西暦紀元前343年か342年頃、アリストテレスは、まだ13才だった未来の大王アレキサンダーの教師として雇われた。アリストテレスが42才の頃である。それは、人類史上でも最大級の二人の人物の出会いといえるだろう。しかしそれにしても、われわれ現代人は、なぜこのような遥かな昔の史実や、そもそも古代ギリシアの科学や哲学を知っているのだろうか。知識あるいは知恵の集積を後世に伝えることは、案外難しいのだ。
古代ギリシア人の知恵の産物が、われわれに伝えられたのは、多くの人びとの努力と歴史的幸運のお陰である。エジプトを征服したアレキサンダーは、アレキサンドリアに図書館をつくることを命令した。当時の図書館は、本をつくることから始めなければならなかった。文書の断片が帝国の各地から集められ、著者別に推論、区別され、本が作成された。それらの本は、ほとんどギリシア語で書かれていた。
アレキサンドリアの図書館は、いろいろな政治的事件に翻弄されながらも、かなり長く、存続し続けた。しかし、西暦391年にはキリスト教徒によって、642年にはイスラム教徒によって破壊された。いずれも、古代の合理的な思想が、宗教的に危険な存在と見做されたのである。その後、生き残ったギリシア語の文献は、ビザンチン帝国によって保管されることになった。
ビザンチン帝国は、東ローマ帝国とも呼ばれるので、ローマ帝国と考えられやすいが、事実上ギリシア帝国に変わっていた。しかしビザンチン帝国は、古代ギリシアの科学や哲学に積極的な関心は持たなかったらしい。当時のキリスト教徒は、キリストを神と人の間にどう位置づけるかという問題をめぐって、きびしい宗教的対立を続けていた。そんな雰囲気では、古代ギリシアの理性を重んずる思想は危険視されたのだろう。
そのままでは、ビザンチン帝国の書庫の中で朽ち果てたかもしれない古代の知識が、再び陽の目をみたのは、アラブ人の手によってである。751年、イスラム・アラブ帝国がウマイア朝からアッバス朝に変わり、首都がダマスカスからバクダッドに移ると、多くの民族が集まってきた。新しい都バクダッドは、かつての古代ペルシア帝国、ササン朝の都、クテシホンに近かった。そしてササン朝時代の学問の中心、ゴンデシャプール大学も、バクダッドからそれほど離れていなかった。
ゴンデシャプールでは西のギリシアの科学が、起源を異にするインドの科学と接触・融合していたのである。アッバス朝は、早くから知識の習得に熱心だった。第二代カリフで、実質的なアッバス朝の創設者であったアル・マンスールは、754年から775年の治政の間に、ビザンチン皇帝の下に使節を派遣して古代ギリシアの数学の教科書、とくにユークリッドの著書を求めている。そのために、同じ重さの金を支払ったと伝えられているはどの熱心さであった。
しかしアッバス朝の知識吸収欲が最高潮に達するのは、9世紀に入ってからである。第七代のカリフのアル・マアムーンは830年、バクダッドに「ハウス・オブ・ウイズダム」(知恵の家)という政府機関を設立した。伝説によると、アル・マアムーンの夢にアリストテレスが現われ、「神の啓示とギリシアの理性の間には矛盾がない」と保証したという。もっとも、イスラム教では、キリスト教と違って、知識の吸収は大いに奨励されていた。預言者ムハンマドも、「学者のインクは、殉教者の血より価値がある」とし、「知識を求めることは全てのイスラム教徒の義務」とまでいっている。
「ハウス・オブ・ウイズダム」は多数の学者を雇って、ビザンチン帝国から求めてきたギリシア語の文献を、まずシリア語に訳し、それをアラビア語にさらに訳した。このような二段階作戦をとったのは、直接訳すことができなかったからである。とくに、ギリシア語からシリア語に訳すのにキリスト教徒が雇われた。
国家権力を基礎にした大規模な翻訳事業は、2世紀にわたって続けられた。当時存在したギリシア語の文献はほとんどアラビア語に訳されたという。それは、50万部にも達する膨大なものだったようだ。そのような膨大な本をつくることができたのは、751年のタラスの戦で、中国からの紙の製造技術を獲得していたからである。それまでは、羊皮紙あるいはパピュルスが使われていたが、羊皮紙は高価で、パピュルスは長持ちしなかった。
アラブの学者たちは、翻訳だけに満足していたわけではない。ギリシアの科学をインドの科学と結合して代数学などの独自の科学をつくり出し、自らの観察によって、ギリシアの科学を修正、発展させたのである。以上のように、知識の継承者としてのアラブ人の功績は大きい。しかしバクダッドは、西欧からあまりにも遠く、かつ、いずれモンゴルに亡ぼされる運命にあった。
古代ギリシアの知恵を現代に引き継ぐには、さらにスペインの役割が必要だった。ダマスカスにおけるアッバス朝の大虐殺をかろうじて逃れたウマイヤ朝の一人の王子が、スペインに後期ウマイア朝を建てた。アブダル・ラーマン一世である。その孫で、第四代のアブダル・ラーマン二世は、822年から852年にかけて、スペインを治めたが、バクダッドのアッバス朝に対抗するため、多くの学者を好遇をもって招いた。以後、その都、コルドバは、約400年にわたって学問の中心地となった。
繁栄をきわめたスペインのアラブ・イスラム帝国も、その頂点、10世紀のアブドル・ラーマン三世の死後急速に衰退する。「レコンキスタ」の旗印の下、キリスト教徒が、イスラム教徒をしだいに南に追いつめていった。しかし、幸いなことに、今やキリスト教徒も知識欲を高めていた。1085、キリスト教徒の手に落ちたスペインのトレドが、その後200年にわたって、ヨーロッパのための知識の発信地となった。
少し遅れて、12世紀ノルマンに征服されたシシリーのパレルモも、アラビア語の文献の翻訳センターとなった。アラビア語から、ラテン語、ギリシア語、ヘブル語へ翻訳されたのだ。やがて、ヨーロッパの奥地、今日のフランス、ドイツ、イギリスなどから多くの学者が、蜜にすいよせられる蝶の如くに、トレドやパレルモに勉強にやてきた。
オックスフォード大学やケンブリッジ大学、それにソルボンヌ大学など現在のヨーロッパの大学の多くは、その創立の淵源をこの時期にもっている。それは偶然ではない。以上の如き歴史の偶然性と必然性の連鎖につながっている。そしてわれわれの世代もまた、後世に知恵と知識を引き継いでいく歴史的義務を負っていると思う。
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/History/History.html ハウス・オブ・ウイズダムより
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歴史は知識の母、知識は知能の母です。
そして知能は人生で最大の財産です。
本歴史研究所の精神は、できるだけ事実を正確に把握した上で、
その意味を大胆にさぐることにあります。
今、問題となっているグローバリゼイションということを理解するためには、
まず、その根底にある西欧思想を理解する必要があります。
メディ−バリズムの中心テ−マは、ヨ−ロッパで古代から中世へ移行した時点は何時なのか、
そしてその原因はなんだったのか、といった点です。
この問題は、イスラム・アラブによる金の解放という歴史的事実を考慮に入れないかぎり解けません
歴史研究所 http://homepage3.nifty.com/sekiokas/
◆知恵の館(バイト・アル=ヒクマ, Bayt al-Hikmah)
830年、アッバース朝の7代カリフ・マームーン(在位:813年 - 833年)が、バグダードに設立した翻訳所・図書館。天文台も併設されていたといわれている。「知恵の家」とも訳される。
国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその註釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。 また、使節団をビザンツ帝国に派遣して文献を集めることもあった。
10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。
スタッフの多くは、シリアのネストリウス派や単性論派のキリスト教徒、ハッラーン出身のサービア教徒であった。ローマ帝国主要部のキリスト教は、4世紀から6世紀にかけて、「イエスは神の属性のみを持つ」という思想と、ギリシア哲学を異端としてしまった。そのため、ネストリウス派などは東方に逃れることとなった。
ヤハヤー・イブン=マーサワイヒ - 初代館長。キリスト教徒
フナイン親子 - 翻訳家。キリスト教徒
クスター・イブン=ルーカー - 翻訳家。キリスト教徒
[影響]
翻訳のおかげで、イスラム世界のさまざまな人々が、アラビア語で学問を論じ始め、アラビア語は知的言語・共通言語としての力を高めることともなった。
ユダヤ教徒も、サアディア・ベン・ヨセフやマイモニデスは言うまでもなく、哲学関係の書をアラビア語で読み書きするようになった。それまでユダヤ教徒の間ではアラム語やギリシア語が共通語・日常語であったが、アラビア語に取って代わられるようになった(ユダヤ教やシナゴーグ、聖書解釈・詩作といったものなどに関する場面以外は、アラビア語で話し、書くようになっていった)。
時代は飛ぶが、12世紀を最後に、イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。 (Wikipediaより)
知識はいくら蓄積しても、薀蓄されるだけの亡霊にすぎない。
実践しなければ、果実の種を飾るようなものだ。
今の時に育てて実らせることに、知識の意味がひそんでいる。

