2020年04月10日

「 わが失明について想う」ジョン・ミルトン

人生の道半ばにも達せずして、この暗き世界でわが明を失い、隠匿するにはその罪万死に値すといわれるわがータレントの才を内に蔵したまま無に帰せしむるのではないかと思い、しかも、かつては全身全霊をあげてこの才を用い、主に仕え、


主の再臨に際しては、その成果を正直に申告し、主の叱責を免れたい覚悟であったことを思うとき、私は愚かにも呟く、ー光を奪われた者からでさえも、主は終日の激しき労働を求め給うのであろうか、と。 


すると「忍耐」は忽ち私の泣言を遮って言う、ー 主は与えた賜物の返却も人間の業も求められはしない、やさしき軛きをよく負う者こそ主によく仕える者なのだ。


主の御国は勢威に富み、主の命ひとたび下れば、数万の天子の大軍休むことなく陸と海を超えて駆けてゆく。ただ佇立し、ただ持つ者もまた主に仕えている者なのだ、と。

(ジョン・ミルトン「わが失明について想う」平井正穂編「イギリス名詩選」岩波文庫)より



このミルトンの人間観には厳しい視点があると、詩人の西脇順三郎は指摘している。

「Miltonはクロムウェル政府の代弁者としてPuritanの思想をその文学の中に残している。彼は英国の詩に伝統を残したのみならず、当時のPuritan派の論客として、種々の方面で種々の説を唱えている。彼の詩に表されている思想は、悪の問題であった。

 そうした悪と人間との関係において人間を見るのであって、神はMiltonにとっては正義の根元であった。彼にとっては理想化された人間のみが人間である。Shakespeareの如く人間性を広くみなかった。

Shakespeareの文学になると人間の悪の方面をもそのままにありのままに見てゆき、むしろ悪を気の毒に感じ、人情をもってできるだけ人間を抱擁しようとするのである。Miltonになるとそういう不合理な悪の人間はこれを排斥するのである。ここにMiltonがPuritanの説教家といわれる誘因がある。」

(西脇順三郎「近世英文学史」より)

posted by koinu at 15:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする