2022年07月23日

FMシアター「もしもきみなら」

FMシアター「もしもきみなら」

[NHKFM] 20220723 午後10:00 ~ 午後10:50 (50)


【作】中神謙一【演出】小島史敬

【出演】寺脇康文,木全晶子,細田龍之介,徳田尚美,酒井善史,田中孝史

【音楽】小林洋平

https://www.nhk.jp/p/rs/M65G6QLKMY/

(大阪放送局制作)


FMシアター「もしもきみなら」

【あらすじ】

仕事はできるが自信過剰でプライドの高い田中光治は社長ともめ、自分なら再就職もすぐに見つかると思い、会社を辞めてしまう。ところが職探しは難航。


そんなある日、妻の美也子が知り合いのカフェの手伝いという話を持ってくる。渋々引き受けた光治だったが、そこはただのカフェではなく、保護犬がいるカフェだった。馴れない仕事に戸惑う中、浪人中の息子・信也は突然、予備校を辞めると言い出す始末。信也とうまくコミュニケーションをとれず、さらに言葉の通じない犬相手に悪戦苦闘する光治だが


保護犬たちに息子の姿、さらには自分自身の姿を投影する光治は、今までの自分の生き方を見つめなおし、前向きに生き直そうとする。そんな光治と家族との再生物語。

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2022年06月11日

『死に急ぐ鯨たち』

国家の外に立つことが誰にとっても不可能なら、抑止力としての核を生きるしかないことになる。だから現代の破滅願望は、反体制として機能するよりも、はるかに国家主義、もしくは民族主義的方向に組織されやすい性格を持っているんだ。けっきょく真の核廃絶は国家の廃絶以外にありえないような気がする。あまり希望は持てないね。兵士への道のほうが、国家の廃絶よりはずっと理解しやすいプログラムだからな。

『死に急ぐ鯨たち』安部公房より

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2022年05月16日

ヘミングウェイ『二つの心臓の大きな川』

ヘミングウェイ初期の「二つの心臓の大きな川」原題はBig Two-Hearted Riverbig heartedには、「寛大な」とか「心の広い」という意味がある。Two-Hearted Riverはミシガン州に存在する川である。描写スケッチとして小説は書かれている。究極の野外キャンプと料理を堪能する贅沢な作品となっている。


松の群落の中に、下生えはなかった。松の幹はまっすぐ上に伸びるか、互いに寄り添うように傾斜していた。幹は一直線に伸びて茶色く、枝はなかった。枝はかなり上方に生えていた。それが隙間なく交錯しているところでは、下の茶色い森の地床に濃い影が落ちていた。森の周縁には、何も生えていない箇所もあった。褐色の柔らかいその地面を、ニックは踏みしめた。そこは松葉が降りつもっている地面で、高い枝の連なりのもっと外側にまでひろがっていた。松の木々が高く伸び、枝も高い位置に移った結果、かつてその影で覆われていた地面が裸のまま日なたに残されたのだ。この森の広がりがとぎれる、まさにその境い目から、ニオイシダの群落がはじまっていた。

(ヘミングウェイ著 高見浩訳 『二つの心臓の大きな川』)


ヨダレが出そうなグルメのスケッチが、無駄なく描かれている。実際に食べたものをヘミングウェイのように書いていくのは困難なことだとは文章を写しても感じること。


 松の切株を斧で割って何本か薪をこしらえると、彼はそれで火をたいた。その火の上にグリルを据え、四本の脚をブーツで踏んで地中にめりこませる。それから、炎の揺れるグリルにフライパンをのせた。腹がますますへってきた。豆とスパゲッティが温まってきた。そいつをスプーンでよくかきまぜた。泡が立ってきた。いくつもの小さな泡が、じわじわと浮かびあがってくる。いい匂いがしてきた。トマト・ケチャップの壜をとりだし、パンを四枚切った。小さな泡がどんどん浮き上がってくる。焚き火のそばにすわり込んでフライパンをもちあげると、ニックは中身の半分をブリキの皿にあけた。それはゆっくりと皿に広がった。まだ熱すぎることはわかっている。その上にトマト・ケチャップをすこしかけた。豆とスパゲッティはまだ熱いはずだ。焚き火を見てから、テントを見た。舌を火傷したりして、せっかくの幸福な気分をぶち壊しにしたくない。これまでだって、揚げたバナナを賞味できたためしがないのは、冷めるのが待てないせいだった。彼の舌はとても敏感なのだ。それでも、腹がすごくへっている。真っ暗闇に近い対岸の湿地に、靄がたちこめているのが見えた。もう一度テントを見た。もういいだろう。皿からスプーンいっぱいにしゃくって、口に運んだ。「やったぁ」ニックは言った。「こいつはすげえや」思わず歓声をあげた。

(ヘミングウェイ著 高見浩訳 『二つの心臓の大きな川』)


 彼は流れの中に踏み込んだ。ぞくっとした。ズボンが脚にへばりつく。靴底の下に砂利が感じられた。ぞくっとする水の冷たさが、足元から背筋に這いあげってくる。

 打ち寄せる川の流れが両脚をとらえた。踏み込んだ地点の水深は、膝上まであった。彼は流れにしたがって移動した。靴の下で小石がすべる。両脚の前で渦巻く水を見下ろしてから、バッタを一匹とりだそうと壜を傾けた。

 最初のバッタは壜の口で飛びはね、水中に落下した。と思うと、ニックの右の足元の渦に吸い込まれて、すこし下流の水面に浮かびあがった。肢で水を蹴りながら、みるみる流されてゆく。なめらかな水面に生じた早い渦の中に、そいつは消えた。鱒に食われたのだ。

 二匹目のバッタが壜から顔をだした。触覚が揺れている。前肢を壜の外にだして、いましも飛びあがろうとしている。ニックはそいつの頭をつかみ、体を押えながら細い針を顎の下に突き刺して、胸部から腹部の最後の結合部まで刺し通した。バッタは前肢で針をつかむと、タバコ汁のような茶色い液体を吐きだした。ニックはそいつを水中に放りだした。

(ヘミングウェイ著 高見浩訳 『二つの心臓の大きな川』)


小石の川底の色を映している澄んだ茶色の川面をニックは見下ろして、ひれをふるわせながら流れの中に静止している鱒に目を凝らした。見ているうちに、彼らはさっと鋭く向きを変え、早い流れの中で再び静止した。ニックは長いあいだ彼らに見入っていた。

 流れに向かって鼻を突きだしている彼らを、ニックは見つめた。ガラスのようになめらかな凸面上の淵の水面を透かして底のほうに目を凝らすと、速い流れの中にたくさんの鱒がいる。彼らはすこし歪んで見えた。淵の水面は、流れに逆らって立つ丸太の橋桁に寄せてはゆったりと膨らんでいた。淵の底には何匹もの大きな鱒がいた。最初、ニックは彼らに気づかなかった。そのうち、水流にかきたてられて移ろう砂や砂利の霧を透かして、砂利の底にじっと静止している大きな鱒の群れが見えてきたのだった。

(ヘミングウェイ著 高見浩訳 『二つの心臓の大きな川』)


この短編は特殊なことがなされてい、暗示先を一切提示せずに終わりを告げる。「鱒の姿を目撃する→ 鱒を釣る → 鱒を殺して捌く」という鱒に関することだけが描写されて幕を閉じるだった。これらは暗喩という技法を駆使している。暗喩には二つの物が必要で、暗喩するものと暗喩されること。ヘミングウェイは後者を完全に隠して、特異な変形を実行した。純然たるメタファーの力だけを保持されて、永遠に終結しない力の作用となった。


題名『二つの心臓の大きな川』は川の名前に合わせて小説もPART1とPART2にわけている。心に傷をおったニックがTwo-Hearted River(二つの心臓の川)、一つ心臓が死んでももう一つ心臓をもっている川があり、生命力あふれる川に癒される、蘇りの物語となっている。ヘミングウェイが戦争と失恋体験から、心が壊れた状況であるのが限りなく省略されてるのが作品を高めている。


「道はどこまでも上り坂になっている。坂道を登って行くのはきつかった。筋肉が痛み、 暑さもこたえた。それでもニックは楽しかった。今は何もかも置き去りにしてきたような気分だった。 考える必要も、書く必要も、どんな必要もない。それはみんな置き去りにしてしまった。」


ヘミングウェイ1899年生まれ。
1954
年ノーベル文学賞受賞。
1961
年7月死亡(61才)

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2022年05月12日

氷山へ. J・M・G・ル・クレジオ(著) 中村隆之(訳) 今福龍太(解説)

氷山へ. JMG・ル・クレジオ(著) 中村隆之(訳) 今福龍太(解説) 


「生命の始まりから最期の瞬間まで、ぼくたちは神々の通り道にいる」ル・クレジオ

アンリ・ミショーの「氷山」「イニジ」に刺激されて生み出されたル・クレジオの「氷山へ」「イニジ」という散文詩が収録。

 

「言語、美、そのうちで、もう行動を起こすことはできない。動詞や名詞になったのはぼくたちなのだ。」(「氷山へ」)


〈氷山〉よ、手すりもなく、ベルトもなく、仕留められた老いた海鵜の群れと死んだばかりの水夫たちの魂が眩惑的な夜々に肘をつきに来るその場所よ。


〈氷山〉よ、〈氷山〉よ、永遠の冬の宗教なきカテドラル、惑星地球の氷帽に包まれて。

冷気が生み出したお前の淵はどれほど高く、どれほど純粋であることか。


〈氷山〉よ、〈氷山〉よ、北大西洋の背、凝視されない海上に凍りつく貴い「仏陀」よ、出口なき「死」のきらめく「燈台」、幾世期と続く沈黙の狂おしい叫びよ。


「氷山」よ、「氷山」よ、欲求なき「隠者」、閉じこめられた、はるか彼方の、毒虫のいない国々。島々の親族、泉の親族、わたしはなんという思いであなたを見ることか、あなたはわたしにとって なんと親しげに見えることか……

〔アンリ・ミショー「氷山」1934


「しかし、もうひとつの言語、生まれる以前からひとが話してきた言語がある。何にも役立たない、人間と人間との交易・交流の言語ではない、太古の言語。だれかを籠絡したり、隷属させたりするための、誘惑の言語ではない。さまざまな語が生じたのは、まさにこの言語からなのだ。(中略)これらは生とともに、生から切り離されることなく、存在してきた。これらはダンスであり、泳ぎであり、飛翔であった。これらは運動を属性としていた。/これらのことばは見失われてしまった。/その後、今日、見出された。いや、これらのことばだ、ぼくを見出し、思い出すように強いているのは。」(「イニジ」)


1978615日日付の無題の序文「「イニジ」、「氷山」、これらはフランス語が生み出したもっとも美しく、もっとも純粋で、もっとも真実な詩のうちでも究極の二篇(二十年の隔たり)だ。詩がこの力、この本能、宇宙における生命の諸元素と結びついたこの行為であるとき、文体上の工夫、技法上の達成や隠された意味などといったことはどうでもいい。ぼくはアンリ・ミショーの詩を旅するように読みたい」(12頁)ル・クレジオ


「コンパスと無線方位計は狂うが、大したことはない、ぼくたち自身が狂っているのだ。」


ル・クレジオ,J.M.G.[ルクレジオ,J.M.G.] [Le Cl´ezio,JeanMarie Gustave]

1940年、南仏ニースに生まれる。小説家。1963年のデビュー作『調書』でルノドー賞を受賞。2008年にノーベル文学賞を受賞


中村隆之[ナカムラタカユキ] 

1975年、東京都に生まれる。東京外国語大学大学院博士課程修了。現在、大東文化大学専任講師。専攻、フランス語圏カリブ海文学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-2671.html?sp



平凡社が刊行した、2007年に東京国立近代美術館で開かれた『アンリ・ミショー ひとのかたち』の図録。

59点の絵を掲載するところどころに詩人/小説家でもあった本人の文が挿まれており、詩画集とも言える体裁になっている。併録された瀧口修造のエッセイ「アンリ・ミショー、詩人への近づき」、中林和雄の論文「アンリ・ミショー ひとのかたち」も、アンリ・ミショーの作品への優れた手引きとなっている。特に、後者の文章はミショーの画業を時系列順に追い、作品や作家の人となりを綿密に探求する、すばらしいものに思えた。


肝心の作品は『ひとのかたち』という題名の示す通り、様々な人の似姿が立ち上がるものを多く含む。静止する人の顔や立ち姿もあるが、大部分は運動しているそれらの様子である。単なる人に見えないものも少なからずあって、妖怪のようであったり、象形文字のようであったり、虫のようであったりするが、そのほとんどが原始的で妙に親しみやすい。例外的に、薬物を摂取して描いた作品を含めた数点からは多少の圧迫と恐怖を覚える。

ミショーの用いる画材は鉛筆、水彩、油彩、墨、グワッシュなど、多種にわたる。画材に応じ、彼の作品は微妙に変化する。そして、どれも良い作品になっていると思う。それぞれの画材の特性を活かす能力が高いからだろう。その能力は彼の才によるところもあるだろうが、以下の文章に要約される彼の姿勢によるところが大きいのではないだろうか。「わたしはもはや闘わない わたしはアマルガムになる 無限は一つの領域だ そこへ向かって進む」。つまり、積極的にものごとを受容し、そのものの力を最大限に引き出そうとする姿勢。味わい深い、凝った装丁も相まって、大切にしたくなる一冊だ。

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2022年04月26日

『世界からバナナがなくなるまえに: 食料危機に立ち向かう科学者たち』ロブ・ダン(青土社)

『世界からバナナがなくなるまえに: 食料危機に立ち向かう科学者たち』ロブ・ダン(青土社)

米、小麦、砂糖、トウモロコシ、豆、ジャガイモ、ヤシ油…
わたしたちは、たった12種類の作物で生きている。

人間が生きるうえで欠かすことのできない主食作物が、同時多発的な病原菌や害虫の猛威に襲われたとき、わたしたちの食卓はどうなってしまうのか。大規模なアグリビジネスがもたらした悲劇、作物破壊の危機に立ち向かう科学者の軌跡をたどりながら、いまわたしたちにできることは何か、考える。

【目次】
第1章 バナナを救え! 
第2章 アイルランドのじゃがいも飢饉
第3章 病原体のパーフェクトストーム
第4章 つかの間の逃避
第5章 敵の敵は味方
第6章 チョコレートテロ
第7章 チョコレート生態系のメルトダウン
第8章 種子の採掘
第9章 包囲戦
第10章 緑の革命
第11章 ヘンリー・フォードのジャングル
第12章 野生はなぜ必要なのか
第13章 赤の女王と果てしないレース
第14章 ファウラーの箱舟
第15章 穀物、銃、砂漠化
第16章 洪水に備える
エピローグ――私たちは何をなすべきか

[著者]ロブ・ダン(Rob Dunn)
ノースカロライナ州立大学教授。コネティカット大学で博士号取得。専門はエコロジーと進化論。著書に『わたしたちの体は寄生虫を欲している』(飛鳥新社)や『アリの背中に乗った甲虫を探して――未知の生物に憑かれた科学者たち』(ウェッジ)、『心臓の科学史』(青土社)など。

[訳者] 高橋 洋(たかはし ひろし)
1960年生まれ。同志社大学文学部文化学科卒(哲学及び倫理学専攻)。IT企業勤務を経て翻訳家。S・B・キャロル『セレンゲティ・ルール』、N・ドイジ『脳はいかに治癒をもたらすか』(以上、紀伊國屋書店)、R・クルツバン『だれもが偽善者になる本当の理由』(柏書房)、G・ノルトフ『脳はいかに意識をつくるのか』(白揚社)、M・ベコフ『動物たちの心の科学』、ロブ・ダン『心臓の科学史』(以上、青土社)など科学系の翻訳書多数。
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2022年04月24日

「生命いのちは」吉野弘

「生命は」吉野弘

 

 生命は

 自分自身だけでは完結できないように

 つくられているらしい

 花も

 めしべとおしべが揃っているだけでは

 不充分で

 虫や風が訪れて

 めしべとおしべを仲立ちする

 生命は

 その中に欠如を抱いだき

 それを他者から満たしてもらうのだ

 

世界は多分

他者の総和

しかし互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず

知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに

うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように

世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

 

花が咲いている

すぐ近くまで

虻あぶの姿をした他者が

光をまとって飛んできている

 

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

 

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

                      詩集『風が吹くと』1977



「人間は本質的に自己中心に生きるものであって、他者についても本来は無関心なのであり、他者をうとましく思うことが普通。にもかかわらず、他者によって自分の欠如を埋めてもらっている」

「単になつかしいのではなく、うとましくもある他者。同時にうとましいだけでなく、なつかしくもある他者」

(吉野弘『現代詩入門』)

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2022年04月19日

「ソーンダイク博士」序文 リチャード・オースチン・フリーマン 

「ソーンダイク博士」序文
リチャード・オースチン・フリーマン Richard Austin Freeman

妹尾韶夫訳


 私はこの作品集のなかの作品を、「倒叙小説」と「直接小説」の二つに分けたが、この分類のしかたについては、一口いっとかなければならない。
 もともと、推理小説というものは、興味の中心が知的であるという点で、ほかのいっさいの小説とちがうのである。むろん、推理小説のなかにも、感情だとか、劇的な行動だとか、ユーモアだとか、哀感だとか、恋愛だとかの要素はふくまれているだろうが、推理小説ではそんなものはアクセサリー的存在にすぎないので、よしんば、そんなものをかなぐりすてたとしても、本質的興味は、すこしも損そこなわれないのである。
 では、推理小説で必要欠くべからざるものは、いったいなんであるかといえば、それは謎とその解決であって、それが賢明な読者に、知的体操とでもいうべき快感を味わわせるのである。
 だが、その快感を味わわせるためには、推理小説はつぎの三つの条件をそなえていなければならぬ。
(一) その謎は、当らずといえども遠からずという程度に、読者にもすこしは解決できるように提出されなければならない。
(二) 探偵の口をかりて説明する作者の解決は、誰にでもうなずける、完全で、決定的なものでなければならぬ。
(三) 推理の材料を読者にかくしてはならない。解決を説明するまえに、あらゆる持札を、全部正直にテーブルのうえに並べなければならない。
 この三つの条件、わけても(三)の条件をつくづく考えているうち、私は数年前面白い疑問をおこした。それは、「歌う白骨」の序文にもかいたが、最初から読者が作者とおなじ程度のことを知り、じっさいに作者といっしょに犯罪を見、読者が推理に必要な、あらゆる材料を知っているというような推理小説が、ほんとにかけるものだろうか? 読者がすべてを知ってしまったら、もう話すことは、なくなるのではないだろうか? 私はこの疑問にたいして、いや、話すことはなくならないと考えた。そして、その信念を試験するためにかいたのが、「オスカー・ブロズキー事件」なのである。ごらんのとおり、この作では話の順序が逆になっている。読者は、すべてをしっているが、作中にあらわれる探偵は、なんにもしらないのである。そして、読者の興味は、なんでもない、ささいな事柄にふくまれた、意外な意味に集中される。
 そして、この作は、ピアスン誌の編集者はいうにおよばず、大西洋の東と西の批評家から高く評価された。それで、私はそうした倒叙小説をその後もしばしばかいた。この作品集には、そんな倒叙小説も加えておいた。こんな型の話を愛する読者は、こんなに犯罪編と推理編とを、順序をかえてとりあつかっても、話全体の知的興味をそこなわないばかりか、かえってそれが増すものだということを認めてくれることと思う。前半の犯罪編を読んだあとですぐ後半の推理編にうつらず、自分の知っている事柄の、証拠としての価値を考えてみたあとで後半にうつればなおさらである。
グレーヴセンドにて
フリーマン


「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社1957年1月10日初版より
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折々のことば

 老いることは、自分の付き合っている他人が死ぬことなんです。他人の死を見送ることです。(鶴見俊輔)

大切な人、親しい誰かの死は、私がその人を亡くすこと、いいかえると私が自分の一部を失うこと、つまりはその人に私が死なれるということでもある。そのかぎりで自分がずっとかかわってきた人の死は、日付けのある一度かぎりの出来事なのではなくて、喪失という生の体験である。だから後をひく。哲学者の『神話的時間』から。2022.4.16

〈折々のことば〉哲学者・鷲田清一

涯(はて)は 涯ない
大岡信
   
夢でもし逢えたなら 素敵なことね
大瀧詠一

日本人は寡栄養に強く、過栄養 に弱い。
肝臓の専門医
  
見えてはいるが、誰も見ていな いものを見えるようにするのが、 詩だ。
長田弘
   
子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか それは いつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ
ルソー
  
いっそ「記録」は過去ではなく、 未来に属していると考えたらど うだろう。
畠山直哉

聴くとは、動けなくなることだ。 濱口竜介

白だ黒だとけんかはおよし 白 という字も墨で書く
昔の都々逸

心からわかりあえないんだよ、 すぐには 心からわかりあえないんだよ、 初めからは
平田オリザ

折々のことば100編
哲学者・鷲田清一

忘れられないのは、全く私と同じ目線で対等に話してくれたことなんです。(鶴見俊輔)

 哲学者は15歳の「不良少年」だった頃、ずっと年上の女性(のちの精神科医・神谷美恵子)に普通の大人に対するように話しかけられた。年齢差も上下関係も意識になく、だから近所の「ぼうや」に対するようにでは
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2022年04月16日

『大岡信「折々の歌」選ー詩と歌謡』​蜂飼 耳(岩波新書)

恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす 山家鳥中歌 


『山家鳥虫歌』は江戸中期十八世紀後半に引用された歌謡集。諸国の盆踊唄を主体に編まれているが、現代人にも見慣れたものがある。たとえば上巻冒頭の歌は「めでためでたの若松様よ 枝も栄える葉も繁る」である。集の大半は農民の暮らしを背景とする恋の歌だが、人目を忍ぶ恋の辛さを主題とする歌が多い。この歌もその一つ。現代の演歌に至るまで、この主題は日本の歌謡の一大動脈をなしていることがわかる(P.58


​​​​​​​『大岡信「折々の歌」選ー詩と歌謡』蜂飼 耳(岩波新書)より


蜂飼耳さんの解説「俗なものと退けられること 久しかった歌謡。『折々のうた』の魅力は、そうした名もなき作者の流行歌と、文学史上に名を残す作者の詩歌と隣り合わせ、連綿とつらねる面白みにあり。 その連なりが大岡信の 詩でもあった。『うたげ』に合す意志と『孤心』に還る意志と、二つの意志のせめぎ合いから 生まれる豊饒ななる詩歌の世界。」 


恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす 〜山家鳥虫歌」 


君は行く昏く明るき大空のだんだらの 薄明りこもれる二月 〜村山槐多 


自分の感受性くらい 自分で守れよ ばかものよ 〜茨木のり子 

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2022年04月15日

『四捨五入殺人事件』井上ひさし

『週刊新潮』1975718日号から919日号に連載。『吉里吉里人』の頃に発表された作品で、東北地方の架空の温泉地が舞台、物語は推理小説のクローズド・サークルに分類される。


【あらすじ】

舞台は東北のとある町、成郷市鬼哭温泉・高屋旅館。前には鬼哭川が流れている。そこへ一台の車が近づいてくる。外は天の底が抜けたような、土砂降りの雨。乗っているのは、後部座席に二人の作家、大作家の石上克二と新鋭作家の藤川武臣、市の観光課長の岡田。二人の作家は講演を依頼されてこの土地にやってきた。

車のなかで二人の作家は、鬼哭川の由来を聞く。ここは昔、年貢の取立てに困った百姓が「隠田」として開拓した土地であるという。「隠田」の主唱者は川に水漬の拷問にあった。それ以来この川は「鬼哭川」といわれた。高屋旅館はトイレは汲取式、シャワーもないテレビもない。宿に着いたその日、そこへこの雨で鬼哭橋が流されたという知らせが入る。高屋旅館は陸の孤島となった。


藤川が風呂に入っていると、咽喉裂き魔に掻っ切られたような悲鳴に似た音がきこえて、蝙蝠が乱舞する。(笑)

そして『四捨五入』と農業問題へと、大作家は問い詰められるのだった。


ミステリー要素をパロディのセンスで、満載させたアイデアは、お笑い痙攣ドラマチックで面白いですね。笑いと恐怖は紙一重の密室空間劇。


青春アドベンチャー『四捨五入殺人事件』井上ひさし作ラジオドラマ放送中

〈聴き逃し配信あるそうです〉

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2022年04月09日

ロッキング・オン5月号・総力特集 RED HOT CHILI PEPPERS

ジョン・フルシアンテが戻り、リック・ルービンと再び組んだ最強のニューアルバム、『アンリミテッド・ラヴ』リリース! 
最新インタビュー、新作レビュー、そして40年の歩みを振り返るコラムで稀代のロックバンドが踏み出す新たな一歩を祝福する全24 ページ
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ロック復活の2022年
時代にリセットされたロックが、今、再び新たに動き始める
沈黙を破り動き始めたベテラン勢、そして「初期衝動」の表現装置としてロックを選んだZ世代。それぞれにフォーカスした2本のコラムで2022年のロックシーンを徹底予想!

JACK WHITE
ロック大復活の2022年、ジャック・ホワイトは再び金字塔を打ち立てるか?! ソロ連作の第1弾『フィアー・オブ・ザ・ドーン』と現在の充実モード、そのすべてを訊いた

GUNS N' ROSES
LAのバッドボーイたちはなぜ世界の頂点に君臨するロックバンドに変貌を遂げたのか? 究極の“ガンズ伝説”を解き明かす87年超貴重インタビュー発掘!

FUJI ROCK FESTIVAL '22
進もう、いつものフジロックへ
目指すは「特別なフジロック」から「いつものフジロック」へ。その舞台裏を追った大応援特集

THE ROLLING STONES
ストーンズ、最新の動向について語る! チャーリーの死を超えて、今年結成60周年を迎えるストーンズ。その信じられないロックスピリットに迫った決定的インタビュー!

追悼 松村雄策 1951-2022
松村雄策逝去。『ロッキング・オン』の創刊メンバーである氏の功績を振り返る

PAVEMENT
WET LEG
2020年代型インディガールの思考の源泉に徹底フォーカス!

REX ORANGE COUNTY
全英1位獲得! 世界を賛美するマジカルなポップミュージックを詰め込んだ『フー・ケアーズ?』を語る
スペイン:カタロニア発の歌姫、ロザリアの魅力を徹底解明

FEEDER
JON SPENCER & THE HITMAKERS
ジョンスペが再びバンドで始動『スペンサー・ゲッツ・イット・リット』インタビュー

ALBUM REVIEWS
ロザリア、ザ・リンダ・リンダズ、ウェット・レッグら若手アーティストが大豊作 
ジャック・ホワイト、ウィーザー新作も大充実。
[CHARACTER OF THE MONTH]
GLASTONBURY FESTIVAL

[HEADLINE]
JUSTIN BIEBER, AVRIL LAVIGNE, PAUL McCARTNEY, ARCADE FIRE, THOM YORKE, OLIVIA RODRIGO, TAYLOR HAWKINS, !!!, BELLE AND SEBASTIAN

ロッキング・オン5月号 4月7日(木)発売
定価836円(税込み920円)
〈レッチリのポスター付録〉
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2022年03月31日

「日記帳」江戸川乱歩

日記帳


江戸川乱歩




 ちょうど初七日の夜のことでした。私は死んだ弟の書斎に入って、何かと彼の書き残したものなどを取出しては、ひとり物思いにふけっていました。

 まだ、さして夜もふけていないのに、家中は涙にしめって、しんと鎮しずまり返っています。そこへ持って来て、何だか新派のお芝居めいていますけれど、遠くの方からは、物売りの呼声などが、さも悲しげな調子で響いて来るのです。私は長い間忘れていた、幼い、しみじみした気持になって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰くりひろげて見ました。

 この日記帳を見るにつけても、私は、恐らく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。

 内気者で、友達も少かった弟は、自然書斎に引こもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性質は十分うかがうことが出来ます。そこには、人生に対する疑いだとか、信仰に関する煩悶はんもんだとか、彼の年頃にはたれでもが経験するところの、いわゆる青春の悩みについて、幼稚ではありますけれど如何いかにも真摯しんしな文章が書きつづってあるのです。

 私は自分自身の過去の姿を眺めるような心持で、一枚一枚とペイジをはぐって行きました。それらのペイジには到るところに、そこに書かれた文章の奥から、あの弟の鳩のような臆病らしい目が、じっと私の方を見つめているのです。

 そうして、三月九日のところまで読んで行った時に、感慨に沈んでいた私が、思わず軽い叫声を発した程も、私の目をひいたものがありました。それは、純潔なその日記の文章の中に、始めてポッツリと、はなやかな女の名前が現われたのです。そして「発信欄」と印刷した場所に「北川雪枝(葉書)」と書かれた、その雪枝さんは、私もよく知っている、私達とは遠縁に当る家の、若い美しい娘だったのです。

 それでは弟は雪枝さんを恋していたのかも知れない。私はふとそんな気がしました。そこで私は、一種の淡い戦慄を覚えながら、なおもその先を、ひもといて見ましたけれど、私の意気込んだ予期に反して、日記の本文には、少しも雪枝さんは現われて来ないのでした。ただ、その翌日の受信欄に、「北川雪枝(葉書)」とあるのを始めに数日の間をおいては、受信欄と発信欄の双方に雪枝さんの名前が記されているばかりなのです。そして、それも発信の方は三月九日から五月二十一日まで、受信の方も同じ時分に始まって五月十七日まで、両方とも三月に足らぬ短い期間続いているだけで、それ以後には、弟の病状が進んで筆をとることも出来なくなった十月なかばに至るまで、その彼の絶筆ともいうべき最後のページにすら、一度も雪枝さんの名前は出ていないのでした。

 数えて見れば、彼の方からは八回、雪枝さんの方からは十回の文通があったに過ぎず、しかも彼のにも雪枝さんのにも、ことごとく「葉書」と記してあるのを見ると、それには他聞をはばかる様な種類の文言が記してあったとも考えられません。そして、また日記帳の全体の調子から察するのに、実際はそれ以上の事実があったのを、彼がわざと書かないでおいたものとも思われぬのです。

 私は安心とも失望ともつかぬ感じで、日記帳をとじました。そして、弟はやっぱり恋を知らずに死んだのかと、さびしい気持になったことでした。

 やがて、ふと目を上げて、机の上を見た私は、そこに、弟の遺愛の小型の手文庫のおかれているのに気づきました。彼が生前、一番大切な品々を納めておいたらしい、その高まき絵の古風な手文庫の中には、あるいはこの私のさびしい心持をいやして呉くれる何物かが隠されていはしないか。そんな好奇心から、私は何気なくその手文庫を開いて見ました。

 すると、その中には、このお話に関係のない様々の書類などが入れられてありましたが、その一番底の方から、ああ、やっぱりそうだったのか。如何にも大事そうに白紙に包んだ、十一枚の絵葉書が、雪枝さんからの絵葉書が出て来たのです。恋人から送られたものでなくて、たれがこんなに大事そうに手文庫の底へひめてなぞ置きましょう。

 私は、にわかに胸騒ぎを覚ながら、その十一枚の絵葉書を、次から次へと調べて行きました。ある感動の為に葉書を持った私の手は、不自然にふるえてさえいました。

 だが、どうしたことでしょう。それ等の葉書には、どの文面からも、あるいはまたその文面のどの行間からさえも、恋文らしい感じはいささかも発見することが出来ないのです。

 それでは、弟は、彼の臆病な気質から、心の中を打開けることさえようしないで、ただ恋しい人から送られた、何の意味もないこの数通の絵葉書を、お守りかなんぞの様に大切に保存して、可哀相にそれをせめてもの心やりにしていたのでしょうか。そして、とうとう、報いられぬ思いを抱いたままこの世を去ってしまったのでしょうか。

 私は雪枝さんからの絵葉書を前にして、それからそれへと、様々の思いにふけるのでした。しかし、これはどういう訳なのでしょう。やがて私は、その事に気づきました。弟の日記には雪枝さんからの受信は十回きりしか記されていないのに(それはさっき数えて見て覚ていました)今ここには十一通の絵葉書があるではありませんか。最後のは五月二十五日の日附になっています。確たしかその日の日記には、受信欄に雪枝さんの名前はなかった様です。そこで、私は再び日記帳をとり上げて、その五月二十五日の所を開いて見ないではいられませんでした。

 すると、私は大変な見落しをしていたことに気附きづきました。如何にもその日の受信欄は空白のまま残されていましたけれど、本文の中に、次の様な文句が書いてあったではありませんか。

「最後の通信に対してYより絵葉書来る。失望。おれはあんまり臆病すぎた。今になってはもう取返しがつかぬ。ああ」

 Yというのは雪枝さんのイニシアルに相違ありません。外に同じ頭字の知り人はないはずです。しかし、この文句は一体何を意味するのでしょう。日記によれば、彼は雪枝さんの処ところへ葉書を書いているばかりです。まさか葉書に恋文を認したためるはずもありません。では、この日記には記してない、封書を(それがいわゆる最後の通信かも知れません)送ったことでもあるのでしょうか。そして、それに対する返事として、この無意味な絵葉書が返って来たとでもいうのでしょうか。なる程、以来彼からも雪枝さんからも交通を絶っているのを見ると、そうの様にも考えられます。

 でも、それにしては、この雪枝さんからの最後の葉書の文面は、たとい拒絶の意味を含ませたものとしても、余りに変です。なぜといって、そこには、(もうその時分から弟は病の床についていたのです)病気見舞の文句が、美しい手蹟で書かれているだけなのですから。そして、またこんなにこくめいに発信受信を記していた弟が、八通の葉書の外に封書を送ったものとすれば、それを記していないはずはありません。では、この失望うんぬんの文句は一体何を意味するものでしょうか。そんな風に色々考えて見ますと、そこには、どうも辻つじつまの合ぬ所が、表面に現われている事実だけでは解釈の出来ない秘密が、ある様に思われます。

 これは、亡弟が残して行った一つのなぞとして、そっとそのままにしておくべき事柄だったかも知れません。しかし、何の因果か私には、少しでも疑わしい事実にぶっつかると、まるで探偵が犯罪のあとを調べ廻る様に、あくまでその真相をつきとめないではいられない性質がありました。しかも、この場合は、そのなぞが本人によっては永久に解かれる機会がないという事情があったばかりでなく、その事の実否は私自身の身の上にもある大きな関係を持っていたものですから、持前の探偵癖が一層の力強さを以て私をとらえたのです。

 私はもう、弟の死をいたむことなぞ忘れてしまったかの様に、そのなぞを解くのに夢中になりました。日記も繰返し読んで見ました。その他の弟の書かきものなぞも、残らず探し出して調べました。しかし、そこには、恋の記録らしいものは、何一つ発見することが出来ないのです。考えて見れば、弟は非常なはにかみ屋だった上に、この上もなく用心深いたちでしたから、いくら探したとて、そういうものが残っているはずもないのでした。

 でも、私は夜の更けるのも忘れて、このどう考えても解け相にないなぞを解くことに没頭していました。長い時間でした。

 やがて、種々様々な無駄な骨折りの末、ふと私は、弟の葉書を出した日附に不審を抱いだきました。日記の記録によれば、それは次の様な順序なのです。

三月……九日、十二日、十五日、二十二日、

四月……五日、二十五日、

五月……十五日、二十一日、

 この日附は、恋するものの心理に反してはいないでしょうか、たとえ恋文でなくとも、恋する人への文通が、あとになる程うとましくなっているのは、どうやら変ではありますまいか。これを雪枝さんからの葉書の日附と対照して見ますと、なお更その変なことが目立めだちます。

三月……十日、十三日、十七日、二十三日、

四月……六日、十四日、十八日、二十六日、

五月……三日、十七日、二十五日、

 これを見ると、雪枝さんは弟の葉書に対して(それらは皆何の意味もない文面ではありましたけれど)それぞれ返事を出している外に、四月の十四日、十八日、五月の三日と、少くともこの三回丈けは、彼女の方から積極的に文通しているのですが、若し弟が彼女を恋していたとすれば、何故この三回の文通に対して答えることを怠おこたっていたのでしょう。それは、あの日記帳の文句と考え合せて、余りに不自然ではないでしょうか。日記によれば、当時弟は旅行をしていたのでもなければ、あるいは又、筆もとれぬ程の病気をやっていた訳でもないのです。それからも一つは、雪枝さんの、無意味な文面だとはいえ、この頻繁ひんぱんな文通は、相手が若い男である丈けに、おかしく考えれば考えられぬこともありません。それが、双方ともいい合せた様に、五月二十五日以後はふっつりと文通しなくなっているのは、一体どうした訳なのでしょう。

 そう考えて、弟の葉書を出した日附を見ますと、そこに何か意味があり相に思われます。若しや彼は暗号の恋文を書いたのではないでしょうか。そして、この葉書の日附がその暗号文を形造っているのではありますまいか。これは、弟の秘密を好む性質だったことから推おして、満更あり得ないことではないのです。

 そこで、私は日附の数字が「いろは」か「アイウエオ」か「ABC」か、いずれかの文字の順序を示すものではないかと一々試みて見ました。幸か不幸か私は暗号解読についていくらか経験があったのです。

 すると、どうでしょう。三月の九日はアルファベットの第九番目のI、同じく十二日は第十二番目の、L、そういう風にあてはめて行きますと、この八つの日附は、なんと、I LOVE YOU と解くことが出来るではありませんか。ああ、何という子供らしい、同時に、世にも辛抱強い恋文だったのでしょう。彼はこの「私はあなたを愛する」というたった一言を伝える為に、たっぷり三ヶ月の日子にっしを費ついやしたのです。ほんとうにうその様な話しです。でも、弟の異様な性癖を熟知していた私には、これが偶然の符合だなどとは、どうにも考えられないのでした。

 か様に推察すれば一切が明白になります。「失望」という意味も分ります。彼が最後のUの字に当る葉書を出したのに対して、雪枝さんは相変らず無意味な絵葉書をむくいたのです。しかも、それはちょうど、弟が医者からあのいまわしい病を宣告せられた時分なのでした。可哀相な彼は、この二重の痛手に最早もはや再び恋文を書く気になれなかったのでしょう。そして、だれにも打開けなかった、当の恋人にさえ、打開けはしたけれど、その意志の通じなかった切ない思いを抱いて、死んで行ったのです。

 私はいい知れぬ暗い気持に襲われて、じっとそこに坐ったまま立上ろうともしませんでした。そして、前にあった雪枝さんからの絵葉書を、弟が手文庫の底深くひめていたそれらの絵葉書を、何の故ともなくボンヤリ見つめていました。

 すると、おお、これはまあ何という意外な事実でしょう。ろくでもない好奇心よ、のろわれてあれ。私はいっそ凡すべてを知らないでいた方が、どれ程よかったことか、この雪枝さんからの絵葉書の表には、綺麗な文字で弟の宛名が書かれたわきに、一つの例外もなく、切手がななめにはってあるではありませんか。態わざとでなければ出来ない様に、キチンと行儀よく、ななめにはってあるではありませんか。それは決して偶然の粗相そそうなぞではないのです。

 私はずっと以前、多分小学時代だったと思います。ある文学雑誌に切手のはり方によって秘密通信をする方法が書いてあったのを、もうその頃から好奇心の強い男だったと見えて、よく覚ていました。中にも、恋を現わすには切手をななめにはればよいという所は、実は一度応用して見た事がある程で、決して忘れません。この方法は当時の青年男女の人気に投じて、随分流行したものです。しかしそんな古い時代の流行を、今の若い女が知っていようはずはありませんが、ちょうど雪枝さんと弟との文通が行われた時分に、宇野浩二の「二人の青木愛三郎あおきあいざぶろう」という小説が出て、その中にこの方法がくわしく書いてあったのです。当時私達の間に話題になった程ですから、弟も雪枝さんも、それをよく知っていたはずです。

 では、弟はその方法を知っていながら、雪枝さんが三月も同じことを繰返して、遂には失望してしまうまでも、彼女の心持を悟ることが出来なかったのはどういう訳なのでしょう。その点は私にもわかりません。あるいは忘れてしまっていたのかも知れません。それともまた、切手のはり方などには気づかない程、のぼせ切きっていたのかも知れません。いずれにしても、「失望」などと書いているからは、彼がそれに気づいていなかったことは確たしかです。

 それにしても、今の世にかくも古風な恋があるものでしょうか。若し私の推察が誤らぬとすれば、彼等はお互に恋しあっていながら、その恋を訴えあってさえいながら、しかし双方とも少しも相手の心を知らずに、一人は痛手を負うたままこの世を去り、一人は悲しい失恋の思いを抱いて長い生がいを暮さねばならぬとは。

 それは余りにも臆病過ぎた恋でした。雪枝さんはうら若い女のことですからまだ無理のない点もありますけれど、弟の手段に至っては、臆病というよりはむしろ卑怯に近いものでした。さればといって、私はなき弟のやり方を少しだって責める気はありません。それどころか、私は、彼のこの一種異様な性癖を世にもいとしく思うのです。

 生れつき非常なはにかみ屋で、臆病者で、それでいてかなり自尊心の強かった彼は、恋する場合にも、先ず拒絶された時の恥かしさを想像したに相違ありません。それは、弟の様な気質の男にとっては、常人には到底考えも及ばぬ程ひどい苦痛なのです。彼の兄である私には、それがよく分ります。

 彼はこの拒絶の恥を予防する為にどれ程苦心したことでしょう。恋を打開けないではいられない。しかし、若し打開けてこばまれたら、その恥かしさ、気まずさ、それは相手がこの世に生きながらえている間、いつまでもいつまでも続くのです。何とかして、若し拒まれた場合には、あれは恋文ではなかったのだといい抜ける様な方法がないものだろうか。彼はそう考えたに相違ありません。

 その昔、大宮人おおみやびとは、どちらにでも意味のとれる様な「恋歌こいか」という巧たくみな方法によって、あからさまな拒絶の苦痛をやわらげようとしました。彼の場合はちょうどそれなのです。ただ、彼のは日頃愛読する探偵小説から思いついた暗号通信によって、その目的を果そうとしたのですが、それが、不幸にも、彼の余り深い用心の為に、あの様な難解なものになってしまったのです。

 それにしても、彼は自分自身の暗号を考え出した綿密さにも似あわないで、相手の暗号を解くのに、どうしてこうも鈍感だったのでしょう。自うぬぼれ過ぎた為めに飛んだ失敗を演じる例は、世に間々ままあることですけれど、これはまた自ぼれのなさ過ぎた為の悲劇です。何という本意ないことでしょう。

 ああ、私は弟の日記帳をひもといたばかりに、とり返しのつかぬ事実に触れてしまったのです。私はその時の心持を、どんな言葉で形容しましょう。それが、ただ若い二人の気の毒な失敗をいたむばかりであったなら、まだしもよかったのです。しかし、私にはもう一つの、もっと利己的な感情がありました。そして、その感情が私の心を狂うばかりにかき乱したのです。

 私は熱した頭を冬の夜の凍こおった風にあてる為に、そこにあった庭下駄をつっかけて、フラフラと庭へ下りました。そして乱れた心そのままに、木立の間を、グルグルと果てしもなく廻り歩くのでした。

 弟の死ぬ二ヶ月ばかり前に取きめられた、私と雪枝さんとの、とり返しのつかぬ婚約のことを考えながら。



初出:「写真報知」報知新聞社1925(大正14)年35

「江戸川乱歩全集 第九巻」平凡社19323

底本:「江戸川乱歩全集 第1巻」光文社文庫、光文社2004720日初版発行

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2022年03月19日

「鶺鴒の巣」尾崎士郎

鶺鴒の巣


尾崎士郎



 鶺鴒が街道に沿った岩かげに巣をつくった。背のびをしなくても手の届くほどの高さであるが、今まで誰れも気がつかなかったらしい、ということをある夕方瀬川君が来て話した。瀬川君の宿と南里君の宿とは十町ほど離れているが、道は一本筋だから彼は南里君の宿へあそびにくるごとに鶺鴒の巣の前を通るわけだ。巣のある場所は瀬川君の宿に近いところで、そのちょっと手前に小さい石地蔵がある。そこは真っ暗な道で、足の下の樹立の闇をえぐってひびいてくる激流の音が絶望的な呻き声のように伝わってくる。しかし、断崖は石地蔵の少し先きのところで道に並行して急に傾斜しているのでその突端までくると、瀬川君の宿のあかりが見えるのである。鶺鴒の巣のあるのはその曲り角だ。曲り角では人間は大抵の場合、遠い眺望の変化に気をとられて、すぐ眼の先のことを忘れているものだ。だから、鶺鴒が街道筋の断崖の上に巣をつくったのは大胆すぎると言えば大胆すぎるが、しかし賢明な方法であったとも言える。何故かといって往来に近い場所の方が蛇を避けるには都合がいいにきまっているし、それに第一、彼は人間よりも以上に蛇を恐れなければならないのだから。――

 瀬川君は妙に昂奮しながら話した。彼がその巣を見つけたとき、町はずれの淫売宿にいる若い女がうしろからのぞきこんでいたということに彼は不安を感じていた。

 次の日、南里君はその巣を見るために出かけた。石地蔵のところから、南里君は丹念に断崖の上に注意していったが、しかし、何処にあるかまるでわからなかった。南里君は茫然として立ちどまったまま所在なさに煙草を喫うためにマッチを擦った。すると、その音に驚いたようにすぐ眼の前の岩の小さい裂け目から羽搏きをしながら一羽の鶺鴒がとびあがった。南里君は慌てて身をひいた。その裂け目の上の方に枯草を積みあげてつくった小さい巣と、その中におずおずとうごいている三つの雛の頭をたしかに見たからである。一瞬間、南里君はかすかな衝動に襲われた。南里君が手をのばしさえすれば一羽の雛を容易に奪いとることができるのである。南里君はその雛が欲しいのではない。唯ただ、自分の盗心が誰れにも気どられないで済むという気持が彼を唆そそりかける。――南里君はそっとうしろを見た。誰れも近づいてくる者はない。南里君は素早く手をのばした。南里君は心臓が顫えるのを意識するとほとんど同時に指の先きから伝わってくるやわらかいぬくもりの中に少女の生活を感じた。南里君は自分が今何をしたかということについて考える余裕もなく一羽の雛をつかんで右手を懐ろの中へ入れたまま自分の宿の方へ歩いていった。道が行詰って新しい道につづく橋の袂まで来たとき、雛の身体から伝わってくるぬくもりが次第に衰ろえつつあるのを感じた。懐ろの中であまりに強く握りしめたからであろう。そっと掌をひろげてみると雛はもう死んでいる。南里君はその死骸を川ぞいの草むらの中へ捨てた。同じ日の午後瀬川君が来たので、彼は、今朝鶺鴒の巣を見にいったという話をした。だが雛は二つしかいなかったというと、瀬川君は、いや、そんなことは無い筈だ。僕の見たときにはたしかに三ついた筈だが、と言いながら眉をひそめて、

「ことによると、瀧の家(淫売屋の名前)の女が怪しいぞ。夕方もう一度見て、いなかったらあいつに聞いて見よう」

 と言った。眼に見えないものを欺あざむき了せたという気持のために何ということもなく南里君の心は晴れやかになった。彼はようやくにして一つの危険を突破した人間を自分の中に感じた。一瞬間、自分がある欲情を充たしたということをのぞいては、すべての状態が元の通りではないか。南里君はそう考えることに少しの不安も感じなかった。

「兎に角、ひどいことをしたもんですね。そう言えば、今日わたしがくるとき巣のまわりを鶺鴒がしきりに飛んでいましたよ」

 そう言った瀬川君の言葉に対して南里君は平然としてこう答えた。

「鶺鴒はもう少し人通りの多いところへ巣をつくればよかったわけですね。蛇より人間の方がどんな場合でも道徳的だと考えたところに鶺鴒の錯誤があったわけだ!」

 日暮れがた、南里君は瀬川君をおくり旁々かたがた鶺鴒の巣を見に行った。陽がかげって、大気が夕靄のためにうすじめっているので水の音に秋を感じた。

 巣のある場所の近くまでくると、足音におどろいたのか、一羽の鶺鴒が、もう一つ上の岩角へひょいととびあがって、軽く全身を弾むように動かせながら、不安そうに二人を眺めていた。瀬川君は巣に近づいて、じっと中をのぞきこんでいたが、急に頓狂な声で叫んだ。

「一つしかいない。一つしか。――さっきまでたしかに二ついたんだが」

 南里君はぎくりとした。してみると、誰れか自分のあとから、もう一つ盗んだ奴があるにちがいない。南里君は急に不安になった。ことによると、その男は自分の盗むところをこっそり見ていたのかも知れない。そして、その男は、おれがとらなくともどうせ誰れかがとるのだ、それにあの男がとった以上はおれがとったって差支ない筈だ。――見知らないその男はそう考えることによっておれに罪をなすりつけるつもりでとったのかも知れない。南里君は一瞬間、道徳的な感情の方へ引き戻されたが、すぐ猛然として跳ねっ返った。――誰れも見ていなかった。あのときはたしかに誰れも見てはいなかった。おれはこんな幻覚におびえてはいけない。

 南里君は、しかし、鶺鴒の親の悲しげな視線をうしろに感じながら、そこの曲り角から自分の宿へ帰ってゆく瀬川君とわかれて暮れかかった道を歩いていった。歩きながら、彼はこの村へ来てから知り合いになった一人の娘のことを考えていた。彼女は南里君の泊っている宿からあまり遠くない街道筋にある古い寺のひとり娘で、父と母が死んでしまって、おじいさんとおばあさんとだけに養われている。そのおじいさんと南里君とは将棋の友だちなので、彼は毎晩のように寺へ出かける。ありていに言えば、実は将棋よりも娘の方が目当なのだ。彼女は今年十五歳であるが、身体つきの子供らしいにもかかわらずその瞳の底には成熟した女の嬌羞が潜んでいる。南里君が寺へゆきはじめてからやっと一ト月にも充たないのであるが、しかし、その間に娘の肉体は異常な発達を示した。それはちょうど梅雨の頃の枇杷の実が一日ごとに色づいてゆくのを見ていると同じように、南里君は娘に対して新鮮な食慾を感じた。炉をかこんで話をしているとき、南里君は鈍い電灯のほかげの中に、じっとおびえるように自分を見据えている娘の視線を捉える瞬間があった。その視線は一晩中彼を追っ駈けてきた。彼女の肉体の微細な部分についての想像が彼を悩ました。あの娘は自分の近づいてゆくのを待っているのだ、――と、南里君は思った。彼は自分の頭の上にぶら下っている木の実を空想した。若もしそれをとろうとするならば、彼は背伸びをする必要もなく、唯、手をのばしさえすれば足りるのではないか。機会は幾度びとなく彼の前を往復した。しかし、そのたびごとに南里君は妙に心のすくむのを感じた。そして、娘はだんだん色づいていった。――

 その娘のことが、不意に南里君の頭にこびりついてきたとしても少しも不思議ではない。南里君の空想は異常な速度で発展していった。今こそ、おれは何でも出来るぞ、――と、彼は思った。彼はあの娘に対して自分だけが道徳的な責任を感ずる理由は無いと思った。何故かといって、彼が若しとることを躊躇したとしても、あの色づいた木の実は、偶然あの下を通りかかった誰れかによって必ずとられるであろうから。そういう考かんがえが南里君の食慾を駆り立てた――「そうだ。今夜こそ、おれは」南里君は自分の決意をたしかめるもののように心の中で繰り返した。その夜、南里君は計画どおり娘に近づいていった。そして、無造作に、全く無造作に娘の唇に触れたとき、彼は娘の存在が彼の掌の中に握りしめられた鶺鴒の雛よりも以上の何ものでもないことを感じた。しかし、夜が更けて、娘とわかれて宿へ帰ってから、彼の心は思いがけない一つの考によって圧えつけられた、彼は見知らない一人の男の顔を頭に描いた。そして――あの男がとった以上はおれがとったところで差支ない筈だ。――そう呟いている男の姿である。南里君はそういって瀬川君に話した。彼女の運命を支配する微妙な力をまざまざと見せつけられたような気がしたからである。――


 数日後、南里君は、夜おそくまで話しこんでいた瀬川君をおくって外へ出た。夜がおそいし、それに月があるので、大気が澄み透っていた。うねうねとつづく街道筋を歩いて二人が何時いつの間にか石地蔵のある断崖の近くへくるまで南里君は鶺鴒の巣のあることを忘れていた。しかし、石地蔵の前までくると一瞬間、非常に冷めたいものが南里君の胸をすべっていった。不吉な妄想が彼の頭にうかんだのである。ことによるとあの巣の中には鶺鴒の雛は一つもいないのではあるまいか。――南里君は足音を忍ばせて岩のかげに近づいていった。巣はもとの場所にあった。巣の中には一羽の鶺鴒が羽をひろげてうずくまっていた。

「こいつはね、この二、三日僕が通るごとに巣の中にしゃがんでいるんだ。雛をとられやしないかと思って警戒しているのかも知れないね――」

 うしろから肩越しに覗きこむようにして瀬川君が言ったとき、鶺鴒は急に物におびえたように巣の中からとびあがり、街道を横切って樹立の闇の中へ消えていった。

 南里君の眼の前には、ほのかな月明りに照らし出された空虚な巣があった。積みあげた枯草の一角がばらばらに壊れて、巣の中は空き家のようにがらんとしている。そこには小さな雛の頭すら見出すことができなかった。

「へんだね。――雛はもう一つもいないじゃないか!」

 月光の反射のために瀬川君の眼がうす気味悪く光った。南里君は自分の頬の筋肉がかたくなったのを感じた。一つの情景があわただしく彼の頭をかすめたのである。小さな炉をかこんで、正面におじいさん、その横におばあさんと娘とが並んで坐っている。――彼は鈍い電灯のほかげの中に、一つの欲情のために燃えている娘の悩ましい瞳をさぐりあてると急に不安になった。

 あの娘は近いうちに、きっと誰れかほかの男に誘惑されて寺を逃げだすにちがいない。――そういう予感が南里君の胸に犇々ひしひしと来た。

 娘のいない古寺の台所が荒涼として彼の幻覚の中に現われてきたのである。



初出:「新潮」19279月掲載

「鶺鴒の巣」新潮社19395月刊

「尾崎士郎短篇集」岩波文庫

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2022年03月17日

放射能の基準値も世界一

世界一の日本

日本の食や医療はあらゆる意味において世界一である。それはもちろん良い意味での世界一ではない。


精神病院の病床数は世界一である。

添加物の認可数も世界一である。

農薬の使用量も世界一である(韓国や中国が一位というデータもある)。

安定剤の売り上げも世界一である。

CTの保有数も世界一である。

BCGの接種率も世界一である。

トランス脂肪酸の管理も世界一である(野放しである)。

抗癌剤の在庫処分場としての価値も世界一である。

効かないインフルエンザ薬のタミフル備蓄も世界一である。

放射能の基準値も世界一である。

有病率も世界一である。

無駄な検診や人間ドックの普及率も世界一である。


その他日本の愚かさは挙げだすときりがない。39兆円の医療費のほぼ大半は無駄であり、すべては医療界の利権者や製薬会社たちに貢いでいるに過ぎない。


99%の人に伝えたいこの日本を変える方法より抜粋>

https://www.eastpress.co.jp/goods/detail/9784781613277

posted by koinu at 14:00| 東京 🌁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月08日

E・A・ポー ポケットマスターピース09 (集英社文庫)

すべての原点にポーがいる。
代表的ゴシックホラー、美しく構築された名詩、史上初の推理小説や暗号小説、SF作家たちに影響を与えた海洋冒険長編。あらゆる文学を進化させたポーの世界とは

小説家・桜庭一樹による翻案2作も加えた、唯一無二のポー集全20編。 (解説/鴻巣友季子)

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A・ポー集英社文庫)
【収録内容】

大鴉:中里友香

アナベル・リイ:日夏耿之介

黄金郷:日夏耿之介

モルグ街の殺人:丸谷才一

マリー・ロジェの謎:丸谷才一

盗まれた手紙:丸谷才一

黄金虫:丸谷才一

お前が犯人だ! (翻案桜庭一樹
メルツェルさんのチェス人形(翻案桜庭一樹

アッシャー家の崩壊:鴻巣友季子

黒猫:鴻巣友季子

早まった埋葬:鴻巣友季子

ウィリアム・ウィルソン:鴻巣友季子

アモンティリヤードの酒樽:鴻巣友季子

告げ口心臓:中里友香

影―ある寓話:池末陽子

鐘楼の悪魔:池末陽子

鋸山奇譚:池末陽子

燈台:鴻巣友季子

アーサー・ゴードン・ピムの冒険:巽孝之  


解説 鴻巣友季子
作品解題 池末陽子
E
A・ポー著作目録
E
A・ポー主要文献案内
E
A・ポー年譜

巻末のE.A.ポー主要文献案内は和訳されてない海外のポーの研究書や論文にポーの手紙なども紹介されてる資料などが簡潔な内容紹介つきでリストアップされてます。


【著者について】
エドガー・アラン・ポー
1809.1.19-1849.10.7
。アメリカ合衆国の小説家。マサチューセッツ州ボストンに生まれる。生まれて間もなく父が失踪、母が病死したため、養父母とともに6歳で渡英、11歳で帰米。ヴァージニア大学中退、陸軍士官学校放校の後、各紙誌に詩と小説を投稿、『壜の中の手記』が懸賞に当選。以後、雑誌編集の仕事の傍ら、ゴシック小説の金字塔「アッシャー家の崩壊」や推理小説の原点「モルグ街の殺人」などを執筆。36歳で発表した詩「大鴉」が好評を博すが、晩年は妻の病気、経済状況や健康の悪化などで苦しみ、後世に様々な憶測を呼び起こす謎の死を遂げる。SF、ミステリ、ゴシック、ホラーの分野での現代作家への影響は計り知れない。

https://lp.shueisha.co.jp/pocketmasterpieces/09.html


 ”生きなながら埋葬されること。間違いなくこれこそが、弱き人類の運命降りかかった苦難のうち、もっとも恐るべきものであろう。” Edgar Allan poe 

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2022年03月01日

童話『舌切りすずめ』と昔話について

舌切りすずめ


楠山正雄




     一


 むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがありました。

 子供がないものですから、おじいさんはすずめの子を一羽わ、だいじにして、かごに入いれて飼っておきました。

 ある日おじいさんはいつものように山へしば刈かりに行って、おばあさんは井戸ばたで洗濯をしていました。その洗濯に使かうのりをおばあさんが台所へ忘わすれていった留守に、すずめの子がちょろちょろかごから歩あるき出だして、のりを残のこらずなめてしまいました。

 おばあさんはのりを取とりに帰って来きますと、お皿の中にはきれいにのりがありませんでした。そののりはみんなすずめがなめてしまったことが分わかかると、いじのわるいおばあさんはたいへんおこって、かわいそうに、小さなすずめをつかまえて、むりに口をあかせながら、

「この舌がそんなわるさをしたのか。」

 と言いって、はさみで舌をちょん切ぎってしまいました。そして、

「さあ、どこへでも出ていけ。」

 と言いって放なりました。すずめは悲しそうな声こえで、「いたい、いたい。」と鳴きながら、飛んでいきました。

 夕方になって、おじいさんはしばを背負って、山から帰って来て、

「ああくたびれた、すずめもおなかがすいたろう。さあさあ、えさをやりましょう。」

 と言い言い、かごの前へ行いってみますと、中にはすずめはいませんでした。おじいさんはおどろいて、

「おばあさん、おばあさん、すずめはどこへ行ったろう。」

 と言いますと、おばあさんは、

「すずめですか、あれはわたしのだいじなのりをなめたから、舌を切っておい出だしてしまいましたよ。」

 とへいきな顔をして言いました。

「まあ、かわいそうに。ひどいことをするなあ。」

 とおじいさんは言って、がっかりした顔をしていました。


     二


 おじいさんは、すずめが舌を切られてどこへ行ったか心配でたまりませんので、あくる日は、夜があけるとさっそく出かけていきました。おじいさんは道々、つえをついて、

「舌切りすずめ、お宿はどこだ、

チュウ、チュウ、チュウ。」

 と呼びながら、あてもなくたずねて歩きました。野を越えて、山を越えて、また野を越えて、山を越えて、大きなやぶのある所へ出ました。するとやぶの中から、

「舌切すずめ、お宿はここよ。

チュウ、チュウ、チュウ。」

 という声が聞こえました。おじいさんは喜んで、声のする方ほうへ歩いていきますと、やがてやぶの陰にかわいらしい赤いおうちが見えて、舌を切られたすずめが門をあけて、お迎えに出ていました。

「まあ、おじいさん、よくいらっしゃいました。」

「おお、おお、ぶじでいたかい。あんまりお前がこいしいので、たずねて来ましたよ。」

「まあ、それはそれは、ありがとうございました。さあ、どうぞこちらへ。」

 こう言ってすずめはおじいさんの手てをとって、うちの中へ案内しました。

 すずめはおじいさんの前に手をついて、

「おじいさん、だまってだいじなのりをなめて、申しわけがございませんでした。それをおおこりもなさらずに、ようこそたずねて下くださいました。」

 と言いますと、おじいさんも、

「何の、わたしがいなかったばかりに、とんだかわいそうなことをしました。でもこうしてまた会われたので、ほんとうにうれしいよ。」

 と言いました。

 すずめはきょうだいやお友だちのすずめを残こらず集めて、おじいさんのすきなものをたくさんごちそうをして、おもしろい歌に合わせて、みんなですずめ踊りをおどって見せました。おじいさんはたいそうよろこんで、うちへ帰えるのも忘れていました。そのうちにだんだん暗くなってきたものですから、おじいさんは、

「今日はお陰で一日にちおもしろかった。日の暮れないうちに、どれ、おいとまとしましょう。」

 と言って、立ちかけました。すずめは、

「まあ、こんなむさくるしいところですけれど、今夜はここへとまっていらっしゃいましな。」

 と言って、みんなで引きとめました。

「せっかくだが、おばあさんも待っているだろうから、今日は帰えることにしましょう。またたびたび来ますよ。」

「それは残念でございますこと、ではおみやげをさし上あげますから、しばらくお待ち下さいまし。」

 と言って、すずめは奥からつづらを二つ持ってきました。そして、

「おじいさん、重いつづらに、軽いつづらです。どちらでもよろしい方ほうをお持ち下さい。」

 と言いました。

「どうもごちそうになった上、おみやげまでもらってはすまないが、せっかくだからもらって帰えりましょう。だがわたしは年をとっているし、道も遠いから、軽い方をもらっていくことにしますよ。」

 こう言っておじいさんは、軽いつづらを背負ってもらって、

「じゃあ、さようなら。また来ますよ。」

「お待ち申ております。どうか気をつけてお帰えり下さいまし。」

 と言って、すずめは門口までおじいさんを送って出ました。


     三


 日が暮れてもおじいさんがなかなかもどらないので、おばあさんは、

「どこへ出かけたのだろう。」

 とぶつぶつ言っているところへ、おみやげのつづらを背負って、おじいさんが帰えって来ました。

「おじいさん、今ごろまでどこに何をしていたんですね。」

「まあ、そんなにおおこりでないよ。今日はすずめのお宿へたずねて行って、たくさんごちそうになったり、すずめ踊おどりを見みせてもらったりした上に、このとおりりっぱなおみやげをもらって来たのだよ。」

 こう言ってつづらを下ろすと、おばあさんは急ににこにこしながら、

「まあ、それはようございましたねえ。いったい何が入っているのでしょう。」

 と言って、さっそくつづらのふたをあけますと、中から目のさめるような金銀さんごや、宝珠の玉が出てきました。それを見るとおじいさんは、とくいらしい顔をして言いいました。

「なにね、すずめは重いつづらと軽いつづらと二つ出して、どちらがいいというから、わたしは年はとっているし、道も遠いから、軽つづらにしようといってもらってきたのだが、こんなにいいものが入っていようとは思わなかった。」

 するとおばあさんは急にまたふくれっ面をして、

「ばかなおじいさん。なぜ重い方をもらってこなかったのです。その方がきっとたくさん、いいものが入っていたでしょうに。」

「まあ、そう欲ばるものではないよ。これだけいいものが入っていれば、たくさんではないか。」

「どうしてたくさんなものですか。よしよし、これから行いって、わたしが重いつづらの方ももらってきます。」

 と言って、おじいさんが止めるのも聞かず、あくる日の朝になるまで待れないで、すぐにうちをとび出しました。

 もう外はまっ暗になっていましたが、おばあさんは欲ばった一心いっしんでむちゃくちゃにつえをつき立てながら、

「舌切りすずめ、お宿やどはどこだ、

チュウ、チュウ、チュウ。」

 と言い言いたずねて行きました。野を越え、山を越えて、また野を越えて、山を越えて、大きな竹やぶのある所へ来ますと、やぶの中から、

「舌切りすずめ、お宿やどはここよ。

チュウ、チュウ、チュウ。」

 という声がしました。おばあさんは「しめた。」と思って、声のする方へ歩いて行きますと、舌を切られたすずめがこんども門をあけて出てきました。そしてやさしく、

「まあ、おばあさんでしたか。よくいらっしゃいました。」

 と言って、うちの中へ案内をしました。そして、

「さあ、どうぞお上り下さいまし。」

 とおばあさんの手を取っておざしきへ上げようとしましたが、おばあさんは何んだかせわしそうにきょときょと見まわしてばかりいて、おちついて座わろうともしませんでした。

「いいえ、お前さんのぶじな顔を見ればそれで用はすんだのだから、もうかまっておくれでない。それよりか早やくおみやげをもらって、おいとましましょう。」

 いきなりおみやげのさいそくをされたので、すずめはまあ欲の深いおばあさんだとあきれてしまいましたが、おばあさんはへいきな顔で、

「さあ、早はやくして下くださいよ。」

 と、じれったそうに言うものですから、

「はい、はい、それではしばらくお待ち下さいまし。今おみやげを持ってまいりますから。」

 と言って、奥からつづらを二つ出してきました。

「さあ、それでは重い方ほうと軽るい方と二つありますから、どちらでもよろしい方をお持い下さい。」

「それはむろん、重い方をもらっていきますよ。」

 と言うなりおばあさんは、重いつづらを背中にしょい上げてあいさつもそこそこに出ていきました。

 おばあさんは重いつづらを首尾よくもらったものの、それでなくっても重いつづらが、背負って歩あるいて行くうちにどんどん、どんどん重くなって、さすがに強情なおばあさんも、もう肩が抜けて腰の骨が折れそうになりました。それでも、

「重いだけに宝がよけい入っているのだから、ほんとうに楽しみだ。いったいどんなものが入はいっているのだろう。ここらでちょいと一休みして、ためしに少しあけてみよう。」

 こう独言を言いながら、道ばたの石の上に「どっこいしょ。」と腰をかけて、つづらを下おろして、急いでふたをあけてみました。

 するとどうでしょう、中を目のくらむような金銀さんごと思いの外、三目め小僧だの、一目小僧だの、がま入道だの、いろいろなお化けがにょろにょろ、にょろにょろ飛び出だして、

「この欲ばりばばあめ。」と言いながら、こわい目をしてにらめつけるやら、気味の悪い舌を出して顔をなめるやらするので、もうおばあさんは生きた空はありませんでした。

「たいへんだ、たいへんだ。助けてくれ。」

 とおばあさんは金切り声をあげて、一生懸命逃げ出しました。そしてやっとのことで、半分死んだようにまっ青になって、うちの中にかけ込みますと、おじいさんはびっくりして、

「どうした、どうした。」

 と言いました。おばあさんはこれこれの目にあったと話して、「ああもう、こりごりだ。」と言いますと、おじいさんは気の毒そうに、

「やれやれ、それはひどい目にあったな。だからあんまり無慈悲なことをしたり、あんまり欲ばったりするものではない。」と言いました。



「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社 1983510日第1刷発行

(青空文庫より)


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【原典・類話】

さるかに合戦やかちかち山など、多くの民話の類がそうであるように、この話も本来言い伝えられて来たものは残酷でグロテスクな内容を含んでいる。老人は雀の宿を探すために何人もの人に道を聞くが、彼らは引き替えに馬の血や牛の小便を老人に飲ませるなどといった場面がある(この部分は、馬や牛の洗い水か直接馬や牛を洗うに変更されたバージョンもある)。

明治時代以後、子供にふさわしい物語とするためこうした過激な部分は削除され、おとぎ話としての形が整えられた。このように、おとぎ話は時代背景や世相に伴い、内容が改変されていくことが多い。江戸時代の赤本や明治時代の巖谷小波によって広く知られている昔話だが、その影響でないものも各地に存在する。宇治拾遺物語の「腰折雀」(腰の折れた雀を助けた婆は瓢の種をもらう、実が成ると中から白米や金銀財宝が出てくる。うらやんだ隣の婆はわざと雀の腰を折り真似をするが瓢から蛇や蜂が出て刺されて死ぬ。アジア諸民族に類話あり)は報恩譚としてとらえられるが、舌切り雀は試練を得て異境を訪問するので似ているが話の源が違うと考えられる。またその他の話として「孝行雀」、「雀の粗忽」、「雀の仇討」、「雀酒屋」などがあり、米・穀物の招来・管理に雀が関わっている場合が多い。

Wikipedia]より

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2022年02月21日

「夢見る人」プーシキン

月は音なく空をわたり 丘の上には薄い闇がひろがる。 

しずけさが水面におちて 谷間から風がふきわたる。 

春の日なかの歌い手も暗い茂みに音なく憩う。 

家畜のむれは牧場にねむり 夜がしずかにふけてゆく。 


おだやかな小部屋のなかには 夜のほのかな闇がたちこめ 

暖炉のなかの火は消えて ろうそくも燃えつきる。 

飾りなき神だなには 家の守りの神の像が立ち 

粘土の像のまえで 蒼白いともしびが燃えている。 


ひとりねの臥床のなかで ほほ杖をつきながら 

わたしはすべてをうち忘れて あまい思いを心にえがく。 

夜のたのしい闇のなかを 月の光に照らされて 

にぎやかに かろやかに あまたの夢が飛びさかる。 


しずかな しずかな声が流れ こがねの絃のおののきに 

音なき深い夜のひととき 夢見つつ若者はうたう。 

ひそかな愁いに胸をみたされて 夜のしじまのささやきに 

耳をかためけながら 指は楽しくリーラ<竪琴>の上をすべる。 


まずしい伏屋で祈りのなかに おのが幸をねがわぬ者こそ 

神の恵みをさずけられ ゼウスの御心によりて 

世のわざわいをまぬかれて あまい眠りのなかにおちる 

いくさのらっぱの響も知らずに ふかく しずかに うれいもなく。 


音高く楯うつ勇士のさまで <あけ>にそまった指をたてて 

遠くでほまれがおびやかす−−はためきなびく戦いの旗 

とび散る血汐のしぶき−−けれどわたしはほまれを求めない 

つれづれのやすらいこそが こよなくあまく心をとらえる。 


わたしは人里離れた野なかの小屋で おだやかな日々をおくる。 

神々がわたしにリーラ<竪琴>をさずけた−−歌びとにこよなく尊い贈りもの。 

そしてミューズがわたしを守る−−やさしい女神に栄あれ! 

賤の庵りも ひと気なき あたりの野山も ミューズのゆえにあかるく輝く。 


わがこがねの日々の朝まだき ミューズがわたしに祝福をたれ 

若葉のミルトの冠をやさしく頭にのせてくれた。 

空のひかりにかがよいながら いぶせき小部屋をおとずれて 

わたしのねているゆりかごに 息をひそめて身をかがめた。 


わたしがおくつきに去る日まで おおミューズよ 変わらぬ若き道づれであれ! 

夢をいだいて 軽いつばさで 頭の上を飛びめぐれ 

暗いうれいを追いはらえ まぼろしで・・・・・・思いをとらえ 

かすみのかなたにかがよえる ゆかしい国へわたしをつれてゆけ! 


わたしはしずかに世を去るだろう−−おだやかな死の精がおとずれて 

扉をたたいて ささやくだろう「夜の国へゆくときが来た・・・・・・」 

さながら冬のゆうべにあまい眠りが 頭にけし花の冠をいただき 

重いだるげな杖にもたれて 音なき部屋をおとずれるように。

1815年)

『プーシキン詩集』金子幸彦訳(岩波文庫 )より

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2022年02月20日

「めざめ」プーシキン

夢よ 夢よ 

ながまねく 

なぐさめはどこ? 

夜ごとのねむりよ 

ながおくる 

よろこびはどこ? 

こころにあまき 

夢のすがたは 

いつしか消えはて 

ぬばたまの夜の 

ただひとりねの 

ねざめのおりには 

しずけきふしどは 

闇にかぐろい 

恋の夢路の 

さやけきすがたは 

にわかにさめはて 

むれつどいつつ 

とびさかりゆく。 

こころはなおも 

のぞみにみたされ 

消えはてし夢の 

思い出を追う。 

恋よ 恋よ 

こころの願いに 

耳かたむけよーー 

ふたたび送れ 

ながまぼろしを。 

朝まだき なが 

たのしき夢の 

消えやらぬまの 

この身に送れ 

とわのねむりを。 

1816 


『プーシキン詩集』金子幸彦訳(岩波文庫 )より


この詩が書かれた背景と、年代を知れば新しい考えが沸き立つ。

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2022年02月17日

小冊子『読書のすすめ』岩波文庫

春の岩波文庫フェアのための小冊子『読書のすすめ』、に掲載されてきたものを編纂した本書。各界読書人たちが、編集部の「若者に対して、やさしく、わかりやすく」という依頼により著された37編。


・人類は文字を発明することによって、〜文字を記録して保存し、それを伝達することを始めた。

文字の発明は、体の外に第二の脳を作ることになったのだ。 多田富雄


・小説を読んでいてそれがあまりに面白いと、なんだか自分が許すべからざる快楽に耽っているような疚しさを覚えることがある。 中野孝次


・読書によって書物の内容をどれだけ理解し得るのであろうか?

わたしはかねがね疑問に思っていた。 中村元


・戦前ぼくの家にあった本は、ほとんど戦争で焼けた。 なだいなだ


・読書に対する態度は、と訊ねられたら、自然体です とでもいって逃げるほかないと思っている。 松平千秋


・九歳頃から、禅寺の小僧だったので漢籍や経文は読まされたが、小説や読み物に縁がなく、それが読めるようになったのは、寺を脱走してからである。 水上勉


・私は年中本を読む。歩きながら読む。トイレでも読む。寝床で読む。風呂で読む。

電車の中では、本がないと死にそうになる。 養老孟司

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2022年02月13日

誰でも持つたから

頭は考えて分別し、
胸は感情を披瀝する。
腹は蔵おさめて貯え、
手足は動いて実地に当ってみる。
頭でいけなければ胸で、
胸でいけなければ腹で、
腹でいけなければ手足で、
そして全体として、完全な協同作業チームワークが取れています。

 私たちの唯一の財産、最初にして最後の財産=身体には、これだけの機能はたらきが備わっています。およそ世の中に、これだけの機能の備わっている道具は、又とあるでしょうか。これだけの機能を使って出来ないことがあるでしょうか。私たちが今までこれに気が付かなかったのは愚かな至りです。周囲まわりのものばかりに気を奪とられ、羨んでいたのは笑止の沙汰です。早速、使い出してみよう。使い出してみるとなるほどこれは調法です。

 法華経見宝塔品という経文の中に、多宝塔(この宝塔の中には如来全身有す)という塔が地中より涌き上って空中に止まり、その中に多宝如来と釈迦仏とが並んで座せられる場面が書いてあります。
 この場面で、多宝如来は真理を現し、釈迦仏は智慧を現している。そして多宝塔は私たちの身体からだを象徴かたどったものです。私たちの精神肉体の一致しているこの身体は、使えばあらゆる真理、あらゆる智慧が取出せる。そこを、多宝塔中、釈迦多宝の二仏の並座で表現あらわしたのです。つまり私たちの身体、一名多宝塔です。多宝というくらいだから、私たちの身体には万宝が含み備わっているに違いない。
 知らないうちは兎とに角かく、そうと知った以上、塔の中の宝を、身体の価値を、ぽつぽつ取出して行こう。これだけの宝を持っていながら、なにをうかうか他所よそばかり見て、無暗むやみに宝を探しあぐねていたろう。五体を丹念に、まめやかに、正直に、使って行くところに、私たちの本当に授かる宝は取出されるのです。
(岡本かな子「誰でも持つたから」より)


岡本太郎を産んだ母親は、ほかに例を見ない生き様であった。それは息子からも多く語られてる。もしも母親が凡庸に我が子を、大切にしてたら、天才的な美術の天分は育たなかったろう。
posted by koinu at 15:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする