2020年01月25日

荘子【明鏡止水】

【徳充符篇】

語られる人物二人とも五体満足ではないが、徳の充ちたる者で為政者たちは教えに感動して心惹かれてしまう。徳の充ちたる者とは?


《これらの例によっても明らかなように、徳が長ずるにしたがってかえって、人は形を忘れてゆく。逆に、形を忘れない者は徳を忘れる。これこそ真の忘失というものだ。


 従って全き徳を抱く聖人は何ものにもとらわれぬ。かれは知をひこばえ[樹木の切り株や根元から生えてくる若芽]のことのようなものと見る。規範を膠のようなものと見る。世俗の道徳を補足と見る。作為を商取引と見る。聖人にとって、これらは無用の長物だ。


 何ひとつ意図しない人間は必要としない。いっさいを分別しない人間は規範を必要としない。本性を損なわない人間は補足を必要としない。自己を売り物にしない人間は取引を必要としない。この「意図しない、分別しない、本性を損なわない、自己を売りものにしない」の四つを「天鬻(てんいく)」という。つまり、天に養われることである。天に養われるからには、あらためて人為によって養う必要がどこにあろう。


 聖人とは、人間の形を持ちながら人間の情を持たぬ存在だ。かれは人間の形を持つがゆえに、人間社会に生きる。しかし、人間の情を持たぬから是非にとらわれない。聖人といえども、一個の人間としては微々たる存在にすぎない。だがかれのみが自然と一体化して、その限りない偉大さをわがものとなし得るのである。》

出典:岸陽子『中国の思想 荘子』

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 途中から「道」の体得者の話になって、徳の充ちたる者=聖人という。そして『荘子』のいうところの聖人は、儒家の聖人である孔子ですら感服して教えを請いたいと思わせる魅力を持っている。


【明鏡止水】

《「荘子」徳充符から》曇りのない鏡と静かな水。なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態。

「明鏡」と「止水」に分かれる。

『鏡に曇りなく澄んでいれば、塵垢は付かず、塵垢がつけば鏡は曇る。』というが、長らく賢人と一緒にいて、鏡の曇りを拭い去ってもらうと、塵垢のような過ちもなくなるもの。


原文は《『鑑明則塵垢不止,止則不明也。久與賢人處則無過。』》。

曇りなき鏡のように澄んでいる賢人(=聖人)は彼と接している人々の塵垢(過ち)も無くすことができる。


「止水」とは。

人は誰しも、流れ動く水に顔を映して見ようとはせず、静止した水に顔を映そうとする。このように、ただ静かな心だけが、静けさを求める多くの人々に静けさを与えて、彼らを引きつけることができる。


原文は《人莫鑑於流水而鑑於止水,唯止能止衆止》


 聖人は止まっている水のような静かな心を持つのだが、そういった心を持つ者は静けさを求める多くの人々を惹き付ける。大辞泉では明鏡止水の意味《なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態をいう》は「道」を体得した者の心理状態である。

徳の枯れた者とは濁った愚痴スープの沼へと、ずぶずぶと溺れるのだった〔笑〕。

荘子の視点は現代社会では忘れがちなことだらけだ。

posted by koinu at 10:13| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする