栗田定之丞(くりた・さだのじょう)出羽国久保田城下六軒町(秋田県秋田市)生まれ。
明和4年(1767)11月17日‐文政10年(1827)10月28日 61歳
久保田(秋田)藩士、砂防植林家。
日本海岸の砂防林の育成に尽くし「栗田大明神」「公益の神」として祀られている。
寛政8年(1796)に再出仕して、河辺郡百三段新屋村の唐船見御番勤務を経て、翌年、31歳で飛砂を防ぐ砂留役に任ぜられた。当時久保田藩の海岸線は南北に長い大砂丘で、飛砂によって田畑が埋没することが多く、砂留は藩政上の一大問題であった。
これ以後、定之丞の防砂林植栽の活動が始まるが、田畑はもとより家屋も飛砂で埋まる中、狂人扱いされながらも努力を重ねた。ある日、古ぞうりの陰で育っていた一株のぐみからヒントを得る。
『森林を蘇らせた日本人』牧野和春(NHKブックス)
ある日、定之丞は、海岸を巡視している途中、ほんのわずかに緑の葉が砂のなかから顔をのぞかせているのを見つけたのである。
「どうしたのであろう」
不思議に思って近づいてみると、それは自分が植えたことのある一株の「グミ」であった。それがわずかに葉をつけていたのである。
驚いた彼は、一株の「グミ」の周囲にそっと目をやった。そこには波に打ちあげられた枯木か一本横たわっており、それに古ぞうりがひとつ、ひっかかっていたのである。つまり、ひとつの古ぞうりが飛砂を防ぎ、そのおかげで一株の「グミ」はシベリアからの北風にも負けず、幼い生命をそっと根づかせていたのであった。
「よし、これだツ」
その瞬間、定之丞は天の啓示が与えられた思いがしたことであろう。
(NHKブックス)
【秋田・潟上 夕日の松原】人間の叡智と愚かさ垣間見る - 産経ニュース
https://www.sankei.com/premium/news/190802/prm1908020002-n1.html
『街道をゆく 29 秋田県散歩』司馬遼太郎(朝日文庫)
砂という飛ぶもの、動くもの、走るものこそ、かれの後半生を物狂いさせた。が、藩は冷淡だった。
たとえば、それまで砂防植林をする場合、農村から労働力を徴すると、藩から賃金が出たものだったが、定之丞が着手しはじめたころ、ぜんぶけずられた。定之丞が、ただ一人で二十里の海岸砂丘をなんとかしようと思った。むろん、人手は要る。定之丞は、村々の庄屋や世話役を訪ねてまわり“ただで働いてくれまいか”とたのんだ。
「百姓は、夜寝るのみにて、身二つありても足りぬほどにいそがしいものでございます」
と、いやがられたが、定之丞はしつこく説いた。砂をとめて林にすれば薪にもなり、堆肥にも役立つ。なによりもいのちのたねの田畑が砂にうずめられずにすむ。頼む、といいつづけるのである。そのさまが、子供がおんぶしてくれとだだでもこねるようだったから、
「だだ之丞」
とよばれたりしたらしい。あるいは無料(ただ)にも掛けたあだなだったかもしれない。
定之丞は、さまざまに試行し、結局、確実な方法を見出した。まず、初期段階での砂ふせぎとして、わら(または萱)を束にして砂に半ば埋めるのである。それをいわば壁にしてそのかげに柳の苗をうえる。翌年、その柳の稚樹のかげに、グミとハマナスをうえる。そのつぎの年は、グミのかげにねむの木をうえる。
まことに植物社会学的な方法といっていい。それらがぜんぶ活づいたとき―気の遠くなるようなことだが―はじめて砂防の主役である黒松の苗をうえるのである。
八、九年にして、それらの植物がみな勢いづいた。砂の上にも植物がはえることを、藩も農民も知った。藩は、わずかながら、定之丞の石高をふやして、その功にむくいた。窮乏していた藩財のなかでたとえわずかでも加増などというのは、奇跡のようなものであった。
農民のほうも、無料でこきつかわれることに、やっと納得した。
栗田定之丞の死後も、栗田方式の植林法によって、黒松がうえられてゆき、江戸末期には、数百万本の松原が、秋田藩領の長い海岸を砂からまもるようになった。これらの松原こそ、秋田藩の長城というべきものだった。(朝日文庫)
『少年読物栗田定之丞如茂稿』栗田茂治、1931年(昭和6年) 少年向け読み物と題しているが、古文書の詳細な記述が直接載っていてかなり高度である。
http://www.forest-akita.jp/data/sengin/kurita/kurita.html
「修身」全資料集成・第四期《昭和九年(一九三四)〜》尋常小学修身書 巻四
第十九「公益」
日本海方面の海岸では、秋の末から春先にかけて、海から烈しい風がよく吹きます。其のために、砂の多い海岸では、広い広い砂山が出来ている所もあります。今の秋田県の海べの村々では、其の風がことに烈しく、吹寄せた砂のために、昔は家も田畑もうずめられ、くらしの立たなくなる家も、たくさんありました。
或年、栗田定之丞という人が、其の地方の砂留役となりました。定之丞は、先ず村々を見て廻りましたが、海べは、見とおしもきかない程の広い砂山でした。
「これだけの砂をどうして防ぐことが出来よう。」とただ驚きあきれるばかりでした。けれども又、これから後、此の砂山が田畑をうずめ、百年も二百年も、村々が苦しめられどおしに苦しめられることを思うと、じっとしてはいられない気がしました。「よし、戦場に出たつもりで根限り風や砂と戦ってみよう。」とかたく決心をしたのでした。
そこで、これまで砂留に骨折った年よりを呼んで、いろいろ話をきき、ここに先ずぐみややなぎなどを植え、いくらか砂がしまったところで、松の苗木を植えることにしました。そうして又季節を考え、植え方にくふうをして、寒中、それもなるべく風の吹く日をえらんで、人々を呼集めて仕事をさせました。風の吹く日には、砂の吹寄せられる方向がよくわかりますから、風上の方に、かやのたばなどで風よけをして砂を防ぎ、其のかげに、最初はぐみややなぎの枝をささせましたら、皆芽をふくようになりました。そこで、さらに松の苗木を植えさせました。定之丞は、此の方法で仕事を進めて行きました。
ところが、人々は、風の吹く寒い日に働くのがつらいのと、うまく松林になるかどうかということが心配なのとで、なかなか定之丞のいうことをききません。定之丞は、子供をさとすようにやさしく道理を言いきかせ、其の上自分から先に立って働きました。朝は、夜の明けないうちから仕事場につめかけ、夜は、人々を帰らせた後まで居残って明日の仕事のくふうをしました。時には、冷たい砂の上にふして、風の当りぐあいをたしかめたこともあります。やがて村の人々も定之丞のねっしんに動かされて、仕事がはかどり、たくさんの苗木を植込むことが出来ました。それが次第に大きくなって、ついにりっぱな松林になりました。
定之丞は二十余年の間、引続き方々で、砂留の事に骨を折りました。其のために、風や砂の心配がなくなって、麦・粟などの畑もところどころに開け、又しょうろや、はつたけも生えるようになりました。此の地方の人々は其の恩をありがたく思い、定之丞のために栗田神社という社を建てて、今日まで年々のお祭をいたします。
社は今の秋田市の町はずれにあります。そこから見渡す海べには、定之丞が三百万本を植込んだという松原が続いて、青々とした美しい色をたたえています。
https://open.mixi.jp/user/6276271/diary/1956759271
風の松原(秋田県能代市)
秋田県能代市の海岸に面した約700万本のクロマツによる防風林。
幅1km、長さ14km、面積約760hで日本最大級規模の松林が広がり、全域が保安林に指定されている。
https://ameblo.jp/18810801xyz/entry-12464510321.html
栗田定之丞顕彰碑(秋田県能代市藤山)
定之丞の記念碑は秋田県内各地に残されているというが詳細不明。
http://www.shirakami.or.jp/~pinewood/book/sabourin_rekishi.pdf
栗田神社(秋田市新屋栗田町1-40)
定之丞没後の文政11年(1828)定之丞を神として祀る。
現在でも地元では「公益の神」として定之丞をたたえ、毎年8月1日に祭祀が行われているという。
栗田定之丞墓所(満福寺・秋田県秋田市楢山古川新町92)
http://www.komainu.org/akita/akita/kurita/kurita.html
秋田県散歩の中で司馬遼太郎は書いている。
「栗田定之丞の死後も、栗田方式の植林法によって、黒松がうえられてゆき、江戸末期には、数百万本の松原が、秋田藩領の長い海岸をまもるようになった。これらの松原こそ、秋田藩の長城というべきものだった。」
「能代市の海岸沿いに連なる<風の松原>は日本最大の規模を誇る松林です。
江戸時代の人たちが、風に乗り飛んでくる砂に備えて三百年の歴史をかけて、この美しい松林を作りました。
この松原が、あと50年で町が砂に埋もれる危機にあります」
司馬さんは『街道をゆく29・秋田県散歩』の中で、栗田定之丞を江戸期の武士の典型として紹介しています。
2016年2月14日放送 21:00 - 21:50 NHK総合
NHKスペシャル 第2集 “武士”700年の遺産
秋田沿岸部で、新屋地区は飛び砂で壊滅的被害を受けた。日新小学校では秋田藩の武士で、新屋を救った栗田貞之丞を英雄とし扱っていた。栗田は貧しい下級武士だったが、飛び砂から守るために防風林を作った。「街道をゆく」で、司馬遼太郎は貞之丞は庄屋などを訪ね、人手を募った。15年先のことに誰からも相手にされなかったが、貞之丞は1人で取り組み始めた。8年間試行錯誤尽くし、その姿を見て人々の意識が変わった。村人の日記には徐々に手伝いに参加し始め、毎年、春と秋に植林に参加し、14年間で7万人が参加したと記されている。郷土史家の菅原忠さんは貞之丞の純粋な気持ちが村人に伝わり続いたと解説。司馬さんは貞之丞の人柄は江戸中期の家中の良い方の典型だとした。「街道をゆく」で、江戸期の武士のほとんどは貧しく、富むことを願わず、公に奉ずる気持ちが強かったとした。
幕末、迫り来る欧米列強に、全国の武士が行動に移った。司馬遼太郎は「峠」のあとがきで、人はどう行動すれば美しいか、どう行動すれば公益のためになるか、この2つが幕末人を作り出しているとした。幕末期に完成した武士の人間像は日本人が生み出した人間の芸術品とまでいえると評価した。明治の近代化で、武士の公の意識が庶民に根付いていることを注目。急速に広がった郵便制度、奈良市名荷町の名荷郵便局の松本陽一局長を取材、松本家はお茶農家だったが、明治初頭に明治政府から地区の郵便局を頼まれた。この国のかたちで、司馬さんは全国の名主に特定郵便局をやらせたことが郵便制度の成功にあるとした。初代局長の松本甚内さんは自ら積極的にお金を出し、自宅を郵便局を作った。松本さんは先祖は関われることに喜んでいたと話した。