2020年07月12日

『時代の抵抗者たち』青木理(河出書房新社)

青木理さんによる9人の方々との対談集です。スタジオジブリ出版部の小冊子『熱風』誌上での連続対談「日本人と戦後70年」から、対談の相手は40人を超えて10回9人分が河出書房新社から単行本化。


@なかにし礼氏(1938−)作詞家・小説家

A前川喜平氏(1955−)元・文部科学省事務次官

B古賀誠氏(1940−)元・代議士(10期)、元・自民党幹事長

C中村文則氏(1977−)作家

D田中均氏(1947−)元・政務担当外務審議官

E梁石日氏(1936−)小説家

F岡留安則(19472019)『噂の真相』編集長・発行人

G平野啓一郎氏(1975−)小説家

H安田好弘氏(1947−)弁護士(東京第二弁護士会)


リベラルな視点から、日本が置かれている社会的な現状を知ることは大切だと思う。

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309249520/

posted by koinu at 07:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月11日

詐欺するキツネとネコのキャラ

詐欺師のフルネームは、J・ワシントン・ファウルフェロー。 ピノキオの前では正直ジョンと名乗っている。 キツネ詐欺師として登場して、相棒のギデオンとピノキオを悪の道へと進めようとする。 


立場的には敵と味方の中立キャラであり、コーチマン(馬車屋)やストロンボリの方がウィランズに称されることが多い。上記のキャラと比べたら、まだマシな方である。 

「金貨があったら、ここに埋めれば、後で増えてくるよ」

因みに『ピノキオ』原作では、びっこのキツネとして登場して、おいはぎをしてギデオンとともにピノキオを殺害している。 

ディズニー版では勿論ピノキオを殺さずまたびっこではないのだった。

もしも父母がキツネとネコ詐欺師だったとしても、恩恵を受けてしまい判断することを失ってしまうことは、犯罪を新たに生む責任を糾弾したい!

posted by koinu at 12:41| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月07日

バッド・シュールバーグ邦訳作品 Budd Schulberg

「しかし、この世の叙情を語るなによりの思い出を背負った人物として、いつまでも彼らの記憶に残ることであろう。」(シュールバーグ 『夢やぶられて』より)


長編小説

『夢やぶられて』 The Harder They Fall :野崎孝(早川書房)1958

Two Volumes:野崎孝(ハヤカワ文庫)1972

『巨人は激しく倒れる』:清水俊二(ハヤカワノヴェルズ)1969

『殴られる男』:清水俊二(早川書房)1956

『何がサミイを走らせるのか?:小泉喜美子(新書館)1975


『ハリウッド・メモワール』 Moving Pictures: 大石千鶴(新書館)1991/ 8

『モハメド・アリ -フォーク・ヒーロー』宮川毅(ベースボール・マガジン社)1975


短編小説

「脚光」 Spotlight:大原寿人(ミステリマガジン)1967/ 3 No.131

:常盤新平講談社文庫)

:各務三郎(Kagami Saburō) 『世界ショートショート傑作選1

「猛魚バラクーダ」:中桐雅夫(荒地出版)プレイボーイ(Playboy) 『プレイボーイ傑作集』 The Best Short Stories from Playboy

「波止場の殺人」 Murder on the Waterfront:清水俊二(日本版EQMM(Japanese Version)1956/12 No.6

「見はてぬ夢」 Meal Ticket:永井淳(日本版EQMM(Japanese Version)1963/12 No.90

「人生の資格」 A Short Digest of a Long Novel :宮地謙 (ミステリマガジン)1971/ 9 No.185


「挑戦」 The Dare:浅倉久志(ミステリマガジン)1972/ 3 No.191

:門野集(創元推理文庫)

:小森収『短編ミステリの二百年02


「わたしのクリスマス・キャロル」 My Christmas Carol :沢川進(ミステリマガジン)1984/ 1 No.393

「自由の身」 A Free Man :泉真也 ハードボイルド・ミステリ・マガジン1964/ 1 No.66

「長い小説の短いダイジェスト」:中田耕治(青弓社)/

Blue Bow Series:中田耕治(Nakada Kōji) 『レイチェルの夏』

「トニー・コラッチの誇り」 The Pride of Tony Colucci :小泉喜美子(ミステリマガジン)1978/ 5 No.265

「<シロ>のテーブル」:小泉喜美子(ミステリマガジン)1976/ 1 No.237


Nonfiction/Etc.

「チャンピオンシップ」 The Heavyweight Championship :谷川邦夫 (東京書籍):ハワード・サイナー(Howard Siner) 『ラスト・アメリカン・ヒーロー』 Sports Classics


バッド・シュールバーグはアカデミー脚本賞を受賞した映画『波止場』などでも、ハリウッドで活躍した。しばらく日本語圏では翻訳著書が絶版となっている。


【映画作品】

スタア誕生 A Star is Born (1937) 脚本(クレジット無し)

無責任時代(英語版) Nothing Sacred (1937) 脚本(クレジット無し)

波止場 On the Waterfront (1954) 原案・脚本

殴られる男 The Harder They Fall (1956) 原作

群衆の中の一つの顔 A Face in the Crowd (1957) 原案・脚本

エヴァグレイズを渡る風 Wind Across the Everglades (1958) 監督(クレジット無し)・脚本

posted by koinu at 11:54| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月05日

『可能性の文学』織田作之助

 定跡へのアンチテエゼは現在の日本の文壇では殆んど皆無にひとしい。将棋は日本だけのものだが、文学は外国にもある。しかし日本の文学は日本の伝統的小説の定跡を最高の権威として、敢て文学の可能性を追求しようとはしない。外国の近代小説は「可能性の文学」であり、いうならば人間の可能性を描き、同時に小説形式の可能性を追求している点で、明確に日本の伝統的小説と区別されるのだ。日本の伝統的小説は可能性を含まぬという点で、狭義の定跡であるが、外国の近代小説は無限の可能性を含んでいる故、定跡化しない。「可能性の文学」はつねに端の歩が突かれるべき可能性を含んでいるのである。

(中略)

 私は年少の頃から劇作家を志し、小説には何の魅力も感じなかったから、殆んど小説を読まなかったが、二十六歳の時スタンダールを読んで、はじめて小説の魅力に憑かれた。しかし「スタンダールやバルザックの文学は結局こしらえものであり、心境小説としての日本の私小説こそ純粋小説であり、詩と共に本格小説の上位に立つものである」という定説が権威を持っている文壇の偏見は私を毒し、それに、翻訳の文章を読んだだけでは日本文による小説の書き方が判らぬから、当時絶讃を博していた身辺小説、心境小説、私小説の類を読んで、こういう小説、こういう文章、こういう態度が最高のものかというノスタルジアを強制されたことが、ますます私をジレンマに陥れたのだ。 私は人間の可能性を追究する前に、末期の眼を教わってしまったのである。私は純粋小説とは不純なるべきものだと、漠然と考えていた。当時純粋戯曲というものを考えていた私は、戯曲は純粋になればなるほど形式が単純になり、簡素になり、お能はその極致だという結論に達していたが、しかし、純粋小説とは純粋になればなるほど形式が不純になり、複雑になり、構成は何重にも織り重って遠近法は無視され、登場人物と作者の距離は、映画のカメラアングルのように動いて、眼と手は互いに裏切り、一元描写や造形美術的な秩序からますます遠ざかるものであると考えていた。小説にはいかなるオフリミットもないと考えていた。小説は芸術でなくてもいいとまで考えたのだ。しかし、日本の文学の考え方は可能性よりも、まず限界の中での深さということを尊び、権威への服従を誠実と考え、一行の嘘も眼の中にはいった煤のように思い、すべてお茶漬趣味である。そしてこの考え方がオルソドックスとしての権威を持っていることに、私はひそかにアンチテエゼを試みつつ、やはりノスタルジア的な色眼を使うというジレンマに陥っていたのである。しかし、最近私は漸くこのオルソドックスに挑戦する覚悟がついた。挑戦のための挑戦ではない。私には「可能性の文学」が果して可能か、その追究をして行きたいのである。「可能性の文学」という明確な理論が私にあるわけではない。私はただ今後書いて行くだろう小説の可能性に関しては、一行の虚構も毛嫌いする日本の伝統的小説とはっきり訣別する必要があると思うのだ。日本の伝統的小説にもいいところがあり、新しい外国の文学にもいいところがあり、二者撰一という背水の陣は不要だという考え方もあろうが、しかし、あっちから少し、こっちから少しという風に、いいところばかりそろえて、四捨五入の結果三十六相そろった模範的美人になるよりは、少々歪んでいても魅力あるという美人になりたいのだ。

(中略)

「可能性の文学」は果して可能であろうか。しかし、われわれは「可能性の文学」を日本の文学の可能としなければ、もはや近代の仲間入りは出来ないのである。小説を作るということは結局第二の自然という可能の世界を作ることであり、人間はここでは経験の堆積たいせきとしては描かれず、経験から飛躍して行く可能性として追究されなければならぬ。そして、この追究の場としての小説形式は、つねに人間の可能性に限界を与えようとする定跡である以上、自由人としての人間の可能性を描くための近代小説の形式は、つねに伝統的形式へのアンチテエゼでなければならぬのに、近代以前の日本の伝統的小説が敗戦後もなお権威をもっている文壇の保守性はついに日本文学に近代性をもたらすという今日の文学的要求への、許すべからざる反動である。現在少数の作家が肉体を描くという試みによって、この保守性に反抗しているのは、だから、けっしてマイナス的試みではない。しかし、肉体を描くということは、あくまで終極の目的ではなくて単なるデッサンに過ぎず、人間の可能性はこのデッサンが成り立ってはじめてその上に彩色されて行くのである。しかし、この色は絵画的な定着を目的とせず、音楽的な拡大性に漂うて行くものでなければならず、不安と混乱と複雑の渦中にある人間を無理に単純化するための既成のモラルやヒューマニズムの額縁は、かえって人間冒涜ぼうとくであり、この日常性の額縁をたたきこわすための虚構性や偶然性のロマネスクを、低俗なりとする一刀三拝式私小説の芸術観は、もはや文壇の片隅へ、古き偶像と共に追放さるべきものではなかろうか。そして、白紙に戻って、はじめて虚無の強さよりの「可能性の文学」の創造が可能になり、小説本来の面白さというものが近代の息吹をもって日本の文壇に生れるのではあるまいか。

(「改造」昭和二十一年十二月号)


織田作之助 1913.10.26. 大阪生まれ、1947.1.10. 東京没、小説家。第三高等学校に5年在学して退学(1936) 。『雨』 (38) で武田麟太郎に認められ,結婚 (39) 後,『夫婦善哉  (40) で作家としての地位を確立,『勧善懲悪』 (42) ほかの力作を続々発表したが,長編『青春の逆説』 (41) が反軍国主義作品として発禁処分を受けた。 1946年『六白金星』『アド・バルーン』『世相』『競馬』など敗戦直後の混乱の世相を描いた短編を発表,また私小説の伝統に決別宣言をした評論『可能性の文学』を執筆,その実験的作品と目された長編『土曜夫人』を8月より『読売新聞』に連載したが,年末に喀血して翌年死去した。一切の思想や体系への不信,旧伝統への反逆を目指し,固有の感覚や直観に裏づけられたスタンダール風のテンポの早い作風であった。

posted by koinu at 13:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月04日

宇野浩二『西遊記物語』(春陽堂)朗読

『西遊記物語』

作:呉承恩 訳:宇野浩二

読み手:武葉槌


『西遊記』朗読全10

事の起こりは、東勝神洲の華果山から生まれた石の卵。

その卵から生まれた石猿、それがこの物語の主人公、孫悟空です。

今回は、悟空が生まれてから、さんざん悪さをして、お釈迦様に五行山という岩山に閉じ込められるまでのお話です。

https://audiobook-edo.com/?p=2985


「西遊記物語」について

訳者の宇野浩二先生のはしがきより抜粋:

−−−−−−−−−−−−-

「西遊記」というと、中国の「四大奇書」の一つで、その中でも一番面白い、不思議な、ためになる物語です。

この物語の原書は百回に分けてあって、全部で五千枚くらいあるでしょう。

この本はその原書を十分の一ぐらいに書き直したものです。

なお、この物語は、今から十年ほど前(昭和7年当時)、ある少年少女雑誌に、始めの三分の1を一年間続けて出しますと、毎月、読者諸君から、「面白い、続けて欲しい」という投書の手紙やはがきを、少ないときで四五十枚、多いときで百枚近くもらいましたので、また一年続けました。

その二年目も、一年目に劣らぬほど、「面白い、続けて欲しい」という投書が来ましたので、また一年続けて、大好評のうちに全部書き終わったのでした。


国立国会図書館デジタルコレクションで保護期間満了で公開されているテキストです。

宇野浩二『西遊記物語』前篇、後編(春陽堂)昭和7年 少年文庫36

posted by koinu at 16:00| 東京 ☔| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「新西遊記」 久生十蘭


 宇治黄檗山おうばくさんの山口智海という二十六歳の学侶が西蔵チベットへ行って西蔵訳の大蔵経(一切経または蔵経、仏教の典籍一切を分類編纂したもの)をとって来ようと思いたち、五百三十円の餞別を懐ろに、明治卅年の六月廿五日、神戸を発って印度のカルカッタに向った。
 日本の大乗仏教は支那から来たせいで、蔵経も梵語サンスクリット(古代印度語)の原典の漢訳であるのはやむをえないが、宋版、元版、明版、竜蔵版とかれこれ読みあわせてみると、随所に章句の異同や遺漏があって疏通をさまたげるところへ、天海版、黄檗版、卍蔵版などの新訳が入ってきたので、いっそう混雑がひどくなった。
 漢訳大蔵の模稜は早くから問題になっていて、それから八年後、日露戦争当時、明治天皇が奉天の黄寺にあった年代不明の満訳大蔵と蒙古大蔵を買上げ、校合の資料として東京帝大へ下附されたようなことまであったが、仏教は印度教(波羅門教)の興隆で大打撃を受けたうえ、八世紀の末、回教が侵入してきてあらゆる寺塔と仏像経巻を焼き、僧侶と信徒をかたっぱしから虐殺するという大破壊を二世紀にわたって行なったため、仏教は印度では形骸もとどめず、梵語経論の写本の一部がセイロン島やビルマ地方に残っているだけだから、漢訳大蔵を正誤するなどは、望んでもできることではなかった。
 大乗仏教が西蔵へ入ったのは七世紀頃のことで、トンミという僧が印度から大蔵の原典を持って帰って西蔵語に翻訳し、ついで蓮華上座師が仏教の密部を西蔵の原宗教に結びつけ、西蔵を中心に満洲、蒙古、シベリヤから裏海沿岸にいたる一千万の信徒をもつ西蔵せいぞう仏教の基をひらいた。西蔵人は高原パミール系の印度原住民の分流であり、西蔵語なるものはトンミが梵語のランツァたいをとってつくった国語だから、西蔵大蔵の「甘珠爾カンジュール」正蔵千四十四巻、「丹珠爾タンジュール」続蔵四千五十八巻の二部は、よく経、律の機微をつたえ、漢訳仏教にない経論がたくさん入っている。黄寺にあった満訳大蔵も蒙古訳大蔵もみなそれの翻訳で、梵語仏典の写本の校合すら西蔵訳の助けをかりるくらいのものだから、それを持ちだすことができれば、仏教伝来千三百年にして、はじめて釈迦所説しょせつ正念しょうねんに触れることができるのである。
 明治廿一、二年から日露戦争のはじまるまでの十七、八年間は、かつてないほど国民的感情が昂揚し、日本人の心に国家という斬新な感情を目ざめさせた。岡本監輔の千島義会の結成から福島中佐のシベリヤ騎馬横断、郡司大尉の千島探検、野中至夫妻の富士山頂の気象観測にまで発展する愛国心のブームのなかで、進んで国家的な事業に身を捧げようという受難者型のタイプが何人かあらわれたが、なかでも玉井喜作と山口智海の行動は傑出している。
 玉井喜作は山口県三井村の出身というほか、経歴はなにひとつ知られていない。郡司大尉の千島探検隊の出発から遅れること十カ月、福島中佐が単騎旅行を終えようとする明治廿六年の十二月、イルクーツクでロシア人の茶の隊商に加わり、福島中佐と逆コースをとってシベリヤ徒歩横断の旅行にのぼった。
 その頃、シベリヤ経由の茶の隊商の旅行は、寒気、プルガ(暴風雪)、狼群、流賊との戦争、ペスト、大飢餓というぐあいにあらゆる災厄の要素がそなわっていて、その隊商もポーランドの国境に着いたときは、四百五十人の人間が三分の一になっていたということである。玉井喜作は最後まで隊商から離れず、歌にもうたえないような一万五千粁の旅行をつづけ、翌々、廿八年の二月に独逸へ入り、ベルリンで Karawanen-Reise in Sibilien(「西比利亜征槎旅行」)という本を刊行した。イルクーツクからトスムスクまでの千八百粁の見事な素描は、欧亜をつなぐ茶の隊商の生活を知る唯一の文献だとされ、独逸地理学協会の紀行文庫へ収録されたが、当の玉井喜作はそれっきり欧羅巴のどこかへ消え、その後誰も逢ったものはない。玉井喜作はその本の序文で、「汽船の船室に閉じこもって欧羅巴へ行くのは月並だから、わざとこういう道をえらんだまで」といっているが、ありきたりの旅行が月並だというだけのことで、それほどの波瀾と艱難に耐えられるものだろうか。もし事実なら不可解というほかはない。
 山口智海が西蔵へ密入国して、ラッサ(聖都)に達するまでの苦行は、玉井喜作のそれよりも荒々しく凄涼としていて、幸も不幸ももろともにおし潰してしまう悲劇的な宿縁の翳といったようなものが感じられる。二万一千尺のヒマラヤ越えだとか、孤独無援の百日の凍原の旅だとか、異教徒と見れば、八ツ斬りにして野犬に食わしてしまう狂人じみたラマ教徒だとか、匪賊だとか、雪豹だとか、そういう道具立てはべつにして、入蔵を企てるそのこと自体が無謀な振舞いであり、無益な消耗であって、人間の精神がこれほど肉体をさいなみ、躍起になって無意味な目的に駆りたてて行く例もすくない。
 西蔵のラッサは、今なら自動車を利用すれば、ブータン(西蔵と印度の間にある小独立国)の国境に近い印度のダージリンから五日ぐらいで行かれるが、つい二十世紀のはじめまでは、国境のまわりに立ちめぐる一万六千尺から三万尺に及ぶ山脈の防壁を利用し、乖離かいりと排他主義の精神をおし樹てていた頑冥な閉鎖国で、清の高宗が辺外諸部との交通を禁止した乾隆十五年(一七四九)から、民国三年(一九一四)のシムラ会議まで、百六十五年の間、欧米人と名のつくもので、ラッサはおろか、西蔵本部(南部の渓谷地方)への潜入に成功したものは一人もない。一七四九年の鎖国以後に入蔵を企図した、英、露、仏、独のあらゆる探検隊の実例が示すとおりである。
 西蔵は唐代に西域諸州を侵略し、長駆して長安を攻めた慓悍な吐蕃の国で、北に崑崙コンロン、東にタングラ、南は二万九千尺のエヴェレストと二万八千尺のカンチェンジュンガを含むヒマラヤ、西はトランスヒマラヤの雄大な山脈をめぐらし、地域の半分が一万五千尺以上もある大高原地帯である。
 西蔵は本部と外部に分れ、外西蔵は日本の内地のほぼ三倍ほどの広さの西北原チャンリンといわれる高燥不毛の地で、平均高度一万八千尺、冬は零下四十八度まで下るので空寂たる無住の凍原となり、六、七、八の三カ月、ところどころに遊牧民の天幕が見られるだけである。本部は西北原の南にひろがるほぼ日本ぐらいの面積の低地だが、低いといっても渓谷地方で海抜九千尺、平均高度一万四、五千尺、富士山の頂上より二千尺も高いところに日本の全面積を載せ、そこに西蔵を仏法相応刹土さつどと誇る、おそるべき二百万人のラマ教徒が住んでいる。
 ラマ(喇嘛)教は、神力加持を説く密教(仏教の一流派)を精霊信仰の西蔵の原宗教(シャマニズムの一種)に結びつけ、輪廻と転生を信じ、超自然の神秘力に帰依する多神教の秘密咒教じゅきょうである。ラマ教の教理によると、人間の身体は地火風水の四つの要素からできていることになっている。したがって死んでもとのかたちに還元するにも、地、火、風、水の四つの道があるが、死体は穢れの最上のものなので、土葬して汚穢がながく地の下に残るのを好まない。火葬がいちばんいいのだが、樹林がともしくて燃料に苦しんでいる国柄だから、いきおい水葬か風葬ということになる。水葬は河に流すのだが、ただ投げこむのではない。手を斬り足を斬り、形のないまでにバラバラにして投げる。そのほうが魚が食いやすいのだという。風葬というのは、犬か鷲に食わせることで、岩山の平らなところへ担ぎあげ、肉は肉、骨は骨にして、石で叩いて手で捏ね、すさまじい肉団子をこしらえ、手も洗わずに恬然てんぜんたる顔で茶を飲んでいる。
 ラマ教徒はすべて激越な狂信者で、一種独得のクリュオーテシスム(加虐性)については、鎖国前一七〇六年に入蔵した伊太利の耶蘇会士イッポリート・デシデリが、「思い出すだけでも身の毛がよだつ」と旅行記に書いている。ラマ教徒の手に入った残酷技術の花々しさを証明するものは拷訊と刑統で、律書できめられた重罪は七十二条、これにたいする刑統(刑の種類)は千八百八十六条という豊富さである。
「ラマ教徒の残虐の熱愛と狂信が思いつかせた拷問と刑罰は、技術の繊細巧緻と創意のすばらしい点で、人類の歴史に残るすべての方法を凌駕し、トルケマダ(天才的な拷問の方法を案出した西班牙の宗教裁判判事)やアルベ(和蘭の叛乱者裁判で前例のない残酷な処刑を行なった)も及ばないような完璧さを示している。
 一例をあげると、それはこんなふうにやられる。西蔵の律法はすべて連坐法(子が罪を犯せば、その父も、父が罪を犯せば、その子も同罪になる)によるので、父と子、夫と妻がいっしょに刑場へ出てくるが、刑僧はまず二人に大きなヤットコを示し、これから歯抜きの刑を行なうと宣告する。そうしておいて、剃刀で二人の髪を剃りはじめる。受刑者には歯抜きの刑に頭を剃るというのは、どういうことなのか理解できないが、間もなく、西蔵の刑術はおどろくほど洗練されたものだということを知るようになる。頭を剃り終ると、刑僧がヤットコを受刑者の一人に渡し、父に子の歯を、子に父の歯を、というぐあいに交互に抜かせる。刑僧は直接になにもしない。円滑に刑が進行するよう傍で鞭撻するだけである。はじめのうち、受刑者たちはやさしくいたわりあっているが、そのうちにたがいに呪咀しあい、最後はあらんかぎりの憎しみを投げあう眼もあてられない場面になる。歯は全部抜けたが、刑は終ったのではない。そこからはじまる。こんどは、抜いた歯をたがいの脳天へ金槌で打ちこまなくてはならない。さっきの毛剃りは、歯を楽に頭蓋骨へ嵌入させようという親切な配慮だったことを、ここではじめて諒解する。なおまた、受刑者が仏敵であるときは、打ちこんだ歯の配列が、仏陀のイニシアルになっている梵字のチベット文字ta+音節区切り記号のグリフのフィギュアを描くように、傍から丁寧に指示するのである」
 受刑者の身体を焼く刑罰にしても、西班牙や独逸では、石炭の火を入れたアイロンで身体を撫でまわすとか、蝋燭の火で気長に腋を焼くぐらいのことしかしないが、そういう場合、ラマ僧は硫黄のかたまりに火をつけてどろどろになるのを待ち、焔のたつ硫黄の溶体を棒の先ですくって、ここと思うところへ気まぐれに塗りつける。受刑者が火を磨り消そうと努力すればするほど炎の面積が広くなり、燐が骨を腐蝕する時間が早くなる。つまり刑罰の主要なモーメントの案配は、受刑者の自由意志に任せるといったぐあいになっている。
 この二つの例だけをとってみても、ラマ僧は残酷の真の意味を理解していることがよくわかる。相手に与える苦痛そのものにたいする洞察力と想像力は、どんな智力でも及びつけないほど深い。見せかけのむごたらしさに眩まされるようなこともなく、客観的な残虐さに酔い痴れるようなこともない。あくまでも実際的で、受刑者の感受性を土台にして周到に計算され、相手の苦痛を想像力で補ったり割引したりするような幼稚な誤りをおかさないのみならず、単純ないくつかのマニエールに独創的な組合せをあたえることによって、誰も想像もし得なかった測り知れぬ残酷の効果をひきだすのである。
 ラマ教徒の残虐精神が活発な動きをみせている間はまだしも助かるが、怠けて動かなくなると、刑罰はたとえようのないほど陰惨なものになる。その一つの例が西蔵式のカロリナ刑法である。
 樹皮を剥がない丸太の二重柵で囲った十尺四方ぐらいの空地のまんなかに、長さ四尺、高さ一尺五寸ぐらいの檻が置いてある。それは受刑者が生きたまま入れられる監房なのである。受刑者は首と両腕を一つの鎖でいっしょくたにまとめられ、坐ることもできなければ身体を伸して寝ることもできず、背を曲げ、何年となくかがんだままの恰好でいるので、四肢は使途を失って骨と皮ばかりになってしまう。食餌は番僧が思いだしたとき、檻の鉄棒の間から便宜に投げこまれる。西蔵ではめずらしくない零下二十度という寒い日でも、蔽い物として羊の皮を一枚与えられるだけである。欧羅巴のカロリナ刑法は、拘禁が餓死に導くように配慮されているが、西蔵人のやりかたは、カロリナ刑法から餓死の部を引き去り、それにハンブルグの鎖拷問と西班牙の拘搾拷問を附け加えたものであることがわかる。
 これがラマ教徒の加虐性が怠けているときの結果だが、そういう状態で、最低五年から二十年ぐらいまで忘れられる。受刑者のことだが、そうしておし縮められた肉体の苦痛は言語に絶するものがあろう。飢えさせられ、てつかされ、呪われたものの呵責をこうむりながら、どうして生きていかれるのだろう。人間の智慧ではわからないことだが、ここにもラマ教徒の行届いた残酷技術の勝利があることを知らなくてはならない。というのは、そういう不幸な受刑者の命の緒をつなぎとめ、天寿が終るまで、ゆるゆると生きつづけさせる延命薬のようなものが発明されていて、渇きの頂上で水に混ぜてこっそり飲ませる。自殺を企てて食餌を拒むものでも、水だけは飲まずにいられない人性の必然を利用するわけだが、当人は、こんなひどい目に逢いながらどうして死ねないのだろうと訝り、第三者は、こんな状態でよく生きていられるものだと驚嘆するのである。
 おなじころ、鎖国前の享保四年(一七一九)に入蔵した、カプチン派の伝道士フランシスコ・デラ・ペンナは、ラマ教の実体を紹介した最初の欧羅巴人だが、ラマ法皇の悲劇的な境遇と、大臣連の公然たる弑逆の風習について詳細な報告をしている。
 ラマ教は中世に旧教(紅教)と新教に分れたが、元代に蒙古王の忽必烈フビライがラマ新教に帰依し、パスパという僧に西蔵の統治を委任したのがはじまりで、代々の貫主が枢機にあずかっていた。その後、五世貫主は政教を統一して大僧正と国王を兼ねる事実上の法皇(ダライラマ)第一世となり、タシルムポの副城に副王(パンチェンラマ)を置いて西蔵国を興したが、康熈五十九年(一七二〇)に内乱があり、清の聖祖は鎮撫に名を藉りて兵を出し、督弁政務使をやって政刑に干渉し、間もなく清国の属領にしてしまった。
「西蔵仏教は輪廻の教えや転生の説のほか、口で説明できないような深玄な汎神論のなかで浮動しているが、ラマ教の教理にしたがうと、法皇は観音菩薩の化身で、死ぬとすぐ転生して、誰かの胎内から産声をあげて出て来、降生的に法皇の位をつぐことになっている。
 法皇のなかには、臨終の床でこんどは何村の某の子になって生れるから、その子をおれだと思えと遺言して死ぬ用意のいいのもあるが、そうでないと、法皇が息をひきとった時間に生れた子供を手分けして探す。一人だけであってくれればこれに越したことはないが、三人も四人もいると、いるだけの子供を候補者に指定して五歳になるのを待ち、子供の名を書いた紙を繭玉に封じこんで金ピカの甕に入れ、督弁政務使が象牙の箸で繭玉を一つつまみだす。その子供がつぎの法皇になるのである。
 法皇えらびは西蔵ではもっとも厳粛な儀式になっているが、といって絶対に掛引がないとは断言できない。自分の子供が法皇になると、一族のうるおいはたいへんなものだから、政務使や大参事に莫大な袖の下をつかい、自分の子供の名を挾みだしてもらえるように奔走する。
 幼王が定年に達するまで副王が摂政するが、その十何年間は、閣僚や高官にとって、なによりありがたい書入れ時になる。副王にはなんの権力も与えられていないので、自分たちでいい加減な政治をとり、思う存分に私腹を肥すことができるからである。その連中のねがいは、法皇が永久に五歳のままでいるか、白痴であってくれることで、英邁俊秀といったタイプをなにより嫌う。三代から七代まで、五人の法皇のなかで、廿五歳まで生きのびたものは一人もいないが、それらはみな巧妙な方法で暗殺されたと信じられる節がある。
 八代の法皇が急病で床についたとき、立会人にえらばれて、法皇宮における医官の奮闘ぶりを見る機会を得たが、逝去するまでの前後の情況は、この世にこんな暗殺の方法も存在することを紹介するためにも、充分に記述する価値のあるものである。
 ダライラマ八世は、機才に富む、聡明な、そのうえまれにみる健康の保持者で、廿三歳になるまで、病気らしい病気をしたのはそのときがはじめてだった。熱が高く、汗を流し、発作的に咳きこむたびに軽度の痙攣があった。感冒をこじらせ、気管支炎喘息をおこしかけているくらいのところで、手早く処置すれば四、五日で快癒する程度のものであった。
 治療はまず騒ぞうしい祈祷からはじまった。ラマ教の信仰では、病気はすべて悪魔、厄鬼、死霊などのなすわざであり、悪魔を祓ってからでなければ、どんな名薬を飲ませても効目がないことになっているので、医者で修咒者より先に病室へ入るようなことはありえない。法皇の場合といえども、違法はゆるされないのである。
 大修験師を先頭に十六人の修咒者が入ってくると、あるだけの窓をみな開けはなしてしまった。せっかく祈りだしても、厄鬼が逃げて行く道をつくっておかなければなんにもならないのである。修咒者は床に坐りこんで大きな円陣をつくり、凛烈たる寒風の吹きこむのにまかせ、振鈴や太鼓の伴奏で咒文の合唱がはてしもなくつづく。法皇は濛々たる線香の煙の氷のような冷たい夜風を吸いこんで、とめどもなく咳きこむ。法皇にとりついている羅苦叉鬼ラクシャキ鳩槃陀鬼クハンダキが、祈りの力に抵抗して最後のあがきをやっているのである。修咒者はここぞとばかり太鼓を鳴らす。そういう無情な行を夜明けまでやる。法皇は呼吸痙攣をおこし、酸素欠乏で失神してしまう。大修験師は厄鬼を祓ったといって、法皇を医者の手にわたす。それからいよいよ治療にとりかかる。
 侍医長が十人ばかり医官を連れて入ってくる。まず腕から一ヴァース(約一合五勺)の瀉血をし、肩に傷をつくって吸いガラスでほぼ同量の血を絞りとる。法皇の頭を剃ってユーカリの油に芥子とアラビヤゴムを混ぜた発泡膏を貼り、馬銭子(マチン)の種と曼陀羅(チョウセンアサガオ)の葉を煮だした熱湯で足を罨法する。そういう殺人的な処置をしておいて、おもむろに投薬を開始する。
 侍医長がいちいち入念に毒見して医官に返す。まず檳榔子とタマリンドの果肉の煎汁に鼈甲の粉末をまぜた下剤を三カデックス(約三合)ほど飲ませ、吐剤として牛※(「釐」の「里」に代えて「牛」、第3水準1-87-72)(ヤク)の糞と芸香と銭苔を練りあわせた丸薬を一ドラチューム(約十匁)、鎮咳剤として印度大麻の葉、落葉松茸(エプリコ)、金銀花(スイカズラ)の花の煎汁をそれぞれ二カデックス(約二合)ずつ。乾漆(ウルシ)合歓(ネム)の木の樹皮の粉末をパパイヤの乳液で溶いた下熱剤を一ポスラム(約五合)あまり、これだけのものを渋滞なく矢継早やに飲ませる。
 ここでちょっと中休みをしてようすを見る。容態はいっこうによくならないので、瀉血から下熱剤までの過程をはじめからもう一度くりかえす。法皇は三時間ばかりのあいだに二ラゲーナ(八合強)の血をとられ、そのかわりに七ラゲーナ(二升八合)の高貴薬の煎汁を収めたことになる。二回目のクールの終りに近づくと、法皇は息もたえだえになり、溺死の一歩手前のところで藻掻いている。合議のうえ医官らは非常処置をとることに意見をまとめる。督弁政務使、大参事、大書記官、大臣以下、金繍きんしゅう職帯しょくたいをしめ大きな立毛のついた礼帽をかぶった枢機員が、法皇の転生をちょっとばかり早める事務の、最後の仕上げの部分を検分するために入ってくる。
 侍医長は、羚羊の生血と、猿の脳エキスと、印度大麻草の煎汁と、樟脳精を混合した強心剤の大椀を捧げ、西蔵風のアラベスクを金象嵌した極彩色の法皇の寝台へ近づいて行く。法皇は恐怖の叫び声をあげて無益な抵抗をするが、たくましい医官に左右からおさえつけられ、なにも受けつけなくなっている咽喉の奥へむりやりに強心剤を注ぎこまれる。五分後、ダライラマは眼もあてられぬ苦悶のうちに息をひきとった」
 耶蘇会士の異色ある「異邦伝道報告書」のなかでも、寛永六年(一六二八)に欧羅巴人として最初にラマ教徒の聖都に足を踏み入れたルイ・ドルヴィルの地理学的な史料は、旅行記としてもすぐれ、キルヘルの「支那図説」の中に収録されているが、海抜一万六千尺という地球の頂上にある冥蒙たる地域に、紀元前三世紀に滅びてしまったニネヴェ古代帝国以来の燦然たる文化の遺業をそのままにたもち、周囲約一マイル、延長三十八マイルの廻廊をめぐらす大宮殿と、二万の学徒を収容する三つの大学があるという、光明の都、拉薩ラッサの危険なまでに美しい記述は、読むものを夢心地にさせ、西蔵の周辺で多くの探検家を破滅させる機因をつくったといわれている。
「ゆくてにはやさしいなだらかな小山があるばかりであった。褐色の平原がゆるく波をうちながら茫々とひろがっている。大気は完全な均衡をたもち、人の気配はさらにない。締めつけるような沈黙のなかで、自然が魔法にかかったように四季のめぐりをとめている。人間と季節に見捨てられた異様な眺望であった。
 山のむこうにはまた空漠たる曠原が待ちうけているのだろう。それはもう十分に予期されることであった。かすかに残っている野馬の踏附け道をたどりながら頂きまでのぼりつめると、なんの前触れもなく、いきなり眼の下に現出した壮大な景観に思わず声をのんで立ちすくんだ。
 曠原のファンタジア――その蜃気楼を一瞥したときのおどろきを、どう言いあらわしていいかわからない。そのときほど強く心霊をゆすぶられた経験は、かつて一度もなかった。
 はるばるとひろがった平野のまなか、突兀たる岩山を背にした雪のように輝く白堊の大宮殿と仏殿と僧院の大群落が、乾燥した空気の作用で、無類の鮮かさでクッキリと浮きあがっている。岩山の頂きには古代契丹の放胆な規模を思わせる仏殿があり、無垢の黄金と黄瓷を載せた天蓋が、青銅の緑と大斗たいとの朱と照応して虹のような美しい光を空に放っている。その下の宮殿は立方体式の宏壮な石※(「土へん+專」、第3水準1-15-59)を幾層となく積みかさね、幾何学的配列で窓をうがった正面の壁はやや前方へ傾斜し、古代エジプトの神殿建築のバイロン(塔門)の様式に似ている。正面だけでも半リーグ(約半里)以上もある建物が岩山の南面の半ばを蔽いつくし、それを中心にして、拝殿、祠殿、霊廟、僧院、仏塔と幾百の堂宇が無数の石階や石廊や拱門で縦横につながり、四千年前に消滅したテーベの栄華の宮殿の復原図を眼のあたりに見るような幻想的な画面をつくりあげている。
 空を摩して聳えるヒマラヤ山脈の等高地帯、喜水キチュの渓谷に、西蔵の主都であり西康、青海、蒙古、新彊、露領トルキスタン、裏海沿岸に住む黄ラマ教一千万の信者のメッカになっている拉薩という都があることは知っていたが、モンブランの二倍ほどの高さのユングリング・リラの切通しのかなた、西蔵高原の風雪に櫛けずられた広袤一千リーグ(方千里)の荒れ地の果てで、眼をおどろかす荘厳華麗な大都市の実在プレザンスに接しようなどと誰が想像したろう。
 ポンタマー・ホ(玉の宮殿の意)と名づけられている大宮殿の壁の厚さはただごとではない。鼓楼のある三つの大門と、電光形の石階と、迷路のように上下八方に通じている暗道の仕掛を見ると、この宏大な宮殿は王宮と城塞をかねていることがわかる。神獣や曼陀羅を彫刻した仏殿のおどろくべきコレクションや、黄金の蓮の花の上に立っている宝石を鏤めた十六アンパン(約八十尺)の純金の仏陀像を挙げずとも、ラッサがラマ教徒の聖都だという不変の証拠がある。数えきれぬ僧院と精舎で唱和する読経の声が、鐃※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)と太鼓の伴奏で絶えることなく空中にただよい、メッカをめざして何百里の困難な旅をしてきた巡礼が、半リーグもある長い参道を、一歩ごと額を大地にうちつけながら、大仏殿のほうへ這って行く敬虔なすがたが見られる」
 アフリカ大陸の暗黒地帯、サハラ砂漠の中央、黒人国イスラム王国の文化の中心になっているトンブゥクツーという学問の都があって、そこのサンコレ大学にギリシャ、ラテンの詩文の写本やアラビヤ語の古典が集まっているといわれ、回教の大学生がトンブゥクツーの黄金の富の鵞鳥のペンでトルコ王に書き送ったという佯りの記述があるが、ラッサは伝説のなかにあるのではなく、絹の交易路を通って印度を横断し、ブータンとパミールを経て入ってきたシリヤ、ペルシャの文化の原形が潴溜ちょりゅうしている学問の偉大なる都なのである。ラッサの近郊にはデプン、セラ、ガルダンという三つの大学があり、大学は三つのターサン(部)に分れ、ターサンにはおのおの十八のカムツァン(科)があって、二万五千の学生が、中亜梵語のブラーフミーやゾクト語やウィーグル語などの死語で、仏典や経論の研究をしている。大仏殿の経蔵には七世紀のはじめに版行した西蔵語訳のカンジュール(一切経)をはじめ、六朝唐代の石摺の経本(唐拓)、※(「示+夭」、第3水準1-89-21)経(拝火教の経典)、摩尼教の教本、景教(ネストリアンというキリスト教の一派)の経本、ザラツシトラ教の経本など、千年も前に消滅してしまった世界宗教の経典が原本のままで残っている。
 濠洲の内部と中央アジアの探検が終ったので、世界地図の「白い部分」は、両極は別にして、人間の住む地域では、アフリカのイスラム王国と西蔵ということになった。イスラム王国のほうは、一八二七年(文政十年)にルネ・カイエというフランス人がトンブゥクツーを見、生きてそこから出てきた最初の欧羅巴人としてフランスへ凱旋したので、もはや神秘と冥蒙の国でなくなり、西蔵だけが知られざるただ一つの土地として残された。異邦伝道報告書で明るみだしたとはいえ、それらは人情風俗のほのかな瞥見でしかないから、地理学上の知識を得ようと思うなら、西蔵へ入って自分の手でヴェールを剥ぐしかない。それで、一八一一年(文化八年)のマイエングを最初に、英、仏、露、洪、米、瑞の探検家や地理学者が西蔵の堅固な障壁に挑戦しだした。
 印度からラッサへ入るには、ダージリンからヤートゥンを経由する公道のほかに、桃渓へ迂回する傍道と、カンチェンジュンガの西の鞍部、二万三千尺のユングリングリラ越えをして西から入る間道がある。印度からの入蔵を避けようとすれば、西康、青海、トルキスタン方面、ほかに怒江の上流の西寧を経由する方法もあるが、西蔵内部の交通路は、どんな間道を縫って入ってきても、上手な将棋指しが一つの駒であらゆる敵の進路をおさえてしまうように、いつかは公道を通らずにはすまぬ抜目のない設計になっているので、結局、外西蔵のどこかの道関で食いとめられ、国法を犯し、仏法相応刹土を洋夷の靴で穢した大罪によって、五体投地ごたいとうち稽首作礼けいしゅさらいという苛酷な刑に処せられる。西蔵馬に乗った押送使と四人の警兵が附添い、大地に平伏して摩※マニ[#「てへん+尼」、U+62B3、141-上-15](ラマ教の真言しんごん)をとなえさせ、何十里あろうとおかまいなく、西康なり青海なり、潜入してきた国境まで匍匐ほふくさせる。
 何週間かかかって国境まで這い戻ると、裸馬に乗せてはるばる甘粛新彊まで送って行き、カラコルムの峠を越えたツァイダムの沙漠の入口で、足のうらにうるしを塗って釈放する。食物も水もくれないが、一日行程のところに水があることと、行くべき方向をくわしくおしえる。一日行けば水にありつけると、夢中になって歩きだすが、間もなく、発泡剤のおかげで足のうらに水膨れができ、匍匐するほか進めなくなる。空気の乾燥した土地では、水無しで生きられるのは、十九時間を限度としているが、異常な忍耐で、水のあるところまで這い着いた人間だけが、生きて帰ってきた。
 さいわいに外関(国境に近い道関)をすりぬけることができても、その先に内関(府関)が待ちうけている。どの方面から来ても、ラッサへ入るには五カ所の関門で査閲されるが、反坐法という複雑な手続きがあって、どんなに急いでも廿日はかかる。まず第一関で仮照(仮りの通行券)をもらうのだが、それには区長と五人の村民を保証にたてなければならない。まちがって異邦人を通したような場合、区長と五人の村民が同罪に坐す仕組みである。仮照を持って第二関へ行くと、西蔵語の書試と口試を経て、清国駐蔵大臣の直轄する第三関へ送られる。清国人に扮装して入ってきたものは、すべてここで最期を遂げる。つぎに第四関でもう一度入府の請願をし、仮照を返してほんものの護照を受け、府関査察のいる第五関で通関税と入府税をおさめ、護照に入府許可の査証を請托する。そこから第三関へ戻って、第三関、第四関、第五関と順々に関長の副印をもらい、それでやっと府内へ入るのである。
 文化八年のマイエングから明治廿九年のスウェン・ヘディンまでの探検家のうち、ラッサの潜入に成功したのは、フランスの宣教師ユックとガベェの組、サラット・チャンドラというブータン系印度人の西蔵語学者だけで、あとはみな西蔵の辺外諸部で不幸な終りをとげた。ブルジェヴァルスキー将軍などは、十五年にわたって、北と東から四回も潜入を企図したが、とうとう目的を達することができず、ボンヴァロは、ラッサを距る百哩ばかりのテングリ海のそばで、リットルデール夫妻はラッサを指呼の間に望む、あとわずか五十哩というところまで迫りながら、いずれもラマの兵僧に発見されてしまった。

 麻の衣に網代笠、風呂敷包を腰につけ、脚絆に草鞋という、頭陀行ずだぎょうに出る托鉢僧のような恰好で山口智海が日本を出発した、明治卅年までの、これが西蔵探検史の概略だが、智海はそういう事情を、なにひとつご存知なかった。お前は西蔵へ行くというが、西蔵というのはどんなところかと聞かれたら、知らないと答えたろう。近年ウーヘッドが「支那年鑑」で、西蔵の面積は一、一九九、九九八平方粁、人口約六、五〇〇、〇〇〇と発表したが、それにもいろいろ異説があるくらいだから、探検家でさえ空しく西蔵の周辺を彷徨しているという時代に、日清戦争が終ったばかりの日本で、西蔵の正確な概念を得ることなどできる訳のものではなかった。身につくものといえば、康熙五十三年版「官板西彊四大部図」を謄写した手製の西蔵地図、光緒二年に北京で出版された天主公教会の神父有向の「韃靼旅行雑写」(アッベ・ユック「韃靼古道」Abb※(アキュートアクセント付きE小文字) Hu※(セディラ付きC小文字) Haute voie de Tartare の漢訳)、十年ほど前、サラット・チャンドラという西蔵語学者がラッサから大量に史料を持ちだし、印度のダージリンで西英対訳辞典の編纂をしているそうだという知識ぐらいのもので、それで、とりあえずその人に逢って入蔵の方法をたずね、できたら、紹介状のようなものでも貰おうと考えていたのである。
 地図の上では、ダージリンからブータンを通って、東北へ十五、六日歩けばいいのだが、この道は、百五十年前から厳重に閉鎖されているので、ブータンの西隣りのネパールへ行き、エヴェレストにつぐ世界第五の高山、ドーラギリを二万七千尺、富士山の二倍の高さのところで突破して西蔵の西南部へ入り、東へ行くべきところを、反対に西へ西へと二百里、マナサロワールという大湖の岸を半周したところで、はじめて東に向い、氷河の溶けだした、たぎりたつ激流をいくつか泳ぎわたり、海抜一万六千尺の漂石(氷河が押し出した堆石)の高原で形容を越えた苦難に苛まれながら、千二百里というたいへんな迂回路を一人で歩き通し、神戸を発ってから六年目にラッサへ入った。
 衣の裾のすぼけた貧相なようすで数珠を持って立っている、黄檗山時代の写真が残っている。痩せて眼ばかり大きい、機転の閃きのない印象稀薄な風態で、どこか怯懦の感じさえある凡々とした顔つきの男が、そんな激烈な到来とうらいをしたとは思えないが、智海自身もかならず成功するとは思っていなかったようである。失敗ばかりしているくせに、いつの間にかなんとなく芽を出してしまう政治家のように、すこしも自分を信用していず、ジタバタもしていない。神戸を出発する前日、友人に、「ぼくは身体も弱いし、臆病でもあるしするから、ひとのやるような無理はしない。ひとが十七年でやるところを、ぼくは三十年でも四十年でもかけてやる。死ぬまでにやれたらいいと思っている」といっている。
 玄奘三蔵が印度からお経をとって帰ったことが頭にあるので、玄奘でさえ十七年もかかるのだから、自分のような凡くらは、死ぬまでにやればいいほうだという意味だったのだろうが、この一言は、はしなくも自分の運命をぼくしたことになった。スタンダールの「赤と黒」のジュリアン・ソレルは、郷里を飛びだすとき、聖水盤の血を見たり、偶然、ある男の死刑執行の新聞記事を読んだりする。それらはみな運命の前兆だったのだが、智海の心霊も自分の運数うんすうを深いところで予知していたのかもしれない。
 六月一日にカルカッタに着くと、智海はすぐ汽車でダージリンへ行った。ダージリンはブータンの国境に近い一万四千尺の高地にある避暑地で、すぐむこうにカンチェンジュンガが頂を雲のなかに突きいれ、巨大な氷の柱のように立ちあがっているのが見えた。ほかに目的があるわけではないから、率直に訪問の素志をのべると、チャンドラはなんともいいようのない表情で、しばらく智海の顔を見まもっていた。
 この一世紀のあいだ、世界の一流の探検家でさえ一人も成功したものがないというのに、この青僧は事もなげに「西蔵のラッサへ入って」などというのだ。大きな子供ぐらいにしか見えない貧相な沙弥の顔を見ながら、案外、世俗的なところもあったチャンドラが、なにを考えていたか想像に難くない。
 狂信的なラマ教徒の独尊自大はともかく、日清戦争以来、清国人にとって日本人は不快な人種になり、西蔵の清国官吏の間に興清滅洋シンチーミエーヤンの思想がたかまっている。そんなところへ入って行ったら、どんな目に逢うか知っているのだろうか。ラッサへ入って、カンジュールを手に入れたいのだそうだが、甘珠爾(勅命訳一切経)は「経」ではなくて「仏」なのだ。北京版の甘珠爾は甘粛省敦煌の雷音寺(千仏洞)の経窟におさめられているが、毎年、五月初めの灌仏会大法要には、一切経を拝むために、青海のツァイダン王や、甘粛新彊の端郡王までが、はるばる敦煌まで出かけて行くくらいのものである。
 チャンドラにすれば、この男は正気なのかと疑いたくなったろう。あまり突拍子もない話なので相手になる気もなくなった。しかしだんだん聞いてみると、狂気どころか大真面目で、放っておくと、このままラッサへ行ってしまいそうな意気込みだから、チャンドラは本気になって説得にかかった。ラッサへ入るのは、どれほどむずかしいかということを、思いつくだけの例をあげて説明したが、「でも、あなたは入ったのでしょう」といって動かない。お前に出来ることがおれに出来ないわけはないといいたそうな顔である。
 チャンドラという洋夷が一年近くラッサに潜伏し、目的を達して印度へ帰ったという牒報が入ると、ラッサの法皇庁はものすごい痙攣をおこした。チャンドラに出入の護照を出した関長はもとより、滞在と通行に有形無形の援助を与えたものは、情を知ると否とに関係なくみな永世牢へ追いこまれ、チャンドラの西蔵語研究を指導したというので、西蔵一の高僧センチェン・ドル・ジェチャン(大獅子金剛宝)の死体を一年の間、毎日、百回ずつコンポ河へ沈め、骨についている腐肉を匙で掻きとって蒼朮そうじゅつの煎汁で晒し、骨格を関門の地下二十尺のところへ拝跪するかたちにして埋めた。ラマ教の信仰では、金剛宝はそれで永久に転生することができず、大地のあらんかぎり劫罰を受けることになるのである。
 自分の都合で他人に意外な災厄を及ぼし、おのれは清雅高燥の地で悠々と辞典を編纂しているという自覚で、チャンドラはたえず良心の呵責を受けていた。異邦人がラッサへ潜入すれば、当人のみならず、直接間接に接触したすべての人間に累を及ぼすことを知らせたかったのだろうが、さすがにそこまでの告白をする気はなく、いろいろと想像に及ばないような危険があるのだから、無謀なことはやめにして、ここで西蔵語でも勉強して帰ったらどうかというくらいのところで、とやかくと忠告した。
 宗教というものは、自己一身の施捨せしゃによって、あくまでも他人の幸福を拡充していくことにほかならない。入蔵の目的もその一点に凝っているのはいうまでもないが、智海という男は、絶えず自分に鞭うって進んで困難にたちむかい、そういう境界で自分の行動を創りだして行く苦行者のタイプだったから、危険とだけでは納得するはずもなかった。チャンドラのお座なりの忠告などは、智海の耳になんのひびきもつたえなかったが、入蔵前に西蔵語を身につけておくことはかねての計画だったので、チャンドラのすすめにしたがって、ダージリンから一里ほど上ったグンパールという僧院に入ることにした。
 グンパールは黄教ラマの僧院で、丘陵の思い思いのところに石灰を塗った方形の僧房が建っていた。石門の前の草原に、黄の衣を着たラマ僧が五人ばかり、しゃがむともつかず坐るともつかぬ恰好でうずくまっている。なんだと思ったらそれは排便中のポーズなのであった。
 チャンドラから話があったのらしく、シャブズンという僧院長が承引して僧房を一つ開け、一カ月五タンガー(約十銭)の学費で西蔵仏典の講義をしてくれることになった。僧房は厚い壁と閂のついた重い扉で仕切られた三坪ばかりの薄暗い部屋で、羊毛の毛氈を敷いた臥牀と※(「火+亢」、第4水準2-79-62)カンの焚口がついているだけの簡素なものである。
 僧院には五十人ばかりの学侶がいたが、いずれも骨格のたくましい屈強な壮佼ばかりで、お経などはろくに読まず、石投げ、高飛び、棒術など武技の練習に精をだし、なにかというとすぐ草原へ出て決闘をする。いいかげん傷がついたところで、仲裁が入って仲直りの酒を飲むといったようなことばかりやっている。学業はすべて問答で、一人が端坐しているところへ一人が数珠を持って歩みよって来て、手を向い合わせに拡げ、大きな声で「チー・チ・クワ・チョエ・チャン」と絶叫して手を打ちあわせる。文珠菩薩の心、という真言である。問われたほうは「チー・ターワ・チミエ・チャン」とこたえる。宇宙間、如実の真法において論ずという意味で、それから問答がはじまる。問いを発すると同時に、左足を高くあげて両手をひろげ、手を拍つ拍子に、力まかせに足踏みをするという荒々しいものである。
 朝は教学、午後はダージリンへ下りて托鉢をし、夜は読経に費した。僧院の同学は智海を支那の仏僧だときめこみ、お経ばかり読んでいる気のきかないやつだと思うかして、当らず触らずの扱いをしていたが、時折、その連中が話していることを聞くと、西蔵の辺外諸部の国境に近いところにあるこうした僧院は、西蔵へ潜入する異邦人を監視する耳目じもくなので、托鉢や説法に出たついでにそこここで情報を集め、毎日、駅伝でラッサへ報告を出す。必要があれば尾行もし、村民を煽動して抹殺してしまう暗殺者の役までやるらしい。この連中の度外れに殺伐なわけもこれでわかったが、こういう行届きかたでは、国境の町で、大掛りな入蔵準備を必要とする探検隊が失敗したのも、当然すぎることと思われた。
 有向という耶蘇会士の「韃靼旅行雑写」はいろいろと有益な示唆を与えてくれた。北京で西蔵布教の命令を受けると、有向は蒙古のドロンノールへ行き、ラマ廟に四年、西蔵人の遊牧者の天幕に三年居て、ラマ僧の完全な肉体化をしたうえ、二百人以上の巡礼と話をして道関組織の綿密な研究をしている。チャンドラの話では、この一世紀の間、ラッサを目ざした延べて何百人の努力がみな失敗に終ったということだったが、そういうなかで有向だけが成功したのは、ひとえにゆるぎない堅信と誠実な人柄によることである。おのれは西蔵語を修得する方便に経典を読んでいるが、こんな軽薄なことではとうてい本願はとげられないと、率然と勇猛心をふるいおこし、思いたったその日に誓願文を書きあげた。
 本願をとげるまでは、文珠問経の戒法にのっとって百戒の戒相を保ち、四不浄食に堕せず、托鉢した清浄なもの以外には食わぬこと、日本人としての一切の地縁と血縁を放下し、今生では父母兄弟師友と相見あいまみえないこと、結願の暁には、ラマ宗徒が聖地とあがめているところを、異邦人の靴で穢した罪を謝するため、両足を膝から下を斬って犬狼に施捨供養すること、以下二十六カ条のものであった。
 翌日、未明に谷川で斎戒沐浴し、カンチェンジュンガの氷の山をまなかいに見る台地に坐った。百八遍の礼拝をして誓願文を読み、山に向って「何事の苦しかりけるためしをも人を救はむ道とこそなれ」と朗詠し、導師の学位を受けるためにあらためて学寮に入った。ラマ教の教学の組織は、名目みょうもく、教儀、集解しゅうげという順でやっていく。智海は卅一年の五月に中座に進み、その年いっぱい観心と玄義をやり、卅二年の暮に小導師の位をとった。
 そうしているうちに、毎年、陰暦九月上旬から翌年の二月の中旬まで六カ月の間、西蔵の巡礼がネパールのカトマンドゥの大塔へ参拝に来るということを聞いた。
 ネパールはブータンの西隣り、西蔵と印度との間にある半独立国で、ほぼ中央のところを、東から西へ、ヒマラヤの主山脈が氷の障壁をひきめぐらしているのに、エヴェレスト、アンナプルナ、ドーラギリなど、世界で一、二の高山が五峯も集まっている削峻たる地形である。西蔵とネパールはその以前、ヒマラヤの北にあるクヒンガングリ山脈のノラの大峠を通じて交通していた。文久三年(一八六三)にモントゴメリー少佐を隊長とする英国の探検隊が潜入して以来、この道も閉鎖されてしまったということだが、それにもかかわらず、大勢の巡礼が入ってくるところをみると、抜ける道があるのにちがいない。そこで聞けば、なにかの便宜がありそうなので、翌卅三年の一月、早々退舎して、カルカッタから汽車でカトマンドゥへ行った。十日の法要に連り、知合いになった巡礼たちにたずねてみると、メンダンという峠に巡礼だけが通る道があるが、ラッサの法皇庁の旅行券を持ったものでなければだめだということで、この道も問題にならなかった。
 二月の半ばまで大塔の精舎で空しく日を送っていたが、百年ほど前、乾隆年間にネパールのグルーカ族で三万尺のドーラギリ越えをして西蔵へ攻め入り、ラッサの近くまで迫ったという話を聞くと、なにかしきりに気持が惹かれた。そういう折、おなじ房にいた慧憧(ギャルツァン)というラマ僧が暇乞いにきた。ドーラギリの山裾にあるカンプゥタンという村へ帰るのだが、村の精舎に、蔵経の律部の写本があるから読みに来ないかと誘われたので、よろこんでついて行った。
 カンプゥタンは一万八千尺ほどの高地の斜面に、牡蠣かき殻のようにしがみついた五十戸ばかりの寒村だった。村のすぐ端れまで氷河がさがり、風雪に洗われたドーラギリの尾根が眉に迫るように聳えている。住民は西蔵の北の高原から来てここに定着した純粋の西蔵人ばかりで、どの家の屋根にも、真言の文句を刷った白旗がヒラヒラし、話に聞いた西蔵風景にそっくりだった。男は白い羊毛のシャツと、和服によく似た、膝きりの羊毛織の布衣をゆったりと着こみ、その上に革帯をしめている。袖の長いことはおどろくばかりで、筒のようになったのが、上衣の裾のまだ下まで垂れている。この袖は防寒のためだが、食器を拭く雑巾の役もする。家にいるときや、右手を使いたいときは、片肌脱ぎになって長い袖を腹巻のように帯の上に巻きつける。男はみな髪を剃り、外へ出るときは、釣鐘をひっくりかえしたようなかたちのフェルト帽子をかぶる。ヤクの皮でつくったしなやかな半長靴を穿いているが、上端のほうが大きくできていて、煙管、煙草容れ、茶筒、木椀など、なにもかもみなそこへおさまってしまう。
 西蔵は一妻多夫の国で、兄弟が五人あっても七人あっても細君は一人で間にあわせる。地味が痩せているので、めいめいが妻帯しても食わせることができない。長男がまず嫁をもらい、そのうちに弟が年頃になると、母の仲人で兄嫁と夫婦になる。つぎの弟がまたこれと夫婦関係を結ぶというふうに、兄弟で一人の細君をアチコチする。父と子で一人の細君をもっているのもあり、二人、三人の娘に一人の養子をもらう例もある。それが一間きりの狭いところで暮しているので、どちらの側でも姦通は遠慮なく公然と行なわれる。こういう風習の中では姦通は意義をなさない。つまりは、なにも教えられたことのない子供のように、天然自然の生活をしているので、慎しみとか行儀とかいう観念は、かつて生活の仕組みに入ったためしがないのである。
 カンプゥタンには肉をとって食うほど羊の数がないので、ツァムバ(炒麦)やバタ茶の凝結乳ヨーグルトを常食にしていた。火にかけた鉄鉢の磚茶たんちゃが煮えると、その黒汁を椀に盛り、山羊の臭いバタの厚切れを入れて炒麦を振りこむ。肉が手に入るまでこれで何日かの凌ぎをつける。それはいいが、男も女も服を着換えるのは年に一度、身体の垢は生涯身につけて手は洗うということをしない。大便をしても洟をかんでもそのままだから、身体は垢と脂で煤色になり、服はバタで汚れてピカピカ光っている。食事がすむと椀は舌で舐めておく。客でもあると、垢光りのする長い袖でグイと椀の縁を拭いて茶を注いですすめる。西蔵人ほどの不潔な人種がほかにあろうとも思えないが、なにごとも本願をとげるためと、つとめて汚穢の修行をしているうちに、四カ月ばかりで顔も身体も乾漆仏のようになり、一廉ひとかどのチャンタン(高原人)らしい見かけになった。
 村端の峯々は吹雪や雪雲にとじられ、いつ見ても暗澹たるようすをしていたが、五月の中旬をすぎると、モヤモヤと立迷っていたものが吹っ切れてだしぬけにドーラギリの全貌があらわれた。ギザギザの尾根がいくつか重なった山襞のむこうに、のけぞらないと頂が見えないような氷の峯が、信じられないほどの高さで立ちあがっている。いままでドーラギリの頂上だとばかり思っていたのは、麓の山裾をとりまいている小山の尾根なのであった。
 五月の終りごろ慧憧がやってきて、トルボ・セーへ行く気であるなら仕度をはじめたほうがいいという。トルボ・セーはドーラギリの向側、十日ほどの行程の谷合に隠れた山間の霊場で、一切経の写経はそこの精舎にあるのだが、ドーラギリは五月までは吹雪で通れず、六月の末からは雪が軟くなってこれまた通れなくなる。七月の末にはもう雪が降りだし、それが翌年の五月までつづく。ドーラギリ越えのできるのは五月中旬から六月末まで、一年のうちわずか四週間だけだから、行ったら来年の四月まで帰って来られない。それが承知なら山案内をさがしてやるというような話であった。頂の平らなあたりに、雪のない岩の肩がかすかに見える。あそこを越えるのだと慧憧がおしえた。この村がすでに一万六、七千尺の高地だから、ドーラギリの頂上は少なく見ても二万七、八千尺はあろう。そういう高いところを人が通れるとは、むしろふしぎなくらいだった。
 一週間ほどすると、ドーラギリ越えをしてカンプゥタンにおりてくるものを見かけるようになった。仏教の隠れ信徒か、前科者か、あぶなっかしい身の上で、どのみち道関は通れぬてあいばかりである。ラッサから来たというのがいたので、それとなくようすを聞いてみると、ラッサから道を北にとり、チャンタンの高原を百日ばかり西へ、マナサロワール湖の岸をまわってそこから南へ下り、西蔵とネパールの国境にある山脈を越え、南へ二十日ばかり歩くとこのドーラギリにいきあたる。話をつづりあわせると、だいたいそんなことになる。警兵はいないのかとたずねると、警兵どころか、四十日にいちど遊牧民の天幕に出あえばいいほうで、とても人間の姿などは見られるわけのものではないという。
 いずれはドーラギリを越えなくてはならない。理由をこじつけるのに難儀することだろうと苦にしていたが、このうえもない旅行の口実であって、公然と食糧の用意ができるのはありがたかった。さっそく仕度にとりかかり、食糧として小麦粉、炒粟、乾葡萄、塩、唐辛子粉、榧の油、木椀に木匙、羊の長毛を内側にして縫いあわせたツクツク(寝袋)、ひうち道具、薬品といった類のものを、八貫目ばかり荷にしてテンバという山案内に背負わせ、地図と磁石を靴のなかに隠し、カンプゥタンを出発したのは、明治卅三年の六月十二日のことであった。
 村端の氷河を渡って涸雪かれゆきの山襞をたどり、その日は早く露営した。
 二日目はよく晴れて軟風が吹いた。氷河を三つばかり越えたところでドーラギリにとりつき、日暮までいちども休まなかった。三日目は東北へ山を巻きながらのぼりづめにのぼった。越えるはずの東の雪鞍は、なお半里ほどの高さで見あげるようなところに聳えている。手早く昼食をし、岩隙のある削岩壁にとりかかった。たいへんな高度にいるので、ちょっと身体を動かしても肺が膨れ、心臓が口からとびだしそうになる。雪を含んだ烈風が真向に吹きおろし、睫毛に雪花がついて眼がふさがってしまう。帽子の耳蔽のなかで呼気こきが凍って氷殻ができ、それが針のように頬を突刺す。そうして東の肩までにじりあがったが、去年の大雪崩の雪堆が山のように残っていて、目あての切通しは通行不能ということになった。風当りのすくないところを探し、ツクツクをかぶって岩陰に身を寄せたが、寒気と泣き叫ぶような風の音でまんじりともできない。坐禅を組んで、眠るがごとく眠らざるがごとくにうつらうつらしていると、夜半近く、大雪になって雷さえ鳴りだした。雷鳴と吹雪のなかで、世界が生れ出る音を聞いたと思った。
 夜が白むのを待って、反対のほうへ鞍部をさがしに出かけた。鉛のように重い足をひきずりながら一時間ばかりのぼると、凍った薄い空気にやられ、山に馴れたテンバまでが咳きこみだした。見るとテンバの唇が無くなっている。顔も唇もおなじような土気色になり、唇が朝顔の蕾のように口のなかへすぼみこんでいる。いうにいえぬ異様な顔つきだったが、それをなんだと思う気力もない。空気に飢え、いまにも窒息せんばかり。一歩ごとに四つから十ぐらい呼吸し、ものの五歩も歩けば、いちど停って休まないと心臓が破裂しそうになる。ものを考える力も判断する力もなくなって、夢現ゆめうつつのまま機械のようにのぼっていると、テンバがなにかいいながら上のほうを指す。目の上の氷河の床から千五百尺ほどあがったところに、吹雪に傷められた荒れ肌の岩が二つならび、その間にザラメ雪に蔽われた切通しらしいものが見える。
 氷河の床まで這いあがると、狭いところをぬけてくる狂風が、地上にあるものは一切合財吹き払ってしまおうという勢いで、呵責なく吹きに吹く。氷河の終ったところから岩の割れ目をたどり、のろい苦しいのぼりを五分ほどやって休み、五分ほどのぼってまた休むという調子でうごめいているうちに、手足が痺れて岩についたまま動かなくなった。ひとりでに口が開いて、下唇がダラリと垂れさがり、眼にはいるものがみな二重に見えて焦点が合わない。すぐ上に、ザラメ雪の切通しが招くように光っているが、体力が尽きはてて上るも下るもできないことになった。
 昨日までは、はるか下にカンプゥタンの村端の氷河が白いリボンのように光っていたが、今はもう青黒い無限の空間があるばかり、手を離せば一万尺の下へ逆落しである。そういううちに睡気がついてウトウトする。智海は岩の出っぱりに力なくしがみつきながら、これでもう万事休したと、心をきめて臨終の願をたてた。「十方三世じっぽうさんぜノ諸仏、ナラビニ本師釈迦牟尼仏、本来ノ願望ハ遂ゲザレドモ、父母、朋友、信者ノタメ、イマイチド生レ変ッテ仏法ノ恩ヲ報ズルコトガデキマスヨウニ」――この手が岩角から離れたときが今生の命の終りと、朦朧とをとなえていると、テンバが精気の霊薬だというコカの葉を智海の口もとにさしつける。いまさらそんなものを噛んでみても甲斐ないことだと思ったが、いわれたとおりにすると、いつとなく動悸が鎮まり、いくらかものの綾が見えるようになった。いまこそ成否のわかれ目と、夢中になって這いずりあがっているうちに、急に風の吹きかたがちがってきた。そこは烈風が吹き浄めた岩層が平らにひろがった西の岩肩で、ついむこうに降り口が見えている。合掌したまま思わずそこへ坐りこんでしまった。
 二時間ほど降った岩曲で死んだようになって眠り、翌日一日下って、山腹のサンダーという寒村で泊った。三日ばかりそこで休養してから、厚くねぎらってテンバを帰し、六貫目ばかりになった荷を背負ってトルボ・セーのほうへ歩きだした。十日目の正午頃、見おろすような深い谷間にそれらしい村を見たが、ここで足をとめると、これからの先行きがむずかしくなると、そのまま北へ北へと進み、ネパールと西蔵の国境になっているクヒガングリの頂上にのぼりついた。
 山は北側へゆるくなだれ降り、西蔵高原の山々が八重波のようにおし重なっている間を、一筋、河が白く光りながら流れている。後を振り返ると、二十日前に越えてきたドーラギリが、ヒマラヤの氷壁の上に架空のような唐突な山容を見せ、雲をつくばかりにぬきだしている。神戸を出発したのが卅年の六月廿六日、その日は卅三年の七月八日、これという災厄にもあわずにここまで辿りついたが、これから先になにがあるか、予想もつかぬむずかしい旅であってみれば、こんなことで安心してはいられない。地図を見ると、目ざすマナサロワール湖は、ここから西北になっているので、磁石を見ながら山を降りはじめた。
 ネパール側は、陽のおもてで雪がすくなかったが、西蔵側は、陽の蔭になるのでいちめんの雪。それも油断のならない軟雪で、踏みこむたびに膝まで埋まる。中腹ぐらいまで降ると、山裾に遊牧民の天幕が三つばかり見える。こういう退引のっぴきならない場所で人に逢ったら、密入国したことがいっぺんに見ぬかれてしまう。なんとかして天幕を避けたいと思うが、東にも西にも道らしいものは見あたらない。といって天幕が移動するのを待っているというわけにもいかない。心をきめかね、そこへ坐って断事観だんじかんをやった。無我の観中かんちゅう、観念の傾きでとるべき方法をきめるのである。幾時間か坐禅を組み、濶然と醒めて山を降り、天幕の入口で漢訳の法華経を読んでいると、あるじと思われる四十ばかりのチャンタン人が出てきて天幕へ請引しょういんしてくれた。
 翌朝、天幕を出てみると、百七、八十貫もありそうな牛のような異様なけだものが三十頭ばかり草を食っている。身体は密毛で蔽われ、額から波のように垂れた長い毛が顔を包みこみ、眼鼻もわからないほどになっている。尾は絵にある唐獅子にそっくりで、草を噛む音は櫓をこぐよう。眼つきに凄味があって、いまにも突っかけて来るのではないかと思われるくらいだった。これは西蔵高原の不毛の寒地に野生しているヤク(※(「釐」の「里」に代えて「牛」、第3水準1-87-72)牛)という動物で、北部ではもっぱら駄用乗用に使役し、肉と乳は食料、皮は沓に、毛は織物に、糞は乾かして燃料にする。見かけは恐ろしいが牛よりも温柔だという。そう聞くと、これに荷をつけてゆけば長旅の苦労は半分に減ると思い、乾隆銀幣(西蔵銀貨)を出してたのむと、金などはいらない、マナサロワール湖の手前の河のそばに弟の天幕があるから、そこへ置いて行けばいいという。礼をいってヤクを一頭借りうけ、その背に荷を預けて北に向いて歩きだした。玄奘三蔵のお伴はお猿と猪だったが、こちらはヤクかと可笑しくもあった。
 小麦粉を捏ねて塩と唐辛子粉をまぶして食い、夜は斑雪の岩地に寝て、十日ほどすると最初の川にいきあたった。西蔵一の大河ブラマプートラの上流で、氷河の溶けて流れだす一万六千尺の高地の川を、零下十度の寒風の吹きすさぶさなかに胸まで入って渡り、北へ二十日、高地の雪を喰いすぎ、肺の凍傷にかかって血を吐き、人間の影のようになって弟という天幕のある河原に着いた。
 ヤクを返すと、天幕のあるじはあわれに思ったかして、山羊を供につけてくれた。ギャトーという町の入口にムヤツォという男がいるからそこへ置いて行けという。翌朝、どれほどの重さもない荷を山羊の背につけてまた北へ四日、マナサロワール湖は近いと聞いたが、行けども行けども不毛無人の原野である。氷河がおしだしてきた漂石と凍土は、何万年かの間、酷烈な寒気に傷められ、微塵に分解をとげて灰のように軽くなり、風が吹くと砂霧になって浮遊する。動くものといえば地の上を流れる雲の影と砂の波紋。万物涸れつくして物音一つなく、死相をおびて寂漠と静まりかえっている。一滴の水も一片の日蔭もないチャンタンの原を、一点の塵となって漂っていると、ある日、猛烈な砂嵐が吹きつけてきた。一望無限の野面は荒天の海のように盛りあがり湧きたち、うねりかえし逆巻き、想像に絶した異様な波動を示しながら猛り狂う。智海は咫尺も弁ぜぬ砂霧のなかで藻掻きまわっていたが、砂の大波は後から後からうねってきて、あっという間に胸まで埋めてしまった。せめて山羊だけは助けようと抱きよせると、山羊は悲しそうな声で鳴きながら身を寄せてくる。智海は山羊をわが子のように抱きながら念仏をとなえていると、微妙のうちに風が変って、砂嵐が外れて行った。
 三日後、ようやくマナサロワール湖のほとりへ出た。カン・リンポ・チェの霊山を対岸に見ながら僧房で夜を明かし、翌日、いよいよ東南ラッサの方へ最初の一歩を踏みだした。
 踏附け道を辿ること百五十日、ラッサにつぐシカチェという大きな町を過ぎ、十二月二十七日、ギャトーに着いた。石造の家が多く、風俗も都風で、孤愁にみちた北西原の旅も終りになりかけている感じだった。ムヤツォという人を探して山羊をかえすと、かわりに騾馬を貸してくれた。ゲンバ・ラという山を降りた府関の前で弟が酒店をやっている。仮護照をもらうには区長の保証が要るが、弟は区長だから、それに頼めばよろしくやってくれるという。翌日、騾馬を曳いてギャトーを発ち、五日目に岩山の麓にある大弥勒寺という小寺で泊った。そこで明治卅三年も終った。
 三月ほどその寺にいて、卅四年の三月十八日、最後の旅程にかかった。翌々日、ゲンバ・ラという急坂をのぼって峠の上に出た。眼の下に、四方、山にかこまれた平原がひらけ、離丘が島のように二つ浮いている。一つは富士山に似た美しい丘で、一つは頂上から中腹まで金の天蓋をのせた白堊の殿堂がひしめいている。大勢の探検家が、一と眼見ようと熱望しながら果さなかった、これがその聖都かと思うと、そこへ足を踏み入れるおのれの喜びよりも、その人達の遺憾を偲んで、思わず涙をこぼした。
 坂を下ったところが府関の第一門。関門の前に酒を売る店がある。あるじは気のよさそうな赧ら顔の肥大漢で、保証をひきうけてくれたうえ、五人の連証まで探してくれた。そうした都合で第一関はわけなくすみ、そこで川を渡って、対岸の第二関、第三、第四、第五とその日のうちに通りぬけ、それをふしぎとも思わず、計られたとも知らずに、安泰な顔でラッサの市中へ入りこんだ。
 市中の家は二階、三階の石造りになり、正面に石灰を塗っているので、遠目にこそは美しいが、いったん市中へ入ると、町筋には糞尿が流れ、泥濘は膝を没するばかり。これが聖都かとおどろかれた。大きな店はバルコルという通りに集まっているが、どの店にも客引のようなものがいて、やかましく通行人を呼びとめる。そういうごったがえしのなかを、黄衣のラマ僧が悍馬を乗りこなしながらこれ見よがしに疾駆している。町はずれの僧舎に宿をとり、さっそく一切経を探しに出たが、大道に経本をならべた、露店といった体裁の店ばかりである。西蔵一切経はとたずねると、そういうものは注文主が紙を提供し、版本代と刷り代をだして刷らせる。文典学者の出た寺にはそのほうの版木、修辞学者の出た寺にはまたそれと、律部も論部もバラバラに保蔵されているので、順々にまわって版木を借り集める。遠い寺にある分はべつに旅費を払うのである。
 三日ばかり広場に通いつめ、あるだけの経本屋にあたっていると、還俗したラマ僧といった廿四五の男がそばへ来て、西蔵大蔵を探しているということだが、お望みならいい蔵経家を紹介する。紹介料として乾隆十枚いただくという。それくらいな金ですむならと、いうままに金をやると、これからすぐ行きましょう、むこうは暇なひとだからと、先に立って歩きだした。
 屋根のかかった支那風の石橋を渡り、楡や柳の芽が青く萌えた法林道場の広い庭を横切って、その奥の大きな邸の前へ行った。どういう人の邸かとたずねると、これは教務大臣チョイ・チェンモの邸だ、大臣に逢ったらすぐ銀幣五十個をあげなさい、面会料というわけで避けられないものです、あとはあなたの腕次第とある。
 拱門の檐に吊した銅鑼を打つと取次が出てきた。案内してきた男がなにかささやくと、取次は智海を連れて長い廊下を幾曲りしたすえ、赤地模様の絨緞を敷きつめた部屋へ案内した。眼もあやな色とりどりの毛氈をかけた大きな臥牀に、金襴の職帯をつけた五十五、六の温和な顔をした大人が閑臥し、阿片卓をひきつけて阿片を喫っていた。
 智海は入口で三礼して片肌脱ぎになり、三歩進んで銀幣の入った巾着を卓に置き、率直に素志をのべると、大臣は「それはお安いご用。さっそく係りのものに手筈をさせるから」といった。
 大臣の上機嫌をそこなうものはなにひとつなく、あれこれと愛想をいってから、北清事変の話に移った。拳匪が北京の永安門で日本の外務書記生と独逸公使を惨殺したことから北清事変が起き、英、米、仏、独、露、日、墺、伊、八カ国の出兵となり、清国政府は陜西省の西安へ蒙塵したが、昨年の十二月、列国公使会議から十六カ条の要求を含む議定書を突きつけられ、総理衙門大臣の那桐と皇弟醇親王が、日本と独逸へ謝罪使で行ったなどといった。この三年にそんな騒ぎがあったことは知らなかったが、なんのためにこんな話をするかと怪訝に思っているところへ、廿四、五の品のいい男が入ってきて、用意ができたというようなことをいった。大臣はうなずいて、「これは和堂ホータンという男だが、用があったらなんでも言うがいい」と丁寧に部屋から送りだした。
 和堂に連れられて宏大な法皇宮のわきの石段をのぼり、大仏殿の鼓楼の前へ出た。境内の石畳を五十間ほど行き、どっしりした石造の建物のなかへ入った。和堂は六畳ぐらいの小房がいくつもある間を通り、突当りの大きな石の扉を開けた。眼が暗さに馴れるにつれ、五十畳敷ほどもあろうかと思われる仄暗い石室の三方の壁の書棚に、経本と経巻が、黄ばんだ帙と朱塗の軸に古代の薄明を見せて天井まで積みあげられている。一切経はというと、仏の教と語を翻訳した、経部、律部をおさめた「甘珠爾」正蔵千四十四巻、仏の教示を翻訳した論部をおさめた「丹珠爾」続蔵四千五十八巻がそれぞれ経題と奥書がつき、十巻ずつ勅訳の黒印を捺した青い布に包んで左右の棚にいっぱいになっている。
 智海が陶然と法悦にひたりこんでいると、和堂が「こちらへ」といって隣の房へ連れて行った。十畳よりはやや狭い、窓一つだけある薄暗い部屋のまわりの壁に沿って、何千束とも知れぬ麻紙が厖大な量に積みあげられ、窓の下の経机の上に筆墨と青銅の油壺のついた油燈が出ている。この紙はとたずねると、和堂は「これはあなたが生涯にお使いになる紙です」といい、甘珠爾の第一巻を経机の上に置いて退って行った。
 経典は法帖のような体裁になり、六万字ばかりの経文を幽玄な草体で横書きした、横長の古代殻紙からがみを、木の表紙の間に綴じずにバラバラにおさめ、革の紐でキッチリと巻いてある。正続合せて五千百二巻、一巻平均六万字で〆めて三億六百十二万字、一時間に千字として四時間寝て廿時間書けば、一カ月六十万字の一年に七百二十万字、正続を書写するには四十年あまりかかる。いま卅歳だから、余裕をみても七十二歳までには完成すると見透しをつけた。
 智海の算出どおり、正蔵千四十四巻は八年後の明治四十一年、卅七歳の四月八日に写了した。前年の秋から膝関節に炎症をおこしていたが、四十一年の正月匆々壊疽えそになり、正蔵を写了すると同時に脚部の切断手術をした。なにからなにまで請願どおり運行する仏生の微妙さにいまさらのようにおどろき、この分なら、続蔵を完了するまでかならず生きられるという信念を堅くした。智海は昭和十五年、七十二歳の春、続蔵を終って正続五千百二巻の写経を完了し、七月、ラッサの宝積院で枯れるように死んだ。日本を発つとき、「死ぬまでかかって」といったのは妄語ではなく、今生では父母兄弟師友に相見えないという請願の趣意も、それでつらぬいたことになる。
 智海の入蔵は、ネパールの国境を越えたときラッサの法務局に通牒が行っていた。先年、密入国者にたいする刑統が変り、入国したものは、境外へ出さず、生涯、国内に監置することになった。ヤクから山羊、山羊から騾馬と、つぎつぎに生きた送状をつけてやった、西蔵人の腹黒いやりかたを、智海は知っていたろうか。智海の「西蔵記」には、本師釈迦牟尼仏の広大な法恩を古朴な筆致で述べているだけで、この点にはすこしも触れていないのである。





底本:「久生十蘭全集 ※()」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷
   1992(平成4)年2月29日第1版第8刷
初出:「別冊文藝春秋 第十九号新春小説集」
   1950(昭和25)年12月25日
posted by koinu at 14:00| 東京 ☔| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月02日

『死の商人の館 ―シーメンス事件考―』小山牧子著(のじぎく文庫)

『死の商人の館 ―シーメンス事件考―』小山牧子著(のじぎく文庫)

神戸住吉川の上流に風見鶏の館を造った、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデの設計による立派な洋館ヘルマン邸があった。現在は跡形も無くなってしまったヘルマン邸は、『死の商人の館』冒頭に廃墟として回想される。


5C311963-060D-43D1-9AC9-6F0FA479786E.jpeg

<神戸市の東端を流れる住吉川の流域、ことに上流のあたりは、明治のおわりから大正にかけて、関西の高級住宅地としてひらけた所である。広々とした邸宅の庭からは、松の古木が海に向かって枝をさしのべ、木立と土塀にふちどられた通りには、ピアノの旋律がゆったりとただよっていたりする。>  


阪神間モダニズムの始まりは、神戸に近い住吉周辺。明治33年頃、朝日新聞創業者・村山龍平は、御影町郡家に数千坪の土地を取得して、つづいて久原鉱業の久原房之助が住吉川の東岸に万坪をこえる土地に回遊式庭園をもつ邸宅を建設する。

7A794BFA-0CBD-4164-A7AF-07F6E4B47B9C.jpeg

<阪神電車の魚崎駅を降り、東側にある川沿いの道を三十分ほど北へ歩くと、道は急なのぼりになる。そこは、すでに六甲山脈の山膚の一部で、あたり一面うっそうと樹木に覆われれているところだ。ヘルマン屋敷はその川ぞいの道を少し東へ、丘のように盛り上がった雑木林の中に建っている。>


『死の商人の館』には大正3年の神戸新聞に掲載された「ヘルマン邸」写真があり、明治時代にヨーロッパの古城のような立派な洋館が住吉川に建てられていた。そこは西岡本七丁目、白鶴美術館と住吉川を挟んで東側にあった。住宅地として開発されて、現在はこの一帯がへルマンハイツとなっている『死の商人の館』の跡地。
68583D02-ADB4-4569-A924-2B1A006E7CDF.jpeg
posted by koinu at 11:33| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月01日

『二壜のソース』ロード・ダンセイニ(早川書房)

ナムヌモは肉によく合うソースで調味料の行商人は、頭切れて気味の悪いくらいズバリと真相をあてる紳士と出会う。部屋に同居すると、行商人はその紳士リンリイさんに、或る殺人事件を解いてみないかと持ちかける。


1FB4FE18-8785-460E-9F08-761BD0867D4A.jpeg

とある村で同居していた男女の部屋から女性だけが忽然と消え失せて、彼女の資産は男のものになる。何日待っても女が戻ってこない、警察を含む周囲の人は男が彼女を殺したとの嫌疑をかけるが、部屋を探しても遺体らしきものは発見できず、遺体を焼いた形跡も残っていない。


男の行動で異変があったのは、彼女が失踪してからの数日間、家の周囲のカラマツを男は一本一本切り倒して、それを薪にした。

その薪を死体を燃やすのに使ったのでは? との推測もむなしく、薪は一つとして使われることなく家の前に積み上げられるばかりである。


行商人は男がナムヌモソースを二壜買ってくれたから、この事件に興味を持ち、リンリイさんに解決を持ちかけた。リンリイさんは行商人にいくつか質問をして、カラマツが何故1本1本切り倒されたかの真実にたどりつく――。


作品の最後の一文にたどり着くまでの構図と余韻が残る短編ミステリー。


世界短編傑作集3(創元推理文庫)収録


「二壜のソース」ロード・ダンセイニ短編集、訳/小林晋(早川書房)

〈著者紹介〉1878年生まれのアイルランド人。1905年の『ペガーナの神々』をはじめとするファンタジイ作品で名高い。イェイツなどとともにアイルランド文芸復興に取り組んだことでも知られる。1957年没。」


目次:

二壜の調味料

スラッガー巡査の射殺

スコットランド・ヤードの敵

第二戦線

二人の暗殺者

クリークブルートの変装

賭博場のカモ

手がかり

一度でたくさん

疑惑の殺人

給仕の物語

労働争議

ラウンド・ポンドの海賊

不運の犠牲者

新しい名人

新しい殺人法

復讐の物語

演説

消えた科学者

書かれざるスリラー

ラヴァンコアにて

豆畑にて

死番虫(しばんむし)

稲妻の殺人

ネザビー・ガーデンズの殺人

アテーナーの楯

posted by koinu at 15:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』全五巻(東京創元社)人気作品

江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』全五巻(東京創元社)


《全収録作から好きな短編投票結果》


1位 17票  

「二壜のソース」ロード・ダンセイニ 宇野利泰訳


東京創元社社員の投票結果でも1位、インパクトのある作品、傑作中の傑作!


2位 16票

「十三号独房の問題」ジャック・フットレル 宇野利泰訳

「謎解き脱獄物の傑作」謎解きミステリの決定的作品。


3位 11票

「オッターモール氏の手」トマス・バーク 中村能三訳

「自分の中で短編ベストに近い」読むと忘れられない作品


4位 8票

「夜鶯荘」アガサ・クリスティ 中村能三訳

「女王の多彩さ」東京創元社Sが3作を選ぶなら入れます。サスペンス感がすばらしい。


5位 7票   

「放心家組合」ロバート・バー 宇野利泰訳

「奇妙な足音」G・K・チェスタトン 中村保男訳

「銀の仮面」ヒュー・ウォルポール 中村能三訳

「妖魔の森の家」カーター・ディクスン 宇野利泰訳

「『銀の仮面』は傑作であるとは思いますがあまりにも怖過ぎて絶対に再読したくないので外します!」と投票コメント。

「妖魔の森の家」は「カーの魅力が凝縮された本格ミステリ短編の教科書的な」


9位 6票   

「クリスマスに帰る」ジョン・コリアー 宇野利泰訳

「爪」ウィリアム・アイリッシュ 門野集訳


11位 5票

「盗まれた手紙」エドガー・アラン・ポオ 丸谷才一訳

「密室の行者」ロナルド・A・ノックス 中村能三訳

「黄色いなめくじ」H・C・ベイリー 宇野利泰訳

「十五人の殺人者たち」ベン・ヘクト 橋本福夫訳


「妖魔の森の家」も旧版『世界短編傑作集』収録されていなかった「盗まれた手紙」にも票が集まる。「十五人の殺人者たち」はリニューアル担当・戸川安宣氏も選んだ作品。衝撃的な内容。



15位以降


4票

「赤毛組合」アーサー・コナン・ドイル 深町眞理子訳

「赤い絹の肩かけ」モーリス・ルブラン 井上勇訳

「オスカー・ブロズキー事件」オースチン・フリーマン 大久保康雄訳

「偶然の審判」アントニイ・バークリー 中村能三訳

「信・望・愛」アーヴィン・S・コッブ 田中小実昌訳

「ボーダーライン事件」マージェリー・アリンガム 猪俣美江子訳

「証拠のかわりに」レックス・スタウト 田中小実昌訳


3票

「安全マッチ」アントン・チェーホフ 池田健太郎訳

「いかれたお茶会の冒険」エラリー・クイーン 中村有希訳


2票

「人を呪わば」ウィルキー・コリンズ 中村能三訳 

「医師とその妻と時計」アンナ・キャサリン・グリーン 井上一夫訳

「ズームドルフ事件」M・D・ポースト 宇野利泰訳

「完全犯罪」ベン・レイ・レドマン 村上啓夫訳

「ある殺人者の肖像」Q・パトリック 橋本福夫訳

「危険な連中」フレドリック・ブラウン 大久保康雄訳


1票

「レントン館盗難事件」アーサー・モリスン 宇野利泰

「ギルバート・マレル卿の絵」V・L・ホワイトチャーチ 中村能三訳

「ブルックベンド荘の悲劇」アーネスト・ブラマ 井上勇訳

「急行列車内の謎」F・W・クロフツ 橋本福夫訳

「堕天使の冒険」パーシヴァル・ワイルド 橋本福夫訳 

「茶の葉」E・ジェプスン&R・ユーステス 阿部主計訳

「キプロスの蜂」アントニー・ウィン 井上一夫訳

「イギリス製濾過器」C・B・ベックホファー・ロバーツ 井上一夫訳

「殺人者」アーネスト・ヘミングウェイ 大久保康雄訳

「窓のふくろう」G・D・H&M・I・コール 井上勇訳

「いかさま賭博」レスリー・チャーテリス 宇野利泰訳

「黄金の二十」エラリー・クイーン 小西宏訳



今後も『世界推理短編傑作集』を末永く、読者を魅了すると思います。

http://www.webmysteries.jp/archives/20551542.html

(東京創元社)web

posted by koinu at 13:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月30日

柳本々々「なんか、その霊の話、すっごく、こわれてない?」

毎日歌壇:加藤治郎・選 

◎あがってきてはだかで冷蔵庫あけ、わたしはすごい風のベランダ 

東京 柳本々々

【評】短い時間が流れている。バスルームを出てベランダにいる。「すごい」という気分に根拠はないのだろう。


毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20200629/ddm/014/040/036000c

特選



「この電車ちがう!」と言ってぼくの手をとってひっぱりだす女の子 柳本々々

(日経新聞・日経歌壇2018年9月20日穂村弘 選)



髪を撫でつけた店員がわたしのもとにやってきて、レジをしめちゃうんでこれから三十分は会計できないんですけどいいですよね、わたしは、反射的に、はい、と答え、すぐあとに、わたしはここにこれから三十分じっとしているのか。三十分ここにいろっていわれたなんてなんだかすさまじいきがして、

(柳本々々「三十分」『現代詩手帖』2018年10月号、松下育男・須永紀子 選)



夜の秋コンビニエンスストアに木 柳本々々

(東京新聞・東京歌壇2018年9月23日小澤實 選)



つむってるからどんな器具がつっこまれてるかわからない歯の治療


なんでわたしを愛することをやめないんだろうときいたことがある


(柳本々々「かわいい青年」『かばん』2018年10月号)



シンポジウムのときは雲をみているあたまに濡れた髪がはりつく


ぱふぱふってなんですかねTシャツを干すとき仰ぐまばゆい光


(柳本々々「この子できないのかな?」『かばん』2018年9月号)


おかじょうきのブログタグ→http://okajoki.com/senryublog/



柳本々々「なんか、その霊の話、すっごく、こわれてない?」 『文學界』2019年9月号掲載


〈「なんであの幽霊は、わたし、っていったんだろ」「ゆるされたかったんじゃないかな、だれかに」〉柳本々々「幽霊の主語はわたし」『現代詩手帖』2020年6月号


posted by koinu at 10:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月29日

『赤星鉄馬 消えた富豪』 与那原 恵(中央公論新社)

武器商人として活躍した父から受け継いだ莫大な資産を惜しみなくつぎこみ、日本初の学術財団「啓明会」を設立し、柳田国男ら錚々たる学者の研究を支援。 

アメリカからブラックバスを移入し釣りの世界で名を馳せ、弟たちと日本のゴルフ草創期を牽引。 

樺山愛輔や吉田茂をはじめとする華麗なる人脈を持ちながら、ほとんど何も残さずに世を去った実業家、赤星鉄馬。 

評伝に書かれることを注意深く避けたかのようにさえ見える、その謎に満ちた一生を追った本格ノンフィクション。

F464790A-B3C5-46A4-BB87-69FAD9C33068.jpeg

与那原恵 

一九五八年東京都生まれ。九六年、『諸君!』掲載のルポで編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞。二〇一四年、『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で第二回河合隼雄学芸賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。他の著書に、『物語の海、揺れる島』『もろびとこぞりて』『美麗島まで』『サウス・トゥ・サウス』『まれびとたちの沖縄』『わたぶんぶん わたしの「料理沖縄物語」』などがある。

F464790A-B3C5-46A4-BB87-69FAD9C33068.jpeg

与那原恵『赤星鉄馬 消えた富豪』(中央公論新社)令和元年11月刊行。


成歓農場は大正4年鉄馬が朝鮮に創設した農場である。朝鮮陶磁器を愛した五郎の述懐が載っている。


(略)

やきものについては、大正の終わりごろ、青山民吉[美術評論家で民芸運動の同伴者。弟が美術評論家で骨董蒐集家の青山二郎]君と同行し、京城で浅川伯教さんにお眼にかかったのが縁のはじめであった。(略)亡父の数多い道具の処理に手を焼いていた母から、私たちの骨董癖をつよく戒めてきた。

(略)(赤星五郎・中丸平一郎『朝鮮のやきもの 李朝』)


「亡父の数多い道具」とは、父弥之助が蒐集した茶道具で、大正6年入札会が開かれ、その入札金の一部が、啓明会の創設資金となった。与那原著によると、五郎の朝鮮陶磁器コレクションのほとんどは、安宅コレクション(安宅英一)に帰したという。


赤星陸治

三菱(資)参与・地所部長

明治7年1月生、熊本県八代郡の旧家下山群太の二男

同県士族赤星家の養子となり、35年家督相続。34年東京帝国大学法科大学政治科卒業後、三菱合資会社入社

長男平馬(明治39年11月生)


幻の邸宅 レーモンド建築の旧赤星邸を見学 : 吉祥寺

http://blog.livedoor.jp/go_wild/archives/52555296.html

posted by koinu at 13:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月27日

『他人を平気で振り回す迷惑な人たち』片田 珠美 (SB新書)


『他人を平気で振り回す迷惑な人たち』片田 珠美 (SB新書)


上司・同僚・お局・ママ友・SNS・姑・友人・親きょうだい…

周りに潜む「害になる人」の精神構造 


「自分は特別だと考え、多少のことは許されると思っている人」 

「支配欲が強く、自分の思い通りにならないと気がすまない人」 

「うわべはいいのに陰で他人を攻撃する人」 

「巧妙な言い逃れで真実を歪める人」…… 


このように周囲を「平気で振り回す人」が今、増殖している。 

振り回される側は、翻弄され、気疲れするばかりか、 こちらに非があるかのごとく思い込まされることすらある。 

今や、職場や家族、友人、ママ友、SNS等での厄介な問題と言える。 


本書では相談者による職場や家庭などの豊富な実例を取り上げ、 25万部ベストセラー『他人を攻撃せずにはいられない人』 

気鋭の精神科医が背景とともに深層心理に鋭く迫る。 


B210554D-58D4-4619-99DE-11CA2EF51F30.jpeg


収録内容

1 第1章 「他人を平気で振り回す人」が増殖する現代(振り回す人とそれに支配されるイネイブラー

2 相手を道具としかみなさない人 ほか)

3 第2章 誰でもちょっとだけ振り回す人になり得る(うわべがいい人が送る二重のメッセージ

4 巧妙な言い逃れで真実を歪曲する人 ほか)

5 第3章 「他人を平気で振り回す人」の精神構造(自分自身を過大評価する

6 自分は何でもできるという万能感 ほか)

7 第4章 振り回されやすい人の責任(劣等感がもたらす低い自己評価

8 困難な状況に置かれている ほか)

9 第5章 もう振り回されないための処方箋(自分を振り回す人から好かれる必要はない

10 自分一人の影響力なんてたかが知れている ほか)


「あとがき」より 

新たにアメリカの大統領に就任したドナルド・トランプ氏の言動を見ていると、他人を平気で振り回す人の典型だと痛感する。 

記者会見で、特定のメディアの記者に「あなたの会社はひどい。質問させない。あなたのところは偽のニュースだ」と叫んで質問をシャットアウトしたり、ツイッターで、メキシコに生産拠点を置く自動車メーカーへの批判を繰り返したりして、とにかく自分の思い通りにしないと気がすまないようだ。それでも、世界最強の国のトップとして絶大な権力を握っているだけに、無視するわけにはいかないのか、大手自動車メーカーの中には、メキシコへの工場の移転計画を撤回したところもある。 

こうした現状を目の当たりにすると、他人を平気で振り回す人が迷惑なのは、権力や影響力を持っているからだとつくづく思う。トランプ氏が何と言おうと、彼に権力も影響力もなければ、「うるさいおっちゃん。ちょっと静かにしたら」と心の中でつぶやきながら無視すればいいのだが、権力者であるがゆえに、その発言に耳を傾けないわけにはいかない。だからこそ、迷惑なのだ。 

程度の差はあれ、他人を平気で振り回す人が迷惑なのは、同じ理由による。知らないおっちゃんが近所の路上で何かを叫んでいても、自分と関係なければ、目を合わせないようにして通り過ぎればいい。あるいは、口うるさいおばちゃんがいても、自分に矛先が向けられない限り、挨拶だけしていればいい。だが、上司や同僚だったり、友人や恋人だったり、親や配偶者だったりして、何らかの形で関わらないわけにはいかないからこそ、悩みの種になる。 

誰かに振り回されるのを極力避けたいのか、他人との関わりをできるだけ避けようとする人が、とくに若い世代に増えているらしい。こうした流れの中で非婚化が進んでいるのかもしれないが、これは孤立と表裏一体である。そして、孤立が振り回されやすい要因の一つであることは、第4章で指摘した通りである。したがって、誰にも振り回されまいとして他人との関わりを避けることが、皮肉にも振り回される一因になり得ることを理解しなければならない。そのうえで、他人との賢い関わり方を習得すべきだ。本書がその一助になれば幸いである。 


著者について

片田 珠美

精神科医。広島県生まれ。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。人間・環境学博士(京都大学)。フランス政府給費留学生としてパリ第8大学精神分析学部でラカン派の精神分析を学ぶ。DEA(専門研究課程修了証書)取得。パリ第8大学博士課程中退。

精神科医として臨床に携わり、臨床経験にもとづいて、犯罪心理や心の病の構造を分析。社会問題にも目を向け、社会の根底に潜む構造的な問題を精神分析的視点から研究。 『他人を攻撃せずにはいられない人』(PHP新書)は話題を呼び、大ベストセラーとなる。『プライドが高くて迷惑な人』『すぐ感情的になる人』(以上、PHP新書)など著書多数。

posted by koinu at 14:00| 東京 🌁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月25日

『美女伝』瀬戸内晴美(集英社)

『美女伝』瀬戸内晴美(集英社)


・光明皇后

・だっ妃のお百

・嬌妓のお鯉

・酒井米子

・額田王

・道綱の母

・妖女宮田文子

・モルガンお雪

・管野須賀子

・岡田嘉子

・三浦環


酒井米子は、あの松井須磨子を一時期脅かしたと言われる女優。貧乏な生活から女優を目指し、美貌と才能でどんどんと抜きん出た。

須磨子とは別の劇団で男子にちやほやされながらやっていたけれど、その才能を見込まれて抱月の芸術座に入る。

でもその美貌と才能溢れる存在が女王須磨子の逆鱗に触れてノイローゼになり、退団。そこから何故か芸者デビュー。

人気者になり、落籍されもしたけれども再び舞台に戻ってくる。そこで恋に落ちたことを、旦那に見つかり、妾生活にピリオドをうつ。その恋に落ちた男の手により、映画デビュー。妖婦専門の女優として、大人気になった。

posted by koinu at 09:32| 東京 ☔| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月24日

『ラディゲの死』三島由紀夫

美しい死の匂いは芳しい。

「あるときは角砂糖を一箱たべて寝たり、外套を着たまま寝たりして、どんな夢を見るかためしたもんだ」


ジャン・コクトー「初めから、僕には、ラディゲは借りものであって、やがて返さなければならないことがわかっていた」「一番賢明なのは、事情がそれに値する時にだけ狂人になることだ」

弱冠20歳で『肉体の悪魔』と『ドルジェル伯の舞踏会』を書いて、夭折したラディゲは三島の憧憬だった。 


『ラディゲの死』三島由紀夫

神の兵隊によって、3日間のうちにぼくは銃殺されるんだ、という自らの予言。その通りにラディゲはコクトオに見守られながら二十年の生涯を閉じた。コクトオはラディゲの庇護者。三島が少年のときから心酔しつづけてきたラディゲ。夭折の天才。その晩年と自由を描く。他13短編。(解説=野島秀勝)

posted by koinu at 13:06| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月23日

『死の商人』岡倉古志郎(岩波新書)

戦争を「糧」とし、昔は鉄砲から近年はミサイル、核兵器まで、つぎつぎに新兵器を開発しては売りさばく、世界の「死の商人」たちの生態と系譜をつづる実録物語。


目次

「死の商人」とは何か / 

「風とともに去りぬ」のバトラー船長

リンカンを怒らせたモルガン

大倉喜八郎の鉄砲商売

「死の商人」とは何か

「死の商人」に祖国はない

だが、「死の商人」は「愛国者」である

戦争の「おばけ」をつくる

II サー・バシル・ザハロフ-「ヨーロッパの謎の男」 / 

怪人物の生立ち

魚は水に放たれた!

敵と味方に潜水艦を売りこむ

「死の商人」の一騎打ち

兵器トラスト-ヴィッカースの発展

第一次大戦とヴィッカース

バルザック的人物

生きているザハロフ

III クルップ-「大砲の王者」 / 

フランダースの悲喜劇

クルップの雌伏時代

「死の商人」の片鱗

「大砲の王者」の宮廷

コルンワルツァー事件

ヒトラーのパトロン

ヒトラーの屍をこえて

IV IGファルベン-「死なない章魚」 / 

一九四八年七月二八日

IGファルベンの戦争犯罪

アニリン染料のなかから

ハーケン・クロイツとともに

「死なない章魚」の足

「解体」の茶番劇

軍国主義復活の支柱

デュポン-火薬から原水爆へ / 

デュポンは女性に依存する

フランス革命の後日譯

「火薬トラスト」

吊しあげられたデュポン

デュポンはナチスを助けたか

一年一ドルで国家に奉仕

原水爆時代

VI 日本の「死の商人」 / 

御用商人まかり通る

「海坊主」の弥太郎

欧米の「死の商人」に伍して

湧きたつ軍需ブーム

前渡金-漏れ手で粟をつかむ

「空だ、男の行くところ!

フェニックスは羽ばたく

星条旗のもとで

VII 恐竜は死滅させられるか / 

生きている恐竜

「死の商人」退治論

「死の商人」は反駁する

社会主義と「死の商人」

核・ロケット時代

世界をゆるがす軍備余廃の叫び

あとがき / 

(新日本新書)新版あり

https://www.youtube.com/watch?v=yxFzbHTAWyY

敗戦の年となる『1945年の日本の平均寿命は男性23.5歳、女性32.0歳」という話をご存知だろうか。この数字には、若干疑問符が付くかもしれないが、軍歌に「咲いた花なら/散るのは覚悟/見事散りましょ/国のため」とあるように、日本男子には「国のために命をささげる」ことが奨励された時代であった。典型的には、「神風特攻隊」で、若者の命が次々に奪われた。

この時代に大もうけしたのが、「死の商人」=軍需産業である。「ゼロ戦」の中島飛行機は、三菱重工を追いこして「航空機業界の王者になった」(本書164頁)。

敗戦の年・1945年に軍需工場が国有化されると、あとはやりたい放題。「まだ、納入されず、生産さえもされない幽霊製品に代価を支払わせるのだから驚いた話である。いわゆる『軍需補償』、つまり戦争被害にたいする損失補償は当時の金で総額500億円といわれ、そのうち200億円は、敗戦直前から直後にかけてのドサクサのおりに、支払われた」(本書166頁)とある。


変わり身が早いのも「死の商人」。戦後、三菱造船所は「アメリカの軍需工場」に変わった(本書167頁)


「死の商人」は時の権力者と結びついて、マスコミをも牛耳り、「平和のためには戦争が不可欠」と宣伝して平和を願う国民を戦争に引きずり込む。また、「死の商人」は、フェニックスのように祖国の敗戦をも乗り越えて、よみがえる。だから「死の商人」は、現在「軍需独占体の国際的結合」となって「恐るべき怪獣、怪竜」となり、「我が物顔で世界を徘徊している」(本書173頁)

posted by koinu at 09:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月22日

江戸川乱歩『押絵と旅する男』


 この話が私の夢か私の一時的狂気のまぼろしでなかったならば、あの押絵おしえと旅をしていた男こそ狂人であったに相違そういない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違くいちがった別の世界を、チラリとのぞかせてくれるように、また狂人が、我々のまったく感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那いっせつな、この世の視野の外にある、別の世界の一隅いちぐうを、ふと隙見すきみしたのであったかも知れない。
 いつとも知れぬ、ある暖かい薄曇った日のことである。その時、私は態々わざわざ魚津へ蜃気楼しんきろうを見に出掛けた帰りみちであった。私がこの話をすると、時々、お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友達に突っ込まれることがある。そうわれて見ると、私は何時いつの何日に魚津へ行ったのだと、ハッキリ証拠を示すことが出来ぬ。それではやっぱり夢であったのか。だが私はかつて、あのように濃厚な色彩を持った夢を見たことがない。夢の中の景色けしきは、映画と同じに、全く色彩を伴わぬものであるのに、あのおりの汽車の中の景色けは、それもあの毒々しい押絵の画面が中心になって、紫と臙脂えんじかった色彩で、まるでへびの眼の瞳孔どうこうの様に、生々しく私の記憶にやきついている。着色映画の夢というものがあるのであろうか。
 私はその時、生れて初めて蜃気楼というものを見た。はまぐりの息の中に美しい龍宮城りゅうぐうじょうの浮んでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本物の蜃気楼を見て、膏汗あぶらあせのにじむ様な、恐怖に近い驚きに撃たれた。
 魚津の浜の松並木に豆粒の様な人間がウジャウジャと集まって、息を殺して、眼界一杯の大空と海面とを眺めていた。私はあんな静かな、唖の様にだまっている海を見たことがない。日本海は荒海と思い込んでいた私には、それもひどく意外であった。その海は、灰色で、全く小波さざなみ一つなく、無限の彼方かなたにまで打続く沼かと思われた。そして、太平洋の海の様に、水平線はなくて、海と空とは、同じ灰色に溶け合い、厚さの知れぬもやに覆いつくされた感じであった。空だとばかり思っていた、上部の靄の中を、案外にもそこが海面であって、フワフワと幽霊の様な、大きな白帆しらほが滑って行ったりした。
 蜃気楼とは、乳色ちちいろのフィルムの表面に墨汁ぼくじゅうをたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方とほうもなく巨大な映画にして、大空に映し出した様なものであった。
 はるかな能登のと半島の森林が、喰違くいちがった大気の変形レンズを通して、すぐ目の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡けんびきょうの下の黒い虫みたいに、曖昧あいまいに、しかも馬鹿馬鹿しく拡大されて、見る者の頭上におしかぶさって来るのであった。それは、妙な形の黒雲と似ていたけれど、黒雲なればその所在がハッキリ分っているに反し、蜃気楼は、不思議にも、それと見る者との距離が非常に曖昧なのだ。遠くの海上に漂う大入道おおにゅうどうの様でもあり、ともすれば、眼前一尺に迫る異形いぎょうの靄かと見え、はては、見る者の角膜かくまくの表面に、ポッツリと浮んだ、一点の曇りの様にさえ感じられた。この距離の曖昧さが、蜃気楼に、想像以上の不気味な気違いめいた感じを与えるのだ。
 曖昧な形の、真黒な巨大な三角形が、塔の様に積重なって行ったり、またたく間にくずれたり、横に延びて長い汽車の様に走ったり、それが幾つかにくずれ、立並たちならひのきこずえと見えたり、じっと動かぬ様でいながら、いつとはなく、全く違った形に化けて行った。
 蜃気楼の魔力が、人間を気違いにするものであったなら、恐らく私は、少くとも帰り途の汽車の中までは、その魔力を逃れることが出来なかったのであろう。二時間のも立ち尽して、大空の妖異を眺めていた私は、その夕方魚津を立って、汽車の中に一夜を過ごすまで、全く日常と異った気持でいたことはたしかである。しかしたら、それは通り魔の様に、人間の心をかすめおかす所の、一時的狂気のたぐいででもあったであろうか。
 魚津の駅から上野への汽車に乗ったのは、夕方の六時頃であった。不思議な偶然であろうか、あの辺の汽車はいつでもそうなのか、私の乗った二等車は、教会堂の様にガランとしていて、私のほかにたった一人の先客が、向うのすみのクッションにうずくまっているばかりであった。
 汽車はさびしい海岸の、けわしいがけや砂浜の上を、単調な機械の音を響かせて、はてしもなく走っている。沼の様な海上の、靄の奥深く、黒血くろちの色の夕焼が、ボンヤリと感じられた。異様に大きく見える白帆が、その中を、夢の様に滑っていた。少しも風のない、むしむしする日であったから、所々開かれた汽車の窓から、進行につれて忍び込むそよ風も、幽霊ゆうれいの様に尻切れとんぼであった。沢山たくさんの短いトンネルと雪けの柱の列が、広漠こうばくたる灰色の空と海とを、縞目しまめに区切って通り過ぎた。
 親不知の断崖を通過する頃、車内の電燈と空の明るさとが同じに感じられた程、夕闇が迫って来た。丁度その時分向うの隅のたった一人の同乗者が、突然立上って、クッションの上に大きな黒繻子くろじゅす風呂敷ふろしきを広げ、窓に立てかけてあった、二尺に三尺程の、扁平へんぺいな荷物を、その中へ包み始めた。それが私に何とやら奇妙な感じを与えたのである。
 その扁平なものは、多分がくに相違ないのだが、それの表側の方を、何か特別の意味でもあるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。一度風呂敷に包んであったものを、態々わざわざ取出して、そんな風に外に向けて立てかけたものとしか考えられなかった。それに、彼が再び包む時にチラと見た所によると、額の表面に描かれた極彩色の絵が、妙に生々しく、何となく世のつねならず見えたことであった。
 私はあらためて、このへんてこな荷物の持主を観察した。そして、持主その人が、荷物の異様さにもまして、一段と異様であったことに驚かされた。
 彼は非常に古風な、我々の父親の若い時分の色あせた写真でしか見ることの出来ない様な、えりの狭い、肩のすぼけた、黒の背広服を着ていたが、しかしそれが、背が高くて、足の長い彼に、妙にシックリと合って、はなは意気いきにさえ見えたのである。顔は細面ほそおもてで、両眼が少しギラギラし過ぎていた外は、一体によく整っていて、スマートな感じであった。そして、綺麗きれいに分けた頭髪が、豊に黒々と光っているので、一見四十前後であったが、よく注意して見ると、顔中におびただしいしわがあって、一飛びに六十位にも見えぬことはなかった。この黒々とした頭髪と、色白の顔面を縦横にきざんだ皺との対照が、初めてそれに気附いた時、私をハッとさせた程も、非常に不気味な感じを与えた。
 彼は叮嚀ていねいに荷物を包み終ると、ひょいと私の方に顔を向けたが、丁度私の方でも熱心に相手の動作を眺めていた時であったから、二人の視線がガッチリとぶっつかってしまった。すると、彼は何か恥かしそうくちびるの隅を曲げて、かすかに笑って見せるのであった。私も思わず首を動かして挨拶あいさつを返した。
 それから、小駅を二三通過する間、私達はおたがいの隅に坐ったまま、遠くから、時々視線をまじえては、気まずく外方そっぽを向くことを、繰返していた。外は全く暗闇になっていた。窓ガラスに顔を押しつけて覗いて見ても、時たま沖の漁船の舷燈げんとうが遠く遠くポッツリと浮んでいる外には、全く何の光りもなかった。際涯はてしのない暗闇の中に、私達の細長い車室けが、たった一つの世界の様に、いつまでもいつまでも、ガタンガタンと動いて行った。そのほの暗い車室の中に、私達二人丈けを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡方あとかたもなく消えせてしまった感じであった。
 私達の二等車には、どの駅からも一人の乗客もなかったし、列車ボーイや車掌も一度も姿を見せなかった。そういう事も今になって考えて見ると、甚だ奇怪に感じられるのである。
 私は、四十歳にも六十歳にも見える、西洋の魔術師の様な風采ふうさいのその男が、段々怖くなって来た。怖さというものは、ほかにまぎれる事柄のない場合には、無限に大きく、身体からだ中一杯に拡がって行くものである。私はついには、産毛うぶげの先までも怖さが満ちて、たまらなくなって、突然立上ると、向うの隅のその男の方へツカツカと歩いて行った。その男がいとわしく、恐ろしければこそ、私はその男に近づいて行ったのであった。
 私は彼と向き合ったクッションへ、そっと腰をおろし、近寄れば一層異様に見える彼の皺だらけの白い顔を、私自身が妖怪ででもある様な、一種不可思議な、顛倒てんとうした気持で、目を細く息を殺してじっと覗き込んだものである。
 男は、私が自分の席を立った時から、ずっと目で私を迎える様にしていたが、そうして私が彼の顔を覗き込むと、待ち受けていた様に、あごかたわらの例の扁平な荷物を指し示し、何の前置きもなく、さもそれが当然の挨拶ででもある様に、
「これでございますか」
 と云った。その口調が、余り当り前であったので、私はかえって、ギョッとした程であった。
「これが御覧になりたいのでございましょう」
 私が黙っているので、彼はもう一度同じことを繰返した。
「見せて下さいますか」
 私は相手の調子に引込まれて、つい変なことを云ってしまった。私は決してその荷物を見たいために席を立ったわけではなかったのだけれど。
「喜んで御見せ致しますよ。わたくしは、さっきから考えていたのでございますよ。あなたはきっとこれを見におでなさるだろうとね」
 男は――むしろ老人と云った方がふさわしいのだが――そう云いながら、長い指で、器用に大風呂敷をほどいて、その額みたいなものを、今度は表を向けて、窓の所へ立てかけたのである。
 私は一目チラッと、その表面を見ると、思わず目をとじた。何故なぜであったか、その理由は今でも分らないのだが、何となくそうしなければならぬ感じがして、数秒の間目をふさいでいた。再び目をいた時、私の前に、嘗て見たことのない様な、奇妙なものがあった。と云って、私はその「奇妙」な点をハッキリと説明する言葉を持たぬのだが。
 額には歌舞伎かぶき芝居の御殿の背景みたいに、いくつもの部屋を打抜いて、極度の遠近法で、青畳あおだたみ格子天井こうしてんじょうが遙か向うの方まで続いている様な光景が、あいを主とした泥絵具どろえのぐで毒々しく塗りつけてあった。左手の前方には、墨黒々と不細工ぶさいくな書院風の窓が描かれ、同じ色の文机ふづくえが、そのそばに角度を無視した描き方で、据えてあった。それらの背景は、あの絵馬札えまふだの絵の独特な画風に似ていたと云えば、一番よく分るであろうか。
 その背景の中に、一尺位のたけの二人の人物が浮き出していた。浮き出していたと云うのは、その人物丈けが、押絵細工で出来ていたからである。黒天鵞絨くろびろうどの古風な洋服を着た白髪しらがの老人が、窮屈きゅうくつそうに坐っていると、(不思議なことには、その容貌が、髪の色を除くと、額の持主の老人にそのままなばかりか、着ている洋服の仕立方までそっくりであった)緋鹿ひか振袖ふりそでに、黒繻子の帯の映りのよい十七八の、水のたれる様な結綿ゆいわたの美少女が、何とも云えぬ嬌羞きょうしゅうを含んで、その老人の洋服のひざにしなだれかかっている、わば芝居の濡れ場に類する画面であった。
 洋服の老人と色娘の対照と、甚だ異様であったことは云うまでもないが、だが私が「奇妙」に感じたというのはそのことではない。
 背景の粗雑に引かえて、押絵の細工の精巧なことは驚くばかりであった。顔の部分は、白絹は凹凸おうとつを作って、細い皺まで一つ一つ現わしてあったし、娘の髪は、本当の毛髪を一本一本植えつけて、人間の髪を結う様に結ってあり、老人の頭は、これも多分本物の白髪を、丹念に植えたものに相違なかった。洋服には正しい縫い目があり、適当な場所に粟粒あわつぶ程のぼたんまでつけてあるし、娘の乳のふくらみと云い、腿のあたりのなまめいた曲線と云い、こぼれた緋縮緬ひぢりめん、チラと見える肌の色、指には貝殻かいがらの様な爪が生えていた。虫眼鏡むしめがねで覗いて見たら、毛穴や産毛まで、ちゃんとこしらえてあるのではないかと思われた程である。
 私は押絵と云えば、羽子板はごいたの役者の似顔の細工しか見たことがなかったが、そして、羽子板の細工にも、随分ずいぶん精巧なものもあるのだけれど、この押絵は、そんなものとは、まるで比較にもならぬ程、巧緻こうちを極めていたのである。恐らくその道の名人の手に成ったものであろうか。だが、それが私の所謂いわゆる「奇妙」な点ではなかった。
 額全体が余程よほど古いものらしく、背景の泥絵具は所々はげおちていたし、娘の緋鹿の子も、老人の天鵞絨も、見る影もなく色あせていたけれど、はげ落ち色あせたなりに、名状めいじょうがたき毒々しさを保ち、ギラギラと、見る者の眼底にやきつく様な生気を持っていたことも、不思議と云えば不思議であった。だが、私の「奇妙」という意味はそれでもない。
 それは、若ししいて云うならば、押絵の人物が二つとも、生きていたことである。
 文楽ぶんらくの人形芝居で、一日の演技の内に、たった一度か二度、それもほんの一瞬間、名人の使っている人形が、ふと神の息吹いぶきをかけられでもした様に、本当に生きていることがあるものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命の逃げ出すすきを与えず、咄嗟とっさの間に、そのまま板にはりつけたという感じで、永遠に生きながらえているかと見えたのである。
 私の表情に驚きの色を見て取ったからか、老人は、いとたのもしげな口調で、ほとんど叫ぶ様に、
「アア、あなたは分って下さるかも知れません」
 と云いながら、肩から下げていた、黒革くろかわのケースを、叮嚀にかぎで開いて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出してそれを私の方へ差出すのであった。
「コレ、この遠眼鏡とおめがねで一度御覧下さいませ。イエ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様さよう丁度その辺がようございましょう」
 誠に異様な頼みではあったけれど、私は限りなき好奇心のとりことなって、老人の云うがままに、席を立って額から五六歩遠ざかった。老人は私の見易い様に、両手で額を持って、電燈にかざしてくれた。今から思うと、実に変てこな、気違いめいた光景であったに相違ないのである。
 遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺てずれの為に、黒い覆皮おおいがわがはげて、所々真鍮しんちゅう生地きじが現われているという、持主の洋服と同様に、如何いかにも古風な、物懐ものなつかしい品物であった。
 私は珍らしさに、しばらくその双眼鏡をひねくりまわしていたが、やがて、それを覗く為に、両手で眼の前に持って行った時である。突然、実に突然、老人が悲鳴に近い叫声さけびごえを立てたので、私は、あやうく眼鏡を取落す所であった。
「いけません。いけません。それはさかさですよ。さかさに覗いてはいけません。いけません」
 老人は、真青まっさおになって、目をまんまるに見開いて、しきりと手を振っていた。双眼鏡を逆に覗くことが、ぜそれ程大変なのか、私は老人の異様な挙動を理解することが出来なかった。
成程なるほど、成程、さかさでしたっけ」
 私は双眼鏡を覗くことに気を取られていたので、この老人の不審な表情を、さして気にもとめず、眼鏡を正しい方向に持ち直すと、急いでそれを目に当てて押絵の人物を覗いたのである。
 焦点が合って行くに従って、二つの円形の視野が、徐々に一つに重なり、ボンヤリとした虹の様なものが、段々ハッキリして来ると、びっくりする程大きな娘の胸から上が、それが全世界ででもある様に、私の眼界一杯に拡がった。
 あんな風な物の現われ方を、私はあとにも先にも見たことがないので、読む人に分らせるのが難儀なのだが、それに近い感じを思い出して見ると、例えば、舟の上から、海にもぐったあまの、ある瞬間の姿に似ていたとでも形容すべきであろうか。蜑の裸身はだかみが、底の方にある時は、青い水の層の複雑な動揺の為に、その身体が、まるで海草の様に、不自然にクネクネと曲り、輪廓りんかくもぼやけて、白っぽいおばけみたいに見えているが、それが、つうッと浮上って来るに従って、水の層の青さが段々薄くなり、形がハッキリして来て、ポッカリと水上に首を出すと、その瞬間、ハッと目が覚めた様に、水中の白いお化が、たちまち人間の正体を現わすのである。丁度それと同じ感じで、押絵の娘は、双眼鏡の中で、私の前に姿を現わし、実物大の、一人の生きた娘として、うごめき始めたのである。
 十九世紀の古風なプリズム双眼鏡の玉の向う側には、全く私達の思いも及ばぬ別世界があって、そこに結綿ゆいわた色娘いろむすめと、古風な洋服の白髪男とが、奇怪な生活を営んでいる。覗いては悪いものを、私は今魔法使に覗かされているのだ。といった様な形容の出来ない変てこな気持で、併し私はかれた様にその不可思議な世界に見入ってしまった。
 娘は動いていた訳ではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変って、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動こどうをさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣裳を通して、むしむしと、若い女の生気が蒸発して居る様に思われた。
 私は一渡り、女の全身を、双眼鏡の先で、め廻してから、その娘がしなだれ掛っている、仕合しあわせな白髪男の方へ眼鏡を転じた。
 老人も、双眼鏡の世界で、生きていたことは同じであったが、見た所四十程も年の違う、若い女の肩に手を廻して、さも幸福そうな形でありながら、妙なことには、レンズ一杯の大きさに写った、彼の皺の多い顔が、その何百本の皺の底で、いぶかしく苦悶くもんの相を現わしているのである。それは、老人の顔がレンズの為に眼前一尺の近さに、異様に大きく迫っていたからでもあったであろうが、見つめていればいる程、ゾッと怖くなる様な、悲痛と恐怖との混り合った一種異様の表情であった。
 それを見ると、私はうなされた様な気分になって、双眼鏡を覗いていることが、耐え難く感じられたので、思わず、目を離して、キョロキョロとあたりを見廻した。すると、それはやっぱり淋しい夜の汽車の中であって、押絵の額も、それをささげた老人の姿も、元のままで、窓の外は真暗まっくらだし、単調な車輪のひびきも、変りなく聞えていた。悪夢からめた気持であった。
「あなた様は、不思議そうな顔をしておいでなさいますね」
 老人は額を、元の窓の所へ立てかけて、席につくと、私にもその向う側へ坐る様に、手真似をしながら、私の顔を見つめて、こんなことを云った。
「私の頭が、どうかしている様です。いやにしますね」
 私はてれ隠しみたいな挨拶をした。すると老人は、猫背ねこぜになって、顔をぐっと私の方へ近寄せ、膝の上で細長い指を合図でもする様に、ヘラヘラと動かしながら、低い低いささやき声になって、
「あれらは、生きて居りましたろう」
 と云った。そして、さも一大事を打開けるといった調子で、一層猫背になって、ギラギラした目をまん丸に見開いて、私の顔を穴のあく程見つめながら、こんなことを囁くのであった。
「あなたは、あれらの、本当の身の上話を聞きいとはおぼしめしませんかね」
 私は汽車の動揺と、車輪の響の為に、老人の低い、つぶやく様な声を、聞き間違えたのではないかと思った。
「身の上話とおっしゃいましたか」
「身の上話でございますよ」老人はやっぱり低い声で答えた。「ことに、一方の、白髪の老人の身の上話をでございますよ」
「若い時分からのですか」
 私も、その晩は、何故なぜか妙に調子はずれな物の云い方をした。
「ハイ、あれが二十五歳の時のお話でございますよ」
是非ぜひうかがいたいものですね」
 私は、普通の生きた人間の身の上話をでも催促する様に、ごく何でもないことの様に、老人をうながしたのである。すると、老人は顔の皺を、さも嬉しそうにゆがめて、「アア、あなたは、やっぱり聞いて下さいますね」と云いながら、さて、次の様な世にも不思議な物語を始めたのであった。
「それはもう、一生涯の大事件ですから、よく記憶して居りますが、明治二十八年の四月の、兄があんなに(と云って彼は押絵の老人を指さした)なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。当時、私も兄も、まだ部屋住みで、住居すまい日本橋通にほんばしとおり三丁目でして、親爺おやじが呉服商を営んで居りましたがね。何でも浅草の十二階が出来て、間もなくのことでございましたよ。だもんですから、兄なんぞは、毎日の様にあの凌雲閣りょううんかくへ昇って喜んでいたものです。と申しますのが、兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持物だったという奴を、横浜よこはまの支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」
 老人は「兄が」と云うたびに、まるでそこにその人が坐ってでもいる様に、押絵の老人の方に目をやったり、指さしたりした。老人は彼の記憶にある本当の兄と、その押絵の白髪の老人とを、混同して、押絵が生きて彼の話を聞いてでもいる様な、すぐそばに第三者を意識した様な話し方をした。だが、不思議なことに、私はそれを少しもおかしいとは感じなかった。私達はその瞬間、自然の法則を超越した、我々の世界とどこかで喰違っているところの、別の世界に住んでいたらしいのである。
「あなたは、十二階へ御昇りなすったことがおありですか。アア、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。表面は伊太利イタリーの技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えて御覧なさい。その頃の浅草公園と云えば、名物が先ず蜘蛛男くもおとこ見世物みせもの、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽廻こままわしに、覗きからくりなどで、せいぜい変った所が、お富士さまの作り物に、メーズと云って、八陣隠れ杉の見世物位でございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあ飛んでもない高い煉瓦造れんがづくりの塔が出来ちまったんですから、驚くじゃござんせんか。高さが四十六間と申しますから、半丁の余で、八角型の頂上が、唐人とうじんの帽子みたいに、とんがっていて、ちょっと高台へ昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化が見られたものです。
 今も申す通り、明治二十八年の春、兄がこの遠眼鏡を手に入れて間もない頃でした。兄の身に妙なことが起って参りました。親爺なんぞ、兄め気でも違うのじゃないかって、ひどく心配して居りましたが、私もね、お察しでしょうが、馬鹿に兄思いでしてね、兄の変てこれんなそぶりが、心配で心配でたまらなかったものです。どんな風かと申しますと、兄はご飯もろくろくたべないで、家内の者とも口を利かず、うちにいる時は一間にとじこもって考え事ばかりしている。身体はせてしまい、顔は肺病やみの様に土気色つちけいろで、目ばかりギョロギョロさせている。もっと平常ふだんから顔色のいい方じゃあござんせんでしたがね。それが一倍青ざめて、沈んでいるのですから、本当に気の毒な様でした。そのくせね、そんなでいて、毎日欠かさず、まるで勤めにでも出る様に、おひるッから、日暮れ時分まで、フラフラとどっかへ出掛けるんです。どこへ行くのかって、聞いて見ても、ちっとも云いません。母親が心配して、兄のふさいでいる訳を、手を変え品を変え尋ねても、少しも打開うちあけません。そんなことが一月程も続いたのですよ。
 あんまり心配だものだから、私はある日、兄が一体どこへ出掛るのかと、ソッとあとをつけました。そうする様に、母親が私に頼むもんですからね。兄はその日も、丁度今日の様などんよりとした、いやな日でござんしたが、おひるすぎから、その頃兄の工風くふうで仕立てさせた、当時としては飛び切りハイカラな、黒天鵞絨の洋服を着ましてね、この遠眼鏡を肩から下げ、ヒョロヒョロと、日本橋通りの、馬車鉄道の方へ歩いて行くのです。私は兄に気どられぬ様に、ついて行った訳ですよ。よござんすか。しますとね、兄は上野うえの行きの馬車鉄道を待ち合わせて、ひょいとそれに乗り込んでしまったのです。当今の電車と違って、次の車に乗ってあとをつけるという訳には行きません。何しろ車台がすくのござんすからね。私は仕方がないので母親にもらったお小遣いをふんぱつして、人力車に乗りました。人力車だって、少し威勢のいい挽子ひきこなれば馬車鉄道を見失わない様に、あとをつけるなんぞ、訳なかったものでございますよ。
 兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、又テクテクと跡をつける。そうして、行きついた所が、なんと浅草の観音様じゃございませんか。兄は仲店なかみせから、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人波をかき分ける様にしてさっき申上げた十二階の前まで来ますと、石の門を這入はいって、お金を払って「凌雲閣」という額の上った入口から、塔の中へ姿を消したじゃあございませんか。まさか兄がこんな所へ、毎日毎日かよっていようとは、夢にも存じませんので、私はあきれてしまいましたよ。子供心にね、私はその時まだ二十はたちにもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化物に魅入みいられたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。
 私は十二階へは、父親につれられて、一度昇った切りで、その後行ったことがありませんので、何だか気味が悪い様に思いましたが、兄が昇って行くものですから、仕方がないので、私も、一階位おくれて、あの薄暗い石の段々を昇って行きました。窓も大きくございませんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴蔵の様に冷々と致しましてね。それに日清にっしん戦争の当時ですから、その頃は珍らしかった、戦争の油絵が、一方の壁にずっと懸け並べてあります。まるで狼みたいな、おっそろしい顔をして、吠えながら、突貫している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられ、ふき出す血のりを両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている支那兵や、ちょんぎられた辮髪べんぱつの頭が、風船玉の様に空高く飛上っている所や、何とも云えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線で、テラテラと光っているのでございますよ。その間を、陰気な石の段々が、蝸牛かたつむりからみたいに、上へ上へと際限もなく続いて居ります。本当に変てこれんな気持ちでしたよ。
 頂上は八角形の欄干らんかん丈けで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、にわかにパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。雲が手の届きそうな低い所にあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいに、ゴチャゴチャしていて、品川しながわ御台場おだいばが、盆石ぼんせきの様に見えて居ります。目まいがしそうなのを我慢して、下を覗きますと、観音様かんのんさまの御堂だってずっと低い所にありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃの様で、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。
 頂上には、十人余りの見物が一かたまりになっておっかな相な顔をして、ボソボソ小声で囁きながら、品川の海の方を眺めて居りましたが、兄はと見ると、それとは離れた場所に、一人ぼっちで、遠眼鏡を目に当てて、しきりと浅草の境内けいだいを眺め廻して居りました。それをうしろから見ますと、白っぽくどんよりどんよりとした雲ばかりの中に、兄の天鵞絨の洋服姿が、クッキリと浮上って、下の方のゴチャゴチャしたものが何も見えぬものですから、兄だということは分っていましても、何だか西洋の油絵の中の人物みたいな気持がして、神々こうごうしい様で、言葉をかけるのもはばかられた程でございましたっけ。
 でも、母の云いつけを思い出しますと、そうもしていられませんので、私は兄のうしろに近づいて『兄さん何を見ていらっしゃいます』と声をかけたのでございます。兄はビクッとして、振向きましたが、気拙きまずい顔をして何も云いません。私は『兄さんの此頃このごろの御様子には、御父さんもお母さんも大変心配していらっしゃいます。毎日毎日どこへ御出掛なさるのかと不思議に思って居りましたら、兄さんはこんな所へ来ていらしったのでございますね。どうかその訳を云って下さいまし。日頃仲よしの私に丈けでも打開けて下さいまし』と、近くに人のいないのを幸いに、その塔の上で、兄をかき口説くどいたものですよ。
 仲々打開けませんでしたが、私が繰返し繰返し頼むものですから、兄も根負こんまけをしたと見えまして、とうとう一ヶ月来の胸の秘密を私に話してくれました。ところが、その兄の煩悶はんもんの原因と申すものが、これが又誠に変てこれんな事柄だったのでございますよ。兄が申しますには、一月ばかり前に、十二階へ昇りまして、この遠眼鏡で観音様の境内を眺めて居りました時、人込みの間に、チラッと、一人の娘の顔を見たのだ相でございます。その娘が、それはもう何とも云えない、この世のものとも思えない、美しい人で、日頃女には一向いっこう冷淡であった兄も、その遠眼鏡の中の娘丈けには、ゾッと寒気がした程も、すっかり心を乱されてしまったと申しますよ。
 その時兄は、一目見た丈けで、びっくりして、遠眼鏡をはずしてしまったものですから、もう一度見ようと思って、同じ見当を夢中になって探した相ですが、眼鏡の先が、どうしてもその娘の顔にぶっつかりません。遠眼鏡では近くに見えても実際は遠方のことですし、沢山の人混みの中ですから、一度見えたからと云って、二度目に探し出せるとまったものではございませんからね。
 それからと申すもの、兄はこの眼鏡の中の美しい娘が忘れられず、極々ごくごく内気なひとでしたから、古風な恋わずらいをわずらい始めたのでございます。今のお人はお笑いなさるかも知れませんが、その頃の人間は、誠におっとりしたものでして、行きずりに一目見た女を恋して、わずらいついた男なども多かった時代でございますからね。云うまでもなく、兄はそんなご飯もろくろくたべられない様な、衰えた身体を引きずって、又その娘が観音様の境内を通りかかることもあろうかと悲しい空頼そらだのみから、毎日毎日、勤めの様に、十二階に昇っては、眼鏡を覗いていた訳でございます。恋というものは、不思議なものでございますね。
 兄は私に打開けてしまうと、又熱病やみの様に眼鏡を覗き始めましたっけが、私は兄の気持にすっかり同情致しましてね、千に一つも望みのない、無駄むだな探し物ですけれど、おしなさいと止めだてする気も起らず、余りのことに涙ぐんで、兄のうしろ姿をじっと眺めていたものですよ。するとその時……ア、私はあの怪しくも美しかった光景を、忘れることが出来ません。三十年以上も昔のことですけれど、こうして眼をふさぎますと、その夢の様な色どりが、まざまざと浮んで来る程でございます。
 さっきも申しました通り、兄のうしろに立っていますと、見えるものは、空ばかりで、モヤモヤとした、むら雲の中に、兄のほっそりとした洋服姿が、絵の様に浮上って、むら雲の方で動いているのを、兄の身体が宙に漂うかと見誤みあやまるばかりでございました。がそこへ、突然、花火でも打上げた様に、白っぽい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、フワリフワリと昇って行ったのでございます。お話したのでは分りますまいが、本当に絵の様で、又何かの前兆の様で、私は何とも云えない怪しい気持になったものでした。何であろうと、急いで下を覗いて見ますと、どうかしたはずみで、風船屋が粗相そそうをして、ゴム風船を、一度に空へ飛ばしたものと分りましたが、その時分は、ゴム風船そのものが、今よりはずっと珍らしゅうござんしたから正体が分っても、私はまだ妙な気持がして居りましたものですよ。
 妙なもので、それがきっかけになったという訳でもありますまいが、丁度その時、兄は非常に興奮した様子で、青白い顔をぽっと赤らめ息をはずませて、私の方へやって参り、いきなり私の手をとって『さあ行こう。早く行かぬと間に合わぬ』と申して、グングン私を引張るのでございます。引張られて、塔の石段をかけ降りながら、訳を尋ねますと、いつかの娘さんが見つかったらしいので、青畳あおだたみを敷いた広い座敷に坐っていたから、これから行っても大丈夫元の所にいると申すのでございます。
 兄が見当をつけた場所というのは、観音堂の裏手の、大きな松の木が目印で、そこに広い座敷があったと申すのですが、さて、二人でそこへ行って、探して見ましても、松の木はちゃんとありますけれど、その近所には、家らしい家もなく、まるで狐につままれた様な鹽梅あんばいなのですよ。兄の気の迷いだとは思いましたが、しおれ返っている様子が、余り気の毒だものですから、気休めに、その辺の掛茶屋などを尋ね廻って見ましたけれども、そんな娘さんの影も形もありません。
 探している間に、兄と分れ分れになってしまいましたが、掛茶屋を一巡して、暫くたって元の松の木の下へ戻って参りますとね、そこには色々な露店に並んで、一軒の覗きからくり屋が、ピシャンピシャンとむちの音を立てて、商売をして居りましたが、見ますと、その覗きの眼鏡を、兄が中腰になって、一生懸命覗いていたじゃございませんか。『兄さん何をしていらっしゃる』と云って、肩を叩きますと、ビックリして振向きましたが、その時の兄の顔を、私は今だに忘れることが出来ませんよ。何と申せばよろしいか、夢を見ている様なとでも申しますか、顔の筋がたるんでしまって、遠い所を見ている目つきになって、私に話す声さえも、変にうつろに聞えたのでございます。そして、『お前、私達が探していた娘さんはこの中にいるよ』と申すのです。
 そう云われたものですから、私は急いでおあしを払って、覗きの眼鏡を覗いて見ますと、それは八百屋お七の覗きからくりでした。丁度吉祥寺きちしょうじの書院で、お七が吉三きちざにしなだれかかっている絵が出て居りました。忘れもしません。からくり屋の夫婦者は、しわがれ声を合せて、鞭で拍子を取りながら、『膝でつっらついて、目で知らせ』と申す文句を歌っている所でした。アア、あの『膝でつっらついて、目で知らせ』という変な節廻ふしまわしが、耳についている様でございます。
 覗き絵の人物は押絵になって居りましたが、その道の名人の作であったのでしょうね。お七の顔の生々として綺麗であったこと。私の目にさえ本当に生きている様に見えたのですから、兄があんなことを申したのも、全く無理はありません。兄が申しますには『仮令たといこの娘さんが、拵えものの押絵だと分っても、私はどうもあきらめられない。悲しいことだがあきらめられない。たった一度でいい、私もあの吉三の様な、押絵の中の男になって、この娘さんと話がして見たい』と云って、ぼんやりと、そこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。考えて見ますとその覗きからくりの絵が、光線を取る為に上の方がけてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。
 その時分には、もう日がくれかけて、人足ひとあしもまばらになり、覗きの前にも、二三人のおかっぱの子供が、未練らしく立去り兼ねて、うろうろしているばかりでした。昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮には、今にも一雨来そうに、雲が下って来て、一層おさえつけられる様な、気でも狂うのじゃないかと思う様な、いやな天候になって居りました。そして、耳の底にドロドロと太鼓たいこの鳴っている様な音が聞えているのですよ。その中で、兄は、じっと遠くの方を見据えて、いつまでもいつまでも、立ちつくして居りました。その間が、たっぷり一時間はあった様に思われます。
 もうすっかり暮切くれきって、遠くの玉乗りの花瓦斯はなガスが、チロチロと美しく輝き出した時分に、兄はハッと目が醒めた様に、突然私の腕をつかんで『アア、いいことを思いついた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡をさかさにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか』と、変なことを云い出しました。『何故です』って尋ねても、『まあいいから、そうしておれな』と申して聞かないのでございます。一体私は生れつき眼鏡類を、余り好みませんので、遠眼鏡にしろ、顕微鏡にしろ、遠い所の物が、目の前へ飛びついて来たり、小さな虫けらが、けだものみたいに大きくなる、お化じみた作用が薄気味悪いのですよ。で、兄の秘蔵の遠眼鏡も、余り覗いたことがなく、覗いたことが少い丈けに、余計それが魔性ましょうの器械に思われたものです。しかも、日が暮て人顔もさだかに見えぬ、うすら淋しい観音堂の裏で、遠眼鏡をさかさにして、兄を覗くなんて、気違いじみてもいますれば、薄気味悪くもありましたが、兄がたって頼むものですから、仕方なく云われた通りにして覗いたのですよ。さかさに覗くのですから、二三間向うに立っている兄の姿が、二尺位に小さくなって、小さい丈けに、ハッキリと、闇の中に浮出して見えるのです。ほかの景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿丈けが、眼鏡の真中に、チンと立っているのです。それが、多分兄があとじさりに歩いて行ったのでしょう。見る見る小さくなって、とうとう一尺位の、人形みたいな可愛らしい姿になってしまいました。そして、その姿が、ツーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。
 私は怖くなって、(こんなことを申すと、年甲斐としがいもないと思召おぼしめしましょうが、その時は、本当にゾッと、怖さが身にしみたものですよ)いきなり眼鏡を離して、「兄さん」と呼んで、兄の見えなくなった方へ走り出しました。ですが、どうした訳か、いくら探しても探しても兄の姿が見えません。時間から申しても、遠くへ行ったはずはないのに、どこを尋ねても分りません。なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきり、この世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れる様になりました。ことにも、このどこの国の船長とも分らぬ、異人の持物であった遠眼鏡が、特別いやでして、ほかの眼鏡は知らず、この眼鏡丈けは、どんなことがあっても、さかさに見てはならぬ。さかさに覗けば凶事が起ると、固く信じているのでございます。あなたがさっき、これをさかさにお持ちなすった時、私があわててお止め申した訳がお分りでございましょう。
 ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。私はハタとある事に気がついたのです。と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じ位の大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、あんじょう、兄は押絵になって、カンテラの光りの中で、吉三の代りに、嬉し相な顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。
 でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望ほんもうを達した、兄の仕合せが、涙の出る程嬉しかったものですよ。私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に譲ってくれと、覗き屋に固い約束をして、(妙なことに、小姓の吉三の代りに洋服姿の兄が坐っているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした)家へ飛んで帰って、一伍一什いちぶしじゅうを母に告げました所、父も母も、何を云うのだ。お前は気でも違ったのじゃないかと申して、何と云っても取上げてくれません。おかしいじゃありませんか。ハハハハハハ」老人は、そこで、さもさも滑稽こっけいだと云わぬばかりに笑い出した。そして、変なことには、私もまた、老人に同感して、一緒になって、ゲラゲラと笑ったのである。
「あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないと思い込んでいたのですよ。でも押絵になった証拠には、そののち兄の姿が、ふっつりと、この世から見えなくなってしまったじゃありませんか。それをも、あの人たちは、家出したのだなんぞと、まるで見当違いな当て推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私は何と云われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根はこねから鎌倉かまくらの方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行がさせてやりたかったからですよ。こうして汽車に乗って居りますと、その時のことを思い出してなりません。やっぱり、今日の様に、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の景色を見せてやったのですからね。兄はどんなにか仕合せでございましたろう。娘の方でも、兄のこれ程の真心を、どうしていやに思いましょう。二人は本当の新婚者の様に、恥かし相に顔を赤らめながら、お互の肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ睦言むつごとを語り合ったものでございますよ。
 その後、父は東京の商売をたたみ、富山とやま近くの故郷へ引込みましたので、それにつれて、私もずっとそこに住んで居りますが、あれからもう三十年の余になりますので、久々で兄にも変った東京が見せてやり度いと思いましてね、こうして兄と一緒に旅をしている訳でございますよ。
 ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとは云え、元々人の拵えたものですから、年をとるということがありませんけれど、兄の方は、押絵になっても、それは無理やりに形を変えたまでで、根が寿命のある人間のことですから、私達と同じ様に年をとって参ります。御覧下さいまし、二十五歳の美少年であった兄が、もうあの様に白髪になって、顔には醜い皺が寄ってしまいました。兄の身にとっては、どんなにか悲しいことでございましょう。相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりが汚く老込んで行くのですもの。恐ろしいことです。兄は悲しげな顔をして居ります。数年以前から、いつもあんな苦し相な顔をして居ります。それを思うと、私は兄が気の毒で仕様しようがないのでございますよ」
 老人は暗然として押絵の中の老人を見やっていたが、やがて、ふと気がついた様に、
「アア、飛んだ長話を致しました。併し、あなたは分って下さいましたでしょうね。外の人達の様に、私を気違いだとはおっしゃいませんでしょうね。アア、それで私も話甲斐はなしがいがあったと申すものですよ。どれ、兄さん達もくたびれたでしょう。それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥かしがっておいででしょう。では、今やすませて上げますよ」
 と云いながら、押絵の額を、ソッと黒い風呂敷に包むのであった。その刹那、私の気のせいであったのか、押絵の人形達の顔が、少しくずれて、一寸恥かし相に、唇の隅で、私に挨拶の微笑を送った様に見えたのである。老人はそれきり黙り込んでしまった。私も黙っていた。汽車は相も変らず、ゴトンゴトンと鈍い音を立てて、闇の中を走っていた。
 十分ばかりそうしていると、車輪の音がのろくなって、窓の外にチラチラと、二つ三つの燈火あかりが見え、汽車は、どことも知れぬ山間の小駅に停車した。駅員がたった一人、ぽっつりと、プラットフォームに立っているのが見えた。
「ではお先へ、私は一晩ここの親戚へ泊りますので」
 老人は額の包みをかかえてヒョイと立上り、そんな挨拶を残して、車の外へ出て行ったが、窓から見ていると、細長い老人の後姿うしろすがたは(それが何と押絵の老人そのままの姿であったか)簡略な柵の所で、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶け込む様に消えて行ったのである。





底本:「江戸川乱歩全集 第5巻 押絵と旅する男」光文社文庫、光文社
   2005(平成17)年1月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第三巻」平凡社
   1932(昭和7)年1月
初出:「新青年」博文館
   1929(昭和4)年6月
posted by koinu at 19:00| 東京 🌁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月21日

『ファウスト博士』(Doktor Faustus)トーマス・マン1947年小説。

65A97245-9FF2-4F58-8CB2-C3050A95F8CD.jpeg

『ファウスト博士』(Doktor Faustus)トーマス・マン1947年小説。

架空の音楽家アドリアン・レーヴァーキューン(Adrian Leverkühn)のをファウスト伝説を、元にして描いたマン晩年の長編作品。

「一友人によって語られるドイツの作曲家アドリアン・レーヴァーキューンの生涯」という副題のとおり、古典語学者ゼレヌス・ツァイトブローム(Serenus Zeitblom)が年下の友人であるレーヴァーキューンの生涯を語り記す。作者が1901年に短編の素材として着想して、1943年になって長編に書き直した。


DE735F0A-07F2-42ED-ACBE-A98F9311E4D5.jpeg


ドイツが大戦末期がツァイトブロームの語りに重ねて、創作に必要な霊感を得るために意図的に梅毒にかかって、悪魔に魂を売り破滅に向かうレーヴァーキューン。ニーチェとシェーンベルクをモデルにして、滅びゆくドイツを象徴する人物で、物語全体はドイツへの批判であり作者の自己批判ともなっている。


『ファウストゥス博士』の成立には、レオンハルト・フランクからの問いかけに対して、主人公には特定のモデルはないと作者が答えて、ハノー・ブッデンブロークを除いて、これほど愛したキャラクターは他にいないと述べたという。


C378E730-DB6F-4E6A-A9FC-1F850839A6A6.jpeg
posted by koinu at 09:41| 東京 ☔| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月17日

音韻に対する感受性、想像力、そして象徴を操作できる表現力が必要

「不確かな朝」辻井喬

組曲

 

素朴なものを信じて

美しく生きた人の話が聞きたい

いつか

用意が出来たと言いきれる人の

優しさにについてすっかり聞きたい

 

・・・・

 

闘いに勝てば

だんだん淋しくなっていく

敗ければ

淋しいことも分からぬ程に

駄目になっていく

岐れ道に

いつも立たされ

夜の空の

冷えて行く気圏に懸る

俺の自負

 

塵に埋もれて

風に吹きよせられて

それでも背のびする

俺も

一人の

人間なのだ と

落下する時

言葉は悲鳴に聞え

やってきた

この荒地

 

枯れた木の倒れる

音を聞き

梢に鳴る

寂寞の風を聞き

過去と未来の

吊橋の上の気流の烈しさに

祈ろうとする手は黒くなり

それでも

自虐だけは許していない

 

荒地の

嵐の予感にたじろぎ

俺は腕を組む

俺の手と

霧の中に

鳩だけは守って

鬼のふりまく説話を食い

俺は今

おのれの存在を確かめる

・・・・

 


「樹」辻井喬

 

枝をのばし

空にむかって聳え

樹は一つの存在になる

 

太い幹のまわりで

細い葉は踊りを繰返し

僕等の傷は

昼間 杳い毛細管をとおって

静かに昇ってゆく

 

鳥が巣を作っても

樹は無縁だ

鳥は彼等の営みを生き

風が梢に鳴っても

それは 哀感の歌ではない

 

丘の上で

樹は閑静な意志になる

夕暮の色を沈め

燃えるもの 観念は谺して

うねり

地中の根にわだかまり

誰もまだ

梢の高みから国境の落日を見たものはない

 

樹が空にフ(ささ)げるのは

地壁の形

骨ばった枝は闘いの記録

梢 それは通念の涯ての現実

濶然と透る樹網の奥に

小さな雲が流れて

神の寝室 青い空がひかえている

 

風は樹に話しかける

樹はいつも無言だ

遠い空を渉る鳥だけが

時おり そこに翼を休める


「詩が、本当に詩といえる作品になっているかどうかについては、個性がどれくらいはっきり出ているかがたいへん重要な要素…(略)…現代詩を書いている人は数え切れないくらいいますが、この詩はあいつでなければ書けない、という風な詩はそんなに多くない」


「詩人には、詩を生み出す力−おそらく、音韻あるいは音の響きに対する感受性、それから想像力、そして象徴(シンボル)を操作できる表現力が必要」『詩が生まれるとき 私の現代詩入門』辻井喬(講談社)


辻井喬

財界人,詩人,小説家。本名堤清二。東京生れ。東大経済学部卒。在学中に日本共産党に入党,左翼運動を展開したが,のち離れる。同人誌《近代説話》などに詩を発表,詩集《異邦人》(1961年)で室生犀星賞を受賞した。一方,父の急逝で西武グループの流通部門を受け継ぎ,セゾングループを育成,堤清二は財界の知的リーダーとなる。小説《いつもと同じ春》(1983年)で平林たい子賞,小説《虹の岬》(1994年)で谷崎潤一郎賞受賞。2007年芸術院会員。代表作に《風の生涯》上下(2000年,新潮社),《父の肖像》(2004年,新潮社),《辻井喬詩集》正続(1967年,1995年,思潮社),《辻井喬コレクション》全8巻(2004年完結,河出書房新社)などがある。2012年文化功労者。→西武百貨店

posted by koinu at 07:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月15日

「春の山」久生十蘭


 蘆田周平はサンルームのつづきの日向くさい絨氈の上に寝ころがり、去年の冬から床のうえに放りだしてあった絵葉書を拾いあげた。パリのあやかしに憑かれ、ひとりで気負ったようになっている仲間がよこした自作の絵葉書である。
 八月にレジェが死んだと思ったら、この月の六日にユトリロが死んだ。パリでは毎日のように人生の一大事に逢着している。そちらはどうだ。古沼の淀みのなかで、相も変らずクラゲ同然にフワリフワリしているのだろう、などと生意気なことが書いてある。
 ユトリロが死んだことが、はたして人生の一大事かどうか、よく考えてみないとわからないが、周平の住んでいる世界はあまりにも無事で、ちょっと気をゆるめると、つづけさまに欠伸がでてとまらなくなる。
 周平は、日本間だけでも十五室もある義姉の実家にあたる松井甲子太郎の売空家に管理人がわりに入りこみ、サンルームの脇間にこもって絵を描いているうちに、まわりの景色がいつの間にか春になっていた。
 周平の住んでいる紅ヶ谷のあたりは北と東に山があり、西南が海にむいてひらいている関係で、鎌倉のうちでもとりわけ暖かく、南さがりになった山曲やまたわの日だまりで二月のうちにすみれが咲く。三月になると、空は子供が絵に塗る青のようなすき透った青さになり、薄色の山桜の下で草がはげしい緑を萌えたたせるといったぐあいになる。周平は抽象画の勉強にうちこんでいるが、そのほうは順列や二項定理の問題とおなじで、観念内の仕事だから、自然や風景に用はない。
 周平は画室にあぐらをかいて、欠伸ばかりしているが、にわかに春めいてきた気候のせいばかりでなくて、人間の居ない清潔すぎる環境の影響も、多分に作用しているふうだ。松井の家は居宅そのものも大きいが、屋敷がまたとりとめのないほど広い。鎌倉と逗子の境になる光明寺の裏山をうしろに背負ったような地形で、天照山の峯を越え、名越なごえの切通しを上から見おろすあたりまでが庭つづきになっている。いちど尾根をつたって、地境いになるらしいほうへ降りてみたが、谷もあれば川もあり、萱やむぐらにとじられた広い草地や、陽の目も通さない雑木林がはてもなくつづいている。この家の持主は千万円という値をつけて売りに出しているが、デフレのさなかに、こんなバカべら棒な家が右から左に売れるわけはない。見ただけで気疲れがし、愛想をつかして帰ってきた。
 去年の冬、十二月もおしつまった三十日の夜、光明寺の裏山へ門松にする姫小松を盗みに行った小坪の漁師の子供が、道に迷って谷へ落ちて死んだ。子供の母親が提灯を持って、「カネやーい、カネやーい」と叫びながら、尾根や谷戸の上の道を根気よく探しまわっていた。提灯の火は夜の明けるまで見えていた。思いかえしてみると、この半年ほどの間に、自然に人事がまじりあったのは、そのときだけだった。
 浄瑠璃寺の弥勒仏そっくりの顔をした由さんという六十ばかりになる常傭の植木屋と、仲間の六さんというのが、月に三度、庭を掃除しにくる。郵便配達の三三みささん、小坪で網元といわれている吉兵衛、その息子の吉青年……その辺が画室の常連だが、そういう組合せでは、いたずらに煩わしいばかりで、精神を高めてくれるような、なんの寄与もしない。とても、人生の一大事に逢着するというようなことにはならないのである。
 由さんは若いころ小博奕こばくちに凝って、横須賀のなんとか親分の身内になり、銀せの木刀を腰に差し、テラ箱を担いで田浦衣笠の辺を走りまわったこともあったそうで、そのころの気風が残っているのだとみえ、植木ばかりいじって暮しているくせに、いうことになんとなくクセがある。それは由さんだけのことではなくて、六さんも、三三も、吉兵衛も、その息子の吉青年も、遊び好きでアクの強いことにかけては、由さんと変りはない。吉青年は、おれたちは三浦党の後裔だなどと、つまらないことをいって威張っているが、紅ヶ谷、飯島、名越、三浦道寸の城のあった小坪あたりまでの地積は北条経時の領地で、明治の中頃に乱橋村という区分になり、名主だった松井の先々代に支配されていた村方むらかた一般の子孫なので、ものの考え方や生活感情に、習俗とでもいうような共通したものがあるらしい。周平にたいする当りかたはまず尋常で、東北の山奥の部落民のように他所者扱いをしていじめるようなことはしないけれども、正体の知れない、わけのわからないようなところがあって、簡単にはあしらいかねた。
 無為と倦怠の中で風化したような、この空家に入りこんだ当座、みじめなくらい孤独だが、煩わされることのない清らかなよろこびにみちた生活に、周平は深い満足を感じていたが、おいおい春めいてくると、おだやかすぎる気候と、人生のない淡泊すぎる環境におされ、いちど見切りをつけた煩わしい生活へ、人間がひしめきあう喧騒の世界へ、しばらく立戻ってみたいと思うようなこともあった。
 そういう春の朝、周平がモーターでタンクに水をあげて遊んでいるところへ、のっそりと六さんがやってきた。
「留守だと思ったら、居たな」
「六さんか、お茶でも飲んで行けよ」
「顔を見たから安心した。また来まさ」
 翌日、早がけに由さんがやってきた。
「生きて居たかね。十日も表の通りへ顔を見せねえから、患っているんじゃねえかと思って」
 勝手のかまちに腰をおろすと、煙草に火をつけて長い煙をふきだした。
「なア、困るじゃねえかよ。こんな陽気に、家にばかり籠っていちゃ毒だア。ちっと浜へでも出てみなせえ」
「海なら、毎日見ているよ」
「釣りはどうだ。釣りをするなら舟を出すが」
「舟に弱いから、海釣りはごめんだ」
「今日は彼岸の中日だが、なにか忘れていることがあるんじゃねえのか……五ノ日は地方の休み、十一日は浜方の潮休み……彼岸のお中日は、土地じゃ大切な日になっているんだが」
 周平は絵筆を洗いながら相手になっていたが、由さんのいいまわしのなかに、なにか気むずかしい絡むような調子がある。悪意ではない、親切なのだろうが、飲み屋で知らぬ客から盃を強いられ、断るにも断りかねるときのような当惑と忌々しさを感じた。
「お祭りの寄付か。どのくらい出すのかいってくれよ。留守番だから、たいしたことはできないが」
「金をもらいに来たわけじゃ……東京の奥さまから、なにか聞いちゃ、いなかったですか」
「なにも聞いていなかったよ」
 由さんはむずかしい顔になって、
「しょうがねえな」
 と舌打ちをすると、じゃ、またそのうちにといって帰って行った。
 二時間ほどすると、小坪の吉青年がやってきた。
「先生、居るかね」
 仕事をしているところへ上がりこんできて、ふてぶてしい恰好であぐらをかくと、
「ちょっくら、見てもらいたいものがあって、持ってきた」
「吉あんちゃんか、なにを持ってきた。この辺の土出どしゅつなら、もうたくさんだ」
「そんなものじゃねえ、びっくりするなよ」
 横風なことをいいながら、鬱金うこんの布に包んだ丸味のあるものを、脇間の床の上に置いた。
 立杭焼の古いものだが、ガラス壺に合格せず、穴窯の外に捨てられたものらしく、歪んでかたちが崩れ、底に食っつきがある。こんな半端ものは、上下の両立杭や釜屋に行けば、十円もしない出来損いだが、よく見ると、彎曲してかたちの崩れた小判形が、まんざらではない。水簸せず、荒地のままで使っているから、いちめんに石ハゼが出ているのも面白い。窯の中で松の灰かなにかが落ちかかり、それが硝子化したのが、青い美しい色になって一筋流れている。表面はザラザラし、色艶が悪く、見た眼には汚いが、口造りといい、ビードロの流れといい、茶人なら飛びつくようなものである。
「これはどこから出たんだ」
「先生、たいしたもんだろうが。どこってことは、いえねえが、おれが掘出したんだ」
 見識だといいたいところだが、眼も素養もない二十三の網元の伜に、味の深いこの美しさがのみこめようわけはない。色とか線とか、美の要素について審美の鍛錬を経ない素人の、こいつはいいという認容ほどあてにならないものはない。
「ほんとうに掘出したのなら、飛んだまぐれあたりだが、どうも嘘らしいな」
「嘘ってことがあるかよ、ほんとうだ」
「騙されはしないよ、誰にもらったんだ」
 吉青年は頭を掻いて、
「騙せねえか。騙せねえなら白状するが、横須賀の叔父の家からチョロまかして来たんだ。売るとすれゃ、どれくらいに売れるだろう」
「好きなひとなら、どうかすると飛びつくだろうが、値をつけるような代物じゃないね」
「がっかりさせやがる。それァほんとうかい」
「おれにくれないか。そこにある絵なら、どれを持って行ってもいい」
「そんなにほしいか。そんなら、これから横須賀へ行こう。気にいったのをチョロまかしてやる。今日は家に居ねえはずだから、都合がいいんだ」
 行こうといいかけたが、歪んだところ、やりそくなったところが面白いので、こんなよくできた出来損いなど、いくつもあろうはずはない。
「おめえは煮えきらないから嫌いだよ。なんぼおれでも、叔父貴のいるところじゃ、仕掛けがきかねえ。善は急げだ。立ちなよ」
 由さんがしつっこく絡みついたあたりから、なにかあるなと思っていたが、吉青年の誘いかたがはげしいので、それで、はっと行きあたった。
「ちょっと伺うがね、どうして、みなでおれを外へひっぱりだしたがるんだ」
 周平がひらきなおってそういうと、吉青年は虚をつかれて、
「おれが、どうしたというんです。なにをいってるのか、ちっとも、わかんねえや」
 と、しどろもどろになった。
「おれがここにいると、ぐあいの悪いことがあるらしいな。そうじゃないのか」
「先生がここに居たからって、べつに、どうということはねえです」
「そんなら家にいる。横須賀へ行くのはやめた。六さんと由さんに、そう言っておけ。先生は、当分、家から出ないそうだって」
「こいつは弱ったね」
「おれが家にいたって、吉あんちゃんが困ることはないだろう」
「それがどうも弱るんで……ここで先生に臍を曲げられると、大事になる」
 吉青年は割膝になってかしこまると、ついでに床に両手をついて頭をさげた。
「先生、このとおりだ」
「家をあけてくれなら、あけてやってもいいが、あてなしに出るというわけにはいかないな」
「釣をするなら何隻でも舟を出します。ゆっくり行っていらっしゃい」
「甘く見るな。そんなものの言いかたがあるか。ものを頼むなら、筋を通してから頼むもんだ」
 吉青年は頭を抱えて、
「うむ……と唸ったね。これは村方の神事みたいなもんで、亡くなられた松井の旦那も東京の奥さまも、承知のうえで見ないふりをしていてくれるんです。四県五郡の親分衆が、昨夜から宿をとって場の立つのを待っているという正念場だ。たのむよ、先生」
 春秋二回、彼岸の中日に、近県の親分が集まって、松井の邸の奥の囲地で闘鶏の関東大会をやるのが、久しい以前からのシキタリになっている。もっとも、仲間だけの手合せなら、夏冬なしにやっているがと、ひとを馬鹿にしたようなことをいった。
「なんだ、うちの地内で、そんなことをやっていたのか」
 このあたりの自然の風致は、のどかすぎてとるところがないと思っていたが、退屈そうな見せかけをした庭の奥で、そんな活溌な情景がくりひろげられていたとは考えもしなかった。
「潮休みには浜方がまじるので、いつもどえれえ騒ぎをおっぱじめるんだが、ほんとうに知らなかったのかよ」
「知らなかった。それらしいものも見かけなかったが、その連中、どの道から入りこんでくるんだ」
「どの道といったって、入口は一つだ。みな門から入ってきまさ」
 そう言われれば、六さんや由さんが半纒はんてんの裾になにかを丸めこんで、庭の奥へ入って行くのを見た記憶がある。
「六さん、あの齢で若いものといっしょになって、悪さをするのか」
「先生はなにも知らねえんだね。六さんこそは関東一の軍鶏師よ。六さんの手にかかったら、反羽鶏そっぱどりも軍鶏になるというくらいのもんだ。今日の花試合に出す『明月院』ってのが、そこに伏せてあるが、見たかったら、のぞかせてやろう」
 去年の落葉が冬のままに堆高くたまった裏山の斜面をあがって行くと、柊の大木の下に、久しく閉めきったままになっているらしい暗ぼったい小屋があった。
 吉青年は扉の前に立って、中の物音を聞くようなほのかな目づかいをしていたが、周平のほうへ振返って、
「奴さん、威勢がいいや。入ってみよう」と誘いかけるようなことをいった。
 馬立のある小屋の小暗いところに、紅絹もみの袋をかぶせた二尺ばかりの高さの伏籠が置いてあって、その中でガサガサと気ぜわしく動きまわる鶏の足音が聞えた。
 周平が伏籠の前へ行くと、軍鶏はにわかに猛りたって、ゾヨゾヨと羽ずれの音をたてながら、飛びあがり飛びあがり、伏籠の天井を蹴るので、いまにも籠を破って出てきそうで不気味だった。
「うるさいやつだな。軍鶏ってのは、いつでもこんなに腹をたてているものなのか」
「闘鶏のある日にゃ、鶏冠と尾羽をつめて、赤いものをかぶせておくから、奴は心得て張り切るですよ。話には聞いていたが、『明月院』ってのは、まだ見たことがねえ。六さんにドヤされるかもしらねえが、ちょっくら、のぞいてやるべえ」
 紅絹の袋をとると、総黒の、見るからに精悍そうな軍鶏が、伸びあがるような恰好で、ひとりであばれていた。
「うわ、すごい。先生、こいつはマレモノですぜ」
 鶏冠はズタズタに裂けて磯の血色藻のようにゆらゆらし、眼は睨みつけるようで、どこといって一点、可愛げのない憎体な面がまえをしている。
 明月院は眼を光らせて周平の顔を見ていたが、なにが気にいらないのか、羽毛のない赤膚を緊張させると、怒り毛を逆立て、いまにも飛びかかろうとするように、身体をゆすりながら足踏みをはじめた。
 水に濡れたような正真の烏黒に、エメラルド色の細かいがいちめんにちらばったところなどは、どう見ても、青い色糸でタッチングしたロシア天鵞絨の感じである。斑のない羽丘には薄青いケムリがあがって、身動きするたびに、首から尾羽へ、秋の野末の稲妻のようにキラリと青い光が走る。鶏冠の色は洋紅に朱をまぜた複雑な赤で、羽毛の黒と斑の青に対照して、ゴヤが闘鶏図で造形した黒軍鶏のような深味のあるヴァリュウを見せている。
「吉あんちゃんが持ってきた立杭焼の壺みたいなやつだな。とんだ出来損いだが、見れば見るほど味が出てくる。原っぱで蹴合いするところは、どんなだろうね」
 およそ相闘うというたぐいのことは、なんであっても生存競争とおなじことで、わざわざ見てやるほどのことはないというのが、周平の意見だったが、そんなことをいっているうちに、このままひき退るわけにはいかないようになった。
「闘鶏って野蛮なものなんだろうな。ちょっと見たいような気もするが、むやみに血を出したりするのでは、やりきれたもんじゃないから」
 と気をひくと、吉青年はすぐ乗ってきて、
「急に色気をだしたね。そんなら、花試合を見たらどうです」
「花試合って、どんなことをするんだ」
「言ってみれば気力の戦争で、むごいことはしねえのです。持ち時間は軍鶏師が相対できめるが、だいたいは四十分……その間に、怖けて泣き声をあげるか、疲れてしゃがみこむか、羽交の下に首を入れるか、囲場の側に凭れて脚を投げだすか……四失のうちのどれかをやれば、負けということになるんでさ」
「その程度なら、いやな思いをしなくてもすみそうだ」
「見る気があるなら、見ておきなさい。花試合がはじまったら、そっと迎いにきますから」
 二時間ほどしてから、吉青年が迎いにきた。小屋の横手から尾根を越え、谷戸につづく細道をおりて行くと、むかし豆腐川が流れていた涸谷かれたにの磧に出た。
 磧のむこうは、茨や萱にとじられた深い雑木林で、その奥でさかんな人声があがっている。
「あの中でやっている。見つかると、いい顔はしないから、隙見する程度にしておきな、明月院の相手は、佐介という黄笹きざさの軍鶏です。もうはじまる、おれはあっちへ行くよ」
 吉青年が行ったあと、雑木林の近くまで忍んで行くと、木立の間から、花々しいほどの闘鶏場の風景が見えた。
 それがリンクになるところなのだろうか。雑木林に囲まれた草地の中央を二坪ばかり掘りさげて川砂を敷き、四つ隅に杭を打って、三尺ほどの高さに茣蓙で囲ってある。リンクのまわりにシートを敷きつめ、審判席とでもいうようなところに、抜目のなさそうな面がまえの男が十二人、親分の貫禄を見せて座布団のうえにゆったりとおさまり、巻脚絆に地下足袋をはいた世話役が二人、介添のかたちで、片立膝で控えている。張方か客人か、表通りの店で見かける商家の旦那をまぜた三十人ほどが、申しあわせたように一升瓶をひきつけ、笑ったりしゃべったりしている。
 リンクの左手のすこし離れたところに、野立の茶会のような幕を張ってあるのは、支度部屋というようなところなので、伏籠の中であばれまくる鶏の声が聞えた。
 世話役の一人がリンクのそばへ行って、
「第五回は花試合……持ち時間は四十分となっております」
 と錆のかかった渋辛声で披露すると、六さんと由さんが、ちがうひとのような甲走った顔で、伏籠を抱えて出てきた。
「片や明月院、片や佐介」
 リンクのまわりで、わっと歓声があがる。
 六さんと由さんは東西に分れ、リンクの近くに伏籠を置くと、如露で鶏に水をかけ、そろそろと伏籠から出し、羽交の下に手を入れてしずかに抱きあげた。
 世話役がストップウォッチを見ながら、ヘッと突んぬけるような奇声をあげると、六さんと由さんは同時にリンクにおりて、向きあう位置に鶏を据えた。
 いきなりあばれだすのかと思ったら、そうではなく、両足の間にひっ挾むようにして、じっと鶏をおさえつけている。
 軍鶏師の禿頭にうららかな春の陽が照り、二羽の軍鶏は、なにかしんとしたようすで、たがいに顔を見あっている。
 明月院の相手は、羽着きの薄い枯笹色の貧相な鶏で、いくどかの戦いで背中のあたりまで羽毛をむしられ、ぞっとするような赤肌をむきだしているのは悲惨だが、鶏冠を半分以上も剃り落してあるので、頭だけ見ると、鸚鵡のお化けのようで滑稽だった。明月院は凛然たる剣豪の風格だが、佐介のほうは鶏の隠居といった態で背中を丸め、このまま眠りたいとでもいうように眼をショボショボさせている。戦うなどというスタイルではない。ショオにでもなりそうな間のぬけた組合せなので、観衆はクスクスと忍び笑いをしていたが、なにかのきっかけで、いちどにどっと笑いだした。
 この試合は賭のない娯楽の一番らしく、誰も試合の成行などは問題にしていない。明月院のようなマレモノをつくりだした六さんにたいする祝儀の一番なので、佐介は絶対に負けるためにリンクにひきだされた生餌にすぎない。花試合というのは、本来、こんなものなのだろうが、もしそうだとすれば、残酷だという意味ではちょっと類のない試みであった。
 周平が伸びあがって見ると、明月院と佐介が一体になって揉みあっていた。蹴る、ひっかける、おし倒す、乗りつぶす。そのたびに、黒と茶の羽毛がまじりあって、噴水のように空に噴きあがる。
 明月院のほうが優勢だが、佐介もやられてばかりはいない。戦うほか、生きる道はないのだと理解しているように、死の淵に追いつめられた生物の窮極の姿勢で、サイドに尾羽をすりつけながら、リンクのまわりをグルグルとまわっていたが、チャンスをつかんで明月院に襲いかかると、頭をひっぱたいてあおのけにひっくりかえし、五尺ぐらいも飛びあがっておいて、背中のまんなかに隕石のように落ちかかった。明月院はサイドの近くまでコロコロところげて行ったが、そこであっけなく乗りつぶされ、砂に首を埋めて、みじめな声で鳴いた。
 観衆は期待はずれで拍子ぬけがし、二つ三つ気のぬけたような拍手を送った。
 二本目の試合で、にわかに形勢が逆転した。佐介は闘志を失って物臭くなり、リンクの隅を辿って逃げてばかりいる。明月院はリンクの遠い隅で、身体を揺りながら足踏みをし、戸惑ったようにウロウロしている佐介のほうを見込んでいたが、とっさに駆けだして行くと、嘴と眼の間へけづめを打ちこみ、背越しに一間ほどもうしろへ投げつけた。
 佐介は死に、それで勝負は終った。世話役が佐介のむくろをさげて雑木林のほうへ来、ひと振りして無雑作に周平のいる草むらへ投げこむと、すぐつぎの試合がはじまった。
 佐介はまだ生きていた。生きているしるしが、かすかに残っていた。嘴を折られ、眼玉をえぐりだされ、不幸な人間の末路といったぐあいに長く伸びていたが、そのうちに意識が戻ってきたふうで、血をためた眼窩を上にむけ、途方に暮れたようにトホンと空を見あげてから、辛い努力をかさねながら、草むらから身体を起しにかかった。
 何度か失敗して、やっとのことで立ちなおると、死の終局が近づいていることを知りつつ、最後まで本性に忠実であろうと勉めるように、攻撃のかまえで、ヨタヨタと周平のいるほうへ歩いてきた。しかし、その行動はいっこうに甲斐のないもので、ものの一尺ほど歩いたところで、尻餅をついてへたばってしまった。
 佐介の眼から、だしぬけに涙のようなものがあふれだした。へし折られて、嘴ともいえないような短い嘴のあいだから血と胆汁を吐き、あおのけにひっくりかえって、縋るものがあったら縋りつきたいというように、ギクシャクと脚を踏みのばしていたが、間もなく身体が硬直し、乾反ひぞったように突っぱってしまった。
 ここにも一大事があった。周平は心のなかでつぶやいた。
「春の山で、一羽の軍鶏が涙を流しながら死んだ」





底本:「久生十蘭全集 ※(ローマ数字2、1-13-22)」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
posted by koinu at 15:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月13日

『ポンペイ夜話』ゴーチエ

1B54C6C8-761B-464C-AA15-3822F296DDC2.jpeg
紀元79年8月24日ヴェスヴィオ山の噴火で、ポンペイは一瞬で死の都となった。

ナポリ近郊へ遺構見学に、フランス人の学生たちが旅行にやってくる。その3人のうちオクタヴィヤンは博物館なものに強く興味を引かれた。溶岩に包まれて、乳房の輪郭などが艶めかしく浮き出た女性の押し型。この女性はどんな人だろうと想像すると胸が高鳴る。

その日の夜に、突然不思議な感覚に襲われて、壊滅する以前のポンペイへ跳ぶのだった。あの押し型の女性はアッリア・マルチェッラという。時の皇帝ティトゥス帝から解放された、奴隷ディオメデスの娘だった。理解できないまま不思議に身を委ねるオクタヴィヤンと彼女は、一夜をともにしようとする。時を超えた愛撫と交接。

「信仰は神をつくり、愛は女をつくり、誰からも愛されなくなったとき、はじめて人はほんとうに死ぬのです」

力強い祈りは、千年以上の距離をなくす。

1FB280DD-0B99-4FC3-A023-4342AF81D9C8.jpeg

ピエール・ジュール・テオフィル・ ゴーチエ(Pierre Jules Théophile Gautier,1811830 - 18721023日)フランスの詩人・小説家・劇作家。文芸批評、絵画評論、旅行記も残した。

posted by koinu at 09:42| 東京 ☔| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする