。

訳者あとがき「いつまでも自分のmissinng pieceを追いつづける、というよりその何かが『ない』という観念をもちつづけることが生きることのすべてであるような人間は芸術家であったり駄目な人間であったりして、とにかく特殊な人間に限られる」「子供にはこの絵本が示しているような子供の言葉では言いがたい複雑な世界が必要なのではないか。その世界を言い表す言葉を探すこと、これも子供にとってはmissing pieceを探すことに当る。」倉橋由美子

http://konoichi.kodansha.co.jp/1205/05.html



『続・ぼくを探しに』シェル・シルヴァスタイン,
Shel Silverstein,翻訳 倉橋 由美子

きっと僕なしでは生きられない、最高の相棒が現れる。
そう信じて、待って、待って、待ち続けても空振りばかりだった三角のかけら君。
そこに、助けなんていらないというビッグ・オーが現れて
「ぼくと一緒にころがるのは無理だ。
君ひとりならころがっていけるかもしれない。
角はとれて丸くなるものさ。形も変わってゆくよ」

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2019年05月14日

『黄金の果実』 ナタリー・ サロート Sarraute, Nathalie:平岡篤頼 訳

『黄金の果実』 ナタリー・ サロート Sarraute, Nathalie:平岡篤頼 訳
架空の本の題名「黄金の果実」は、夢想の対象になる書物ではない。「黄金の果実」が出版されて、知識人たちで話題になり、後世に残る記念碑的作品だと称賛されるが、そうした空気が醒めて、誰の話題にもならなくなるまでの過程を描いた。
「黄金の果実」の内容について具体的に言及されるのは殆どない。特別な登場人物も存在しないで、会話が漂っているだけである。
「あの本は、思うに、文学のなかに、あるひとつの照応を補足するに至った特権的言語を導入したのであり、その照応があの本の構造そのものとなっている。これは、律動的記号群のきわめて新しく且つ完全な掌握であり、それらの記号群がその緊張によって、あらゆる意味域の内に存在する非本質的なものを超越するんだ。」

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「黄金の果実」ナタリー・サロート(本文より)
 彼の訴えが誰かの耳に届いて欲しい、彼らのうちのただひとりでいいから、やって来て彼の味方になって欲しい……ただひとりでいいから、彼以外の誰かの目が、彼の目に見えているものを見て欲しい……それ以上のことは要求しない。彼が絶対に自信があり、不屈であると感じることができるためには、真理が凱歌をあげることができるためには、ほんのそれだけが必要なのだ、ただひとりの証人が。彼の目は四方を見廻し、恍惚とした顔、一種の麻疹状態に石化した表情の上を滑り過ぎる。
(平岡 篤頼 訳 87-88)

「黄金の果実」の評価が凋落していった会話が挿入する。
「無気味な波の音・・・・・・足がのめりこむ・・・・・・彼が飛び込んだのは、こんな水気の多い土地なのだ。これを彼は、斧を手に、松明を手に、開拓しようなどと思ったのだ・・・・・・(中略)見渡すかぎり目に入るのは、泥まじりの灰色の拡がりばかり、生気のない形象がそこから現れ出ては、目に見えない波のまにまに、気の抜けたように旋転する・・・・・・」

「傑作」といった常套句から「駄作」という常套句へと落ちつくのを、植物が光の方向に茎を伸ばすように、非人称的で方向性があり、散文的な喋りの連続で捉える。濃厚な渋さを醸し出す「黄金の果実」である。


解説:平岡篤頼
 一見したところ、本書「黄金の果実」と最近作『生と死の間』では、文学とは何かという重大問題を前面に据えることによって、サロートは、『プラネタリウム』までの彼女の作品の特徴となったことさら平板陳腐な世界を捨て。いっそう深刻な意味をもった作品を書こうとしたかに見える。すなわち、「黄金の果実」の主人公は、プレイェなる作家の同名の小説であり、『生と死の間』の主人公は、現に小説を書こうとし、しだいに書いて行き、やがて書き終った小説家自身なのである。そして『黄金の果実』は、ブレイェの『黄金の果実』にたいするさまざまな人間の評価、というよりはもっと衝動的な反応の変遷だけから成り、「生と死の間」には、さまざまな人間やみずからの作品にたいする、作家自身のおなじような反応の変遷しか見出せない。当然、前者では文学作品の評価における価値規準の問題、後者では文学的創造の秘密とでもいった根源的な問題か問われ得るはずで。これは文学そのもの、書くという行為そのものへの反省が小説の内容となるという、サロートのみならず、ロブ・グリエらヌーヴォー・ロマンの作家たちにも共通する傾向の必然的帰結と言うことができる。
『黄金の果実』新潮社 (1969年)。 より

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2019年05月05日

ヤマザキマリさんのベスト10冊

海外生活の長い人の読書体験は、貴重な時間となっている。とても実感が伝わる惹かれるガイド内容。

極論を言えば一度でも「自分を辞めて」観ることが、大切な時を与えてくれるだろう。


第1位『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス著 鼓直訳 新潮社 

蜃気楼の村マコンドの創設から興隆、滅亡まで、めくるめく百年の物語。ラテンアメリカ文学ブームを巻き起こした傑作


第2位『けものたちは故郷をめざす』安部公房著 新潮文庫 

敗戦後、旧満州に残された少年が、正体不明の中国人と日本を目指す。「私が映画監督なら、映像化したい作品1」


第3位『豊饒の海』全4巻(『春の雪』ほか) 三島由紀夫著 新潮文庫 

三島が「究極の小説」を目指して書いたという輪廻転生の物語。第四巻の最終回を書き上げた後、三島は割腹自決した


第4位『眩暈』エリアス・カネッティ著 池内紀訳 法政大学出版局 

ノーベル賞作家の代表作。「人間の内部構造をつぶさに観察した本。表現者には必読書」


第5位『ハドリアヌス帝の回想』マルグリット・ユルスナール著 多田智満子訳 白水社

病に伏した皇帝が自らの治世、旅、愛した人の死を振り返る。類い稀なる人間の内省の物語


第6位『ロビンソンの末裔』開高健著 新潮文庫 

敗戦後、北海道にわたった開拓民の過酷な現実と自然との苦闘を、感傷を交えず綴る


第7位『老人と海』ヘミングウェイ著 福田恆存訳 新潮文庫 

「戦う老人とカジキマグロの間には敬意がある。両方とも、地球に愛されていると感じる」


第8位『族長の秋』ガブリエル・ガルシア=マルケス著 鼓直訳 集英社文庫

「モデルは著者と親しかったカストロ。ダイナミックな人間の在り方が凝縮された作品」


第9位『シリウス』オラフ・ステープルドン著 中村能三訳 ハヤカワ文庫 

人間と同等の知能を得た犬の物語。「他と異なるものを持ってしまった人間の物語でもある」


第10位『異邦人』カミュ著 窪田啓作訳 新潮文庫

「受け止められなさと向き合った作品。世界に不条理が満ちている今、読まれるべき」

『週刊現代』2017年2月25日号より

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50975?page=2



ヤマザキマリ公式サイト

https://www.thermariromari.com/


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2019年05月04日

『けものたちは故郷をめざす』安部公房(新潮文庫)

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敗戦後、旧満州に残された少年が、正体不明の中国人と日本を目指す。『終わりし道の標べに』が故郷という鎖からの脱却を図ったのに対して、意味さえ不明な「故郷」の中に不可解な「自己の存在」を探しに行く物語。


終戦前後の満州はソ連の侵攻に、八路軍と潰走する日本軍の中で、住民達は旗色を鮮明にできず、状況に応じた生しか残されてない。

村に侵攻してきたのはソ連で、主人公・久木久三は将校アレクサンドロフに可愛いがられ、そのまま生き延びる事が妥当ではあった。彼にとっても故郷とは思い出多き村自体であった。しかし「故郷・日本」を目指して脱出する。


 昨日の中に今日があるように、今日の中に明日があり、明日の中に今日があるように、今日の中に昨日が生きている。だが戦争の結果は、そんな約束をばらばらな無関係なものに分解してしまった。久三にとって昨日と明日は、何のつながりもないものになってしまった。

 二時間経てば、此処はもう昨日とも呼べない他人の土地になってしまう。明日については何も知らない。日本について知っているのは、学校の教科書から想像しているだけだ。(富士山、日本三景、海にかこまれた、緑色の微笑の島・・・風は柔らかで、小鳥が鳴き、魚がおよいでいる・・・秋になると、林の中で、木の葉がふり、そのあとに陽がかがやいて、赤い実が色づく・・・勤勉なる大地、勤勉なる人々・・・)



  南行きの列車が出るので、貨車の中で隠れていると、結局アレクサンドロフに見つかり、彼の好意で特別旅行者証明書を発行してもらう。この証明書は見せる場所によって有利にも不利にもなる時勢。列車は南へと向う。



  連れだって旅することになった「高石塔」とは列車の中で出会うが、国籍さえ不明で、旅の課程によって名前も変わる怪しい人物。高が何故に近づいたのか、久三の持つ旅券を奪って利用するためで、もう一つは阿片を運ばせるためだ。

列車事故を演出して、仲間と山分けにするはずの阿片を高は独り占めにする。

しかし久三の旅はこの事故のために過酷なものになってしまう。零下45度の冬の満州を数百キロ、二人は延々歩きつづける。ただひたすら獣たちは、故郷を目ざし信じがたい生命力で歩きつづける。


 雪を掻き集めてきて、火の上にかけた。黒い蒸気が吹き上がり、その中に赤い色ガラスのような火の粉が泳いでみえた。脂臭いベタベタした臭気が立ち込める。冷えこんで皮を剥がれたみたいになる。アレクサンドロフの部屋を逃げだそうとして、ドアを開けたあの瞬間のを思いだす。そのドアの表には希望と書いてあり、しかし裏には絶望と書いてあったのかもしれない。ドアとはいずれそんなものなのかもしれないのだ。前から見ていれば常に希望であり、振向けばそれが絶望にかわる。そうなら振向かずに前だけを見ていよう。アレクサンドロフの部屋のことを高に話したいと思ったが、どんなふうに話したらよいか、よく分からなかった。


雪を飯盒で温めて溶かしているのは、湯をつくり、水分の補給と体を温めるためだ。夜寝ると凍死してしまうので、夜は進軍、寝るのは昼間の2時間ほど。昼間ですらマイナス25度なので、二人は交互に休み、起きている者がたき火の番をしていなければ、やはり凍死してしまう。燃やすものを見つけるのも大変で、風が強いため、ちょっと手を休めると火は消えてしまう。


心配なのは高が大変なこれらの仕事をちゃんとしてくれるかどうか。 寝る番に広げた毛布の端に横になり、毛布と一緒に転がって全身にまきつける。うまく頭は隠れたが、足のほうが出ているようで心細い。高が抑えてくれるのを感じながら、すぐに寝入ってしまった。

殴りつけられるような寒さに、驚いて目をさました。まるで氷の上に寝ているみたいだ、体が地面と同じ温度になり、鼻の頭だけを残して凍死してしまったようである。鼻だけがひどく痛んだ。それから置き去り、という考えが閃いたた。感覚のにぶった体を、死にもの狂いで動かして、やっと毛布から這い出してみると、高は消えた焚火の中に頭をつっこみ、ひろげた膝の間に前のめりになって睡りこんでいた。声をかけても揺すっても、気づかない。力一杯殴りつけると、やっと目を覚ましたが、見えるほうの目は真赤に腫れ上がり、歯をガチガチ鳴らして様子が変である。何か言いかけて、痙攣して、二回ほど黄色いものを吐いた。それでも口を右につり上げて、顔の半分で凍えた笑いを浮かべてみせた。久三はその笑いに好意を感じた。


  高は何故か人里を避けて荒野を歩く。食料もなく厳寒の地だというのに、2週間もあればつくさ、と嘘ぶいている。

高の正体が分からないので、なぜ村のある方向を目指さないか分からないが、何れにせよ二人は道に迷ってしまっている。もはや離ればなれになっては、寝る番に火を見ていてくれる人がいない。衰弱しきって役割を勤めることもままならない。


ある日、高の身に変化が起こる。

久三は、あたりの変化に驚き、まだぼんやりしている目で、高が崖から足をふみ外したのだと思った。高は崖によりかかったまま、いびきをかいていた。まだ死んではいないが、死ぬなと思った。沼の向う岸は、ゆるやかな斜面で、低い灌木の茂みがつづいている。二、三度往復して、枝を運んだ。高を寝かせて、そのそばに火をおこし、靴を脱がせて、足を暖めてやった。氷をかいて湯を沸す。飲ませてやろうとして、抱え起すと突然笑いだし、沼のほうを指さして意味のない叫ぶをする。

「アンダラ、ツォアン、チィ、ルゥルゥルゥ・・・」

 そのまま睡って、顔全体が青黒くむくんだ。見えるほうの目に、大つぶの涙がうかび、唇は白く乾いて凍傷の黒い輪ができていた。ひたいにさわってみると、びっくりするほど熱い。まちがいなく死ぬなと思い、恐ろしくなってしまった。


この後数日間その場所にとどまり、高は死ななかった。気がつくと発狂していて、大事な食料を台無しにして、強靱な生命力でまともに戻る。


荒野の行進はつづき、飢えと疲労から、歩きながらでも夢を見てしまうぎりぎりの二人、足を止めた途端に眠りに襲われ、そこを犬に狙われた。目覚めた二人と犬との格闘。犬も病気にかかっているらしく、二人が完全に弱るのを待って食いつくつもりで、すぐには飛びかかって来ない。二人は何とか犬を食おうと、残った体力を振り絞って追いかけるが、スピードでは所詮犬にはかなわない。やがて犬の方が諦めて、走り去った。 


徒労のために費やした体力を嘆く人間。二人の人間は、言葉を交せると言うだけで、荒野の中で犬とは全くの同格。犬には後悔というものがない。生きる希望の元に守り合うとき、二人は犬以上の生き物になれるが、あの時ピストルの弾を久三が無駄にしなかったらなど、後悔の元に罵り合うとき、厳寒の荒野の中で、二人は狂犬と変わらない。

生きるにはあまりにも体力がなさ過ぎて、凍える二人は抱き合って眠る。


馬車が通りかかると、乗せてもらおうと久三は有り金全部で交渉しようとすると、「三百円だ」と高は打ち消す。命のスイッチが切れてない限り、どんなに弱いときも強かであった。



 陽が沈んでから、馬車が止まった。年寄りが久三の寝息がしなくなったのを案じて、若者に注意したからである。久三の口もとに耳をよせて、まだ完全には息絶えていないのを確かめてから、若者は道ばたに火をおこして湯をわかし、二人を外に担ぎだした。揺すっても殴っても、目を覚まさない。強い酒をふくませると、やっと意識をとりもどした。冷たく凍った煎餅を火にあぶり、味噌をぬって食べさせる。ニンニクを齧らせ、熱い湯に酒をたらしてすすらせる。二人は半分眠りながら、貪り食った。いっぺんなど、久三が、間違えて自分の指を咬んでしまったほどである。


  目を覚ますと、馬車ではなく、屋根すらなくなっている廃屋の中だった。

貴重な毛布や高の鞄がなくなっている。

身ぐるみ全部剥がされてないところをみると、馬車は何か性急な事情に出会ったのではないかと高が推察する。


その向こうに土塀が見え、高が何か怪しげな交渉をしに、一人で町へ向かう。残った久三は、その廃屋で家族らしい5つのミイラを見つける。


 すぐ頭のところに、丁度陽射しに半ばかかって、石で彫り込まれた文字が読めた。



 ムネン

 ミチ ナカバニシテ

 ココニ

 ワレラ ゼンイン

 ネツビョウニテ

 タオル

 二十一ネン ナツ

 ミズウラ タケシ

 ホカ 四メイ



 久三は始め嫌な気がした、休息の邪魔をされたように思ったのだ。それから、相手が同じ日本人であるのに、そんなふうに考えるのは少し気の毒なような気もした。誰だろう?どこからやってきたのだろう。子供が混じってているところを見ると、家族かもしれないな、それとも会社かなにかの同僚だったのかな?・・・あの小さなミイラは、きっとあの女のミイラの子供にちがいない、どっちが先に死んだのだろう?・・・すると、急に、なんだかこわくなってくる・・・もしかするとこの連中も、おれたちと同じようにあの荒野を歩いてやってきて・・・そして、あの苦しみのあとで、まだ死ななければならないなんて、はたして信じることができただろうか・・・いや、そんな不公平は、絶対に信じることができなかったにちがいないのだ・・・久三はぞっとして後ずさりする。ミイラたちが彼をうらんでいるような気がしてきたのだ。



高は村で、ある将校に車の便に同乗させてもらえるよう手配してきたが、そのために久三は全財産を将校にわたすよう高にせまられてしまう。

二人は瀋陽にたどりつく。そこで又久三と高は別行動になるのだが、一切は高の計略で、高は久三から預けていた阿片と身分証明書を奪い、久三の名を語って日本行きの船に乗る。

ところが、久三の方でも、日本の将校に出会い、同じ船に乗ることに。


久三を名乗って船の客室にいる高は、本物の久三に引き合わされて嘘がばれ、囚われの身となってしまう。チョッキに隠していた阿片は没収され、船の狭い空間に足首を手錠で繋がれ、衰弱している。その高を久三は発見する。したたかな高もついに狂ってしまった。


「実はな、相談したいと思っとったんだがな・・・いいか、重大な秘密だぞ・・・おれはな、この船を買いとったんだぞ・・・しかし、実をいうとな、君も知っとるとおり、おれは重大な使命をもっておる・・・それで、こうして、身をかくしておらんとならんのでな・・・いや、わざわざ尋ねてきてくれて、ありがとう」

 薄気味わるくなってきた。思わず身を引こうとして、高の強い腕に抱きとめられた。単調に、うたうように高がつづける。「まて・・・その話というのはだな・・・誰も聞いておらんだろうな・・・実は、私は、満州共和国亡命中央政権樹立の任務をおびてきておる。・・・しかし、どうやら情勢が緊迫しておるんでな、ここでとりあえず、大統領の就任式をやろうと思っとるんだがな・・・むろん極秘だ・・・そこで、君にも、参列してもらいたいと思っとるんだが・・・分るかな・・・私は任務をおびているんでな・・・しかし、こいつは極秘でな、日本人だけに教えるんだが、私は本当は日本人なんだ。久木久三と言いましてな」


久三は焦る。高から阿片の分け前をもらうはずであったのだ。船長の部屋をひっくり返し、阿片を探していた所を捕まってしまい、暴れ回った挙げ句、ついには高と一つの手錠で結び合わされ、外から錠をおろされる。


船は日本を眼前として、沖合で何やら怪しい取引をすすめ、決して上陸することもない。日本はそこに見えているにも関わらずず、高と一緒に繋がれなけれればならないのか。


・・・ちくしょう、まるで同じところをぐるぐるまわっているみたいだな・・・いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない・・・もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな・・・おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。日本はどんどん逃げていってしまうのだ・・・

「アー、アー、アー。」と高が馬鹿のようにだらしなく笑いだした・・・そうだな、もしかすると、おれははじめから道をまちがえていたのかもしれないな・・・「戦争だぞ、アー、アー、戦争だぞ、アー。私は主席大統領なんだぞ、アー。」・・・きっとおれは、出発したときから、反対にむかって歩きだしてしまっていたのだろう・・・たぶんそのせいで、まだこんなふうにして、荒野の中を迷いつづけていなければならないのだ・・・

 だが突然、彼はこぶしを振りかざし、そのベンガラ色の鉄肌を打ちはじめる・・・けものになって、吠えながら、手の皮がむけて血がにじむのにもかまわずに、根かぎり打ちすえる。




 (大日本雄弁会講談社1957年 ) 

満洲を舞台にした唯一の長篇小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れたものであり、のちに安部はエッセイ「一寸先は闇」に私小説を書かない理由を記している。

映画『けものたちは故郷をめざす』(脚色:恩地日出夫。恩地氏のシナリオは、『映画評論』1965年8月号掲載。)


『けものたちは故郷をめざす』安部公房(新潮文庫)

第一章 錆びた線路
第二章 旗
第三章 罠
第四章 扉
解説 磯田光一

https://www.shinchosha.co.jp/sp/book/112103/


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2019年05月02日

『 アルゴールの城にて』ジュリアン・グラック(安藤元雄訳、岩波文庫)

20世紀フランス文学において特異な存在感を誇るジュリアン・グラック(1910‐2007)のデビュー作。

舞台は海と広大な森を控えてそびえ立つ古城。登場人物は男2人と女1人。何かが起こりそうな予感と暗示―。練りに練った文章で、比喩に比喩を積み重ね、重層的なイメージを精妙な和音や不意打ちの不協和音のように響かせる。

倉橋由美子さんの「偏愛読書館」では能と比較して能と同じ構造を持っていると記される。

「グラックの文章は、能の舞台で起こっていることを見ながらそれを言葉で記述したような性質のものです。能の場合はその記述が、地謡とシテやワキの謡として、音声で伝えられます。しかしあれは普通の芝居のように、役者たちが日常起こること、起こりそうなことを真似して見せるものではありません。あくまでも別の世界で起こることを見せているのです。『アルゴールの城にて』もそうです。
『アルゴールの城にて』はアルベールの「城への到着」から始まります。現実の世界に住む主人公は、まず「城」という別の世界へと旅をして、そこに到着しなければならない。これは能も同じです。旅の僧が、たとえば鬼や女神や亡霊が住んでいる別の世界に到着するわけです。」(倉橋由美子『偏愛文学館』より)

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  フランスの古城アルベールで起こるゴシック的雰囲気の幻想的な小説。会話台詞がなく、城を舞台に映像的な描写になっている。

主人公の大学生アルベールが長期休暇に古城に来る。〈高貴で裕福な家柄の血を引く最後の一人〉〈実に遅くまで、片田舎にある人里離れた塀の中に厳重に閉じこめられ〉〈十五歳にして、あらゆる天与の才能と美とが彼のうちに花開くのが見られたが、パリでは誰もが類のない確信をこめて成功を約束してくれたのに、それへ背を向けてしまった〉。

〈友人をほとんど作らなかったばかりか、とりわけ一貫して女性に目もくれ〉ないで〈ときたま、ことのほか貴重な材料をたっぷり盛りこんだエッセイだの、膨大な独自の資料に裏づけられた論文だの〉を書く。〈弁証法こそはアルキメデスが嘲笑まじりに要求した、世界をすら持ち上げるあの梃子のようなものだと考えて、いまブルターニュの人里離れた屋敷に赴くにも、わびしい地方の、陰鬱で無味乾燥だろうとしか思えない日々をたっぷりと埋めるために、へーゲルの著書を運びこもうとしていたのである〉。


《回復の原理は思考の中に、そしてただ思考の中にのみ、見出されるのだ。傷を負わせる手は、また傷をいやす手でもある》


 アルベールいつも敢然と殺して来た侮蔑的な自然の愛情ではなく、認識だけが彼自身と永遠に和解させる。

《子供の無邪気さは大いに甘美かつ魅力的であるには違いないが、その理由はひたすら、精神がそれ自体のために究極的に何を征服せねばならぬかを、われわれに思い出させてくれるところにある》



 数えるほどしかない開口部の形状と配列も、負けず劣らず目を驚かせた。階という概念、今日ではおよそ調和のとれた構築物の概念からほとんど切り離せなくなっているこの概念が、ここではまったく締め出されてしまっているように見える。城壁にあいているわずかな窓は、上下の位置がほとんどどれもこれも不揃いで、内部の配置の奇妙さをうかがうに足りる。下の方の窓はいずれも低く平べったい長方形を見せているが、これは建築家が、昔の城塞で火縄銃の射撃に用いた狭間のデザインからヒントを得たものであることが見て取られる。これらの細長い割れ目は、その縁を色のついた石で飾るわけでもなく、まるで無気味な通気孔のようにむき出しの壁に口をあけている。


解説より
比喩に比喩を重ねて言葉による多層的な空間を紡ぎ出そうとする文体にうかがわれる。実際、『アルゴールの城にて』にしても『シルトの岸辺』にしても、およそ現実には存在しない想像上の舞台装置が、さながら異国の風土の記述のように、舌なめずりするほどの「語る喜び」とともに描き出されるのを見るとき、読者は知らず知らずのうちにその空間に浸り、場合によってはそこに溺れてしまうことさえある。これはほとんど、非現実的なシチュエーションが非日常的な歌と衣裳と舞台装置とで観客を酔わせる、オペラの世界である。

 このような「人里はなれた城館」の果たす役割は、グラック自身が「はしがき」で名をあげている『オトラントの城』や『アッシャー家の崩壊』の舞台と同じである。とりわけアッシャー家の場合は、豪壮な屋敷の建物全体が崩れ落ち、屋敷の前にある深い沼に呑み込まれて、破片一つ残さずに消えてしまうという、とても信じられないような終末を迎える。この屋敷はこの地上のどこかで崩壊するのではなく、読者の想像力の中で崩れ落ちるのだ。(安藤元雄)

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2019年04月30日

『偏愛文学館』倉橋由美子

夢十夜−夏目漱石

灰燼・かのように−森鴎外

半七捕物帳−岡本綺堂

鍵・瘋癲老人日記−谷崎潤一郎

冥途・旅順入城式−内田

雨月物語・春雨物語−上田秋成

山月記・李陵−中島敦

火車−宮部みゆき

百物語−杉浦日向子

聊斎志異−蒲松齢

蘇東坡詩選−蘇東坡

魔の山−トーマス・マン

カフカ短篇集−フランツ・カフカ

アルゴールの城にて−ジュリアン・グラック

シルトの岸辺−ジュリアン・グラック

異邦人−カミュ

恐るべき子供たち−ジャン・コクトー

アドリエンヌ・ムジュラ−ジュリアン・グリーン

架空の伝記−マルセル・シュオブ

名士小伝−ジョン・オーブリー

コスモポリタンズ−サマセット・モーム

偽のデュー警部−ラヴゼイ

高慢と偏見−ジェーン・オースティン

サキ短編集−サキ

太陽がいっぱい−パトリシア・ハイスミス

ピンフォールドの試練−イーヴリン・ウォー

めざせダウニング街10番地−ジェフリー・アーチャー

リオノーラの肖像−ロバード・ゴダード

ブライヅヘッドふたたび−イーヴリン・ウォー

二十四の瞳−壷井栄

山の音−川端康成

ヴィヨンの妻−太宰治

怪奇な話−吉田健一

海市−福永武彦

真夏の死−三島由紀夫

楡家の人びと−北杜夫

高丘親王航海記−澁澤龍彦

金沢−吉田健一


■講談社 2005.7.7

装幀 坂川栄治+田中久子(坂川事務所)

オビコピー「急逝した作家、倉橋由美子が残した至高の言葉。創作、その根源をたどり、著者が愛した作品だけを集めた、37篇、39冊の偏愛書評集。」

「夏目漱石、吉田健一、宮部みゆき、ジュリアン・グラック、ラヴゼイ……。古今東西39冊の「本」を取り上げた、倉橋由美子の手による私的書評集。最高のブックガイドとしてだけでなく、著者の作品世界、その背景までをも垣間見ることのできる究極の読書案内。」

■講談社文庫 2008.7.15

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2019年04月28日

『飢餓同盟』安部公房(新潮文庫)

1954年発表の長編小説。地方都市の未発に終わった反乱を、濃密な筆力でカルカチュア劇にした。
他の安部公房作品と『飢餓同盟』が異色なのは逃走する側ではなく、逃走を阻止する側のドラマとなっている。

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  舞台となるのは花園という田舎町で、三十年前ほどまでは温泉で賑わっていたが、大地震を境に湯が出なくなって寂れ菓子工場くらいしか産業がない。

主人公の花井太助はキャラメル工場に、主任という曖昧な地位についている。表向きは社長で、町長の多良根に忠誠を誓い、何でも屋を務めていたが、裏では秘密結社を組織していた。

 その飢餓同盟は花園へと町に流れてきた他所者から、「ひもじい野郎」といい蔑すさまれていた。虐げられたひもじい野郎を糾合して結社をつくった花井は、「金は毒、権力は悪、労働は罪」のスローガンで、革命を起こすのだと称していたのだ。しかし具体的な方策は何もなく、精々は町長の多良根の一派と、元町長で医師の藤野の一派を歪み合わせるのが関の山である。

  しかし二十年前に町を離れた織木が、鉱山技師となって戻って、情況が一変するのだった。彼の両親も他所者だったが、バス会社を開業するが失敗して憤死する。孤児となった織木は花井の母親の伝手で東京へと逃げて、鉱山技師の資格を取る。だが気狂い科学者ごとき所長によって、機械よりも感度の高い人間メーターに仕立てられる。健康を害して花園に逃げかえり、遂に自殺を計り遺書を綴る。作中に織木順一の書いた一人称の文体での遺書が、死にたくない立場から死なねばならない不条理の気持ちを1カ月にも渡って書いて、劇中劇として23頁にも掲載されている。

 人間メーターとしての異能を利用すれば、温泉を復活させて、更には地熱発電ができるほどの蒸気を噴出させられる。織木の性能を認めた花井が助けた。地熱発電所を作れば、町の権力構造を根底からひっくり返すのも夢ではないからだ。こうして結社の目標を見つけた花井は、飢餓同盟と改称して地熱発電所建設のために暗躍を始めるのである。


  花井の生家は町境のひもじい峠で、代々茶屋をしてる旧家で、本来は土着側にいた。他所者と付き合っているのは、ひもじい様を祭る家系のポジションにあるからだ。山道を歩いてきた旅人は峠に達すると気が弛み、急にか空腹感に襲われたり、一歩も歩けないほどの疲労感、虚脱感にみまわれるのがある。昔の人はそんな現象を妖怪のせいだと考えた。地方によって「餓鬼憑き」「ひだる餓鬼」「ひだる神」といわれて広く分布している民間信仰である。

「ひもじい様という飢餓神が、いつも町境をうろついていて、外来者をみつけると、すぐにとっついて餓死させてしまう……ね、いかにも農村共同体的な、いやらしい迷信じゃないですか。他所者なら、飢え死にしてもかまわないっていう、陰険な排外主義の合理化なんですよ」ここで農村共同体のように閉じてはいない。花園はかつては温泉で栄えた町であり、外部との交通で成り立っていた。他所者が白眼視されるのは、他所者がそれだけ内部に入り込んでいたからである。他所者の力なくしては、花園は立ち行かない。

 峠でひもじい様を祭る花井家は、茸の干物を梅酢に漬けた「満腹」「ひもじい除け」という土地の名物を一手販売する権利を与えられていた。特権が許されたのは、同家が他所者との交渉において媒介者の役割を果たしてきたと思われる。

 人形芝居屋の矢根のような流れ者を新たに町に引っぱり込む一方、ひもじい野郎たちに革命という希望を与えて、町に引き留める役割をはたしている。

 そしてキャラメル工場社長の多良根との特別な関係である。今では花園町のエスタブリッシュメントの一員だが、もともと多良根は澱粉の一手買附業者として町に乗りこんできた他所者だった。町に貢献しているのをアピールする必要に迫られて、奨学金の提供を申しでる。花園小学校を一年から六年まで主席で通した者がいれば中学の学費を出して、中学でも主席で通せば専門学校まで面倒をみるという。

 多良根は高を括っていたが、小学六年生だった花井は奨学金を貰う条件を満たして慌てる。一銭も出したくないから、花井には尻尾が生えている噂を種に難癖をつけるが、彼が寒暖計の水銀服毒で自殺する時点から奨学金を出さざるをえなくなる。意地になって中学でも一番を通して、多良根の金で農業専門学校に進学する。花井が学業を終えるまでの期間、毎年の学期末になると、地元紙の一面に優等賞をとった花井と、奨学金を出す多良根がにこやかに並ぶ写真が掲載された。

 裏では多良根は癇癪をおこし、花井は悔し涙に歯噛みするという修羅場が演じられていた。二人とも気がついていないが、多良根が町の一員として受けいれられる上で、年中行事となった奨学金報道が大きな役割を果たした。花井は子供の頃から外部の力を町に呼びこむ、媒介者の役割をしていた。媒介者という役割が花井の意識を超えるのは、織木との関係からもわかる。

 人間メーターにされるのが嫌で、織木は東京から逃げてきたが、花井に説得されて温泉を探査することを承知する。決め手になったのは花井の姉、里子の思い出だった。織木は同級生だった里子に思いを寄せていたが、彼が東京に逃げた後、里子は土地の有力者の藤野の弟に手籠にされ、その後チフスで死んでしまう。呪うべき故郷花園に戻ってきたのは、里子の思い出に導かれてだった。薄幸に死んだ里子に殉ずるように、死を覚悟で人間メーターに戻る。

 飢餓同盟の温泉探査は成功して、花園には再び湯が戻ってくるが、成功の果実は多良根や藤野ら町の権力者に横取りされてしまう。織木は死んで、花井はカーニバルの道化王になれずに発狂する。

 この共同体は食虫植物のように、外部の力を必要としていた。花井と姉は意識していないが、共同体の奸知に操られ捕虫器のように、「ひもじい野郎」たちを絡め取っては土地の養分にしていたのだった。

「正気も、狂気も、いずれ魂の属性にしかすぎないのである。」(安部公房『飢餓同盟』講談社)


安部公房・原作

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2019年04月24日

荘子『占い師が逃げ去る』

鄭有神巫曰季咸、知人之生死存亡、禍福壽夭、期以歳月旬日、若神。鄭人見之、皆棄而走。列子見之而心醉、歸以告壺子。曰「始吾以夫子之道為至矣、則又有至焉者矣。」壺子曰「吾與汝既其文、未既其實、而固得道與?衆雌而無雄、而又奚卵焉。而以道與世亢必信、夫故使人得而相女。嘗試與來、以予示之。」明日、列子與之見壺子。(『荘子』応帝王 第七)

人の生き死に幸運不運や寿命を、何年何月何日まで言い当てる、神のような占い師がいた。鄭の人はそんな占い師の前では、何でも見透かされると裸足で逃げ出すという。列子は占い師に心酔してしまい、師匠の壷子に告げた。「先生に道について学んできましたが、その先の教えに占い師を見て知りました。」


師匠は語る「お前に道(TAO)について教えたが、そこから会得したつもりか? どれだけ雌鶏がいても雄鶏がいなければ、卵は孵らない。道を学ぶのが分かってないから、占い師ごときに心を見破られている。試しにその占い師を呼んで来い。」


明日、又與之見壺子。立未定、自失而走。壺子曰「追之!」列子追之不及、反以報壺子「已滅矣、已失矣、吾弗及也。」壺子曰「郷吾示之以未始出吾宗。吾與之虚而委蛇,不知其誰何、因以為弟靡、因以為波流、故逃也。」然後列子自以為未始學而歸、三年不出。為其妻爨、食豚如食人。於事無與親、彫琢復朴、塊然獨以其形立。紛而封哉、一以是終。


人の禍福や寿命を見抜いて、年月日もいいあてる占い師・季咸に心酔した列子を、翌日、師匠の壺子のもとに連れくることとなる。


季咸は「貴方の先生は間もなく死ぬ。生気のない湿った灰の相がある。」と告げる。涙ながらに語る列子に、壺子は「大地のかたちの相を見せてやった。もう一度連れてこい。」という。


再び壺子を見た季咸は「貴方の先生は私に会って回復した。十分に生気が漲っている。」と告げた。列子が壺子に伝えると「天地開闢の相をみせてやったのだ。もう一度連れてこい。」という。


翌日に季咸は「先生は人相が一定しない。私にはとても占うことができない」と語った。この事を伝えると「虚無の相を見せてやったんだ。試しにもう一度連れてこい。」と壺子と答えた。


季咸は壺子に会うと、訳が分からなくなって逃げた。壺子は「あいつにわしの本質そのものの相を見せた。自分を虚しくして周囲のままに従い、相手が何者かも考えず、ただそのままに漂った。だからあれは逃げ出したのだ。」と内情を明かす。


未熟さを悟った列子は、三年間家に引き篭もって妻のために炊事をしたり、豚を人と同じように養ったりして過ごした。物事に区別や愛憎を抱かなくなり、無心の土塊ごとく素朴さに帰って、混沌とした有様で生涯を終えたという。



【参考文献】岸 陽子『中国の思想・荘子』(徳間書店)


莊子曰「以魯國而儒者一人耳、可謂多乎?」(「荘子」田子方第二十一)

TAOと占い師の教えは違うと、荘子は思想を示した。この世に絶対者もなく、「易経」世界観から、未来を予知する愚かさを解いた。どの時点で運命に左右されなくなるのか、何も意識しない状態から学ぶ。『荘子』は「完成と破壊があるのは、昭氏が琴を弾いた場合で、完成と破壊がないのは、昭氏が琴を弾かない場合である」という。



岸陽子「中国の思想・荘子」改題
「荘子は、自然を損なうものとして、人為を否定した。人為の観点からすれば無用なものほど、実は貴いのであるという価値の転換が、ここに成立する。
無用であればあるほど、人為とのかかわりが薄れる。つまりその自然が保たれる。人間が何者の道具にもならず、自己のために生きてこそ、天寿を全うできると説くのである。『無用の用』という逆説でしか表現しえない価値こそ真の価値なのだ」


「生きるために心身を労して外物と争い、それによって心身をすりへらし滅ぼしてゆく、この動かしがたい矛盾は、なんら解明されていないのである。
その人生の不可解さを、人々はどう解釈するのであろうか」


「太古の人こそ、最高の知の所有者だったといえるのではなかろうか。
なぜならば、かれらは自然そのままの存在であり、かれらの意識は、主客未分化の、いわば混沌状態だったと考えられるからである。この混沌こそ、もっと望ましいありかたなのである」


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2019年04月21日

『夢の遠近法 初期作品選 増補』 山尾 悠子(ちくま文庫)

「誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると」―未完に終わった“かれ”の草稿の舞台となるのは、基底と頂上が存在しない円筒形の塔の内部である“腸詰宇宙”。偽の天体が運行する異様な世界の成立と崩壊を描く「遠近法」ほか、初期主要作品を著者自身が精選。 「パラス・アテネ」「遠近法・補遺」を加えて、創作の秘密がかいま見える「自作解説」を付した増補決定版。

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「パラス・アテネ」本文冒頭より

月が西の空に仄白くなりつつある時刻、長い旅の途上にあったその隊商は、まだ夜の残る森の奥で大虐殺のあとに行き当たった。野面には血に飽いた豺狼の群がわくわくと背を波うたせて駆け去っていくのが遠望され、振り返れば、辺境の野の果てには落日に似たすさまじい朝焼けがあった。不眠の要塞都市のあげ続ける狼煙が地平に薄くたなびいて、その時森の奥処に立ちすくむ人間たちの眼には、それはこの世の果ての遠い朝火事かと映ったのだ。

小暗い森の底を縫ってうねうねと続く道沿いに、屍体の群はほぼ一町に渡って散乱し、その数は百数十まで数えられた。荷を略奪された跡があり、また屍には矢傷と獣の爪跡との両方がある。おおよそは、遠い内乱を避けてこの地の都市へと逃げこもうとしていた難民の一行が、昨日辺境に多く出没する野党の類に襲われて全滅し、その後夜のうちに群狼に踏みにじられたものと思われた。――ほとんど日の斑も漏れこまない葉ごもりの影へと、人々は松明の焔を走らせながら蹌踉と歩いた。

狼除けの鋳物の鐘が鳴り、人間たちの足は再び動き始めた。遠音に吠えかわす豺狼の声を耳に、森を抜け平原を行く隊商の先頭で、幼児はひとり仄かに微笑していた。この微笑は、人間たちの眼にはとまらなかったし、その意味を知る者も一人もいなかったに違いない。幼児の姿は、生まれおちて以来この輿の上に暮らしてきた者のように見えた。幼児自身、何故自分の顔に微笑が宿って消えないのか知らなかった。理由のない笑みのためにますます細められた幼児の眼は、ただ行く手の野の果てに湧く雲だけを鏡のように映していたのだったが、しかしこの時、背後の森の真上に残った半欠けの白い月球が、半眼の狼神の片目のように地表を行く人間たちの背をはるかに見送っていたのだ。

それから、十年たつ。

(以上プロローグでは映像くっきりと浮かび上がるくらい、優れた言語感覚である。続いてセレモニーの場面では、熱狂や色彩が感じられる描写が連なる。)

足留めの不安な一日が不安なままに暮れるまで、人々はその不安の源を確かめようとするかのように、顔を合わせると額を翳らせて不穏な噂ばかりを囁きあっていた。十数年来燻りつづけている内乱の噂、大陸を大きく横切ってこの山間の小王国いも侵入し始めているという天刑病の噂、冬に入ってからますます頻発するようになっている狼の害について。その名のとおり元々は夏の避暑用に前世紀の始め建てられたという夏の離宮では、いくら炉の薪をかきたてても、絶えず隙間風が忍び入ってくる。その中で、人々は昔ここに幽閉されていたはるか先代の狂王の伝説を囁きあい、さらに声を低めて二位について語りあっていた。

夕方から吹雪が始まり、日没より早く都には夜が降りていた。日中、吹きすさぶ強風の絶え間には王宮の外から遠く切れぎれに祭儀の鐘の音が聞かれたが、吹雪になった頃からそれも途絶えた。ただ、高い窓から遠く見渡すと、四つ辻ごとに年送りの篝火が高く火の粉を飛ばすのが見え、今夜全都が一夜を徹して眼ざめているだろうことが窺われた。何度かは、その火の粉が飛んだのか屋根屋根の稜線の一劃から小さく火の手が上がるのが見え、強風の中にたちまち燃えひろがって半鐘が長く尾を曵いた。

――狼領の血筋につらなる者は、多くは成年に達する年齢で繭籠もるものです。たいていは、春に。短くて三日、長ければ数年かかって繭から新生して現われる……しかし、これほど定まった法則を持たない現象というものはこの世にまたとありますまい。

港を望む丘陵からは、夜の海峡を絶えず押し渡っていく船群の、おびただしい檣頭の燈が見渡された。その遠い海面に満ちているであろう帆柱の軋り音や櫂漕ぐ男たちの叫喚、蓋を打ち割られてゆたかに滾り溢れる酒の繁吹、船腹を打つ潮の音を、丘の上に立つ者たちは幻のように聞いたと思った。海峡の両岸に谺する砕ける波の咆哮のなか、やがて帆に海風を孕んで、船団は大洋をめぐる古代潮流に乗って次々に行き過ぎてゆく。そして季節風の渡る丘を下って、燈火と雑踏の影に満ちた街衢に降りたった者たちは、そこにも数知れぬ潮流の幻を見たのだった。四つ辻ごとに足を止めて道の両端を埋める群衆の中、高い輿に乗って煌々しい帽子の先端や旗先ばかり覗かせてゆったりと過ぎ行く貴人の行列は、暗い潮を渡っていく帆柱の列に似たのだ。数限りなく街に立てられた松明や篝の焔は、人の面ばかりを烈々と照らして、その背後には奥の知れない闇を曵く。時にわけもなく入り乱れて、口々に叫びかわしながら街の一端から一端へと駈けすぎていく群衆の頭上に、月は赤く染まってはるかに海峡を照らしていた。

「パラス・アテネ」より

祭りの音響や照明の色彩が、鮮やかに描かれた短編小説が際立つ世界となっていく。硬質なイメージから浮かび上がる赤々とした情景。絵や音楽を想起させる文章のつづきを是非ともお楽しみいただきたい。


『夢の遠近法 初期作品選 増補』目次

夢の棲む街

月蝕

ムーンゲイト

遠近法

パラス・アテネ

童話・支那風小夜曲集

透明族に関するエスキス

私はその男にハンザ街で出会った

傳説

遠近法・補遺

月齢

眠れる美女

天使論


◇ 一人称の吐露音楽を聴く時間より、心から高揚するイメージは精神を羽ばたかせる。 

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山尾悠子『角砂糖の日』

1982年に深夜叢書社より刊行され、長らく品切れとなっていた山尾悠子の唯一の歌集『角砂糖の日』がLIBRAIRIE6から新装復刊。特典として書き下し掌編小説『小鳥たち』を収録。

「小鳥のやうに愕き易く、すぐに同様する性質の〈水の城館〉の侍女たち、すなはち華奢な編み上げ靴の少女たちは行儀よく列をなして行動し、庭園名物の驚愕噴水にうかうか踏み込みたび激しく衝突しあふのだった。」(『小鳥たち』冒頭) 

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短歌『角砂糖の日』より

春眠の少年跨ぎこすと月昏らむ いづこの森やいま花ざかり

昏れゆく市街に鷹を放てば紅玉の夜の果てまで水脈たちのぼれ

角砂糖角ほろほろに悲しき日窓硝子唾もて濡らせしはいつ

金魚の屍 彩色のまま支那服の母狂ひたまふ日のまぼろしに

腐食のことも慈雨に数へてあけぼのの寺院かほれる春の弱酸

鏡のすみに野獣よぎれる昼さがり曼陀羅華にも美女は棲みにき

夢醒めの葛湯ほろろに病熱の抱きごころ午後うす甘かりき

春を疲れ父眠りたまふあかときはひとの音せぬ魂もたつかな

百合喇叭そを枕として放蕩と懶惰の意味をとりちがへ春

幾何学の町に麺麭買ふ髭をとこπの算術今日咲き継がせてよ

狼少年と呼ばれて育ち森を駈けかけぬけて今日罌粟の原に出ぬ

小花小花零る日を重ね天文と地理のことなど見分けがたきよ

韃靼の犬歯するどき兄ありき娶らずば昨日風の野に立ちしよ

曠野の地平をさびしき巨人のゆくを視つ影うすきかな夕星透かし

独逸語の少年あえかに銀紙を食める日にして飲食のこと憂し

絵骨牌の秋あかあかと午後に焚く烟れば前の世なる紫色

◉ カルタを火にくべると、赤い炎が紫の煙へと変わってゆく。「前世」の先は「紫色」の先となり、その燃える音に誘われて、生まれる前の遠い記憶が煙の中に浮かぶのだった。

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「<世界は言葉でできている> というのが山尾悠子を象徴する言葉ではないか」そこに描かれた世界は<虚構> であり、<観念>である。山尾短歌も「言葉でできている」から、歌のなかに散りばめられた煌めく言葉が、視神経を辿って脳細胞に刺激する感覚を味わう。

散文詩のような素人でも手が出せる代物ではなくて、「俳句を作るとき、そこには外的世界に求められるモチーフというものはなく、言葉がすべてである。上質の言葉を発見しそれを研磨しおえた時点で作品は完成する」(小林恭二)のだ。この結晶させる純粋化学反応は、吐露のような排泄に近い表現からは生まれてこないだろう。

ーーーーーーー

山尾悠子『角砂糖の日』A5判変型上製 104pages 函入り

挿画は合田佐和子、まりの・るうにい、山下陽子。函と表紙に銀箔押しをした美しい製本。2017年刊行後に即絶版となる。


●山尾悠子 1955年岡山県生まれ。幼少期にナルニア国物語、学生時代に澁澤龍彦の著作を介して様々な異端文学に影響を受け、在学中に「仮面舞踏会」を『SFマガジン』のSF三大コンテスト小説部門に応募、75年同誌に掲載されデビュー。日本SF作家クラブのメンバーとして小松左京、星新一、筒井康隆、手塚治虫、永井豪らに刺激を受け創作を続ける一方で、その幻想的な作風と熱狂的な愛好者がいながら作品が単行本されないまま、休筆状態であったことから、孤高の作家、伝説的作家と見なされるようになる。99年に「幻想文学」誌に「アンヌンツィアツィオーネ」を発表して復活。2000年には単行本未収録作も含むそれまでの作品を集めた『山尾悠子作品集成』が国書刊行会より発行され、2003年9月には2作目の書き下ろし長編『ラピスラズリ』を発表。

http://tacoche.com/?p=14138


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2019年04月19日

「高丘親王航海記」の見事なコミック化

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澁澤龍彦さんの遺作漫画化「高丘親王航海記」、幼少の頃に薬子から預言として教えられた天竺への旅立ち、圧倒的な異国世界を、近藤ようこ氏の華麗なレイアウトで連載二回目に突入。『月刊コミックビーム』期待を超える素晴らしさです。
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『高丘親王航海記』は薬子の変により皇太子の地位を失い出家して唐に渡る。親王の天竺をめざす海路において、南海の国々を巡り様々な生物や精霊と邂逅する。大蟻食い。貘。犬頭人。儒艮。迦陵頻伽。この仮想的な親王の旅は、澁澤さんの病床と同期して結ぶ、琴線に触れる物語となっている。

「親王、先に震旦過ぎて、流沙を渡らんとす。風聞、羅越国より到る。逆旅に遷化すと。」

同じ物語の本を単行本、文庫本、新装版と何冊も揃えて、電車、公園、書斎、寝枕用とする『高丘親王航海記』。これは別格なる陶酔する書物となっている。



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M.デ・セルバンテスの短編小説を読む

セルバンテス短篇集 (岩波文庫)

長編小説『ドン・キホーテ』の作者(1547‐1616)が短篇作家であるのを如実にあかす傑作集。

『やきもちやきのエストレマドゥーラ人』『愚かな物好きの話』『ガラスの学士』『麗しき皿洗い娘』の四編訳出。


『やきもちやきのエストレマドゥーラ人』金持ちの老人と結婚した十代の美女が、召使と豪奢な邸宅で暮らしていた。遮断された家をつくり、妻が人目に触れぬよう閉じ篭って生活してるのを、街の若い遊び人が目を付ける。若い音楽家がそこに忍び込もうと、門番である召使に音楽を教えたりして、機嫌をとって妻をはじめ一家全体を巻き込む。

『愚かな物好きの話』親友に頼んで美しき妻の貞淑を試そうとする。固い絆で結ばれている筈の片方が、妻の貞操を確かめたくて、友人に自分の妻に言い寄ってくれと頼む。友人は最初は適当にお茶を濁すが、次第に真剣になってしまった。「愚かな」と形容詞が題名のとおり、作者は妻をためす男を馬鹿にして、喜劇でもあり悲劇でもある。

『ガラスの学士』女から盛られた媚薬の副作用で、自分の体はガラスでできていると思いこむ主人公。「彼のこのおかしな幻覚から救い出してやろうと、多くの者が、相手の叫び声や懇願などものともせず、彼にとびかかって抱きしめ、ほらよく見るがいい、べつに壊れはしないじゃないかと説得してみたが、そうした努力も結局はすべて水泡に帰した。抱きつかれた学士は、けたたましい金切り声をあげながら地面に身を投げ出すと、そのまま失神してしまい、ほとんど四時間もしなければ正気に戻らなかったし、おまけに正気に戻れば、またぞろ、頼むから近寄らないでくれという例の嘆願を繰り返したからである。そして彼は、近寄らずに遠くからであれば、なんなりと好きなことを質問してもらいたい、自分はガラスの人間であって肉体をそなえた人間ではないから、どんな質問に対しても、より思慮深い返答を与えられるはずだ、なんとなれば、ガラスというのは繊細にして緻密な物質ゆえ、それに包まれた精神が、重苦しくも俗臭紛々たる肉体に包まれたそれより機敏に、しかも的確にはたらくのは明らかなのだから、などと口走った。
 すると、彼の言うことが本当かどうか試してみようとする者も現われて、多くの難問をやつぎはやに吹っかけたが、彼はいささかもとどこおることなく、明快な答えを並べて、驚くべき才知のひらめきを見せつけるのであった。」
学才はあるのに狂乱した学士の問答がナンセンスである。学校の成績は良いのだが、社会的には狂気クレージー丸出しの生き方をする、アタマの頭痛がイタイ男もいるという逸話。

『麗しき皿洗いの娘』放浪生活に憧れて家出する良家の若者。ある街で宿屋で仕える有名な美女に惹かれて、皿洗いの住む込みをする。物語が終わりでは、麗しい娘の正体、生い立ちそして若者との関係が明らかに。古典的な神話や民話などにあるモチーフを現代風にアレンジして、組み合わせて独自のものに昇華させているのはブルースとロックの関係に限りなく近い。

セルバンテス短篇集/ミゲル・デ・セルバンテス(岩波文庫)

https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b270591.html

これらの阿呆らしいキャラクターたちは、長編小説『ドン・キホーテ』の数々のエピソードへつながっているようにも読める。中世にあった物語とするのではなくて、人間本質の普遍的要素と捉えても興味深い。そして誰もが多分に近親者たちにも思い当たる事象から、カルカチュアして現実世界を味わえる春の読書となるだろう。

「頭よ頭、泣くんじゃないの

気をしっかり持って、明るくするのよ

その二つの支えがあってこそ

忍耐にも効き目があるのだから!


希望がなくなるわけじゃないのよ

頭痛がひどくなって

もっと苦しくなったとしても

悲しみのあまりに

何ごとも考えすぎはいけないわ

空想なんてもってのほかよ」 

《頭よ頭、泣くんじゃないの》(プレショーザの頭痛の金言)スペイン歌曲集_世俗歌曲集より


『模範小説集』 M.デ・セルバンテス 著 牛島 信明 訳(国書刊行会)

「ジプシー娘」「犬の会話」「偽装結婚」「リンコネーテとコルタディーリョ」「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」「ガラスの学士」「麗しき皿洗い娘」「血の呼び声」の8篇を画期的な新訳収録。


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2019年04月18日

『ローマ帝国の神々―光はオリエントより』 小川 英雄 (中公新書)

古代ローマ帝国はオリエントの進んだ文化や技術を積極的に取り入れた。エジプトやシリアなどを起源とする諸宗教も、皇帝から奴隷まで多くの信者を獲得した。当時ローマ古来の神々はすでに形骸化していたため、新しい宗教が求められていたのである。

イシス信仰からバール神、キリスト教、グノーシス主義、占星術まで、ローマ帝国全域で信仰された諸宗教の密儀と神話、信仰の実態と盛衰に光をあてる。


小川英雄 

1935年、川崎市生まれ。慶応義塾大学大学院修了。ロンドン大学、ユトレヒト大学に留学。イスラエル、イギリスで発掘調査に従事。慶応義塾大学文学部教授を経て、現在同大学名誉教授。文学博士。専攻・古代オリエント史。

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2019年04月03日

赤瀬川原平さんの『絵画入門』が面白い

額縁の外側へもアート表現の可能性を、たくさん体現させてくださった前衛画家・赤瀬川原平さん。
読売アンデパンダン展の廃品オブジェ作品群、ハイレッド・センターでの都市ハプニング、模倣千円札から裁判所での展示、ロイヤル天文同好会、路上観測などの美術視点は格別であった。
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それが【名画入門】など額縁の中にある世界を、何故にしてKAPPABOOKSから出すとは?
なかなか違和感ある企画シリーズは、暫く遠ざけていた。しかしトマソン芸術が生まれる前に、考現学や宮武外骨をスライドにして面白く解説してたことを鮮明に思い出した。
そんな独自の視点を持ってる赤瀬川さんが、敢えて額縁の中にあるアバンギャルドとは真逆の世界を一つ一つ点検するのは、美術評論家が書く論考なんかより数百倍は凄いだろう。 と三冊揃えたら、めちゃくちゃ仰天(爆笑)だった。
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ここで先入観をドブに捨てて、全く絵画の知識もなく、美術世界へ扉を叩くなら非常に危険なアート感覚になれると思います。
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2019年04月02日

「気分はもう戦争 3 」(だったかも知れない) 矢作俊彦✖️大友克洋

This new episode titled KIBUN WA MŌ SENSŌ 3 DATTA KAMO SHIRENAI 
 矢作俊彦 原作&大友克洋 作画。まさかの復活、読み切りで登場。

「気分はもう戦争 3 」(だったかも知れない) 矢作俊彦✖️大友克洋
予告編「漫画アクション」4/16号(2019年4月2日発売)

矢作俊彦さんのTwitterによれば、原作は8年前に書いてあったという。
This new episode titled KIBUN WA MŌ SENSŌ 3 DATTA KAMO SHIRENAI 。構想30年から完成まで8年(爆笑)

■あらすじ
198X年X月X日。 ソ連が中国領内に侵攻し、 中ソ戦争が勃発。 思うところあって参戦することになった義勇兵の「ハチマキ」「めがね」「ボウイ」の3人は、 戦場を転々とする。 みずからの意思で赴く者や、 それとは知らずに戦争に巻き込まれていく者たちの「従軍記」の部分と、 「戦争」に翻弄される日本の人々のエピソードが、 オムニバス形式で描かれる。 義勇兵3人のほか、 大学受験に失敗した受験生や、 武器の密売に関わる元自衛隊員、 太平洋戦争が終わったことを知らなかった元軍人なども出てくる。 

「気分はもう戦争 3 」(だったかも知れない)ニュース。
「それから38年」「ガン・マン、流れ者、過激派が還って来る!」 
magazine No.9 on April 16th. The magazine will include as bonus a postcard and an oversize poster.

Official site of Manga Action magazine: http://webaction.jp/action/

Video Production: Synchrotron Studio, Ltd. (合同会社 シンクロトロン・スタジオ: https://synchrotron.co.jp/
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2019年04月01日

グレアム・グリーン『喜劇役者』(早川書房)

Graham Greene, The Comedians (1966)

『たそがれ時に、何ひとつ生えていないハイチの侵食された灰色の山から、ドミニカ側の深い森林をながめたとき、私はとてもうれしかった。ハイチ側のあらわな岩石とドミニカ側の繁った植物との対照によって、曲がりくねった国境がずっと見分けられるのだ。』(p.316)

『数百キロあまり彼方のように思える暴力横行のハイチからきた私には、平和の感じが本当に心にしみるのだった。』(p.311)

『もしもそれから数カ月後に、サント・ドミンゴにも暴力が襲って来ることにならなかったならば、おそらくそのセンターは実現していたことだろう―――その暴力はフェルナンデス氏と私自身に、ある程度の繁栄をもたらしたものだ。』(p.328)

『お前もおれも、二人とも喜劇役者じゃないのかなってね」』(p.152)

『この国には食糧はあまりないときもあるが、色彩はつねに派手に存在した。山の斜面には濃い青色の陰影が動かず居すわり、海は孔雀の羽色の緑である。緑はいたるところに、ありとあらゆる変化を見せていた。黒色を走らせた龍舌蘭の毒薬びんのような緑色。単調な緑色の海岸の砂と釣り合うように、先端を黄色く変色させはじめているバナナの木の淡い緑色。まことに、この国土には色彩が荒れ狂っていた。一台のアメリカ製の大型車が、無茶なスピードで悪路を突っ走り、われわれに土ぼこりをかぶせた。この土ぼこりだけが色彩に欠けていた。』(p.187)

https://youtu.be/b_MfBia4zWI

映画「 危険な旅路(喜劇役者)」「第三の男」「ハバナの男」などで知られるイギリスの作家グレアム・グリーンのベストセラー小説を、彼自身が脚色し、「ベケット」のピーター・グレンヴィルが製作・監督した。撮影はアンリ・ドカエ、音楽はラリー・ローゼンサルが担当している。出演は、「じゃじゃ馬ならし(1966)」のエリザベス・テイラーとリチャード・バートンのコンビに、「さらばベルリンの灯」のアレック・ギネス、「レディL」のピーター・ユスチノフなど。

https://youtu.be/CmL0-9PyMzw

The Comedians 1967年 製作国 アメリカ配給 MGM

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posted by koinu at 06:47| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする