2019年08月27日

『ライ麦畑でつかまえて』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読み比べ

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」


J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(The Catcher in the Rye)より


村上春樹さんが翻訳家の“柴田元幸”さんと『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』では「サリンジャーはPTSDを患っていた可能性があり、小説内に於ける主人公ホールデン・コールフィールドの行動は〜著者のセルフ・カウンセリングに繋がる」と作家の心的障害について語っております。


「そういう意味では、『キャッチャー』を読むと、これは彼自身による自己のトラウマの分析と、その治療の道を見つけるための自助的な試みなんだな、というふうに僕は捉えるわけです。」(翻訳夜話2 サリンジャー戦記 より引用)


1964年発行された野崎孝さんの翻訳はイノセンス賛美が奨励ではなく、主人公が繰り出す無鉄砲な行動に、関心を示す解説されてます。


野崎 孝『ライ麦畑でつかまえて』解説

https://www.hakusuisha.co.jp/smp/news/n12510.html



相手にプラスを与える性質の言葉を、自分の真意以上の効果を孕ませて口にするのはいやらしい。ホールデンの反撥の基本的なものはここにある。だから、この感覚、この反撥が理解できれば、この小説は一挙にわかるはずだ。

しかし大人の正体はある程度見抜けても、大人たちが巧妙に、あるいは狡猾に案出した現実処理の方法は十分に会得していない。だから、大人ならばコンヴェンションに従って上手にすりぬけてゆくところを、彼は自分独自の方法で対処するか、方法も見つからぬままに体ごとぶつかるしかない。その結果、大人でも子供でもがあかすことのできない現実の意外な姿があきらかになってゆくわけだ。(野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』336頁 より)



訳文によって小説空間が、ガラリと雰囲気が変わってしまうのも面白い。



(野崎孝訳)
「サリー?」と僕は言った。
「ええ、そう――そちらはどなた?」彼女はそう言った。ぜんぜんインチキなんだ。僕は彼女のおやじさんにこっちの名前を言ってあったんだもの。
「ホールデン・コールフィールドだよ。元気かい?」
「まあ、ホールデンなの! ええ、元気よ。あなたは?」
「元気だ。ところで、君、どんな具合? ――その、学校のほうだけど」
「なんともないわ。つまり――わかるでしょ?」
「よかったね。ところで、話があるんだ。君は今日忙しいかな、ってさっきから思ってたんだがね。日曜だけど、日曜だってマチネーは一つ二ついつもやってるだろう。慈善興行とかなんとかさ。どう、いっしょに行かない?」
「喜んで行くわ。ステキ」
ステキ、か。どんな言葉がきらいといって、僕はステキっていう言葉ぐらいきらいなのはないんだな。インチキなにおいがするよ。

(野崎孝訳 ライ麦畑でつかまえて 165頁 より引用)


(村上春樹訳)
「サリー?」と僕は言った。
「ええ、で、どなた?」と彼女は言った。まったく嘘くさいやつなんだよ。だって僕はお父さんが出たときにちゃんと名乗ってんだからさ。
「ホールデン・コールフィールドだよ。元気にしてる?」
「ホールデン! 私は元気よ! あなたは?」
「まずまず。で、君はどうなの? 学校なんかどんな具合?」
「うまくいってる」と彼女は言った。「なんていうか――うん」
「そりゃよかった。ねえ、今日は忙しい? 今日は日曜日だけどさ、マチネーも探せば少しはあると思うんだよ。慈善公演とかさ、そういうやつ。よかったら行ってみないか?」
「いいわね。ご機嫌」
ご機嫌ときたね。何がいやといって、こんなにいやな言葉ってないんだよな。まったくインチキくさい言葉じゃないか。

(村上春樹訳 キャッチャー・イン・ザ・ライ 180頁 より引用)


読者層も世代も二冊が違うのにも関わらず、同じ白水社から翻訳出版されていることは、作品に対する敬意伺えると思う。

posted by koinu at 07:49| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする