2021年11月06日

人間は本能が壊れている

『唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか』岸田秀(いそっぷ社)


『ものぐさ精神分析』として出版されて以来、 熱狂的な支持と一部の反対・批判にもさらされてきた「唯幻論」。 


「人間とは本能が崩れて現実を見失い、幻想の中に迷い込んだ動物であって、人間に特有な現象や行動はすべてそこに起源がある」という考えや思想のを「唯幻論」と称している。


著者の生い立ちから、子供時代の体験、そして学生時代のくも膜下出血。 家業の映画館を継いでほしい、という母親からの過度な期待と、 それにともなって現れたさまざまな強迫観念。 才能とチャンスをもぎ取る存在とは何か?


「自分は子に対して親として自己犠牲的に絶大な愛情を注いだということを根拠にして、子に同じことを求める親は子に愛情を注いでいるかのように見えるかもしれないが、そういう親こそ最も悪質であって、実は恐るべき虐待親ではなかろうか。」


「私はこのことを幼いころから直観的に知っていたと思われますが、それを認めてしまうと、私を愛してくれる母との関係が崩れてしまう。そこでこの直観を無意識へと抑圧してしまった。この自己欺瞞がさまざまな症状を引き起こしていたのです」


「母によって植え付けられた〈お前のためだけに生きてきた〉という観念に抵抗し、追っ払おうとしてきましたが、85歳の現在も消えることがありません。母は私が大学卒業直前に死んだにもかかわらず」


この不幸な母子関係がフロイト理論を基礎とした唯幻論という独創的な仮説が探究される。特異な哲学思想家の魂からの叫びであろうか。「わたしの原点」に詳しい経緯が記されている。


〈これは、いったん気づいてみれば、なぜこれまでこんな事に気づかなかったのかが不思議なほど簡単な事であった。だが、これに気づき得るためには、その前にまず、母と私との関係の徹底的分析が必要であった。それがなされていないうちは、たとえ他人からそういうことを示唆されたとしても、受けつけなかったであろう。

つまり、あれほどわたしを可愛がった(たとえば、大学の休暇で帰省すると、母はわたしのために山海のご馳走をつくり、自分はお茶漬けですましているのであった)あの母の愛情の欺瞞性、わたしをとりこにしようとした(母自身、無意識的な)その手の内が読めてきたということであった。いいかえれば、わたしが母について抱いているイメージ、私の母親像は、わたしの自発的、主体的判断にもとづいて形成されたものではなく、母がわたしを支配し、利用するためにわたしに植えつけたものであることがわかってきたのであった。わたしは、母が二十年の歳月をかけてわたしの心の襞の奥深く植えつけたこのイメージとそれを支える諸概念の体系を一つ一つ論理的反証を加えながら丹念に引き剥がしていった。すると、やさしく献身的、自己犠牲的で、どんな苦労もいとわず、何の報いも求めず、ただひたすら私を愛してくれた母と言うイメージの背後から、ただひたすらおのれのために、わたしがどれほど苦しもうが一切気にせず、あらゆる情緒的圧迫と術策を使ってわたしを利用しやすい存在に仕立てあげようとしてきた母の姿が浮かびあがってきた。母のこの姿こそ、わたしの場合「抑圧された真実」であり、わたしが神経症という代価を払って否認し続けてきたところのものであった。そしてそれと同時に、あれほどまでに母を愛し、慕ってきた感情の厚いメッキがはがれて、その母はすでになく、もう一度殺すわけにもいかず、私は晴らしようのないこの憎悪を持て余した。かつて死に目にも会えず母が急死したとき、何も親孝行をしてあげられないうちに死なれてしまったと、葬式のあいだ中、相手かまわず取りすがって嘆いたわたしが、今、ある夜更けに一人、自分の部屋でアルバムから母の写真をすべてはがし、恨みをこめて引き裂き、灰皿のなかで燃やし続けていた。〉

(岸田秀『ものぐさ精神分析』 「わたしの原点」より)


「人間は本能が壊れている、それを補うために幻想にすがりついてなんとか乗り切ってきた。」冷静に問えば、悪しき壁となる存在は見えてくる。

posted by koinu at 10:34| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする