2020年01月02日

風神の袋宇野浩二

「宇野浩二さんは風神のやうに大きくふくらんだ袋を抱へてゐた。その袋はひとの目には見えない。のぞきこんだとしても、そこには風が吹きすさんでゐただけだらう。ただこの荒ぶる風は文學の風であつた。風のなかにきらきら光るものは、決して俗物がありがたる金銀財宝なんぞではなくて、たれもふりむきもしない人生の廃品にちがひない。それが廃品ゆゑに、宇野さんが人生に見つけた価値観は今日におよんで崩れない。風神の姿はすなはち途方もなくガラクタをぶちまけた空間であった。」

石川淳「風神の袋ーー宇野浩二」より


ユリイカ1988年7月号 特集:石川淳 あるいは文体の魔術 青土社


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「日本幻想文学集成・宇野浩二」

 堀切直人の解説より

《思うに、作者はここで一つのそれなりのベースを設定したといえるのではあるまいか。世間への埋没でも完全な出世間でもない中間的な空間、現実を取り入(ママ)みながら「ドリーマー」を少しずつユーモリストへと成熟させていくための実験的な場を曲がりなりにもつくり上げたのではないか。大正の三十がらみの「ドリーマー」は、いかにも軟弱に見えながら、その実、思いのほか堅固な土俵を築き上げた。そして、こういう土俵がすでに設えられていたからこそ、昭和初期の墜ちた「ドリーマー」たちは、『ゼーロン』の牧野信一にせよ、『弥勒』の稲垣足穂にせよ、『陰獣』の江戸川乱歩にせよ、『貧窮問答』の石川淳にせよ、『木枯の酒倉から』の坂口安吾にせよ、同時代の烈風吹きすさぶ荒寥とした廃墟的世界のなかで、空無に耐え得るような夢を紡ぎつづけることができたのではないか。また、彼らの作品にしきりと出てくる望楼や、下宿部屋や、密室や、酒倉などは、いずれも「夢見る部屋」の後身、あるいは昭和初期におけるそのヴァリエーションといえるのではあるまいか。》

「日本幻想文学集成27 宇野浩二」307P


【宇野浩二の小説】作品解題

屋根裏の法学士(1918年)

大学卒業後5年経っても定職を持たない法学士乙骨三作が主人公で、彼は小説家となることが夢であるが、自負心ばかりが強くて根気や常識に欠け、毎日毎日無為な生活を過ごしているのである。


蔵の中(1918年)

近松秋江の挿話(女好きのうえに着物好きで新しく着物を作っては質屋に持って行くという話)をヒントに構成された小説である。主人公は質入れした着物が気がかりで着物の虫干しをしに自ら質屋に出向き同様に質入れした高級布団にくるまりながら質入れした着物と過去の女性との経緯を回想するという全体構成になっている。全体構成以外の細部は浩二自身の姿を髣髴とさせる描写が多い。例えば、主人公が蒲団に金をかけ蒲団の中で執筆すること、他人の妾となっている女性(加代子がモデル)や女優(渡瀬淳子がモデル)との交渉、ヒステリーで離縁した女(伊沢きみ子がモデル)などである。


苦の世界(1918年〜1921年)

画家住友をめぐる女と金をめぐる苦の世界がテーマ。住友がよし子(伊沢きみ子がモデル)とともに前借を踏み倒して横須賀の芸者屋から駆け落ちして東京渋谷の竹屋の離れに変名で隠れ住んだ時のことから物語が始まる。その時から女のヒステリーに苦しむ「苦の世界」となる。他に本屋の主人山本の母親、よし子の母親と姉、周旋業者里見の妻、半田の妻などのヒステリー女が登場するが、やがてよし子のヒステリーから逃れるため再度よし子を芸者屋に身売りさせ住友は行方をくらましてしまう。それからは芸者屋に支払う損害金や下宿の勘定などなど金に苦しむ「苦の世界」となる。そこに登場するのが、自分の愛人だった芸者を父親に奪い取られた法科大学生鶴丸や千葉県津田沼に芸者あがりの女房と暮らす半田六郎という虚言癖の詐欺師めいた人物、売れない翻訳をして糊口を凌ぎながら困窮した住友に寝場所と食事を提供してくれる文学者志望の木戸参三という友人である。


長い恋仲(1918年)

年中女性問題で苦労している主人公土屋精一郎の初恋の相手澤井千江子は神戸で芸者となり旦那に引かされたり別れたりで男出入りが多い。土屋も何度か金を工面し神戸まで会いに行くがやがて間遠くなり、久しぶりに大阪で再会する。そして彼女が旦那と暮す妾宅に連れて行かれるがなぜか以前のように胸が躍らないのであった。


人心(1920年)

1918年(大正7年)にヒステリーの彼女(伊沢きみ子がモデル)が横浜の芸者屋に身売りした頃から話が始まる。母を赤坂の田丸家(本多家がモデル)に預け浅草の仲戸丈助(中川嘉蔵がモデル)方に下宿し小説執筆に努めようとしたこと、友人と横須賀に行き以前に横須賀の芸者屋からヒステリーの彼女と手に手をとって駆け落ちしたときのことを回想しそのまま潮来に行って『苦の世界』(月夜がらすにふと目をさまし、あひたさ、じれったさに無理なこと言うて、わしや神いのり、あひたいが病か、癇しやうの癖か、ささでしのがんせ苦の世界」という小唄の文句から題名をつけた)を執筆したこと、下諏訪に旅行し子持ちで芸者屋を営んでいる芸者ゆめ子(鮎子がモデル)と出会ったこと、ヒステリーの彼女が突然鼠のだんごを食べて自殺したこと、作家として売れ出したらヒステリーの彼女を必ず芸者屋から請け出すと約束したことなどが描かれている。


美女(1920年)

商家に仕える堅物の奉公人が銀行で千円の金を下ろした後、帰りの巡航船の中で吃驚するほどの美人に出会う。どこに住む女性か知りたくなり、女性が下船した後も跡をつけまわすが、女性も何かしらこちらを気にしているように見える。松島の遊郭に関係があるのか、はたまた洋妾か、あるいは美人が多いという穢多かと想像を逞しくするが、突然、その女が立ち止まり、「しつこい」と叫びながら奉公人が持っていたはずの千円入りの財布を投げて寄こしたのである。


化物(1920年)

友人の小説家島木島吉は大阪の或るカフェで知り合った女性に見復(みかえる)仙助という人物を紹介され、見世物で熊の皮をかぶって虎と対決するという職にありついた。島吉が隣の檻にいる虎を見て怯えていると、その虎も人間(実は島吉の友人)が皮をかぶっていたのであった。落語「動物園の虎(虎の見世物)」と同様の話である。


甘き世の話(1920年)

作家の半子半四郎(浩二がモデル)が大正8年(1919年)に下諏訪の子持ち芸者ゆめ子(鮎子がモデル)と出会いプラトニックラブに落ちてから同じ芸者であるくれ葉・喜扇や旅館の女中・泊り客などとの交流を描いている。数回下諏訪を訪ねているうちにやがて芸者小瀧(小竹がモデル)と知り合い、ひょんなことで(浦島太郎のように)彼女と夫婦になってしまうのである。


橋の上(1920年)

夏の大阪の風物詩として橋の上の氷店の回想からその橋の橋詰にあった電燈広告へと回想がひろがる。そしてその橋の近くにあった十軒露地の生活で初恋の相手おもよ(宮本八重子がモデル)と出会い、やがて彼女は芸者となっていくが、そんな或る日二人で密かに住吉公園の料亭で逢引したことなどが描かれている。


遊女(1921年)

難波新川(幼少の頃、宗右衛門町の芸者小さんに可愛がられ、彼女が信仰する金神様にお参りするため難波新川によく連れて行かれた。やがて彼女が金神様の宣教師と駆け落ちして姿を消してしまった後も難波新川に行き、そこで病気の遊女を難波病院に運ぶ船を見かけたのであった。)難波病院(友人の医者に難波病院を案内してもらう。肺結核や梅毒の遊女が多数入院しており、そこで歌われている病院唄を聞いたり、遊女の身投げした井戸を見たのである。)友菊と千鳥の話(病室の障子に小指を切った血で病院唄を書き井戸に身投げした遊女友菊、井戸にお百度詣でをすると病気が治ると信じたが結局井戸に身投げしてしまったハルピン帰りの遊女千鳥。)雪景色(カフェに居候していた頃にそこの常連客可児才三と松島の遊郭に行き、そこで遊女の身の上話を聞き、川の雪景色に月の光が射しているのを見て感激した。)


滅びる家(1921年)

父の死後、母はなけなしの財産を父の姉の婚家(伯父)入江家(作中では原一家)に預けたが、その家が破産してしまった。その頃、母と二人で入江家を訪ねた際に旧家の格式をもちながらも荒廃した家の様子や帰りがけに伯父から一本の槍を土産に貰ったことなどが描かれている。


夏の夜の夢(1921年)

下諏訪の同じ芸者屋で働いていたゆめ子(鮎子がモデル)・小瀧(小竹がモデル)・半子をめぐる話である。ゆめ子が最も心を許していた半子は同棲していた男から子供を産めば女房にしてやるといわれたが子供はできず、小瀧も作者の妻となるが子供には恵まれない。ゆめ子だけが子供を産み、ある深夜、作者は諏訪大社境内でゆめ子の子供をあやす老女(ゆめ子の叔母で養母)に偶然出くわすのである。



屋根裏の恋人(1922年)

貧しい独身の新聞記者山村広吉の下宿には赤野という無口な隣人がいたが、やがて赤野の妹と称する常子という女性が寄宿するようになった。山村は自らの侘しい生活から脱け出すために「恋を恋する」ような気持ちで常子と深い関係になったが、ある日常子が赤野の妹ではないことがわかってしまう。常子は「穢多」の身分で、その境涯から逃げるために関係のできていた赤野を頼って町に出てきていたのであった。それを知った山村は常子との関係を続けるか否か動揺するのであった。


夢見る部屋(1922年)

借家に家族と住む私は家人には不用意に立ち入らせない自分の部屋(挿絵入り)があったが、愛人となっていた煙草屋の娘との逢瀬のためや思うさま読書と空想(夢のようなかつての恋と山の写真)に耽るため東台館という下宿屋の1室を借りた。しかし実際に借りてみると愛人にも部屋の存在を知らせずに一人で思うさま空想に耽るのであった。


鯛焼屋騒動(1923年)

鉄次郎は職を転々とした後、兄佐太郎の援助で鯛焼屋を開いた。先妻お今に病死された鉄次郎は後妻にぽっちゃりしたおみのをもらったが、間もなく鉄次郎は先妻の肺病に感染していたらしく寝ついてしまった。鯛焼屋の人手が足りないので赤井という髪を七三に分け口髭をはやした男を雇ったが、その直後から鉄次郎は妻と赤井が関係を持っているのではないかという妄想に苦しめられるようになり、ついに赤井を解雇してしまった。しかし鉄次郎の妄想はなくならず、赤井の手紙を偽造して妻に見せることで妻の本心を探るようになり、妻は鉄次郎が偽造した手紙に同封した毒薬(実はメリケン粉)を鉄次郎に飲ませてしまうのであった。これで騒動が持ち上がるが、結局妻は鉄次郎とともに生活することとなった。


昔がたり(1924年)

K湖の旅館湖畔亭の主人が私に昔がたりした話。主人が日露戦争に従軍したときに日本橋の紙問屋の息子で楠谷という優男が部下にいた。将校斥候で出動し敵方の貴族将校を打ち倒す際に楠谷は負傷し病院に収容された。半年後、敵方の貴族将校が何とか大公の息子ということがわかり、その何とか大公が楠谷(貴族将校が相討ちにした日本将校と大公に誤解された)に名誉の弔慰金を送るということになった。戦後、窮乏した主人が楠谷に金の無心に行くと、楠谷は紙問屋の立派な若主人になっており、ついに金の無心は出来ずじまいに終わった。


古風な人情家(1924年)

外出好きで金使いの派手な母と芸者上がりで家から出ない妻、この二人から離れて私は家とは別に下宿部屋を借りていた。そして母や妻には内緒でかつて恋心を燃やした上諏訪の芸者(妻とも知り合いだった)さよ子(鮎子がモデル)に会うため旅に出たが、結局会うことはかなわなかった。母や妻は私の下宿借りや旅行に不審の思いをもっているが表立って問い詰めることはなかった。


晴れたり君よ(1924年)

晴れた日の銀座を散歩していると、当時恋愛関係にあった芸者が旦那連れでいるのに偶然会う。その出来事を機に彼女の旦那や恐い伯母のこと、名古屋で待ち合わせ二人で京都・大阪・奈良を旅行したこと、私の下宿に様々な道具類・家具を買い込んできたこと、私との関係が旦那にばれ問題になったことなどが思い出された。


四方山(1924年)

中学通学のために一時同居した従兄弟の公吉と彼に悪い気性を伝えたその母のこと、カフェの女給つた(玉子がモデル)との馴れ初めや彼女とのわずか2回の情交で(弁慶のしくじり)で子を成したこと、玉子とその祖母の住む家の猥雑さなどから玉子にもその子にも情愛がわかないこと、玉子以外にも新たに別懇にしている芸者(八重がモデル)とも関係をもつようになったこと、作者の不行跡に母が頭を悩ましていたことなどが描かれている。作者の借りている下宿屋(菊富士ホテル)の3階の上にある塔の部屋で作者と母親が四方に見える山々を見晴らす場面で終わる。


鼻提灯(1924年)

みすずはしとやかで女らしい柳橋きっての芸者で、日本橋の紙問屋の息子と深い馴染みとなっていたが、彼女には時折、ハンカチで鼻の下を蔽い、右手を口の端に持って行くという奇妙な癖があった。やがて紙問屋の息子は親のすすめに従いみすずに無断で妻をめとり、ぱったり姿を見せなくなった。数ヵ月後紙問屋の息子が侘びを言うためみすずに会ったが、彼女は「ふん」というなり奇妙な癖をまたして、そこから唐突に立ち去った。後で聞くと立ち去ったわけは、「ふん」と言った瞬間に鼻提灯が出て恥ずかしかったからだという。


さ迷へる蝋燭(1924年)

10年余り前、大阪でどういう経緯で知り合ったか記憶が定かでない三木田幹夫という男は、豊太閤時代からの纏屋の息子で5尺8寸余りの大男であるうえ独特な歩き方をし風采も特異であった。彼は自分に芸術的才能があるかのように装う模倣の才能や虚言癖があるうえ、プライドが高くて少しの侮辱にも耐えられず、しかもなかなかの女好きであった。やがて彼はダヴィンチ研究を標榜するようになり、ヨーロッパを巡遊しゴッホの妹に会ったと友人に触れ回ったが、彼から聞いた話は、「London Life」という書物に書いてあった「さ迷へる蝋燭」の受け売りに過ぎなかった。


人癲癇(1925年)

赤坂の近く清--町の借家の左隣には学者とその美しい妻が住んでいた。ある日、隣の妻の経歴などを暴露した匿名の手紙が届いたが、これは隣の妻自らが出したものと思われた。右隣には始終夫婦喧嘩の絶えない画家夫婦が住んでいた。その画家は半年ほど前に電車の車中でふとしたことで自分に腕力をふるった男で、ある日二階の屋根伝いにやってきて彼の絵を見てくれるよう自分に頼むのであった。やがて彼は妻子を連れて漂泊の旅に出てしまった。左隣の学者とはともに酒を飲む機会があったが、彼は書斎に閉じこもりきりだというのに町内の人々の消息に驚くほど精通していた。その後、画家とも再会する機会があった、震災のときに、学者は避難先の寺で人嫌いな人が人中でおこす人癲癇の発作をおこしたのであった。


千萬老人(1925年)

芸者八重の慕っている待合「千萬」のおかみの旦那の話である。この頃このおかみには新しい恋人ができたので病気がちだった老いた旦那は彼の娘が営んでいた料理旅館「いなか」に預けられていた。この老人は以前は鶴亀屋千萬という太鼓持で梅毒で鼻も欠けていた。作者はしばしば原稿執筆のため「いなか」に行きこの千萬老人と話し合ったことが印象的に描かれている。


人に問はれる(1925年)

かつて大阪で知り合った加山五策は豊太閤時代からの纏屋の息子で5尺8寸余りの大男であるうえ独特な歩き方をし風采も特異であった。彼は自分に芸術的才能があるかのように装う模倣の才能や虚言癖があるうえ、プライドが高くて少しの侮辱にも耐えられず、しかもなかなかの女好きであった。不二館(菊富士ホテルがモデル?)に下宿していた頃、洋行中という噂のあった加山と再会した。不二館には哲学者肌の天文学者赤川十蔵、友人で小説家の水本久一郎、友人で画家の曽我部太市郎などがいたが、小人6人を含んだ外国人一行がここに滞在しているときに加山が訪ねてきて、彼の大足を小人に見させて彼を侮辱したと思い込み、加山は憤慨して帰ってしまった。


「木から下りて来い」(1926年)

「私」は「彼女」とつかず離れずの付き合いが続いている。彼女は青島や神戸に芸者として数年行ってしまったり、誰かと密かに結婚したりしている。ある日、「私」は「彼女」にせがまれて、彼女を悪童に見立てて「badboy,badboy,come down from tree」と書いたことから、昔近所の芸者のもとに出入りしていた俄の役者・団十郎の弟子団子をからかって同じ言葉を叫んだことを思い出した。そして現在、「彼女」と付き合っている役者・不二の家十三郎が昔の団子その人なのであった。


軍港行進曲(1927年)

1916年(大正5年)に浩二が伊沢きみ子と出会ってから、きみ子の足抜けの手伝いや彼女との別れ、そして1919年(大正8年)にきみ子が自殺するまでを描いている。きみ子が芸者に身売りした横須賀が主な舞台で、当時軍港だった横須賀の情景やそこで出会う海軍軍人(浩二の中学時代の同級生ら)との交流が印象的である。


日曜日あるいは小説の鬼(1927年)

普通の勤め人は1日定時間労働で日曜休日であるが、小説家である「おれ」は休み無く小説の鬼に追われ執筆し心が休まることがない。日曜日に百貨店の前に立っていた2人の女は情人を待っている風情で、そうした日曜日の人々を見ていると、「おれ」自身の生活が嘘のように思えてきた。


恋の体(1927年)

カッフェの女将である私(葉山龍子。渡瀬淳子がモデル)には音楽家・画家・小説家・俳優など多くの芸術関係のご贔屓がいた。東京の下宿時代に世話になり哲学の話をしてくれた小谷(浩二がモデル)、オペラ俳優の草分け的存在だった山根三太郎(清水金太郎がモデル)、2人の子をなしたがその子らを連れ去ってしまった俳優の川原(沢田正二郎がモデル)などなどであった。


枯木のある風景(1933年)

画家・島木新吉が写生旅行で奈良に行き、そこで画家・古泉桂造(小出楢重がモデル)との交友を回想する。二十数年前の美術学校入学の頃から付き合いが始まり、去年は古泉の健康状態を気遣い芦屋の家を訪ねた。古泉の画室には多くの絵が制作されており、彼の妻が商才を発揮してそれらを売り捌いているのであったが、そのなかに「裸婦写生図」と「郊外の風景」という作品があった。写生旅行の途上で古泉急死の連絡を受け、彼の家を訪れると、「郊外の風景」と一対というべき彼の鬼気迫る遺作「枯木のある風景」が画架にかけられていた。


枯野の夢(1933年)

古泉健三が極寒のなか祖母とともに母の住む大和高天村(天満村根成柿がモデル)に向かいそこで祖母が急死したことから物語は始まり、中学卒業後進路の決まらない時期に高天村に一時住んだことがあり、その時料理屋を経営していた中戸竹蔵(中川政蔵がモデル)・中戸丈助(中川嘉蔵がモデル)兄弟と知り合った頃のことを思い出す。健三が東京の大学に進学した3年後に嘉蔵も上京し健三の進言で子供靴屋をはじめたこと、子供靴屋が行き詰まったなかで丈助の女房が亡くなったこと、丈助が健三の進言で布切れ屋に転業して成功した頃に健三が小説執筆のため丈助の家に居候したこと、丈助が後妻をもらった後も商売は発展し一財産を成したが丈助は財産分与に頭を悩ますようになったこと、健三と天満村に旅行してから丈助が病の床につき死に至るまで、その30年に余る交流を描写している。


異聞(「女人不信」と改題。1934年)

日本からイギリスにやってきた青年ヘンミは高名な社会運動家だったタダヲ・タカマに出会った。かつてヘンミは日本にいた頃、偶然タカマ夫人の営む下宿に住んだことがあり、その娘アキと恋仲になった。しかしタカマ夫人は娘を裕福な商人のもとへ嫁にやってしまい、2人の仲は裂かれてしまったという過去があったのである。やがてイギリスの地でタダヲ・タカマが病死し、ヘンミが彼の遺稿を読んでみると、そこには男遍歴を繰り返した(運動の同志たちだけではなく、運動を破壊するために潜入したスパイまでもがその相手であった)タカマ夫人に対する不信の思いが綿々と綴ってあったのである。


文学の鬼(1934年)

牧新市は友人の小説家山添国道の紹介でオンドリ書房の折口鶏一と知り合い、牧の小説「子の来る迄」(浩二の小説「子の来歴」を出版したアルルカン書房がオンドリ書房のモデルと思われる)を出版することになったが、出版の段取りは遅々として進まず、牧が業を煮やしてオンドリ書房を訪ねると折口が妻に「酒と本の鬼が憑いている」と罵られていた。その頃同人雑誌「文学時代」(「文学界」がモデル)の経営を任せた文明社社長川中芳朗(勝負事が好きで雑誌「オール勝負」を経営)、それを受け継いだ文芸書院社長俵藤桂造(女好きで女に貢ぐために出版業を始めた)とも知り合った。折口は酒と文学、川中は勝負事と文学、俵藤は女と文学、それぞれ文学の鬼であった。


夢の跡(1935年)

深見文三は15、6年前の思い出を辿りながら東京から大阪に向かうのに中央線に乗った。それはかつて諏訪で出会い片恋の相手となった芸者鮎子が夢三という名でまた芸者に出たということを聞き会いたいと思ったからである。病死してしまった市木(直木三十五がモデル)とかつて2度諏訪に旅行したこと、自殺してしまった有川(芥川がモデル)と一緒に夢三を伴って上諏訪で炬燵にあたり映画をみたことなどを思い出すのであった。再会した夢三は15歳になっていた自分の子を最近亡くしたために再度芸者に出たこと、有川からもらった手紙をまだ取って置いてあることを深見に語るのであった。


旅路の芭蕉(1935年)

門弟千里と旅した野ざらし紀行、門弟路通との出会い、笈の小文、奥の細道、嵯峨日記など旅路での芭蕉を描写している。


終の栖(1935年)

妻子を捨て愛人みちよ(嘉村磯多の愛人ちとせがモデル)と東京に駆け落ちした哲太(嘉村礒多がモデル)が病死した後、哲太の父秀松(嘉村磯多の父若松がモデル)はみちよを郷里山口に迎え入れ、哲太の子勉吉(嘉村礒多の子松美がモデル)の養育を依頼した。みちよは徐々に勉吉と心を通わせるようになるが、やがて勉吉は実母の実家に引き取られて間もなく急性肺炎で急死してしまい、あとにはみちよと哲太の父母が残されたのであった。


風変りな一族(1936年)

十軒路地に住んでいた周旋屋の子岩木伊三郎(宮本卯三郎がモデル)の家族をモデルにした小説で、父母の直左衛門となみ、芸者から顕官の愛妾となって一家を支えた長姉・たま、軍艦の水兵(コック?)で朝鮮で発狂し溺死した長男・勇吉、要塞砲兵で片腕を失い放蕩の末病死した次男・新左衛門、芸者となったヒステリックな次女・しげと激しい癇癖のある三女・あさ(卯三郎の姉八重子がモデル。浩二の初恋の相手か?)が登場する。どこか精神病質であった家族の中で長姉・たまとともに常識人だった伊三郎は後にカッフェ・サンパウロ商会で成功し名古屋に屋敷を構えた。


夢の通ひ路(1937年)

片野一進(牧野信一がモデル)が友人安東次郎と浅草公園辺りを散策し過去を回想する。片野は自ら尊敬する作家として栗須土岐雄(浩二がモデル)と新地蓮太郎をあげ、「文学が非常に恋しくなると栗須さんに会いたくなる」と言う。栗須が大病後の静養で箱根に来たとき小田原にいた片野と頻繁に行き来したが、その時の片野とその母との軋轢・葛藤、また片野が栗須の母に対して恋情に似た親しみを持ったことなどが描かれている。そして片野は現実と夢が綯い交ぜになった様々な身の上話を栗須にするのであった。やがて神経衰弱に陥った片野は縊死を遂げてしまう。


鬼子と好敵手(1938年)

石村市造は隣家の若い男女や婆やにどこか見覚えがあると思っていたら、それは石村のかつての友人で好敵手であった俳優・朝木柳一郎(沢田正二郎がモデル)とその内妻・阿由葉蘭子(渡瀬淳子がモデル)の子供たちであった。蘭子は柳一郎と別居してからは子供たちのことでしばしば石村に相談をもちかけることもあった。成長した子供たちはいずれも柳一郎に似つかない芝居嫌いで息子の朝木新作は画家志望、娘の朝木鯉子は作家志望であった。


母の形見の貯金箱(1938年)

最初は少年雑誌の付録だった将棋の形をしたボール紙貯金箱に、その後は母がくれた金庫の形をしたニッケル貯金箱に毎日小銭を入れ、その貯金を老母の71歳の贈り物にした。その直後に老母が急死した後も貯金を続け、大阪・一心寺の骨仏にしてもらう法要の費用などを捻出し、いずれは母の墓も造ろうと思うのであった。


楽世家等(1938年)

深見章作と中学の同窓で建築業で成功した竹木林次郎(天王寺中学の同窓である坂口常三郎がモデル)が主人公である。竹木は大兵肥満の体形でしばしば豪傑笑いをするのが癖で学生の頃から天麩羅・鮨・鳥・鰻の食道楽に憂き身を窶し学業を怠る程であった。社会に出て芸者上がりの妻と結婚して3女をもうけて以後も女道楽は続き、第二夫人(芸者愛子)には1女、第三夫人(女事務員上がり)には2男を産ませ、しかもいずれの女にも不満を持たせないよう八方丸くおさめる術に長けていた。この竹木をモデルに小説(『歴問』)を発表したことで竹木の怒りを買い、一時不仲になるが、友人たちの斡旋でまた交際を始めるのであった。


器用貧乏(1938年〜1939年)

妻の異母妹鈴木コウ(作中ではお仙)をモデルにした小説である。新聞記者との同棲と破綻、魚屋丈三郎との出会いと結婚。石炭運搬・豚の毛洗い・塩物販売・玉子の卸売り・浅蜊売りなどに手を出すが生活力のない夫に代わり、お仙は仕立物・袋物屋の縫い潰し・空気下駄の下請け・西洋人形製作・玉子の性見・泥鰌の販売・髪結い・写真機の蛇腹張りなど身を粉にして働く。関東大震災を経て、やがて丈三郎が脳溢血で倒れ廃人同様となり施療病院を転々とした果てに生活に窮したお仙は、異母妹で幼い頃九州に攫われこの頃上京し料理屋の女中などをしていたお半のもとに身を寄せる。しかし当時お半も生活に窮していた。やがてお半は病気になり亡くなり、夫丈三郎も亡くなる。


木と金の間(1939年)

市原石造の家は祖父の代から新潟で材木仲買商をやってきた。材木仲買という仕事は投機性が強く相場師より危険性が高かったため一家の浮沈は激しかった。石造が尋常小学校を出た頃は一家は貧窮のどん底にあったので、親戚の金物屋に奉公に行き高等小学校を卒業させてもらった。16歳で家に戻った石造は困窮した一家を支えるために材木仲買に乗り出した。その後も第一次世界大戦や関東大震災、昭和恐慌などで家運は浮沈を続けた挙句、山師の詐欺にあって財産をすっかり失ってしまった。ちょうどその頃、金属食器製造工場をやっていた弟が死んだために、経営が悪化していたその工場を引き継ぎ、何とかささやかな利益が出るまでに立て直した。石造はこの工場の後継者が育ったら、隠居仕事でもいいからまた材木仲買をしてみたいと思うのであった。


善き鬼・悪き鬼(1939年)

由比は学生時代に新劇運動に熱中し、大阪で友人の紹介で知り合った高根瀧子(渡瀬淳子がモデル)は上京後由比の下宿に転がり込んできたが不思議なことに一切男女の関係がなかった。やがて朝木柳一郎(沢田正二郎がモデル)と夫婦になった波川珊子(作品の冒頭では高根瀧子という名であった)の家のある西片町の借家に越した後は一層生活に窮迫し売文の傍ら質屋通いを続けた。翻訳の仕事を斡旋してくれた高部辰夫(広津和郎がモデル)の女性問題(下宿の娘との過ち)、井石市造(三上於菟吉がモデル)の芸者との荒んだ生活や高根瀧子への異常な執着ぶりなど数々の女性との関わり、角田勘助(葛西善蔵がモデル)の飲酒・金銭問題が描かれている。そして、由比の木沢きみ子(伊沢きみ子がモデル)との出会いや横須賀での芸者暮らし、横須賀の芸者屋からの逃亡などがあった。


思ひ川(あるいは夢みるやうな恋)(1948年)

浩二(作中では牧新市)が関東大震災直前に芸者村上八重(作中では三重次・三重)と出会ってから1946年(昭和21年)に戦災を生き延びた八重と再会するまでを描いている。直木三十五(作中では仲木直吉)のなじみの待合で八重と出会ったこと、仕事場にしていた菊富士ホテル(作中では高台ホテル)に八重がしばしば訪れやがてその部屋に道具類を買い集め始めたこと、震災後に名古屋で八重と待ち合わせ京都・大阪・奈良を旅行したこと、浩二が原因で八重が旦那(作中では月給さん)と揉め事をおこし千萬のお上に仲裁してもらったこと、1924年(大正13年)から1926年(大正15年)にかけて八重と各地を旅行したこと、千萬のお上が千萬老人と別れ森井門造と同棲するようになったこと、浩二が八重とのことを妻キヌ(作中では良子)に告白してしまうこと、妻への遠慮から八重に距離を置くようになったこと、母と箱根・熱海を旅行し帰途母と別れて鵠沼の芥川龍之介(作中では有川)を訪ねたこと、浩二の神経衰弱が悪化した頃芥川が自殺したこと、八重の芸者屋の経営が悪化してきたため余儀なく新しい旦那をもったこと、浩二が八重との別れを決意したこと、2年後に直木三十五の家で八重に再会し交際が復活したこと、八重が千萬の名義を受け継いで待合を始めたこと、戦中の混乱で徐々に八重との行き来が途絶えるようになったことなどが書かれている。


富士見高原(1949年)

詩人萩原朔太郎に惹かれている雑誌編集者深江文吉に誘われ、由比祐吉(宇野浩二がモデル)は長野県の富士見高原を訪れたが、そこには伊藤左千夫の歌碑や小川平吉・尾崎行雄の別荘などがあった。また新聞で正木不如丘の結核療養所で画家竹久夢二が病死したことを知り、ありし日の彼を深江とともに回想したが、その数日後帰京した由比は突然深江の訃報に接した。暫く経ってから島木赤彦の歌碑を富士見に建てることになり、斎藤茂吉・土屋文明らアララギ派の人々ともに由比はまた富士見を訪れるのであった。


秋の心(1949年)

戦後のA級戦犯処刑があった頃、由比祐吉(宇野浩二がモデル)は小説の題材とした富士見調査のために同行を約した岡井と上諏訪で会った。この時の宿みづうみ館はかつての片恋の相手鯉子(原とみがモデル)との思い出があり、大正10年に友人の仲木直吉(直木三十五がモデル)と、さらにその前年には有川(芥川龍之介がモデル)と滞在した宿でもあった。昭和9年に由比一人で来たこともあり、その時鯉子が一人息子を亡くしたことを知らされたのである。今回も岡井とともに鯉子の住まいを訪ねあて、様々な心尽くしのもてなしをうけ、駅での別れ際に鯉子は亡くした息子の戒名が高嶽院秀麗居士 であることを由比に告げるのであった。


うつりかはり(1949年)

浩二(作中では芳郎)と妻キヌ(作中では元子)が長野県松本に疎開するところから筆をおこし、息子の守道(作中では道也)の結婚や就職問題、妻キヌの病状悪化と妻の異母妹鈴木コウ(作中ではお徳)による介護、守道の妻富子(作中では君子)の出産と守道との不和、浩二の上京とコウとの不和などが描かれている。


大阪人間(1951年)

深見章作と天王寺中学の同窓で、海軍の職業軍人になった志村や建築資材販売を生業とした竹木林次郎(天王寺中学の同窓である坂口常三郎がモデル)との断続的な交友を描写した作品である。志村は学校では深見とほぼ同等の上位の成績をとり海軍兵学校に入学、横須賀(深見も女とのいきさつがいろいろあった場所)・佐世保などを転任し順調に出世していったが敗戦で落魄の身となった。竹木は大兵肥満の体形でしばしば豪傑笑いをするのが癖で深見や志村に比して学校成績は及第ぎりぎりであったが、社会に出てからは芸者上がりの妻と結婚して3女をもうけて以後も女道楽は続き、第二夫人(芸者小金)には1女、第三夫人(女事務員上がり)には2男を産ませ、しかもいずれの女にも不満を持たせないよう八方丸くおさめる術に長けていた。戦後は経済的に行き詰るがステンレス加工などで何とか生活の道を切り開いていくのであった。


寂しがり屋(1952年)

宇野浩二と同じ明治24年(兎の一白)生まれの久米正雄について愛惜を込めて描写した小説である。戯曲・俳句・小説と十分な才能をもち文学の世界では「名士」として扱われながらも自ら納得できるような作品を残し得なかったのはなぜか?それは久米の気の弱さなのか?宴会の余興で久米が「枯れ薄」を唄い踊る姿と戦後の落魄した姿が印象的に描写される。


友垣(1953年)

ある出版社から久米正雄などとともに直木三十五選集の編纂を依頼されたことを回想するところからこの小説は始まる。やがて在りし日の久米正雄、さらには直木三十五の姿が宇野の眼を通していきいきと叙述されていく。直木は次々と出版社を作っては失敗し借財の山をつくり、その一方で大衆小説の分野で高い評価を得るようになった。また、茶屋遊びが好きで芸者香西織恵を愛人とした生活や京都で牧野省三と映画製作に取り組んだ様子なども描かれている。文芸春秋社の主宰した直木の盛大な葬儀に強い違和感をもつ一方で、戦後になって宇野が参列した加能作次郎文学碑除幕式は村人が主催した小規模なものであったが、それが故郷に題材をとった加能の作風を良く反映しているようであった。

【Wikipedia】より


作品解題(童話)

揺籃の唄の思ひ出(1915年)

台湾に住んでいた日本人の娘千代が3歳のときに生蕃(山地原住民)に拉致誘拐され行方不明となった。15年後に生蕃の女隊長として両親の前に姿を現わした千代は幼少時のことを何も記憶していないように見えたが、母親が揺籃の唄を口ずさむとにわかに思い出が蘇り、涙ぐむのであった。


海の夢山の夢(1918年)

父のいない良夫は学校の休み時間や日曜日が嫌いであった。日曜は母親を助けるために煮豆や小楊枝を売らなければならなかったし、学校の休み時間には級友が煮豆や小楊枝を商う良夫をからかうからであった。夏休みには日記の宿題がでたが、家族旅行もしない良夫には書くこともなかった。ところが8月31日の夜に亡くなった父とともに家族が自動車で鎌倉・京都・奈良・松島・江ノ島・天橋立・箱根・華厳の瀧を旅する夢を見て、それを日記に書いたのであった。

【Wikipedia】より

posted by koinu at 11:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする