2020年03月21日

『死んだ男』『橋上の人』鮎川信夫

『死んだ男』鮎川信夫


たとえば霧や 

あらゆる階段の跫音のなかから、 

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。 

−−これがすべての始まりである。

遠い昨日…… 

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、 

ゆがんだ顔をもてあましたり 

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。 

「実際は、影も、形もない?」 

−−死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

Mよ、昨日のひややかな青空が 

剃刀の刃にいつまでも残っているね。 

だがぼくは、何時何処で 

きみを見失ったのか忘れてしまったよ。 

短かかった黄金時代−− 

活字の置き換えや神様ごっこ−− 

「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて…

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、 

「淋しさの中に落葉がふる」 

その声は人影へ、そして街へ、 

黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

埋葬の日は、言葉もなく 

立会う者もなかった、 

憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。 

空にむかって眼をあげ 

きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。 

「さよなら。太陽も海も信ずるに足りない」 

Mよ、地下に眠るMよ、 

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

(鮎川信夫詩集より)

 

鮎川信夫(1920〜1986)

1941年ごろ自分の仕事の全体を代表するような作品を残したいと考えた。自分の過去から未来にかけての展望を得る場所として橋上の人を選んだ。時間的には過去から未来、空間的にはここからあそこ、また内地から戦地。橋上の人は、その中途に立っている状態で、そこは考える場所、立ち止まった場所。

モダニズム詩人であったが、内心の吐露、内面生活の自由な凝出が必要で、叙情詩となった。

その叙情的な中に哲学的、人生論的なものが入ってきている。初稿を友人に渡して出征したが、戦争中も戦後も加筆訂正して八章となった。

ーーー「橋上の人」について 鮎川信夫と高田三郎の対談よりーーー



『橋上の人』鮎川信夫


T

彼方の岸をのぞみながら

澄みきった空の橋上の人よ、

汗と油の溝渠のうえに、

重たい不安と倦怠と

石でかためた屋根の街の

はるか、地下を潜りぬける運河の流れ、

見よ、澱んだ「時」をかきわけ、

櫂で虚空を打ちながら、

下へ、下へと漕ぎさってゆく舳の方位を。

橋上の人よ、あなたは

秘密にみちた部屋や

親しい者のまなざしや

書籍や窓やペンをすてて、

いくつもの通路をぬけ、

いくつもの町をすぎ、

いつか遠く橋のうえにやってきた。

いま、あなたは嘔気をこらえ、

水晶 花 貝殻が、世界の空に

炸裂する真昼の花火を夢みている。


U

おお時よ、なぜ流れるのか

なぜ止まらないのか

うらぶれた安カフェーで、

酔いどれ水夫が歌っていた。

おお、これからどうしよう……

酒と女におさらばして、

さあゆこう、船着場へ――

未来と希望があるだけさ。

ああ時よ、なぜ流れるのか

なぜ止まらないのか

さんざめく裏街のどん底で、

狂える女が歌っていた。

ああ、これからどうしよう……

空の財布の身を投げに、

さあゆきましょう、船着場へ……

未来も愛もありゃしない。

おお時よ、なぜ流れるのか

なぜ止まらないのか

空気の悪いアパートの一室で、

青白いサラリーマンが歌っていた。

おお、これからどうしよう……

子供をつれて一日だけの安息に、

行ってみようか、船着場へ――

未来と信仰はちがうもの。


V

橋上の人よ

街角をまがる跫音のように

あなたはうしろをふりあえらなかった、

風にとぎれるはかない幻想が

あなたの心にうかんだ道のすべてだった。

橋上の人よ

砂浜につづく足跡のように

あなたはうしろをふりかえらなかった、

浪にくずれるむなしい幻影が

あなたの宙にうかんだ道のすべてだった。

橋上の人よ

あなたは冒険をもとめる旅人だった。

一九四〇年の秋から一九五〇年の秋まで、

あなたの跫音と、あなたの足跡は、

いたるところに行きつき、いたるところを過ぎていった。

橋上の人よ

どうしてあなたは帰ってきたのか

出発の時よりも貧しくなって、

風に吹かれ、浪にうたれる漂泊の旅から、

どうしてあなたは戻ってきたのか。

橋上の人よ

まるで通りがかりの人のように

あなたは灰色の街のなかに帰ってきた。

新しい追憶の血が、

あなたの眼となり、あなたの表情となる「現在」に。

橋上の人よ

さりげなく煙草をくわえて

あなたは破壊された風景のなかに帰ってきた。

新しい希望の血が、

あなたの足を停め、あなたに待つことを命ずる「現在」に。

橋上の人よ。 


W

誰も見ていない。

溺死人の行列が手足を藻でしばられて、

ぼんやり眼を水面にむけてとおるのを――

あなたは見た。

悪臭と汚辱のなかから

無数の小さな泡沫が噴きだしているのを……

「おまえはからっぽの個だ

おまえは薄暗い多孔質の宇宙だ

おまえは一プラス一に

マイナス二を加えた存在だ

一プラス一が生とすると

マイナス二は死でなければならぬ

おまえの多孔質の体には

生がいぱい詰まっている

おまえのからっぽの頭には

死が一ぱい詰まっている」

誰も聞いていない。

この喧騒の大都会の

背すじを走る黒い運河の呻きを――

あなたは聞いた。

氷と霜と蒸気と熱湯の地獄の苛責に

厚くまくれた歯のない唇をひらき

溺死人が声もなく天にむかって叫ぶのを……

「今日も太陽が輝いているね

電車が走っているね

煙突が煙を吐いているね

犬は犬のなかで眠っているね

やがて星がきらめきはじめるね

だけどみんな<生きよ>と言いはしなかったね」

誰も知らない。

未来の道は過去につづき

過去は涯しなく未来のなかにあることを――

あなたは知った。

あなたがあなた自身であるためには

どれだけたくさんの罪が心のなかにとざされているかを。

「あらゆる行為から

一つのものを選ぼうとするとき

最悪のものを選んでしまうことには

いつも個人的なわけがあるのだ

だから純潔を汚すことだって

洗濯したてのシャツをよごすほどにも

心を悩ますことはないのだ

教授にとっての深渕が

淫売婦には浅瀬ほどにも見えなかったりするのだ

ポケットのマッチひとつにだって

ちぎれたボタンの穴にだって

いつも個人的なわけがあるのだ」


X

ひとつの心の空洞から

ひとつの波のたわむれから

滑らかなやさしい囁きがきこえてくる

「かつて泉があった

眠りからうまれたばかりの水は

活力と滋味を湛え

野に池をつくり 地上に溢れ

渚をふちどり 虚無を涵し

乾けるもの 固く凝れるものを溶かした」

「かつて泉があった

跼みこめ くちづけよ

浄らかな水に映る理想の伴侶に

父母や妹 またあなたの至上の友たちに」

『われ』溷濁の世の光なり

夜 昼 わが涙のみ注ぎて魂の糧となり

水仙や蛇や もろもろの生ける質を潤ほした』

あなたは疑うだろうか?

眼下の大いなる混沌のむかしに

かつて清い泉があったことを……

そのようにまた沐浴もあったことを


Y

蒼ざめた橋上の人よ、

あなたの青銅の額には、濡れた藻の髪が垂れ、

霧ははげしく運河の下から氾濫してくる。

夕陽の残照のように、

あなたの褪せた追憶の頬に、かすかに血のいろが浮かび。

日没の街をゆく人影が、

ぼんやり近づいてきて、黙ってすれ違い、

同じ霧の段階に足をかけ

同じ迷宮の白い渦のなかに消えてゆく。

孤独な橋上の人よ、

どうしていままで忘れていたのか、

あなた自身が見すてられた天上の星であることを……

此処と彼処、それもちいさな距離にすぎぬことを……

あなたは愛をもたなかった、

あなたは真理を持たなかった、

あなたは持たざる一切のものを求めて、

持てる一切のものを失った。

橋上の人よ、

霧は濃く、影は淡く、

迷いはいかに深いとしても、

星のさまっている者はふりむこうとしない。

そして濡れた藻と青銅の額の上に、

夜の環が冷たくかぶさってくる、

星のきまっている者の、空にまたたく光のために。

 

Z

父よ、

悲しい父よ、

貴方がいなくなってから、

がらんとした心の部屋で、

空いた椅子がいつまでも帰らぬ人を待っています。

寒さに震えながら、

貴方に叛いたわたしは、

火のない暖炉に向いあっています。

父よ、

寂しい父よ、

わたしはひとりです。

妻も子もなく、この広い都会の片隅で、

固いパンを噛っています。

わたしは貧しい、

わたしは病んでいる、

貴方がわたしに下さったものはこれだけですか。

父よ、

大いなる父よ、

わたしはどこまでも愚かですから、

貴方の深い慈悲と智慧とを理解できません。

あてもなく街をさまよいながら、

わたしは今にも倒れそうになって、

ぼんやり空を眺めます。

貴方がいらっしゃるあたりは、

いつも天使の悪い呼吸で曇っています。

父よ、

大いなる父よ、

十一月の寒空に、わたしはオーバーもなく、

橋の上に佇みながら、

暗くなってゆく運河を見つめています。

教えて下さい、

父よ、大いなる父よ、

わたしにはまだ罪が足りないのですか、

わたしの悲惨は貴方の栄光なのですか。

 

[

橋上の人よ、

美の終りには、

方位はなかった、

花火も夢もなかった、

「時」も「追憶」もなかった、

泉もなければ、流れゆく雲もなかった、

悲惨もなければ、光栄もなかった。

橋上の人よ、

あなたの内にも、

あなたの外にも夜がきた。

生と死の影が重なり、

生ける死者たちが空中を歩きまわる夜がきた。

あなたの内にも、

あなたの外にも灯がともる。

生と死の予感におののく魂のように、

そのひとつひとつが瞬いて、

死者の侵入を防ぐのだ。

橋上の人よ、

彼方の岸に灯がついた、

幻の都会に灯がついた、

運河の上にも灯がついた、

おびただしい灯の窓が、高架線の上を走ってゆく。

おびただしい灯の窓が、高くよぞらをのぼってゆく。

そのひとつひとつが瞬いて、

あなたの内にも、あなたの外にも灯がともり、

死と生の予感におののく魂のように、

そのひとつひとつが瞬いて、

そのひとつひとつが消えかかる、

橋上の人よ。


(鮎川信夫詩集より)



鮎川信夫詩集1945-1955(荒地出版社、1955年)

橋上の人(現代日本詩集第十二巻 思潮社、1963年)

鮎川信夫全詩集 1945-1965(荒地出版社、1965年)

鮎川信夫全詩集 1945-1967(荒地出版社、1967年)

鮎川信夫詩集(思潮社、1968年)

1937-1970 鮎川信夫自撰詩集(立風書房、1971年)

新選鮎川信夫詩集(思潮社、1977年)

宿恋行(思潮社、1978年)

鮎川信夫全詩集1946-1978(思潮社、1980年)

鮎川信夫(中央公論社・現代の詩人2、1984年)

難路行(思潮社、1987年)

鮎川信夫詩集 続(思潮社、1994年)

posted by koinu at 07:59| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする