2021年10月12日

『影に対して』遠藤周作(新潮社)

「人生」を燃焼させようとする烈しい母、「生活」を大事にする父。二人が離婚した時、幼い息子が強いられた選択は、やがて……。
今年発見された未発表の中篇小説「影に対して」をはじめ、母を描いた名作を集成。『沈黙』や『深い河』の登場人物が結局キリストを棄てられなかったように、母と別れることは誰にもできはしない――。

完成しながらも発表されず、手許に残された「影に対して」。
「理由が何であれ、母を裏切り見棄てた事実には変りはない」しかし『沈黙』『深い河』などの登場人物が、ついにキリストを棄てられなかったように、真に母を棄て、母と別れられる者などいない―。

かつて暮した街を訪ね(「六日間の旅行」「初恋」)、破戒した神父を思い(「影法師」)、かくれキリシタンの里を歩きながら、(「母なるもの」)、失われた“母”と還るべき場所を求め、長い歳月をかけて執筆されて全七篇。

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『影に対して』遠藤周作(新潮社)
影に対して
雑種の犬
六日間の旅行
影法師
母なるもの
初恋
還りなん


「影に対して」本文より
・・・・・・(母は)繰り返し三時間、たった1つの旋律だけを繰り返している。アゴだけでヴァイオリンを支え、歯で下唇を強くかみしめている。その母のきびしい顔を子ども(勝呂)は怖ろしそうにうかがっていた。
「なにかくれない」と彼は言った。
「なにか果物ない?」
本当は果物などほしいのではなかった。ただ彼は、眼前の母の心をこちらに向けたかったのである。自分に話しかけてもらいたかったのである。
「なにか、くれない。ねえ・・・・・・」
(P27より)

「果物がないかって、聞いてるんだけど・・・・・・」

 子どもは母をゆさぶった。ヴァイオリンを弾いている間は決して話しかけたり、騒いだりしてはいけないと平生からきつく言われたのに、彼はその言いつけを忘れるほど不安にかられた。

「何をするの」
 母は怖ろしい顔で勝呂をにらみつけ叱りつけた。
(中略)
「言いつけを聞けないなら、雪の中に立ってらっしゃい」
(P28より)

[小学生のころ高熱を出し入院した。
そこで初めて、母からの愛情を独占する。]

そんなに長く入院していなければならぬのかと尋ねると、母は困ったような表情でうなずいた。だが、真実、勝呂は早く治るよりはこのまま入院が長びくことを心で願っていた。病気のおかげで、自分が母を独占できたことを子ども心にもしっていたからである。
(P38より)

「入院はつかの間の幸福だった。ただ母にとっては、人生を変える大きな転機となる。母は義姉から「ヴァイオリン」をとがめられる]

伯母(母にとっての義姉)は金歯のいっぱい入った口をとがらせながら、
「ヴァイオリンもいいけど、女はまず家をまとめるのが仕事だと思うけどね」(中略)
「この子が病気になったのも」
伯母はたたみかけるように
「あんたが音楽ばかりにかまけてみてやらなかった為じゃないのかい」
(P41より)

「あのね、よく聞きなさい」
急に硬い声で、
「お前も気づいているかも知れないが」
勝呂の長靴の下で、雪の小さなかたまりが砕けた。
「父さんは母さんとうまくいかなかったんだよ。だから別々に住もうと言うことになったんだ」
   (中略)
「・・・・・・いいかね、母さんはこれから1人で働かなくちゃならない。お前を食べさせたり学校に行かせるのは大変だ。母さんはどうしても、お前をつれていくと言っているが、それじゃお前は・・・・・・」
(P56より)

「どうした」
「いやだ。もうぼく、こんなのいやだ」
それだけが、彼の父に対する精一杯の抗議だった。
(P57より)

あの時、たとえ学校などに行けなくても、母についていくべきだったのに、その母を見捨てた自分の弱さ、卑怯さが苦しいのである。
(P57より)

 母を見捨てた自分がみじめで汚れて卑怯者だという気持ちを、背中に痛いほど感じながら、彼はランドセルを背中にかけた。

大人になってもなお、勝呂は、「母」を裏切り 見捨てたことに罪の意識を感じている。

理由が何であれ、母を裏切り見捨てた事実には変わりはない。それが今日まで彼の心の奥にしこりとなってきた。
(P58より)


遠藤周作(1923-1996)東京生れ。幼年期を旧満州大連で過ごし、神戸に帰国後、11歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て、1955年「白い人」で芥川賞を受賞。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品、歴史小説も多数ある。主な作品は『海と毒薬』『沈黙』『イエスの生涯』『侍』『スキャンダル』等。1995年、文化勲章受章。1996年、病没。
posted by koinu at 09:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする