西暦3世紀半ば、ササン朝ペルシア帝国治下のイランで、マニ(Mani, Manichaeus)によって創始された啓示宗教である。古代ユーラシアの世界宗教の一つで、民族・言語・文化・国境を越えて、イベリア半島から、東はインド・西域を越えて中国にまで布教され、広く信者を得た「普遍宗教」であった。歴史のなかで、マニ教はいつしか淘汰され消え去ってしまったが、今日にも残存していれば、その教えの普遍性から云って、仏教、キリスト教、イスラム教と並ぶ、第四の「世界宗教」でもあった。
ユダヤ教の預言者の系譜を継承し、ゾロアスター・仏陀・イエスは預言者の後継と解釈し、マニ自らも天使から啓示を受けた預言者であり、印璽を授かったと称した。また、パウロの福音主義に影響を受けて戒律主義を否定する一方で、グノーシス主義の影響から智慧と認識を重視した。さらにはゾロアスター教の影響から、善悪二元論の立場をとった。
マニ教概 http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/mani-r1.html
マニ教の神話では、原初の世界では光と闇が共存したが、闇が光を侵したため、闇に囚われた光を回復する戦いが開始された。
光の勢力によって原人が創生されたが、原人は敗北して闇によって吸収された。
その後、光の勢力は太陽神ミスラを派遣して、闇に奪われた光を部分的に取り返すことに成功した。
闇は手元に残された光を閉じ込めるために、人祖アダムとエバ(イブ)を創造した。
とされる。そのため、人間は闇によって汚れているものの、智恵によって内部の光を認識することができるとする。ここにはキリスト教の原罪やグノーシス主義の影響がみられる。そして、人間の肉体は闇に汚されていると考えた一方で、光は地上に飛び散ったために、植物は光を有しているとみなした。そのため、斎戒・菜食主義を重視する。また、結婚(性交)は子孫を宿すことであり、悪である肉体の創造に繋がるので忌避された。マニ教の根幹はグノーシス主義に基づいた禁欲主義であり、肉体を悪とみなす一方で、霊魂を善の住処としたことが特徴となっている。

[歴史]
マニの両親はユダヤ教新興教団に属しており、マニも幼少の頃からユダヤ教の影響を受けた。その後、ゾロアスター教やキリスト教、グノーシス主義の影響を受けて、ユダヤ教から独立した宗教を樹立した。24才の時に啓示をうけ、開教したとされる。ペルシャ・バビロニア・インド・中央アジア地方で伝道の旅を続けたものの、当初は信者を獲得するに至らなかった。
ゾロアスター教による迫害・攻撃もあったが、信者はペルシャ国外で拡大・増加し、ローマがキリスト教を国教とする前は、マニ教はローマ帝国全域にまで拡大していた。また、アジアにも拡大し、ウイグルではマニ教が国教となった。
唐においては694年に伝来して「摩尼教」と称し、景教(ネストリウス派キリスト教)・ゾロアスター教と共に、三夷教と呼ばれた。843年に唐の武宗によって禁止されたが、その後もマニ教は「明教」とも呼ばれ、仏教や道教の一派として流布し続けた。呪術的要素を強めたために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで言われた。水滸伝がその活躍の舞台とする、北宋の方臘の乱は、マニ教徒によるものとする説もある。
宗教に寛容な元においては、明教は福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていた。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、朱元璋が建てた明の国号は明教に由来したものだと言われているが、明代に明教は厳しく弾圧され、15世紀には姿を消した。しかし、中国においてマニ教・明教の系譜は、白蓮教や義和団を通じて19世紀末まで受け継がれていった。
福建省の晋江には元代(1339年)に建立された草庵摩尼教寺が現存し、国家重要文化財に指定されている。「家内安全」「商売繁盛」の御札が売られ、旧暦4月16日には摩尼光仏(マニ)の聖誕祭が行われているが、もはやマニ教本来の信仰とは全く関連がない。
マニ教の宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、預言者の印璽、断食月)は、後にムハンマドのイスラム教の成立に影響を与えた。
マニ教は、西方伝道においてはイエス・キリストの福音を、東方への布教には仏陀の悟りを前面にするなど、各地域毎に布教目的で柔軟に変相したため、東西に発展した世界宗教となった反面、教義・経典が混乱気味となった。マニ教は近世に至るまで命脈を保ったものの、各地で既存宗教の異端として迫害されたり、逆に他の宗教に吸収されるなどして、マニ教自身としての独自性を一貫して保てずに消滅してしまった側面がある。
このように、スペインから中国まで大陸を横断する世界宗教であった。マニ教は、過去に興隆したが現在では滅亡した(信者が消滅した)宗教のうちで、代表的なものである。(Wikipedia)

