■翻訳者からのメッセージ
「吸血鬼の頭目」で「謎と恐怖を間抜けに駆使して読者を驚かせる」人物,「死体置き場と屠畜場の詩」,『悪の華』刊行前に,ジャーナリズムではさして話題にもならなかった詩人ボードレールとその作品について書かれた数少ない新聞記事で目立ったのは,このような評価だった.『悪の華」は,1857年出版されとすぐ,その背徳性を攻撃する書評が新聞に掲載されたのに続いて,公衆道徳宗教道徳紊乱の咎で告発され,宗教道徳侵害の嫌疑は却下されたが,公衆道徳良俗紊乱で有罪判決が下された.要するに作品の猥褻性と同性愛描写の非道徳性が公に非難されたのである.
他方,友人やジャーナリストが,悪意や批判を込めることなくボードレールの奇怪な言動を報告している.そのうちでも特にどぎついのは,子供(の脳みそ)を食べるという話だ.また,晩年近くブリュッセルに居住し始めたころ,ボードレールは,亡命中の共和派フランス人たちの動向を探っているスパイだと囁かれた.すると彼は,自分は事実密偵だし,おまけに殺人犯なのだと,ベルギー人たちに言い触らしてやったと書き残すのである.
こうして,不吉で猥褻な,鬼面人を嚇す類いのボードレール像の素材が出揃う.
根づいた奇人・怪人伝説は,ボードレールの作品に含まれた,異様な表現,有無を言わせぬ断言調の発言を,納得した気持ちにしてくれる.これで,わかりにくい奇怪な見解も,悪い冗談なのだと割り切れる.ガラス屋の理由なき虐待を描いた散文詩「益体ないガラス屋」を『黒いユーモア選集』に入れて片付けたアンドレ・ブルトンもそうしたのだ.
本書で紹介する,詩作品や批評文等から選んだボードレールの19のテクストは,どれも一筋縄ではいかないものばかりで,中には奇人・怪人伝説に頼ったのではまったく歯がたたないものさえある.いずれにせよ,ここで目指すのは,伝説のごときものは視野に入れず,冗談抜き,大真面目(!)で,それらを,ボードレールが古典主義に対置されたロマン主義をさらに超克することを意図して提唱した「現代性modernité」の美学に照らして解読し,また逆にそれを通してこの美学が真に何を意味するのかを解明することである.表題が示す通り,一般読者に向けて編纂されたものであるが,従来ボードレール研究では参照されることがなかった資料に少なからず依拠しているので,研究者の参考にも資するものと期待している.
1943年生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修士課程修了。一橋大学名誉教授。専攻は、フランス文学。
⭐︎ 単なる注釈つきアンソロジーとは一線を画すものである。重要テクストを選別して、いわゆるExplication de texteを行った「著作」といって過言ではないだろう。
《本文より》
色彩家種族はあまり憤慨しないでほしい。仕事は、難しさが増すので、かえってより栄誉あるものとなるのだから。偉大な色彩家なら、燕尾服、白ネクタイ、灰色の背景からでも色彩をつくりだすことができるのだ。
新しい情念に根ざした、特殊な美をわれわれは占有しているのかという、主要かつ本質的な問題に戻るなら、気づくのは、現代的主観に取り組んできた芸術家たちの大部分は、公共的、公式的な主題、つまりわが国の戦勝やわが国の政治的英雄性を扱うにとどめてきたことである。しかも彼らは渋々そうするのであり、また、金を払ってくれる政府からそうした主題の注文を受けるからそうするのだ。しかしながら、私的な主題はあるのだし、これのほうがはるかに英雄的なのだ。
“裸体”という、あの芸術家にとってとても大切なもの、あの成功の不可欠要素は、昔の生活でそうだったように、〔今も〕よく見られるし、不可避でもある、ーーベッドや風呂や死体解剖室でだ。絵画の手段もモチーフも豊富で多様であることは今も同じなのだ。ただし新しい要素があって、それが現代の美なのである。
(『一八四六年のサロン』より)