2020年05月13日

『アドレナリンの匂う女』ジェイムズ・M・ケイン

The Magician's Wife. 1965.年発表


ケイン小説には女を鍵にして物語が展開するものが多い。大金の獲得を夢見る女と、その女を欲して狂おしい男が主人公だったりする。


映画になった『郵便配達は二度ベルを鳴らす』とともに知られる『深夜の告白』(殺人保険)は、生命保険会社の男が顧客の妻に籠絡されて、その顧客を殺害しようとする。


そして後年の作品『アドレナリンの匂う女』も展示の相似する小説で、『血の収穫』『マルタの鷹』と並ぶノワールの代表的なものである。

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「よろこんでお邪魔させてもらいますよ」

彼女は自動エレヴェーターで、彼を階上へ案内した。部屋へ導き入れると、明かりをつけてから、一度、その場をはずした。かれはそのあいだ、モダーニズム一色に飾られた部屋の様子を見てまわった。カキ殻色の絨氈、深紅の壁掛け。壁面の版画、ポスター、スケッチ、油絵は、どれもみなフランス画風である、入念に署名を見たが、知っている名はひとつもなかった。

やがて彼女が、ハイボールの盆を手にもどってきた。帽子、手袋、ストールをとって、髪を頸筋に垂らしたので、いっそうほっそり、いっそう若やいで見えた。スコッチのオン・ザ・ロックを所望すると、彼女はグラスに氷を入れ、ウイスキーをそそいだ。彼女自身も、かるく一杯つくって、長方形のソファに腰を下ろし、かれにもならんでかけるようにと、身振りで招いた。

二人はグラスに口をつけ、ハナミズキの花を話題にし、メンデルスゾーンの前奏曲を思い出し、そして、かれが、そのヴァイオリン・パートをハミングした。

そのあと、彼女がもう一度、サリーへのかれの《提案》に話をもどしたので、かれはいっそうくわしく説明した。とくに、ボルネオ土人同様の無分別だと、彼女から一蹴されたところを強調して語り、彼女のために、みじめに《ふりまわされて》いたことを認め、真剣な口調でつけくわえた。

「なにも面倒なことはなかった。あのまま彼女が、ぼくの部屋にとどまって、あとの処理をまかせてさえいたら、万事、順調に運んだはずだった」

「あのまま《彼女》が?」

「そうですよ。だれの話をしていると思っているんです?」

「お気づきになって?あなたはこれまで、一度だって、あれの名前を口になさっていらっしゃらないのよ」

「たしかにそうだ。ぼくにはひどい打撃だったのでね」

「いまでも?」

「グレイス、ぼくは話しましたよ。あきらめたって」

彼女は考えこんでいたが、しばらくして、

「クレイ、思いなおしていただけません?もう一度、サリーを好きになっていただきたいのです。あなたの考えておいでのこと、わたくしたち二人の希望どおりに、あれを行動させていただきたいのです。あなただけに、それが可能ですわ。それで、いま、思いつきましたが、こんな方法はどうでしょう?わたくしに、あなたの肖像画を描かせていただくことにして、このまま、おつきあいをつづけては?あなたは絵になるかたですから、。夜分にご足労ねがって、ここのアトリエで、ポーズをとっていただきます。それで、仕事をしながら、お話できることになります。いまわたくしは、ここの小さなサン・ポーチを、アトリエにつかっていますの。あなたに、否応なしの聴き手になっていただけるわけですわ─いかがでしょう、この売り込みは?」

「まちがいなく売り込めますね。ただし、あなたの予期とはちがった意味で」

……とおっしゃるのは?」

「あなたもまた、画になるひとだ。それを忘れてはいけませんね」

「まあ、クレイ!あなたには、サリーのほうが先口ですわ」

「先口は先口だが─」

「そんないいかたはおやめになって!」

「そのアトリエはどこにあるんです、グレイス?」


「アドレナリンの匂う女」宇野利泰訳 新潮社1967年刊より



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若い頃にチャンドラーはケインの『深夜の告白』映画化の脚本を書くことになる。

「彼は私の嫌いな作家のあらゆる素質を身につけています。まやかしの純真性、油がしみた作業衣を着たプルースト、誰も見ていない板塀のそばでチョークを握っている薄汚い少年。そんな人間は文学の屑肉です。

汚いことについて書くからではなく、汚いことを汚く書くからです」

『レイモンド・チャンドラーの生涯』早川書房より


『郵便配達は二度ベルを鳴らす』

女を抱き寄せ、その口に自分の口を追っつけた……「噛んで!噛んで!」噛んでやった。

歯が、女の唇に深く食いこみ、血がこっちの口のなかへ噴き出るのがわかった。女を抱いて二階へはこんでいくとき、血は女の首すじを流れていた。(田中西二郎訳)


「イグアナのスープ」が登場するケインの長篇小説『セレナーデ』(1937)に書かれた調理シーンがある。生きたイグアナの肉にパプリカを加えて煮込むと、世界最上のスープが取れて、スッポン料理に並ぶ高尚な逸品ができる。

posted by koinu at 23:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする