2020年04月04日

佐藤鬼房の俳句

【佐藤鬼房の俳句】

いつまでも在る病人の寒卵

ながあめの祖國の異國下痢はやる

ねむれぬ夜端々ひかる梅の枝

ぼろぼろの雲の夕燒基地海岸

みちのくは底知れぬ国大熊生く

やませ来るいたちのやうにしなやかに

七五三妊婦もつとも美しき

下北の首のあたりの炎暑かな

切株があり愚直の斧があり

友ら護岸の岩組む午前スターリン死す

吾在りて泛ぶ薄氷聲なき野

地吹雪や王国はわが胸の中に

夏も末の島波薄き雜誌手に

夏季鬪爭ぱつちり黒い瞳の少女

奢りながき夕燒透いて不作の田

子雀に朝燒さめて光さす

孤兒たちに清潔な夜の鰯雲

寒夜の川逆流れ滿ち夫婦の刻

寒夜子へ歸る溝川も光もつ

寒明けの山肌を剥ぎ岩きざむ

平和は一つあげし男の子に麥穂だつ

平和遠し春の蟆子をば咳きてはく

怒りの詩沼は氷りて厚さ増す

春蘭に木もれ陽斯かる愛もあり

朝の日ざし栗毛の仔犬凍れる樹

根雪掘る二十代經し妻の背よ

油じむ肘のつよさも氷雨中

港灣にくそまり雪をつのらしむ

滾る銀河よ眞實獄へ想ひ馳す

父の方へかけくる童女花了ふ樹

生きて食ふ一粒の飯美しき

立ち尿る農婦が育て麥青し

綾取の橋が崩れる雪催

縄とびの寒暮傷みし馬車通る

肩で押す貨車に冬曉朱の一圓

藍いろの火がきつとある桜の夜

誰か死に工場地帶萌えきざす

赤沼に嫁ぎて梨を売りゐたり

逆立つ世棕梠は花つけ赤兒睡る

陰になる麦尊けれ青山河

露けさの千里を走りたく思ふ

年へ愛なき冬木日曇る

麥のたしかな大地子の背丈

鳥帰る無辺の光追ひながら

黙々生きて曉の深雪に顔を捺す


佐藤鬼房 (さとう-おにふさ)

19192002 昭和-平成時代の俳人。

大正8320日生まれ。「句と評論」に投句。戦後は西東三鬼に師事して社会性俳句で注目される。

「天狼」同人をへて昭和60年宮城県塩竈市で「小熊座」を創刊主宰。平成2年「半跏坐(はんかざ)」で詩歌文学館賞,5年「瀬頭」で蛇笏(だこつ)賞。

平成14119日死去。82歳。岩手県出身。本名は喜太郎。

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2020年04月03日

『寺山修司青春歌集』角川文庫

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき――恋人、故郷、太陽、桃、蝶、そして祖国、刑務所。含羞にみちた若者の世界をみずみずしい情感にあふれた言葉でうたい続け、詩の世界にひとつの大きな礎を築いた寺山修司。

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この書名に違和感あるほど、老成された内容に驚異する。例えば、


「歌ひとつ覚えるたびに星ひとつ熟れて灯れるわが空をもつ」


寺山修司の刊行した、歌集が発表順に収録。第一歌集『空には本』から『血と麦』『テーブルの上の荒野』『田園に死す』、さらには「初期歌篇」と続く重厚な書物だが、文庫本としてスマートな冊子。まず寺山修司は「私」が登場しない客観視点として、三人称で短歌を書くという離れ技から初めている。


だれも見ては黙って過ぎきさむき田に抜きのこされし杭一本を


めつむりていても濁流はやかりき食えざる詩すらまとまらざれば


にんじんの種子庭に蒔くそれのみの牧師のしあわせ見てしまいたる


枯れながら向日葵立てり声のなき凱歌を遠き日がかえらしむ


群衆のなかに昨日を失いし青年が夜の蟻を見ており


「私」のない歌は第一歌集『空には本』から、寺山修司のカメラ向こう側にある語句たちである。三人称で語られる物語の登場人物に近い。歌のなかに「私」が現れてても同じなのである。


銃声をききたくてきし寒林のその一本に尿まりて帰る


朝の渚より拾いきし流木を削りておりぬ愛に渇けば


胸の上這わしむ蟹のざわざわに目をつむりおり愛に渇けば


わが野性たとえば木椅子きしませて牧師の一句たやすく奪う


夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず


小説では一人称と三人称どちらが優れている描写なのか。私小説のような詩作は誰しもが手を染めるダサイ要素がある。しかし定型俳句や短歌の世界で、人称を自在に操ると「われ」の存在から現実味が乖離されて「われ」の言葉が美しく翔ぶ。


雲の幅に暮れ行く土地よ誰のためわれに不毛の詩は生るるや


目つむりて春の雪崩をききいしがやがてふたたび墓掘りはじむ


一本の骨をかくしにゆく犬のうしろよりわれ枯草をゆく


わが影を出てゆくパンの蠅一匹すぐに冬木の影にかこまる


これらは第一歌集『空には本』短歌で人称が自在に変転される技法を十代で身に付けていた。「あとがき」の文章も掲載されている。


「新しいものがありすぎる以上、捨てられた瓦石がありすぎる以上、僕もまた「今少しばかりのこっているものを」粗末にすることができなかった。のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。

 定型詩はこうして僕のなかのドアをノックしたのである。縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕の言語に自由をもたらした」(「僕のノオト」『空には本』より)


帆やランプなどが生かしむやわらかき日ざしのなかの夏美との朝


青空のどこの港へ着くとなく声は夏美を呼ぶ歌となる


どのように窓ひらくともわが内に空を失くせし夏美が眠る


空を呼ぶ夏美のこだまわが胸を過ぎゆくときの生を記憶す


わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして


わが埋めし種子一粒も眠りいん遠き内部にけむる夕焼


水草の息づくなかにわが捨てし言葉は少年が見出ださむ


わが内に獣の眠り落ちしあとも太陽はあり頭蓋をぬけて


とにかく収録歌数が多すぎて、圧縮された作品がぎっしり記された歌集五冊分を紐解くのは心的には充満した本。「種子」という言葉が多くあり、発芽して数年後には樹に育っていくイメージは歌集にも拡っている。


地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり


砂糖きびの殻焼くことも欲望のなかに数えんさびしき朝は


ドラム罐に顎のせて見るわが町の地平はいつも塵芥吹くぞ


電線はみなわが胸をつらぬきて冬田へゆけり祈りのあとを


寝台の上にやさしき沈黙と眠いレモンを置く夜ながし


愛されているうなじ見せ薔薇を剪るこの安らぎをふいに蔑む


地下鉄の入口ふかく入りゆきし蝶よ薄暮のわれ脱けゆきて


思い出すたびに大きくなる船のごとき論理をもつ村の書記


もうこれは現代詩のやってる不定型の表現を、短歌の領域でパンチを繰り出している。構想された長篇小説のエッセンスを読んでいる印象となる。

十代で同人誌活動にピリオドをうち、寺山修司は二十代から本格的に詩作、演劇、映画へと進んでいくのだった。


アスピリンの空箱裏に書きためて人生処方詩集と謂ふか


地下鉄の真上の肉屋の秤にて何時もかすかに揺れてゐるなり


撞球台の球のふれあふ荒野までわれを追ひつめし 裸電球


地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針


生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘


売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき


見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし


かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭


映画プロットのようにも読める定型俳句。ただならない予感がする歌の数々である。東北から上京した少年が、才能を展開していく様子は、インターネットで彼の履歴を検索しただけでも解る。詩作品は初期俳句を水割りして、飲みやすくされたとも読める。


春の野にしまひ忘れて来し椅子は鬼となるまでわがためのもの


地球儀の陽のあたらざる裏がはにわれ在り一人青ざめながら


とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を


知恵のみがもたらせる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱


倖せをわかつごとくに握りいし南京豆を少女にあたう


わが夏をあこがれのみが駈け去れり麦藁帽子被りて眠る


失いし言葉がみんな生きるとき夕焼けており種子も破片も


駈けてきてふいにとまればわれをこえてゆく風たちの時を呼ぶこえ


「今日までの私は大変「反生活的」であったと思う。そしてそれはそれでよかったと思う。だが今日からの私は「反人生的」であろうと思っているのである」(「私のノオト」『血と麦』より)


「地球儀を見ながら私は「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」と思っていたのである」(「跋」『田園に死す』より)


『テーブルの上の荒野』『田園に死す』にある「新・病草紙」や「新・餓鬼草紙」は最高傑作の極みにあると賞賛されている。歌集を購入した理由はそのことを確認したかったからだった。


新しき仏壇買ひ行きしまま行方不明のおとうとと鳥


生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘 


地平線揺るる視野なり子守唄うたへる母の背にありし日以後


かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭


漫才の声を必死につかまむと荒野農家のテレビアンテナ


炉の灰にこぼれおちたる花札を箸でひろひて恩讐家族


死の日より逆さに時をきざみつつつひに今には至らぬ時計


空罐を蹴りはこびつつきみのゐる刑務所の前通りすぎたり

(寺山修司『田園に死す』より)


今日も閉ぢてある木の窓よマラソンの最後尾にて角まがるとき


もの言へば囀りとなる会計の男よ羞づかしき翼出せ

(寺山修司『テーブルの上の荒野』より)


「まことに今宵は書斎の里のざこ寝とて定型七五 花鳥風月 雅辞古語雑俳用語、漢字ひらがな、形容詩詞にかぎらず新旧かなづかひのわかちもなく みだりがはしくうちふして 一夜は何事も許すとかや。いざ、是より、と朧なる暗闇に、さくら紙もちてもぐりこめば、筆はりんりんと勃起をなし、その穂先したたるばかり。言葉之介、一首まとめむと花鳥風月をまさぐれば、まだいはけなき姿にて逃げまはるもあり。そのなかをやはらかく こきあげられて絶句せるは、老いたる句読点ならむか」(「初期歌集」より)


「新・病草紙」は、ぞっとする奇怪な散文詩ごときをユーモラスな文体で、連綿と演劇のように描かれている。


「ちかごろ男ありけり、風病によりて、さはるものにみな、毛生ゆるなれば、おのれを恥ぢて何ごとにも、あたらず、さはらず。ただ、おのがアパートにこもりて、妻と酒とにのみかかはりあひて暮しゐたり」


「花食ひたし、という老人の会あり。槐、棕櫚、牡丹、浦島草、茨、昼顔などもちよりて思案にくれてゐたり。一の老、鍋に煮て食はむと言へども鍋なし。さればと地球儀を二つに割りて鍋がはりに水をたたえて花を煮たれど、花の色褪めて美食のたのしびうすし。また二の老、焼き花にせむと火の上に串刺しの花をならべて調理するも、花燃えてすぐにかたちなし。されば三の老、蒸し花、煎り花料理をこころみしが、これも趣きなし。花は芍薬、罌粟、紫蘭、金魚草などみな鮮度よければ、なまのまま食はむと四の老言ひて盛りつけたれど、老、口ひらくことせまく、花を頬ばり、咀嚼すること難し」


「無才なるおにあり、名づくる名なし、かたちみにくく大いなる耳と剝きだしの目をもちたり。このおに、ひとの詩あまた食らひて、くちのなか歯くそ、のんどにつまるものみな言葉、言葉、言葉―ひとの詩句の咀嚼かなはぬものばかりなり」

(「新・病草紙」より)


中井英夫による「解説」

「いったい、十六年という歳月は、長いのか短いのか、どちらだろう。むろん作者にとっても、それはどうともいえないはずだが、変貌という点ではめざましく、出現の当時が十八歳、早稲田の教育学部の学生だったのが、現在は劇団天井桟敷の主宰者で前衛演劇の中心人物となり、その成果を世界の各国に問うているのを見ても肯けよう。一方、千年の歴史を持つ短歌の中においてみると、その年月は、あたかも掌から海へ届くまでの、雫の一たらしほどにもはかない時間といえる。だがこの雫は、決してただの水滴ではなく、もっとも香り高い美酒であり香油でもあって、その一滴がしたたり落ちるが早いか、海はたちまち薔薇いろにけぶり立ち、波は酩酊し、きらめき砕けながら「いと深きものの姿」を現前させたのだった」(中井英夫「解説」より)


寺山修司を語る―物語性の中のメタファー

http://www.1101.com/yoshimoto_voice/


『田園に死す』の長歌「修羅、わが愛」 にも困りました。そこには、こう書いてほしいということが全部書いてある。

https://1000ya.isis.ne.jp/0413.html

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2020年04月02日

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』増補版 (文春文庫) 千葉 雅也

「勉強」が気になっているすべての人へ! 勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。勉強とは、かつての自分を失うことである。深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、それは恐るべき快楽に身を浸すことである。


そして何か新しい生き方を求めるときが、勉強に取り組む最高のチャンスとなる。日本の思想界をリードする気鋭の哲学者が、独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論!

文庫本書き下ろしの「補章」が加わった完全版。解説・佐藤優


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千葉雅也@masayachiba

哲学、創作。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(紀伊國屋じんぶん大賞2013、第5回表象文化論学会賞)、『勉強の哲学』、『意味がない無意味』、『アメリカ紀行』、 『デッドライン』(第41回野間文芸新人賞、第162回芥川賞候補)など。千葉雅也さん初小説「デッドライン」インタビュー 自由の都への憧憬こめた東京小説|好書好日

https://book.asahi.com/article/13033656

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2020年04月01日

正木ひろし「若き日の断想」より

 塵積れば山となる、と云ふ風に考へると一銭十銭が値切って見たくなるが、又人間は貧乏してもめったに餓死することはないと云ふ風に考へるとケチケチする気にはなれなくなる。
     ○
 私はまだ自分で失望する程の力作を書かない。
     ○
 自分は天才でないが故に世の中の天才を顧みて躊躇する暇がない。
     ○
 哲学は小なる迷信を大なる迷信に置き換へるものである。
     ○
 小人は往々如何なる程度迄他人を無視し得るかに依って自己の力を計らうとする。
     ○
 人は単なる模倣により実に大胆な事をする。
     ○
 汝の自由意志の中に汝の宿命を発見せよ。
     ○
 肉体上の刺激が夢の世界では現識の世界と全く関係の無い意味を持ってゐる。
     ○
 自己を其儀表現せむとする衝動に身を任かす喋舌家の「正直さ」は愛すべきだが、一度深い自己に醒めるならばいくら表現しようとしても喋舌とはならない。
     ○
 心の中の生きてゐる自然(所謂「非我」)に触れる時、自分はどうしても神の存在を信ぜざるを得なかった。
     ○
 物、事、のリミットを知るならば、その物、事から超越する。
     ○
 善悪の標準から超越したと称する人、往々好悪愛憎の世界に入る。
     ○
 善悪の観念は意志の世界に於ける当為(ought)から起る。故に自己の有限の意志を尽くして無限の意志に帰入した者には善悪はない。
     ○
 相手を憎むのは相手が何等かの意味でその人に権威を持ってゐるからだ。その内心を動かすだけの力を持ってゐるからだ。(「憎む」と云ふ意味を普通に解して) 
正木ひろし「若き日の断想」より

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悲哀と嫌悪の根源について

 運命の神秘はその力強い秘義の中に我々全部を包みこんでいるので、生の悲劇的な不条理を残酷なまでに感じないためには、本当のところ何も考えない人間でなければならない。そこにこそ、我々の存在理由についての絶対的な無知にこそ、我々の悲哀と我々の嫌悪との根源はある。
 肉体的な苦患と精神的な苦患、魂と官能との悲惨、邪悪な人間の幸福、正しい者の屈辱、総てそうしたことも、我々がその理法と調和とをなるほどと納得して、そこに摂理を見るとしたならば、まだしも我慢できるものであるだろう。


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 神を信じる者はわが身の潰瘍を喜び、自分の敵の不正な仕打ちや暴力をも快いものと観じるものであり、自ら過ちや罪を犯しても希望を失うことはない。しかし信仰の一切の輝きが消えた世界においては、悪と苦痛とはその意味までも失ってしまい、もはや悍ましい悪ふざけや不吉な笑劇のようなものに見えるばかりである。
 アナトール・フランス『エピクロスの園』生の不条理より     

 好奇心が罪(宗教上の)となる瞬間が常にある。
  されば悪魔は常に学者の傍に身を置いて来た。
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2020年03月27日

石垣りん詩集(ハルキ文庫)

『石垣りん詩集』を読んで、律して生きた詩人の姿が浮かんで、「容赦ないユーモア」と慈しみの心を鮮やかに感じる。 
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「夜毎」


深いネムリとは

どのくらいの深さをいうのか。

仮に

心だとか、

ネムリだとか、

たましい、といつた、

未発見の

おぼろの物質が

夜をこめて沁みとおつてゆく、

または落ちてゆく、

岩盤のスキマのような所。

砂地のような層。

それとも

空に似た器の中か、

とにかくまるみを帯びた

地球のような

雫のような

物の間をくぐりぬけて

隣りの人に語ろうにも声がとどかぬ

もどかしい場所まで

一個の物質となつて落ちてゆく。

おちてゆく

その

そこの

そこのところへ。

旅情

ふと覚めた枕もとに

秋が来ていた。

遠くから来た、という

去年からか、ときく

もつと前だ、と答える。

おととしか、ときく

いやもつと遠い、という。

では去年私のところにきた秋は何なのか

ときく。

あの秋は別の秋だ、

去年の秋はもうずつと先の方へ行つている

という。

先の方というと未来か、ときく、

いや違う、

未来とはこれからくるものを指すのだろう?

ときかれる。

返事にこまる。

では過去の方へ行つたのか、ときく。

過去へは戻れない、

そのことはお前と同じだ、という。

がきていた。

遠くからきた、という。

遠くへ行こう、という。


(石垣りん詩集『表札など』より)


現代詩は様式やカテゴリーがないことで、あらゆる日常生活や芸能にも食い込むことが出来る。

詩集は小説より薄くて、小冊子ながらぎっしりとネタが圧縮されて持ち運びにも便利だと思う。

しかし編集者ない状態から自主出版された詩集などは、関門なき自堕落内容が殆どなので、三文小説を読んだほうがマシな場合が多い。

どんなジャンルも「洗練」という境地を乗り越えて行かねばならない。

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2020年03月26日

『スペイン風邪の調整報告書』無料公開中

東洋文庫『流行性感冒』スペイン風邪の調整報告書 全455ページを、平凡社が4/30日まで無料公開中です。

www.heibonsha.co.jp/book/b161831.html


90年前に世界中で猛威をふるった史上最悪の感染症、スペイン・インフルエンザ。主に日本での流行を克明に記録した貴重な調査報告書。


インフルエンザの歴史は遠く紀元前にまでさかのぼることができる。1918年から数年にわたって流行した「スペイン風邪」は、全世界での患者6億、死亡者3000万に達し、日本でも患者2300万、死亡者38万余という惨禍を残した。

この数年後に起きた関東大震災の死者・行方不明者は約14万人だといわれて、比しても「スペイン風邪」の被害が甚大だった。


「インフルエンザ」の流行は世界到る所の民族を襲ひ、凡ての社会的階級を冒し、其罹病率と死亡率と共に頗る大なるを以て、之が予防法策を講ずる事は凡ての国民に向つて焦眉の急務なりき。

A book summarizing of the Spanish Flu, released for free until April 30. Total 455 pages. Japanese text only, but posters are interesting.

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ダダイズム詩人の小野十三郎

 「明日」小野十三郎

古い葦は枯れ 

新しい芽もわづか。 

イソシギは雲のやうに河口の空に群飛し 

風は洲に荒れて 

春のうしほは濁つてゐる。 

枯れみだれた葦の中で 

はるかに重工業原をわたる風をきく。 

おそらく何かがまちがつてゐるのだらう。 

すでにそれは想像を絶する。 

眼に映るはいたるところ風景のものすごく荒廃したさまだ。 

光なく 音響なく 

地平をかぎる 

強烈な陰影。 

鉄やニツケル 

ゴム 硫酸 窒素 マグネシユウム 

それらだ

 (詩集『大阪』より)


小野十三郎(1903年−1996年)

詩集『大阪』は1939年に出版。多くの詩人たちが戦争に、対する痛みや象徴する言葉を表した。そんな状況のなかで反戦にも自然主義にも傾倒せず、「葦の地方」を見いだして、記憶される詩集。なかでも「明日」の最後三行が示している、安易に謳わないことが心に残る。ここに現代詩の萌芽が感じられる、モンタージュ効果あるフレーズが連発。〈短歌的叙情の否定〉は詩人一人の創造として余りに重責な、詩作の理論的な困難な舞台での実践。この感染季節にアナザーサイドの扉が、心に反応する詩でもあった。


「赤い雀」

赤い雀がいないと眼がたいくつだ

冬のみち

ぼくの頭脳から

白い絹糸のようなものが二本のびて一本は

すりすがすの空の太陽をひっかけて

もう一本は

ずっとはるかにのびてのびて

遠方のくっせつして

尖で半円を描いて

赤い雀をさがしている

〔処女詩集『半分開いたた窓』より〕

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2020年03月23日

カミュ中編小説『ヨナ,あるいは制作する芸術家』

聖書ヨナ伝が冒頭に引用されて、画家の純粋に生きる姿を軽妙な風刺のように語られる。

描いた絵画は売れようが売れまいが、ジルベール・ヨナは時間や空間を限定されても、全ての恩恵と受けて絵画に執着し続ける。

しかし成功が彼を苦しめていくことになる。絵画が世間に認められてアパートへ客が押し掛けてくるので、アパートの模様替えを計画すると、妻ルイーズは「お友達が早く帰ってくれれば、いっしょ にいる時間が増えるわ」といい「悲しみの影が彼女の顔の上をよぎる」のを見て胸を打たれる。妻を引き寄せて、ありったけの優しさをこめて抱きしめるのだった。しばらくの間ふたりは、結婚したての頃のように幸せになった。


そして物語が進むと単なる働き者の妻より、鍵を握る重要人物へと変わっていく。スランプに陥り絵が描けなくなったヨ ナは、女遊びを始めて妻を悲しませた。ある朝家に帰るとルイーズ が、驚きと極度の苦しみから来る溺れた、女のような顔をしているのを見て胸を引き裂かれる。

 彼は妻に許しを乞い、翌日に板を買いに行って、アパー トの壁と天井付近に小部屋をつくる。妻をしっかりと抱きしめて、ここで絵を描くと宣言するのだった。絵に集中するためには、妻や子供たちから少し離れなければならない。小部屋にこもって絵を描く。絵への愛と、妻への家族への愛との間に、小部屋は均衡をとるためにある。

小部屋に籠り食事のときにしか降りてこないヨナを、ルイーズは心配する。不安で悲しげな彼女の顔を見て、どれほど彼女が老けたか、生活の疲れが彼女にもどれほどの深手を負わせたかに気づき、自分が彼女を本当の意味で助けたのは一度もなかったと思う。


彼が何も言わないうちルイーズはやさしく微笑み「お好きなように、あなた」 という。


お好きなように(Comme tu voudras)はヨナの口癖をルイ ーズがまねたものだが、彼女がその後に口にする「あなた(mon chéri)」は「不貞の女」最後でジャニーヌが言う「なんでもないの,あなた(Ce n’est rien, mon chéri)」でも使われていた。

『追放と王国』に登場する妻が使う「あなた(mon chéri)」には愛情と無意識の願望がある。


ヨナの親友ラトーにルイーズは「私は、あのひとがい ないと生きていけないの」と語る。若い娘のような 顔を赤らめていることに気づいて驚く。

そして小部屋の中で絵を描き上げた後,「子供たちの声や水の音,食器の触れ合う音」に耳を澄ます。子供たちは部屋を駆け回って、娘が笑っていた。随分前からル イーズが笑うのを聞かなくなってたが、彼女も笑っている。小部屋の人工の夜の中で恍惚を感じて失神する。医者はヨナの容態について「何でもありませんよ(Ce n’est rien)」というが、ジャニーヌもヨナも特権的な瞬間を生きた。


ヨナがジャニーヌと違うのは、妻と離れずにいたこと。ジャ ニーヌが夜空とまじわりを結んで、恍惚の瞬間を生きるためには、夫のもとを離れて砂漠に走るのが必要だった。妻から離れるこ となく恍惚の瞬間を生きるヨナはルイーズのもとに戻る必要もない。


ヨナの残した「絵画」──白いカンバスの中央に、solitaire(孤独)と読むべきか、solidaire(連帯)と読むべきかわからない言葉が、非常に細かい字で描いてあるだけの作品──と同じく曖昧でどちらとも取れるのだった。


『ペスト』と同様にカミュの作品は、探偵小説のように物語の節目や結末の箇所で、小説の語り手の正体を仄めかす。主人公ヨナの唯一である親友であるのかもしれない。彼の状況や割の合わない不条理、それに対してそうするより他に仕方のなかった行動、等々。どこまでも見守る親切さのある視点は、他に誰が語れるのか?


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『転落・追放と王国』アルベール・カミュ〔新潮文庫〕収録。なおも鋭利な現代性を孕む、カミュ晩年の二作を併録。

 【目次】 

転落 

追放と王国

不貞/背教者/唖者//ヨナ/生い出ずる石

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アルベール・カミュの言集

生産性だけが重視される社会では

多くの品が作りだされるが

斬新な思想は生まれない。


人間は現在の自分を拒絶する唯一の生きものである。

やってみた上でないと何もわからない。


世界の不幸に対して抗議するために

幸福を創造すべきである。


働かなければ我々は腐ってしまう。

しかし、魂なき労働は我々を窒息死させる。


最後の審判なんて待たなくていい。

それは毎日やって来ているのだから。


「人間は、自分で考えたものになってしまう」


「≪生きることへの絶望なしには生への愛はない≫と、誇張がなくはないが私はあの書物のなかに書きつけた。当時私は、どの程度まで真実を語っていたかを知らなかった。そのとき私は、まだ真の絶望の時間を過ごしてはいなかった。そうした時間は、その後にやってきた。そしてそれは、それこそまさに生きることへの途方もない欲求を別とすれば、私のなかの一切を破壊することができたのだ」


「だれにでも死はある。だが、それぞれにそれぞれの死がある。いずれにせよ太陽は、たとえ骨になってもぼくらを暖めてくれるのだ。」

【アルベール・カミュ著書】

『異邦人/1942年』

『ペスト/1947年』

『転落/1956年』

『追放と王国/1957年』

『シーシュポスの神話/1942年』

『反抗的人間/1951年』

「カミュの手帖」1-「太陽の讃歌、」2-「反抗の論理」

戯曲

『カリギュラ/1944年』

『誤解』/1944年』

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2020年03月21日

現代詩文庫・富岡多恵子詩集

富岡多惠子は詩人として出発し、のち小説に転じ、さらに評伝も手がけるようになった。多才。富岡多惠子の詩は若い頃から好きだった。ぶっきらぼうでおよそ感傷がない。乾いたユーモアがある。(川本三郎)



「静物」

 

きみの物語はおわった

ところできみはきょう

おやつになにを食べましたか

きみの母親はきのう云った

あたしゃもう死にたいよ

きみはきみの母親の手をとり

おもてへ出てどこともなく歩き

砂の色をした河を眺めたのである


きみはきのう云ったのだ

おっかさんはいつわたしを生んだのだ

きみの母親は云ったのだ

あたしゃ生きものは生まなかったよ



「去年の秋のいまごろ」


天気にかんしては

あたしゃどうでもよいと云った

ただしあたしは水を撒かねばならない

かな盥に水をいれて

肩にのせてみなくてはならぬ

会話ははじまるだろう

たいていの日の正午ごろ

男のともだちがきているのであった

その男のともだちは女のともだちを

つれているのであった

そのふたりは下界からきて

枕元に腕時計を忘れていって

あたしは得をしたかわりに

かの女に化粧水をかしてやる

男のともだちは

あめりかとか

ぷえるとりことかいう国からきて

おまいさんはわいせつが上手であると

あたしをよろこばせた

ので

あたしの瞳孔はすくなくとも三倍に

ひらいて

舌をひっこめたのである



いままでの詩なら詩というカタチにことばを書いていくことは、書いていく方のにんげんが詩から自分をズラセルということがしにくかった。つまり、詩の正面に坐っていたから自分も見物衆もたいしておもしろくないのであった。わたしは、自分がことばを書くとき、詩であれ何であれ、自分がどのようにズレル所に坐るかに興味をもっている。(富岡多恵子「詩への未練と愛想づかし」)


「水いらず」

あなたが紅茶をいれ

わたしがパンをやくであろう

そうしているうちに

ときたま夕方はやく

朱にそまる月の出などに気がついて

ときたまとぶらうひとなどあっても

もうそれっきりここにはきやしない

わたしたちは戸をたて錠をおろし

紅茶をいれパンをやいて

いずれ

あなたがわたしを

わたしがあなたを

庭に埋めるときがあることについて

いつものように話しあい

いつものように食物をさがしにゆくだろう

あなたかわたしが

わたしかあなたを

庭に埋める時があって

のこるひとりが紅茶をすすりながら

そのときはじめて物語を拒否するだろう

あなたの自由も

馬鹿者のする話のようなものだった


「返禮」富岡多恵子

                       

   誇ってよい哀しみがふたつある

   部屋のドアをバタンと後に押して

   家の戸口のドアを

   バタンと後に押して

   梅雨の雨で視界のきかない表通りで

   一日の始まる時

   これからどうしよう

   これから何をしよう

   どちらにも

   味方でも敵でもないわたくし

   この具象的疑問を

   誰に相談しよう

   戦争ぎらいで

   平和主義者ではないわたくし

   ただ目を見開いてゆくための努力

   その努力しか出来ない哀しみ


   誇ってよい哀しみはふたつある

   あなたと一緒にいるわたくし

   あなたがわからない

   だからあなたが在るのだとわかるわたくし

   だからわたしが在るのだとわかるわたくし

   あなたがわからない哀しみ

   あなたがあなたである哀しみ


『現代詩文庫・富岡多恵子詩集』より



かの女はくる約束をした

今日はまだこないので

今日死んだのかもしれない

――「女友達」

喋ることと喋らないことのあいだで、言葉の意味と無意味はずるがしこくいれかわる。(富岡多恵子『女友達』あとがき)


「この世の中でかなりおもしろいことは、ウソをつくこと、つまりだましあいであろう。恋は誤解だなぞというのはありふれた言い草であって、ほんとうにウソに酔っているのであり、酔っていたウソにさめて、ウソからはい出るのではなくてウソに徹するのが恋から愛への約束であるだろう」

(『厭芸術浮世草子』富岡多恵子)



富岡多恵子『その日は明るい晴れた日だった』作編曲・坂本龍一 写真・荒木経惟 1976年10月録音。 

物語のようにふるさとは遠い みんな知らないヒトばかり 知らないヒトと恋に落ち 物語のように恋は終る 物語のようにふるさとは遠い 想い出すのは死んだヒトばかり 生きてるヒトには怨みがのこる 帰りたくないふるさとへ 物語のようにふるさとは遠い みんな死んだら一人で帰る 腕にいっぱい花を抱えて帰る

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『死んだ男』『橋上の人』鮎川信夫

『死んだ男』鮎川信夫


たとえば霧や 

あらゆる階段の跫音のなかから、 

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。 

−−これがすべての始まりである。

遠い昨日…… 

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、 

ゆがんだ顔をもてあましたり 

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。 

「実際は、影も、形もない?」 

−−死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

Mよ、昨日のひややかな青空が 

剃刀の刃にいつまでも残っているね。 

だがぼくは、何時何処で 

きみを見失ったのか忘れてしまったよ。 

短かかった黄金時代−− 

活字の置き換えや神様ごっこ−− 

「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて…

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、 

「淋しさの中に落葉がふる」 

その声は人影へ、そして街へ、 

黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

埋葬の日は、言葉もなく 

立会う者もなかった、 

憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。 

空にむかって眼をあげ 

きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。 

「さよなら。太陽も海も信ずるに足りない」 

Mよ、地下に眠るMよ、 

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

(鮎川信夫詩集より)

 

鮎川信夫(1920〜1986)

1941年ごろ自分の仕事の全体を代表するような作品を残したいと考えた。自分の過去から未来にかけての展望を得る場所として橋上の人を選んだ。時間的には過去から未来、空間的にはここからあそこ、また内地から戦地。橋上の人は、その中途に立っている状態で、そこは考える場所、立ち止まった場所。

モダニズム詩人であったが、内心の吐露、内面生活の自由な凝出が必要で、叙情詩となった。

その叙情的な中に哲学的、人生論的なものが入ってきている。初稿を友人に渡して出征したが、戦争中も戦後も加筆訂正して八章となった。

ーーー「橋上の人」について 鮎川信夫と高田三郎の対談よりーーー



『橋上の人』鮎川信夫


T

彼方の岸をのぞみながら

澄みきった空の橋上の人よ、

汗と油の溝渠のうえに、

重たい不安と倦怠と

石でかためた屋根の街の

はるか、地下を潜りぬける運河の流れ、

見よ、澱んだ「時」をかきわけ、

櫂で虚空を打ちながら、

下へ、下へと漕ぎさってゆく舳の方位を。

橋上の人よ、あなたは

秘密にみちた部屋や

親しい者のまなざしや

書籍や窓やペンをすてて、

いくつもの通路をぬけ、

いくつもの町をすぎ、

いつか遠く橋のうえにやってきた。

いま、あなたは嘔気をこらえ、

水晶 花 貝殻が、世界の空に

炸裂する真昼の花火を夢みている。


U

おお時よ、なぜ流れるのか

なぜ止まらないのか

うらぶれた安カフェーで、

酔いどれ水夫が歌っていた。

おお、これからどうしよう……

酒と女におさらばして、

さあゆこう、船着場へ――

未来と希望があるだけさ。

ああ時よ、なぜ流れるのか

なぜ止まらないのか

さんざめく裏街のどん底で、

狂える女が歌っていた。

ああ、これからどうしよう……

空の財布の身を投げに、

さあゆきましょう、船着場へ……

未来も愛もありゃしない。

おお時よ、なぜ流れるのか

なぜ止まらないのか

空気の悪いアパートの一室で、

青白いサラリーマンが歌っていた。

おお、これからどうしよう……

子供をつれて一日だけの安息に、

行ってみようか、船着場へ――

未来と信仰はちがうもの。


V

橋上の人よ

街角をまがる跫音のように

あなたはうしろをふりあえらなかった、

風にとぎれるはかない幻想が

あなたの心にうかんだ道のすべてだった。

橋上の人よ

砂浜につづく足跡のように

あなたはうしろをふりかえらなかった、

浪にくずれるむなしい幻影が

あなたの宙にうかんだ道のすべてだった。

橋上の人よ

あなたは冒険をもとめる旅人だった。

一九四〇年の秋から一九五〇年の秋まで、

あなたの跫音と、あなたの足跡は、

いたるところに行きつき、いたるところを過ぎていった。

橋上の人よ

どうしてあなたは帰ってきたのか

出発の時よりも貧しくなって、

風に吹かれ、浪にうたれる漂泊の旅から、

どうしてあなたは戻ってきたのか。

橋上の人よ

まるで通りがかりの人のように

あなたは灰色の街のなかに帰ってきた。

新しい追憶の血が、

あなたの眼となり、あなたの表情となる「現在」に。

橋上の人よ

さりげなく煙草をくわえて

あなたは破壊された風景のなかに帰ってきた。

新しい希望の血が、

あなたの足を停め、あなたに待つことを命ずる「現在」に。

橋上の人よ。 


W

誰も見ていない。

溺死人の行列が手足を藻でしばられて、

ぼんやり眼を水面にむけてとおるのを――

あなたは見た。

悪臭と汚辱のなかから

無数の小さな泡沫が噴きだしているのを……

「おまえはからっぽの個だ

おまえは薄暗い多孔質の宇宙だ

おまえは一プラス一に

マイナス二を加えた存在だ

一プラス一が生とすると

マイナス二は死でなければならぬ

おまえの多孔質の体には

生がいぱい詰まっている

おまえのからっぽの頭には

死が一ぱい詰まっている」

誰も聞いていない。

この喧騒の大都会の

背すじを走る黒い運河の呻きを――

あなたは聞いた。

氷と霜と蒸気と熱湯の地獄の苛責に

厚くまくれた歯のない唇をひらき

溺死人が声もなく天にむかって叫ぶのを……

「今日も太陽が輝いているね

電車が走っているね

煙突が煙を吐いているね

犬は犬のなかで眠っているね

やがて星がきらめきはじめるね

だけどみんな<生きよ>と言いはしなかったね」

誰も知らない。

未来の道は過去につづき

過去は涯しなく未来のなかにあることを――

あなたは知った。

あなたがあなた自身であるためには

どれだけたくさんの罪が心のなかにとざされているかを。

「あらゆる行為から

一つのものを選ぼうとするとき

最悪のものを選んでしまうことには

いつも個人的なわけがあるのだ

だから純潔を汚すことだって

洗濯したてのシャツをよごすほどにも

心を悩ますことはないのだ

教授にとっての深渕が

淫売婦には浅瀬ほどにも見えなかったりするのだ

ポケットのマッチひとつにだって

ちぎれたボタンの穴にだって

いつも個人的なわけがあるのだ」


X

ひとつの心の空洞から

ひとつの波のたわむれから

滑らかなやさしい囁きがきこえてくる

「かつて泉があった

眠りからうまれたばかりの水は

活力と滋味を湛え

野に池をつくり 地上に溢れ

渚をふちどり 虚無を涵し

乾けるもの 固く凝れるものを溶かした」

「かつて泉があった

跼みこめ くちづけよ

浄らかな水に映る理想の伴侶に

父母や妹 またあなたの至上の友たちに」

『われ』溷濁の世の光なり

夜 昼 わが涙のみ注ぎて魂の糧となり

水仙や蛇や もろもろの生ける質を潤ほした』

あなたは疑うだろうか?

眼下の大いなる混沌のむかしに

かつて清い泉があったことを……

そのようにまた沐浴もあったことを


Y

蒼ざめた橋上の人よ、

あなたの青銅の額には、濡れた藻の髪が垂れ、

霧ははげしく運河の下から氾濫してくる。

夕陽の残照のように、

あなたの褪せた追憶の頬に、かすかに血のいろが浮かび。

日没の街をゆく人影が、

ぼんやり近づいてきて、黙ってすれ違い、

同じ霧の段階に足をかけ

同じ迷宮の白い渦のなかに消えてゆく。

孤独な橋上の人よ、

どうしていままで忘れていたのか、

あなた自身が見すてられた天上の星であることを……

此処と彼処、それもちいさな距離にすぎぬことを……

あなたは愛をもたなかった、

あなたは真理を持たなかった、

あなたは持たざる一切のものを求めて、

持てる一切のものを失った。

橋上の人よ、

霧は濃く、影は淡く、

迷いはいかに深いとしても、

星のさまっている者はふりむこうとしない。

そして濡れた藻と青銅の額の上に、

夜の環が冷たくかぶさってくる、

星のきまっている者の、空にまたたく光のために。

 

Z

父よ、

悲しい父よ、

貴方がいなくなってから、

がらんとした心の部屋で、

空いた椅子がいつまでも帰らぬ人を待っています。

寒さに震えながら、

貴方に叛いたわたしは、

火のない暖炉に向いあっています。

父よ、

寂しい父よ、

わたしはひとりです。

妻も子もなく、この広い都会の片隅で、

固いパンを噛っています。

わたしは貧しい、

わたしは病んでいる、

貴方がわたしに下さったものはこれだけですか。

父よ、

大いなる父よ、

わたしはどこまでも愚かですから、

貴方の深い慈悲と智慧とを理解できません。

あてもなく街をさまよいながら、

わたしは今にも倒れそうになって、

ぼんやり空を眺めます。

貴方がいらっしゃるあたりは、

いつも天使の悪い呼吸で曇っています。

父よ、

大いなる父よ、

十一月の寒空に、わたしはオーバーもなく、

橋の上に佇みながら、

暗くなってゆく運河を見つめています。

教えて下さい、

父よ、大いなる父よ、

わたしにはまだ罪が足りないのですか、

わたしの悲惨は貴方の栄光なのですか。

 

[

橋上の人よ、

美の終りには、

方位はなかった、

花火も夢もなかった、

「時」も「追憶」もなかった、

泉もなければ、流れゆく雲もなかった、

悲惨もなければ、光栄もなかった。

橋上の人よ、

あなたの内にも、

あなたの外にも夜がきた。

生と死の影が重なり、

生ける死者たちが空中を歩きまわる夜がきた。

あなたの内にも、

あなたの外にも灯がともる。

生と死の予感におののく魂のように、

そのひとつひとつが瞬いて、

死者の侵入を防ぐのだ。

橋上の人よ、

彼方の岸に灯がついた、

幻の都会に灯がついた、

運河の上にも灯がついた、

おびただしい灯の窓が、高架線の上を走ってゆく。

おびただしい灯の窓が、高くよぞらをのぼってゆく。

そのひとつひとつが瞬いて、

あなたの内にも、あなたの外にも灯がともり、

死と生の予感におののく魂のように、

そのひとつひとつが瞬いて、

そのひとつひとつが消えかかる、

橋上の人よ。


(鮎川信夫詩集より)



鮎川信夫詩集1945-1955(荒地出版社、1955年)

橋上の人(現代日本詩集第十二巻 思潮社、1963年)

鮎川信夫全詩集 1945-1965(荒地出版社、1965年)

鮎川信夫全詩集 1945-1967(荒地出版社、1967年)

鮎川信夫詩集(思潮社、1968年)

1937-1970 鮎川信夫自撰詩集(立風書房、1971年)

新選鮎川信夫詩集(思潮社、1977年)

宿恋行(思潮社、1978年)

鮎川信夫全詩集1946-1978(思潮社、1980年)

鮎川信夫(中央公論社・現代の詩人2、1984年)

難路行(思潮社、1987年)

鮎川信夫詩集 続(思潮社、1994年)

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2020年03月20日

『谷川雁詩集』現代詩文庫(思潮社)

「世界をよこせ」谷川雁


まっかな腫れもののまんなかで

馬車のかたちをしたうらみはとまる

桶屋がつくる桶そのままの

おそろしい価値をよこせ 涙をよこせ


なめくじに走るひとしずくの音符も

やさしい畝もたべてしまえ

青空から煉瓦がふるとき

ほしがるものだけが岩石隊長だ


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「東京へゆくな」谷川雁


ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから

おれはみつけた 水仙いろした泥の都

波のようにやさしく奇怪な発音で

馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい


なきはらすきこりの娘は

岩のピアノにむかい

新しい国のうたを立ちのぼらせよ


つまずき こみあげる鉄道のはて

ほしよりもしずかな草刈場で

虚無のからすを追いはらえ


あさはこわれやすいがらすだから

東京へゆくな ふるさとを創れ


おれたちのしりをひやす苔の客間に

船乗り 百姓 旋盤工 坑夫をまねけ

かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき

それこそ羊歯でかくされたこの世の首府 


駈けてゆくひずめの内側なのだ

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「たうん・あにま」谷川雁


かれの否定する霊魂のごとき町の

かたつむりに負われた夜

このかがやく種子に埋まくものは何か

若い薔薇の茂る空

かの橋を渡る一つの眼に

ささやく息吹は何か

無名の草 おまえ 一本の絃が

ゆうべの牢獄を鳴らすとき

ああ すべては沙漠

それを逃がれるこころがあろうか

泉があろうか

階段という階段を降りた風は

ゆうひの遺した金を疑い

冷たい素顔を吹く

町びとのかざす桃花心木の燭台に

森のけものの骨はやかれ

地球のへりだけが緑色にかがやく夜

一滴の霊魂のごときこの町で


『谷川雁詩集』現代詩文庫(思潮社)


真夜中に蒼ざめた森の中で、居た堪れれない気分になると、「知られざる者こそ王」と囁いてみる。

詩人たることを拒絶して、朱色の手帖を一枚ずつ破っていくと、飢えた人々たちが現れてくる。

岩角で死が嗤う、海の底で。

posted by koinu at 12:34| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月19日

物語と写真について

「物語の明くる日」富岡多恵子

雨期のようにねころんで

マッチの棒をしがんでいるの

そうよ あたし

こんな日は画集でもひっぱり出して

聖者たちのうすぐらい顔に

口がだるくなるくらいの

おかしな口づけでもするのだわ  

こんな日は朝おきると

乳首をしがんでよ

聖者たちの下着はいつもまっ白だって

半分ほどの真実ね

まだよ

まつのよ

こんな時間には

たいてい納屋の中で

まっぱだかでいるのだろ

することがないんだもの

こんな時だけよ

みんなあなたまかせ

口からでまかせ

口は方便だもの

脚のしたにだれかいるとき

とてもよくねむれるものよ

(長編詩「物語の明くる日」より抜粋)


『写真の時代』富岡多恵子

〈庶民の遊び 自動焦点カメラで写してみた〉

そのキカイが、いったんだれでもいじれるものとなったうえで、玄人が存在するとなるほうが、おもしろいといえばおもしろい。こうなってくると、もし写真が芸術である時、それは常に、だれでもがすぐに写したいものが写せるカメラをもっている、という日常的写真世界にさらされていることになる。芸術が、常に芸術ではないがひょっとしたらそちらのほうが芸術かもしれない。というものにさらされることになる。----当節の写真家に、この種の恐怖、戦慄があるかどうか。

もし写真が芸術になり得たとしたら、やっと、こういうカメラの出現によって、新興芸術でなくなるのではないだろうか。

遊びは、無駄なもの、わからないものを、いじるということでもある。ジャスピンは、一方で、こういう時代の象徴である。しかも、このことが、先の写真芸術を、だれもがすなる写真にする点と重なるところが、もっとも興味深く、野次馬としてはおもしろいのである。いかに撮るか、ということと、なにを撮るかということが、正当に逆転してくる。つまり、本来なにを撮るかの果てにいかにが立ちふさがる正当性が、こういうカメラの出現で、ひょんなところからあばかれるかもしれないのである。素人には、もう、いかに撮るかはうんざりすることだった。

posted by koinu at 20:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『アポリネール詩集』

月と風」アポリネール

月と風(わびしからめと)

熱海懐古(昔の道をゆきかへる、)

花(凋るればこそ)

祇園鹿島屋履物店(ぽこぽこ木履《ぽつこり》。)

秋(秋の日のはてなく晴れて、)

海水浴場(太陽のヴァイタライト、)

海の二階(海にも二階がある。)

地平線(赤道直下のアフリカでも)

形見草(ひたひの皺の明すなり)

人に(花はいろ そして匂ひ)

愛(光を愛した画家モネは盲《めしひ》になつた。)

手(手。天鵞絨。闇の皮膚。)



「69」アポリネール

6と9との転倒が

怪しき数字と現れ出たのが

69であり

宿命の二匹の蛇であり

二匹の蚯蚓である

好色なそうして神秘な数

6は3と3

9は3と3と3

すなわち三位一体だ

いたるところ三位一体だらけ

さてまた三位一体は

両性論と一致する

なぜならば6は3の二倍であり

三位一体の9は3の三倍だから

されば69は両性の三位一体だ

さてまたこれらの秘術はなおなお隠密なのであるが

僕は恐ろしくなって消息子を下しかねる

ともするとそこが

人間どもをこわがらせてよろこんでいる

鼻っつぶれの死の向こう岸の

無窮であるかもしれぬから

さて今宵はなんと

退屈が外套のように僕を包むこと

陰気なダンテルの目には見えない死布のように


『アポリネール詩集』堀口大學訳より



 『秘密』アポリネール

旅愁 その一(旅は夕に身に痛し、)

旅愁 その二(うら若き身の旅すれば、)

旅愁 その三(何かジヤポンのなつかしく、)

旅愁 その四(今日黄昏のうす明《あかり》)

ふる里(生れし国にある時は)

わが身の旅路(身は唯ひとり)

さびしさ(身をふるはせて涙して)

橇の音(遠くアルプの連山の)

かなしみ(かなしみのみぞ)

posted by koinu at 13:22| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月18日

「魅は与によって生じ、求によって滅す」

他人に何かを与えれば生じて、他人に何かを求めれば消えていく。

五大本能的衝動
@生存本能、A群居衝動、B自己重要感、C性欲、D好奇心をコントロールする秘訣。

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小さな約束を守り、
いつも笑顔で人に接し、
ぐちを語らず、
他人を非難せず、
時間を守り、
失意の人を勇気づけ、
愛情をもって人を喜ばせ、
あなたへの中傷は笑って許す。
posted by koinu at 15:30| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月15日

バーナード・ショーの名言

「もうかなり長く生きたので、そろそろ死のうかと思っているのだが、なかなか死ねない。ビーフステーキを食べれば、ひと思いに死ねると思うのだが、私には動物の死体を食べるような趣味はない。私は自分が永遠に生きるのではないかと思うと、空恐ろしい気分になる。」

A life spent making mistakes is not only more honorable, but more useful than a life spent doing nothing.

間違いを犯してばかりの人生は、何もしなかった人生よりも、あっぱれであるだけでなく、役に立つ 


Alcohol is the anesthesia by which we endure the operation of life.

酒は人生という手術を耐えさせてくれる麻酔薬だ


All great truths begin as blasphemies.

すべての偉大な真理は、最初は冒涜の言葉として出発する


Beware of false knowledge; it is more dangerous than ignorance.

間違った知識には注意せよ。それは無知よりも危険である


Common sense is instinct. Enough of it is genius.

常識は本能であり、それが十分にあるのが天才である


Everything happens to everybody sooner or later if there is time enough.

時間が十分にあれば、すべてのことが遅かれ早かれ誰のもとにも起こりうる


He who has never hoped can never despair.

希望を抱かぬ者は、失望することもない


If you teach a man anything, he will never learn.

もし人になにかを教えようとすれば、彼は何も学ばないだろう


It is a woman’s business to get married as soon as possible, and a man’s to keep unmarried as long as he can.

できるだけ早く結婚することは女のビジネスであり、できるだけ結婚しないでいることは男のビジネスである


Liberty means responsibilty. That is why most men dread it.

自由とは責任を意味する。だから、たいていの人間は自由を恐れる


Life isn’t about finding yourself. Life is about creating yourself.

人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである


My way of joking is to tell the truth. It’s the funniest joke in the world.

私の冗談の言い方は、真実を語ることである。真実はこの世の中でいちばん面白い冗談である


People are always blaming their circumstances for what they are. I don’t believe in circumstances.

人は常に、現在の自分がこうなのは自分の置かれた環境のせいだとする。私は環境など信じない


Reading made Don Quixote a gentleman. Believing what he read made him mad.

ドンキホーテは読書によって紳士になった。そして読んだ内容を信じたために狂人となった


Silence is the most perfect expression of scorn.

沈黙は軽蔑の最も優れた表現である


The golden rule is that there are no golden rules.

黄金律はないということが黄金律である


The liar’s punishment is, not in the least that he is not believed, but that he cannot believe anyone else.

嘘つきの受ける罰は人が信じてくれないというだけのことではなく、ほかの誰をも信じられなくなる、ということである


Woman’s dearest delight is to wound Man’s self-conceit, though Man’s dearest delight is to gratify hers.

女の自惚れを満足させてやるのが男の至上の歓びであるのに反して、女の至上の歓びは男の自惚れを傷つけることである


You cannot have power for good without having power for evil too.

よいことをするための力を持っていれば邪悪なことをする力も必ず持つことになる


You see things; you say, ‘Why?’ But I dream things that never were; and I say ‘Why not?

存在するものだけを見て「なぜそうなのか」と考える人もいるが、私は存在しないものを夢見て「なぜそうでないのか」と考える

ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw/1856726-1950112)

近代演劇の確立者として知られるアイルランド出身の劇作家、社会主義者。20歳の頃から音楽評論家のゴーストライターを始め、27歳の頃に自身の小説作品を発表。36歳の頃に「やもめの家」で劇作家としてデビュー。40代頃から劇作家として世に認められるようになり、数々の名作を世に送りだした。1925年にノーベル文学賞を受賞。また、イギリスの社会主義知識人による運動団体「フェビアン協会」に所属する社会主義者でもあり、評論として「知的女性のための社会主義と資本主義の手引き(1928)」なども発表している。(ウィキペディア+Amazon.参考)

作品 主な戯曲に「ジュネーヴ/1938年」「聖女ジョウン/1923年」「メトセラへ還れ/1918年」「傷心の家/1916年」「ピグマリオン/1913年」「アンドロクリーズとライオン/1912年」「ファニーの初めての劇/1911年」「バーバラ少佐/1905年」「人と超人/1903年」「ブラスバウンド船長の改宗/1899年」「シーザーとクレオパトラ/1898年」「悪魔の弟子/1897年」「分からぬものですよ/1897年」「運命の人/1895年」「キャンディダ/1895年」「武器と人/1894年」「ウォレン夫人の職業/1893年」などがある。


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2020年03月13日

現代詩人としての清岡卓行さん

現代詩文庫シリーズが思潮社より刊行されていた。清岡卓行さんの詩集は比較的に巻数がわかかったので読んでる。『アカシアの大連』を記す以前は、シュールリアリズムに触発された前衛詩を描いていた。『氷った焔』という長編詩が印象的であった。


『氷った焔』清岡卓行


 1

きみの肉体の線のなかの透明な空間

世界への逆襲にかんする

最も遠い

微風とのたたかい


 2

きみはすでに落下地点で眼覚めている

きみはすでに絶望している


 3

きみの物語にはいない きみである動物の

不眠の 瞳が

きみの悔恨を知らない きみである液体の

滑走する皮膚と

そのための 幻覚の虹が

絶えず出発してしる現在の合図に

どうしてただちに滅されるのか

−−きみはそれを見ない

きみの鋭く 優しい 爪の動機であるうちに

きみの姿勢 きみの呼吸のなかから

死灰が層をなしている地球の表皮から

それらはどのようにして飛び去るのか

−−きみはきみの絶望を信じていることを知らない


 4

きみの意識がきみに確かめられるのはそれからだ

すると逆流する洪水のなかで化粧するきみがいる


 5

生活への扉 ときみが信じる時刻に

きみは見る

遮断された未来の壁に

モこに嵌め込まれたバック・ミラーに


でこぼこの飛行場のうえの

果物にとりかこまれた

昆虫の視線を怖れない

おお ふしぎに美しいきみの骸骨


 6

きみの記憶の組合せは気まぐれだ このとき

過去を あるやりかたで

記録することにしかきみの自由がないかのように


 7

倒れようとするビルディングに凭れて聴いた

地底からの音楽の

鉄条網にひっかかった

夢みる熱帯魚の

砂浜のなかに埋れて行く

水平線への投身の

力学的な矩形を弛緩させ燃えあがらせる

長く冷たい凝視の

そして いつも愛情で支払われたきみの

幼く成熟した肉体の

それらの ちぐはぐな思い出

おびただしい初演のなかのきみの仮死


 8

起点も終点もない あやしげな

地球の円周のうえを

モれでも交錯する探照灯の脚光を

ときおり浴びながら

きみのハイ・ヒールだけが斜めに歩く

きみに背負わされたものは きみの肉体

きみを隠匿する その親しい他人

きみの企む復讐の実験の

重すぎる予感


 9

きみの白い皮膚に張りめぐらされたそこびかりする銃眼

すでに氷りついた肉の焔たちの触れあう響き

弾丸も煙幕もない武装の脆計

きみだけが証人である

みじめな勝利


きみはまだきみが信じたきみだけの絶望に支えられている

きみが病患のなかに装填したものはほんとうは

もうひとつの肉体の影像

世界への愛

希望だ


10

どこから世界を覗こうと

見るとはかすかに愛することであり

病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり

絶望とは生活のしっぽであってあたまではない


きみの絶望が希望と手をつないで戻ってくることを

きみの記憶と地球の円周を決定的にえらぶことを

夜の眠りのまえにきみはまだ知らない

(現代詩文庫より)


岩阪恵子 1946年生れ、関西学院大学文学部卒業。1970年に師事していた清岡卓行と結婚上京。学生の時に出会った詩作との出会いがエッセイ書かれている。


◇     ◇      ◇     ◇


 ひとつの詩が私の存在の根にまで深く届いてきたのだ。詩句のいくつかが呪文のように繰り返し胸に囁かれ続けた。清岡卓行の「大学の庭で」ある。詩は現実認識において容赦ない厳しさをはらむながら、読み手を拒否するのではなく、むしろ包みこむように温かい音声で語られていた。


きみは選んだのだ

内側から ひそかに

きみ自身を


生を一方的に押しつけられたものと受けとめていた私にとって、だれもいない、私が私を選んだという認識はまったく初めてのことであったから、胸がふるえるほどの新鮮さを覚えた。そしてその選択を促したものが、自分をはるかに遡る生命の源にあるという指摘にはなにかまぶしい気さえした。


そして 生きるとは

屈することなく選びつづけること。

死ぬことをも含めて。


 という詩句には、どれだけ支えられたことだろう。むろん詩人は自殺を肯定しているのではない。死への願望は、同じ強さで生への願望でもあるのだと言っているからである。が、どれだけ私は、開放されたことだろう。

(岩阪恵子「きみは選んだのだ/きみ自身を」より)

◇     ◇      ◇     ◇


清岡卓行 1922年大連で生まれる。東大仏文卒。詩集に「氷った焔」(1959年)「日常」(1962年)「四季のスケッチ」(1966年)清岡卓行詩集(1970年)「ひとつの愛」(1970年)。評論集に「手の変幻」(1966年)「抒情の前線」(1970年)。

小説に「アカシアの大連」(1970年)「フルートとオーボエ」(1971年)「海の瞳」(1971年)など。


今回詩作を読み直して、清岡卓行さんの『四季のスケッチ』ような作風も現在では必要あるのではないかと、絵画、音楽、演劇など他のジャンルに向かって思うことだった。入手が難しい書物となっているけれど、探せば手にできる詩集もあるので再版を望みつつ紹介させていただきました。

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清岡卓行「思惟の指」とアカシア

清岡卓行「思惟の指」

 きみに欠けているもの それは 

 荒々しい野性の力 

 時として 世界をくつがえす 

 抑えがたい粗暴な正義 

 そのことか 不意に 

 愛撫への疼きに似た やるせない 

 きみへの憧れを誘うのだ 

詩集『四季のスケッチ』清岡卓行より


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広隆寺の半跏思惟像仏像の指について、詠んだ短歌だろうか。粗暴なものから遠ざかる思惟仏像のしなやかさ。

芥川賞となった清岡卓行『アカシアの大連』は、煌びやかな満洲時代を過ごした体験から情緒性のある作風だった。詩人の作者ととっては初めての小説で、しなやかな詩の印象と共通する散文となっている。もののあわれ、みやび、はかなさ。「思惟の指」に触れて後もう一度読み直すと、更に叙情ビジョンが深まるかも知れない。


人間の肉体が

かくも浄らかがありうるのか?

ああ

きみに肉体があるとはふしぎだ

『アカシアの大連』より


清岡卓行 1922年大連生まれ。帰省先の大連で敗戦、引き揚げ。51年東大仏文科卒業。プロ野球セ・リーグ事務局で13年間試合日程編成。法政大学教授。かたわら清新な詩や小説を発表。2006年6月、逝去。著作:詩集=『円き広場』(1988年、芸術選奨文部大臣賞)など多数。小説・随筆など=『アカシヤの大連』(1970年、芥川賞)、『藝術的な握手』(1978年、読売文学賞)、『マロニエの花が言った』(1999年、野間文芸賞)など多数。

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2020年03月07日

『〈ホームズ〉から〈シャーロック〉へ』マティアス・ボーストレム

――偶像を作り出した人々のドイルによるその創造から、世界的大ヒット、無数の二次創作、「シャーロッキアン」の誕生とその活動、遺族と映画/ドラマ製作者らの攻防、そしてBBC『SHERLOCK』に至るまで―― 140年に及ぶ発展と受容のすべてがわかる、初めての一冊。 ミステリマニア必携の書! 


受賞! 

スウェーデン犯罪小説作家アカデミーベスト・ノンフィクション賞/ドイツ・シャーロック・ホームズ協会青いカーバンクル賞/アガサ賞ベスト・ノンフィクション賞/ロンドン・シャーロック・ホームズ協会トニー&フリーダ・ハウレット文学賞 


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(…)これは「シャーロック・ホームズ」というキャラクターの創造と発展と受容を本格的に総合し俯瞰した、世界で初めての研究書なのだ。 

コナン・ドイルの伝記は、彼が亡くなった一九三〇年で終わる。しかし本書では、ドイルの遺族たちがその後「シャーロック・ホームズ」に振り回される姿が、辛辣に描き出されている。また映画の研究書ではあまり描かれることがない、クランクインに至るまでの関係者の駆け引きや苦悩、さらに作られずに終わってしまった顚末までが語られる。 

そして今まで日本ではほとんど知られることがなかったのが、「シャーロッキアン」がどのようにして生まれ育っていったのかということだ。(…)本書のおかげで、英米のシャーロッキアンたちがどのようにして「シャーロック・ホームズ」を受容し育てていったのか、そしてどのような騒動に巻き込まれ、道を阻まれようとしてきたのかが、わかるようになったのである。(平山雄一「監訳者あとがき」より) 


内容

ドイルによるその創造から、世界的大ヒット、無数の二次創作、「シャーロッキアン」の誕生とその活動、遺族と映画/ドラマ製作者らの攻防、そしてBBC『SHERLOCK』に至るまで―140年に及ぶ発展と受容のすべてがわかる、初めての一冊。


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著者について

マティアス・ボーストレム(Mattias Boström) 

1971年、スウェーデン生まれ。作家、編集者、シャーロック・ホームズ研究家。ベイカー・ストリート・イレギュラーズに所属するシャーロキアンとして、30年にわたり精力的にホームズに関する執筆活動と、書籍、冊子の編集に従事している。本書のスウェーデン語版Från Holmes till Sherlock は、スウェーデン犯罪小説作家アカデミーのベスト・ノンフィクション賞を受賞した。また、英語版はアガサ賞ベスト・ノンフィクション賞を受賞し、エドガー賞候補にもあげられた。ストックホルム市郊外に妻とふたりの娘と暮らす。 


平山雄一(ひらやま・ゆういち) 

1963年、東京都生まれ。東京医科歯科大学大学院歯学研究科卒業、歯学博士。日本推理作家協会、『新青年』研究会、日本シャーロック・ホームズ・クラブ、ベイカー・ストリート・イレギュラーズ会員。著書に『明智小五郎回顧談』(ホーム社)、『江戸川乱歩小説キーワード辞典』(東京書籍)など、訳書に、ジャック・フットレル『思考機械【完全版】』(全二巻)、バロネス・オルツィ『隅の老人【完全版】』(以上作品社)、ファーガス・ヒューム『質屋探偵ヘイガー・スタンリーの事件簿』(国書刊行会)など。 


ないとうふみこ 

上智大学英語学科卒業。翻訳家。訳書に、アンドルー・ラング『夢と幽霊の書』(作品社)など。子どものころからの野球ファンでもあり、フィル・ペペ『コア・フォー──ニューヨーク・ヤンキース黄金時代、伝説の四人』(作品社)の訳書もある。 


中村久里子(なかむら・くりこ) 

立教大学文学部心理学科卒業。翻訳家。訳書に、ヨナス・ヨナソン『世界を救う100 歳老人』、『国を救った数学少女』、スザンヌ・ジョインソン『カシュガルの道』(以上西村書店)など。 


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