2019年10月06日

『犬』三代目 三遊亭金馬

「浮世断語」旺文社文庫、1981(昭和56)年7月より


 犬は三日飼うと三年恩を忘れないというが、犬は好きで十二、三歳頃、本所相生町の経師屋の伯父の家に奉公している時分に、雑種の犬を一匹拾ってきて伯父に叱られたことがある。私が三度の御飯を一膳ずつ少なく食べてこの犬にやりますから飼ってやってください、と無理に頼んでおいてもらった。

 その頃、本所から四谷箪笥町、芝片門前、三田の赤羽橋辺まで襖を積んだ車を引いて使いにやらされる。行きにその犬を車の梶棒へ綱でつなぐとグングン車を引いてくれる。先方へ行って使い賃をもらうと、パンを買って半分は犬に食べさせて、空になった車へ犬を載せて引いてくる。今でもバタヤさんが犬に車を引かしているのを見ると、その頃のことを思いだす。

 ぼくがあまり犬を可愛がりすぎるので、伯父がぼくに内緒でどこかへ捨ててきたらしい。二、三日の間は仕事も手につかず、食べる物もうまくない。それこそ血眼になって探したがわからない。

 去る者は日々に疎し、というか、二月、三月とすぎ、半年もすぎるとまるで思いださないというより、どんな犬であったか思いだせないくらいになっていた。すると或る日、京橋八丁堀まで例によって車を引いてゆき、帰りに、その頃「中外商業新聞」というのがあって、その前の坂本公園という、いやに淋しい公園の前までくると、だし抜けにぼくに飛びついた犬がある。びっくりして見ると、半年ほど前にわが子のように可愛がったその犬である。犬も夢中になって飛びつく、ぼくも暫時われを忘れて抱きかかえて、その犬を車の上へ載せて本所まで帰ってきた。また改めて伯父に頼んで飼ってもらったが、その犬の顔は今でも眼をつぶると瞼のうちに見えるようだ。

 とんだ瞼の犬の話になったが、いろいろの種類の犬も飼ってみたが、何の何種という系統正しい犬でも、名もない雑種の野良犬でも、飼えば同じように可愛いもので、若い時分、駄犬のことで犬捕りの人夫と殴りあいの喧嘩をしたことがある。

 本所太平町に住んでいる時分、下手な鉄砲をやっていたので、ポインターの猟犬を飼っていたが、これも子犬からもらってきて、自分で「持ってこい」から教えた。猟は犬がいるといないでは大変な違いで、ことによると他人の捕った猟物までくわえてくることがある。鉄砲を持たずに小松川の土手あたりまで連れて歩く。鳥がいると「ヤチ」のなかをガサガサガサ追って追って追い廻す。鳥も利口なもので、飛びたつと鉄砲で射たれるということを知っているのか、なかなか飛びたたない。ついにヤチのなかから番鴨をくわえて出てくる。また綱を放して犬を連れて歩いているときどこかで鉄砲の音がズドンとすると、一目散に飛んでいってしまう。しばらくすると、鳥をくわえて息せききって帰ってくる。「よしよし」と褒めてやり、鳥を取って外套の下の腰へさげてしまうと、鉄砲を射った人が「確かにここいらへ落ちたのだがなあ」と鳥を探しにくる。

 犬は利口なもので、昼席、夜席へ行くときの服装はよく知っていて後を追わないが、魚釣りの服装ででかけるときに犬に見られると鎖でも切って飛んでくる。また、鉄砲を持って犬を連れてゆく、獲物がいると犬はすぐにポイントをする。銃の仕度をして追えというと飛びだしてゆく。鳥が飛びだす。ズドンと射つ。鳥が落ちたときの犬の喜びようといったら、射った人間より嬉しそうな顔をするが、当らずに鳥が逃げたときなぞは、横からぼくの顔をジーッと見ていて、「下手だなあ」というような顔をする。そのときくらい犬に対して面目ないと思うことはない。

 大正十一年の十一月、酉の市で、人混みのなかをぼくについてきた小物の雑種の迷子犬に、買った八つ頭の芋をやって、本所太平町まで犬がいるので電車へも乗れずに連れて歩いて帰ってきたことがある。

 俗に「犬猿の間柄」というが、明治、大正時代まで猿廻しが犬を馬のかわりにして、犬の背に乗って往来を猿が廻っていたこともあるし、縁日の猿芝居で犬と猿がお軽勘平の道行なぞを演っていた。犬の乳を猫が飲み、猫の乳を子犬が飲んで育つこともある。

 本所押上の普賢横丁の小鳥屋の隠居所の六帖と四帖半の二間の家を借りて、ここへ引越してからもこの犬を寿限無じゅげむと名づけて可愛がっていた。一軒建ての床の高い家で、庭は二十坪くらいしかなかったが、小鳥屋の隠居所だけに庭全体に高い金網が張ってあって、小鳥も放し飼いにしてあり、小さな池もあり、そこに水鳥も飼ってあった。木戸の入口に鳴子がつるしてあって、これを引いて出入りをしていた。「雀の御宿」という目印を出しておいたのも珍しがられた。床下三尺くらいの高さで、砂を敷き、品評会へ出せるくらいのブラマ種の鶏が十五、六羽いたが、よそから猫がはいる、鼬いたちがくる、鼠が出る。鶏を痛め、鳥の餌まであさられる。雌の子犬だが利口なやつで外敵の番には役に立つ。鼠もとるし猫と血みどろの喧嘩もする。それで飼鳥にはしごく従順で、犬にやる食事を鶏が食べにくると、一度は「ワン」と怒るが、鶏の嘴でつつかれると後ずさりして、自分の食事を鶏が食べるのを見ている。この犬も表芸一通りはなんでもした。大正十二年の大震災に、第一に鳥と犬を逃げられるように庭木戸をあけて金網をあけておいたが、近所に中気の養父がいたので、この人を連れて吾妻請地の慈光院まで火に追われて逃げ、あくる九月二日に家を見にゆくと、つぶれた屋根の上で、この犬が焼け死んでいた。

 太平洋戦争の前に四谷南伊賀町に住んでいて、ブルテリヤの黒一枚の中物で「三代目寿限無」という犬がいた。これも子犬の生まれて二十日くらいから戴いて家のなかで牛乳で育てた。犬にアルコール性の物を飲ませると大きくならないということを聞いたので、毎晩寄席から帰って一ぱい飲むときに膝へだいて犬にも酒を飲ませる。はじめは嫌な顔をするが、肴がもらいたいので膝へくるようになる。少し飲まして酔っぱらうと、あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ、ワンをさせても正確に発声できない。「ラーンン」と心持ち巻舌になる。犬は下で飼うより座敷で飼うほうが四六時中人間と接触しているためか利口になる。顔はブルドックで強そうな顔をしているが、下へ降ろすと近所の名もない雑種に噛みつかれて尻尾を巻いて逃げこんでくる。

 犬にも流行り廃りがあって、大正から昭和のはじめ頃までは、このブルドックが盛んであった。大正頃の川柳に、


ブルドック百円だして引きずられ


 昭和も三十年頃から猫も杓子もスピッツを飼うようになった。大正頃は畜犬税が半年に三円五十銭であった。その頃咄家に鑑札があって、幅二寸に長さ三寸くらいの巻煙草の箱くらいの紙へ「遊芸稼人」と書いてあった。稼ぐという字がなんとなく情けないような心持ちであった。表に東京市の四角な判が押してあり、裏は生年月日に芸名、落語協会長の判があって、「これを四六時中持って歩け」という御布令ふれがあって、これを持っていないと営業ができなかった。そのかわりに夜おそく飲んで、帰りに非常線に引っかかっても、これさえあれば大いばりで通れたものだ。ぼくなぞは火事の非常線までこれを見せて通ったことがある。旅へでるときにはこの鑑札を送って、「乗り金」という前金を受けとったものだ。

 その頃、われわれ咄家には所得税も源泉課税もなにもなかったが、この鑑札の税金が半年に三円五十銭で、ちょうど犬の税と同じであった。大正時代にこの咄をぼくは高座でしゃべって大受けであった。どうにかして犬より一銭でも余計に税金を納めたいと思っていた。すると咄家の税金が四円に上がって、有難い犬より五十銭余計になった、と喜んだが、そのときに犬もいっしょに四円に上がってしまった。咄家はこの鑑札を持っていないと営業停止をくう、犬は畜犬票を首へ下げていないと撲殺される、犬と咄家とは密接な関係があるのかもしれない。

 役者と違って咄家には門閥家柄というものはない。名人の息子がかならずや名人になるということはない。「名人に二代なし」といって、かえって名もない者が咄がうまく、出世をすることがある。いつか犬の話から咄家の話になってしまったが、犬と咄家と一緒にすると咄家のなかには怒る人もあるかもしれないし、犬の方でも馬鹿にするなと腹を立てるのがあるかもしれない。

 犬も何の某という立派な血統のある犬でも訓練が悪いと駄犬に劣るものだそうだ。名もない雑種でも訓練の仕方でそれ以上に利口になる。昭和の始め頃トミーという学者犬が大いに活躍したことがある。各国の旗を並べておいて、アメリカというと米国の旗をくわえてくる。タバコの箱を並べて「バット」「チェリー」というとほとんど間違いなくくわえてくる。数字の札を立てておいて、「五と二ではいくつになる」というと七という字を持ってくる。他にもいろいろな芸をしたが、「尋常三年くらいの知識がありますよ」と自慢をしていた。一時は築地・新橋のお座敷はこの犬に食われて咄家講釈師の座敷が閑になって、「夫婦喧嘩は犬も食わない」というが、「咄家は犬に食われる」と評判になったことがある。このトミーという学者犬の持ち主は、もと太神楽曲芸師の「目ぐろ」の後見をやっていた「正太郎」というぼくの友達で、名古屋の大須おおすの観音様で拾ってきた雌の雑種で、汽車・電車の乗り物もバスケットのなかにおとなしくしているので持ち歩きも便利であった。


 ぼくの家の寿限無も人間のことばも簡単なものなら三十くらいはわかる。「良し」「悪い」「後」「先」「右「左」、偉いことに「ゴー・ストップ」がわかる。朝夕一時間くらいずつ綱をつけずに運動に連れて歩く。右でも左でも「つけ」といって腰を叩くときちんとついて歩く。「先へ」といってゴー・ストップのところへくると、ストップのときは止まって待っている。交通信号の赤青の色はわからないだろうが、人の行動でわかるらしい。眼の悪い歌笑という弟子が引いて歩いたのだが、犬に引かれるというほうが適切であった。外の人が、「師匠、あれは盲導犬だねえ」とうまいことをいった。この犬が「お廻り」「チンチン」「お預け」「お手」となんでも芸をするが、一つ褒められたことは、「お辞儀」というと両手を前にそろえて頭をさげて相手を見る。ぼくがラジオ放送のときに不思議そうな顔でラジオの前で首をかしげている写真が今でもとってある。

 この犬が近所の火事を教えて町会長から賞状をいただいたことがある。忘れもしない四谷天王様の酉の市の晩で、石切り横丁は夜おそくまで人通りが絶えない。二時か三時頃静かになってトロトロと寝ると、裏庭のハウスのなかに寝ていた寿限無が、ウオーと変な声をだして遠吠えをする。「うるさい静かに」と何度叱っても鳴きつづけるので、戸をあけてみると変な臭いがして煙が見える。表戸をあけて飛びだしてみると二、三軒さきの煙草屋の二階から煙が出ている。消防署へ電話をかけて、水道の水を出しっぱなしにして、梯子をかけ、近所の人も後から寄って大勢で消してしまった。そのとき煙草屋の親父は荷物をだすでもなく、水をかけるでもなく、ただ表で見ていたが、結局は二階の押入れの火の気のないところから火がでて、その煙草屋の親父が保険金欲しさに放火したということがわかったが、ぼくが水を運んでいるときに一言小さな声ででも「放火」といえば、扇であおぐくらいの融通はあったのにと冗談をいった。ぼくが一番はやく火を見つけて電話もはやくかけ、梯子をかけてバケツで水をかけて消火につとめた、というので町会から賞状をくれるという。ぼくが消火の賞状を頂いたところでなんでもない。この寿限無が一番はやく嗅ぎつけて吠えだしたのであるからこの犬にやってくださいと頼んで、「火事を逸はやく嗅ぎ付け、人間に教え、消火に尽力致せしによって茲に之を賞す」

 と書いた額をもらって、自慢でかけておいたが戦災で灰にしたのはなんとしても惜しい心持ちがする。

 犬の運動もお金をだすと犬屋の若者が朝夕一時間ずつ引いて歩いてくれるが、自分でやらないと駄目である。僕が十日間旅をするので弟子の歌笑に運動させるようにいいつけて、旅から帰ってみると犬の爪がのびている。

「留守中運動をさせないじゃないか、こんなに爪がのびている」と小言をいう。

 それからまた、ぼくが旅をして帰ってみると、歌笑が犬の爪を鋏で切っておいて、

「どうです、これならよいでしょう」といっている。

 犬も鋏で爪を切られてはたまらない。久し振りで旅から帰って綱をつけずに歩くと、留守の間に引いて歩いた道がよくわかる。「前へ前へ」といって後からついてゆくと鯛焼屋へ飛びこむ。ミルクホールへはいる。新宿の赤線へ犬がはいってゆく。「青湖楼」という女郎屋の店へはいってゆく。その家でも知っていて、「ああ寿限無がきた」という。運動から帰って歌笑に、「お前は犬を連れて新宿へ行って女郎を買ったな」というと、

「いーえ。とんでもない、行ったことはありません」と白しらを切る。

『阿古屋』における岩永と重忠のように叱りなだめて聞いてみると、夜、家をあけると師匠に叱られると思って、犬の運動をだしに使って昼遊びをすることがわかった。犬を引っぱって行き、女郎屋の店先へつないでおいて、ショートタイムで遊んできたと白状してしまったが、酒を飲みながら笑って話を聞くと、

「犬を連れて昼遊びをするもんじゃありません。犬が表でワンワンうるさくっておちおち遊んでいられません」という。

 この犬を歌笑が掛け雄に連れてゆき、「不器用なやつだ、どいてみろ」といったと先方の人が大笑いをしながらぼくに話した。

 ブルドックは鈍感なものとしてあるが猫の領分まで荒して鼠を取るようになった。始めから鼠を捕る犬なぞはない。これも訓練の仕方である。金網の鼠捕りで捕った鼠の足を水糸でゆわえ、片方を犬の首輪へ結ぶ。鼠も犬に食われるのが嫌さに、犬の鼻の頭や口端と柔らかなところへ食いつく。その時に、「捕れ捕れ」とけしかけてやる。終いに手で押さえて殺して終う。そこで「よしよし」と褒めてやって御褒美をやる。そんなことを何度も繰返すうちに「そらチューチュー」というと、鼠のでる穴を知っていて、伏せて待っていて手で押さえて殺してしまう。鼠を捕ってくれるのは有難いが、一度は誰かが道端へ捨てて行った子猫をくわえてきたのには困った。

 教えると買物も三軒くらいはするようになった。風呂敷を三種類くらい別にしておく。牛肉屋の風呂敷のなかへ「小間切れ百匁」と紙へ書いて金と一緒に入れて、五、六回は自分が連れて一緒に行き、先方の肉屋に犬の首から風呂敷を取ってもらい、そのなかへ肉を入れて、また犬の首へゆわえつけてもらって一緒に帰ってくる。これを何度も繰返すうちに、その風呂敷を首へゆわえつけて、「サア行ってこい」というと人間がついて行かなくとも犬だけで得意顔をして行ってくる。肉屋の方でもこれは犬に食わせるのだと思っている。また犬も自分が食べる物と思って行くが、そこが畜生の浅ましさである。主人が余計に食べて犬には噛み切れないような固いところを御褒美にやる。よく犬が労働争議を起こさなかったものだ。菓子屋の風呂敷も別にして、この式をやるうちに風呂敷の臭いで覚えるのか間違いなく行くようになる。

 いろいろな芸事を教えるなかで「ワン」だけは一番後に教えないと、何時でもワンといえば何かくれるものということを覚えてうるさくって困るものだ。いたずらにでも悪い芸は教えるものでない。「ねんね」というと横になる。それまでは良かったが「不見転みずてん」というと仰向けに寝て、腹をだして妙な格好をする。しじゅう楽屋へ連れて行くが亡くなった三升家小勝師匠(五代目)がこの犬が大変お気に入りで、連れて行くと必ずこの不見転を面白がってやらせる。どんな雑種でも「持ってこい」などははやく覚える、ぼくの家ではスポンジボールを放って持ってこいという。これも始めは持ってきても口にくわえて放さないものだが、御褒美に菓子をやるとすぐに放すようになる。キャッチボールのパスボールを取ってきてくれるのは大変便利であるが、歌笑が連れて神宮外苑の野球場に中等学校の試合があったときに、外野で例の通り綱をつけずに見ていたが、センターへヒットがきたのをグランドへ飛び降りてそのボールをくわえてしまった。外野手が見ると、一見恐ろしい顔したブルドックなので手がだせない。タイムがかかって、犬が取ったボールはセーフになるのか、アウトかと大変にもめたことがある。

 犬は護身用にもなる。ぼくと家内と喧嘩の真似をするとワンワンといって家内へ飛びついて行く。家内と女中とやると、女中の方へ飛びつく。女中と弟子とこの真似をすると弟子の方へ飛びつく。女中は自分に餌をくれることを知っていて、幾らか自分の利益になる方の味方をする。

 神宮外苑の相撲場に学生相撲があって、犬を連れて見ていたが、行司が軍配を返して「ハッケヨイヤ」と突っ張りから四つに組んでグルグル廻ると、私のそばで見ていた犬がいきなり土俵へ飛び込んで、ワンワンというのでこの相撲が預りになったことがある。

 昭和三十三年は犬の年である。犬年の正五九(しょうごく)の水天宮様は安産の御守を受ける人で大繁昌である。犬のお産は軽いので万物の霊長たる人間様も犬にあやかるようにと五月の犬の日に腹帯を締める。


戌いぬの日に里から二疋ひき白と赤


 北条九代高時という人もぼくに劣らぬ犬好きで、諸国に布令をだし、かり集めし犬四、五千匹。魚鳥の肉を食わせて毎月犬合わせといって闘犬会を催し、上下集まり見物した。


初鰹はつがつを高時犬にくらはせる


 徳川五代綱吉という人も犬公方いぬくぼうといわれたくらいの犬好きで、多いときには四万八千匹飼っていたというから高時より役者が一枚上である。母桂昌院が戌年生まれだとかいうので全国に手配をして犬の戸籍をつくった。現在中野の警察大学はこの犬小屋の跡だという。

 三十二年七月に名古屋東山動物園で鹿五頭が野犬に噛み殺されたと新聞にでていたが、昔奈良春日神社の鹿が犬に殺されないようにと犬追い棒というものを持った侍が鹿に近寄る犬を追い払っていて、この人を犬侍といったとは『鹿政談』という落語にでてくる咄である。

 南極越冬隊の樺太犬も一年間二頭が生きていて話題になって騒がれ、去年は人工衛星へ乗ったライカ犬も、ぼくは『雪てん』という落語に使わしてもらった。

 KRTVの浮世断語で一月十二日に、名犬を育てる苦心というのを名犬シェーン君の持ち主宗川君にうかがった。

 先輩の師匠連は『元犬』という落語を演るには、自分で一度犬を飼って犬の動作を覚えてから咄をしろといっていたが、落語に犬を扱ったものは、『大処の犬』『犬の眼』『いつ受ける』『課長の犬』『無筆の犬』『夜道の犬』に今の『元犬』がある。


「山犬と狼の見分け法」というのがある。「途中道にて犬に逢ったら手の平へ虎という字を書いて犬に見せると必ず犬は逃げるもの」と教えられ、その通りして犬に噛みつかれたという。教えた人、ああ、その犬は大方無筆の犬だ。


「夜道で犬に吠えられたときは、往来へよつん這いになって、ワンワンといえば、犬が見て自分より大きな犬だと思うから必ず逃げて行くもの」と教えられ、夜道にて犬がきたので、往来へよつん這いになって、ワンワンというとけつっぺたをしたたか食いつかれた。その男、片足上げて、

「キャンキャンキャン」




「日本の名随筆76 犬」作品社

 1989年2月25日第1刷発行



三遊亭 金馬(1894年10月25日 - 1964年11月8日)

東京府東京市本所(現・東京都墨田区本所)生まれの日本の落語家。家業は洋傘屋であった。大正・昭和時代に活躍した名人の一人。本名は加藤 専太郎。出囃子は「本調子カッコ」。

初代三遊亭圓歌の門下だが、名人と呼ばれた初代柳家小せんや、橋本川柳(後の3代目三遊亭圓馬)にも多くを学んだ。読書家で博学。持ちネタの幅が広く、発音や人物の描き別けが明瞭で、だれにでもわかりやすい落語に定評がある。

当初は落語協会に所属、のちに東宝に所属したが、実質的にフリーであった。

【ウィキペディア】より

posted by koinu at 07:32| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする