2019年05月04日

『けものたちは故郷をめざす』安部公房(新潮文庫)

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敗戦後、旧満州に残された少年が、正体不明の中国人と日本を目指す。『終わりし道の標べに』が故郷という鎖からの脱却を図ったのに対して、意味さえ不明な「故郷」の中に不可解な「自己の存在」を探しに行く物語。


終戦前後の満州はソ連の侵攻に、八路軍と潰走する日本軍の中で、住民達は旗色を鮮明にできず、状況に応じた生しか残されてない。

村に侵攻してきたのはソ連で、主人公・久木久三は将校アレクサンドロフに可愛いがられ、そのまま生き延びる事が妥当ではあった。彼にとっても故郷とは思い出多き村自体であった。しかし「故郷・日本」を目指して脱出する。


 昨日の中に今日があるように、今日の中に明日があり、明日の中に今日があるように、今日の中に昨日が生きている。だが戦争の結果は、そんな約束をばらばらな無関係なものに分解してしまった。久三にとって昨日と明日は、何のつながりもないものになってしまった。

 二時間経てば、此処はもう昨日とも呼べない他人の土地になってしまう。明日については何も知らない。日本について知っているのは、学校の教科書から想像しているだけだ。(富士山、日本三景、海にかこまれた、緑色の微笑の島・・・風は柔らかで、小鳥が鳴き、魚がおよいでいる・・・秋になると、林の中で、木の葉がふり、そのあとに陽がかがやいて、赤い実が色づく・・・勤勉なる大地、勤勉なる人々・・・)



  南行きの列車が出るので、貨車の中で隠れていると、結局アレクサンドロフに見つかり、彼の好意で特別旅行者証明書を発行してもらう。この証明書は見せる場所によって有利にも不利にもなる時勢。列車は南へと向う。



  連れだって旅することになった「高石塔」とは列車の中で出会うが、国籍さえ不明で、旅の課程によって名前も変わる怪しい人物。高が何故に近づいたのか、久三の持つ旅券を奪って利用するためで、もう一つは阿片を運ばせるためだ。

列車事故を演出して、仲間と山分けにするはずの阿片を高は独り占めにする。

しかし久三の旅はこの事故のために過酷なものになってしまう。零下45度の冬の満州を数百キロ、二人は延々歩きつづける。ただひたすら獣たちは、故郷を目ざし信じがたい生命力で歩きつづける。


 雪を掻き集めてきて、火の上にかけた。黒い蒸気が吹き上がり、その中に赤い色ガラスのような火の粉が泳いでみえた。脂臭いベタベタした臭気が立ち込める。冷えこんで皮を剥がれたみたいになる。アレクサンドロフの部屋を逃げだそうとして、ドアを開けたあの瞬間のを思いだす。そのドアの表には希望と書いてあり、しかし裏には絶望と書いてあったのかもしれない。ドアとはいずれそんなものなのかもしれないのだ。前から見ていれば常に希望であり、振向けばそれが絶望にかわる。そうなら振向かずに前だけを見ていよう。アレクサンドロフの部屋のことを高に話したいと思ったが、どんなふうに話したらよいか、よく分からなかった。


雪を飯盒で温めて溶かしているのは、湯をつくり、水分の補給と体を温めるためだ。夜寝ると凍死してしまうので、夜は進軍、寝るのは昼間の2時間ほど。昼間ですらマイナス25度なので、二人は交互に休み、起きている者がたき火の番をしていなければ、やはり凍死してしまう。燃やすものを見つけるのも大変で、風が強いため、ちょっと手を休めると火は消えてしまう。


心配なのは高が大変なこれらの仕事をちゃんとしてくれるかどうか。 寝る番に広げた毛布の端に横になり、毛布と一緒に転がって全身にまきつける。うまく頭は隠れたが、足のほうが出ているようで心細い。高が抑えてくれるのを感じながら、すぐに寝入ってしまった。

殴りつけられるような寒さに、驚いて目をさました。まるで氷の上に寝ているみたいだ、体が地面と同じ温度になり、鼻の頭だけを残して凍死してしまったようである。鼻だけがひどく痛んだ。それから置き去り、という考えが閃いたた。感覚のにぶった体を、死にもの狂いで動かして、やっと毛布から這い出してみると、高は消えた焚火の中に頭をつっこみ、ひろげた膝の間に前のめりになって睡りこんでいた。声をかけても揺すっても、気づかない。力一杯殴りつけると、やっと目を覚ましたが、見えるほうの目は真赤に腫れ上がり、歯をガチガチ鳴らして様子が変である。何か言いかけて、痙攣して、二回ほど黄色いものを吐いた。それでも口を右につり上げて、顔の半分で凍えた笑いを浮かべてみせた。久三はその笑いに好意を感じた。


  高は何故か人里を避けて荒野を歩く。食料もなく厳寒の地だというのに、2週間もあればつくさ、と嘘ぶいている。

高の正体が分からないので、なぜ村のある方向を目指さないか分からないが、何れにせよ二人は道に迷ってしまっている。もはや離ればなれになっては、寝る番に火を見ていてくれる人がいない。衰弱しきって役割を勤めることもままならない。


ある日、高の身に変化が起こる。

久三は、あたりの変化に驚き、まだぼんやりしている目で、高が崖から足をふみ外したのだと思った。高は崖によりかかったまま、いびきをかいていた。まだ死んではいないが、死ぬなと思った。沼の向う岸は、ゆるやかな斜面で、低い灌木の茂みがつづいている。二、三度往復して、枝を運んだ。高を寝かせて、そのそばに火をおこし、靴を脱がせて、足を暖めてやった。氷をかいて湯を沸す。飲ませてやろうとして、抱え起すと突然笑いだし、沼のほうを指さして意味のない叫ぶをする。

「アンダラ、ツォアン、チィ、ルゥルゥルゥ・・・」

 そのまま睡って、顔全体が青黒くむくんだ。見えるほうの目に、大つぶの涙がうかび、唇は白く乾いて凍傷の黒い輪ができていた。ひたいにさわってみると、びっくりするほど熱い。まちがいなく死ぬなと思い、恐ろしくなってしまった。


この後数日間その場所にとどまり、高は死ななかった。気がつくと発狂していて、大事な食料を台無しにして、強靱な生命力でまともに戻る。


荒野の行進はつづき、飢えと疲労から、歩きながらでも夢を見てしまうぎりぎりの二人、足を止めた途端に眠りに襲われ、そこを犬に狙われた。目覚めた二人と犬との格闘。犬も病気にかかっているらしく、二人が完全に弱るのを待って食いつくつもりで、すぐには飛びかかって来ない。二人は何とか犬を食おうと、残った体力を振り絞って追いかけるが、スピードでは所詮犬にはかなわない。やがて犬の方が諦めて、走り去った。 


徒労のために費やした体力を嘆く人間。二人の人間は、言葉を交せると言うだけで、荒野の中で犬とは全くの同格。犬には後悔というものがない。生きる希望の元に守り合うとき、二人は犬以上の生き物になれるが、あの時ピストルの弾を久三が無駄にしなかったらなど、後悔の元に罵り合うとき、厳寒の荒野の中で、二人は狂犬と変わらない。

生きるにはあまりにも体力がなさ過ぎて、凍える二人は抱き合って眠る。


馬車が通りかかると、乗せてもらおうと久三は有り金全部で交渉しようとすると、「三百円だ」と高は打ち消す。命のスイッチが切れてない限り、どんなに弱いときも強かであった。



 陽が沈んでから、馬車が止まった。年寄りが久三の寝息がしなくなったのを案じて、若者に注意したからである。久三の口もとに耳をよせて、まだ完全には息絶えていないのを確かめてから、若者は道ばたに火をおこして湯をわかし、二人を外に担ぎだした。揺すっても殴っても、目を覚まさない。強い酒をふくませると、やっと意識をとりもどした。冷たく凍った煎餅を火にあぶり、味噌をぬって食べさせる。ニンニクを齧らせ、熱い湯に酒をたらしてすすらせる。二人は半分眠りながら、貪り食った。いっぺんなど、久三が、間違えて自分の指を咬んでしまったほどである。


  目を覚ますと、馬車ではなく、屋根すらなくなっている廃屋の中だった。

貴重な毛布や高の鞄がなくなっている。

身ぐるみ全部剥がされてないところをみると、馬車は何か性急な事情に出会ったのではないかと高が推察する。


その向こうに土塀が見え、高が何か怪しげな交渉をしに、一人で町へ向かう。残った久三は、その廃屋で家族らしい5つのミイラを見つける。


 すぐ頭のところに、丁度陽射しに半ばかかって、石で彫り込まれた文字が読めた。



 ムネン

 ミチ ナカバニシテ

 ココニ

 ワレラ ゼンイン

 ネツビョウニテ

 タオル

 二十一ネン ナツ

 ミズウラ タケシ

 ホカ 四メイ



 久三は始め嫌な気がした、休息の邪魔をされたように思ったのだ。それから、相手が同じ日本人であるのに、そんなふうに考えるのは少し気の毒なような気もした。誰だろう?どこからやってきたのだろう。子供が混じってているところを見ると、家族かもしれないな、それとも会社かなにかの同僚だったのかな?・・・あの小さなミイラは、きっとあの女のミイラの子供にちがいない、どっちが先に死んだのだろう?・・・すると、急に、なんだかこわくなってくる・・・もしかするとこの連中も、おれたちと同じようにあの荒野を歩いてやってきて・・・そして、あの苦しみのあとで、まだ死ななければならないなんて、はたして信じることができただろうか・・・いや、そんな不公平は、絶対に信じることができなかったにちがいないのだ・・・久三はぞっとして後ずさりする。ミイラたちが彼をうらんでいるような気がしてきたのだ。



高は村で、ある将校に車の便に同乗させてもらえるよう手配してきたが、そのために久三は全財産を将校にわたすよう高にせまられてしまう。

二人は瀋陽にたどりつく。そこで又久三と高は別行動になるのだが、一切は高の計略で、高は久三から預けていた阿片と身分証明書を奪い、久三の名を語って日本行きの船に乗る。

ところが、久三の方でも、日本の将校に出会い、同じ船に乗ることに。


久三を名乗って船の客室にいる高は、本物の久三に引き合わされて嘘がばれ、囚われの身となってしまう。チョッキに隠していた阿片は没収され、船の狭い空間に足首を手錠で繋がれ、衰弱している。その高を久三は発見する。したたかな高もついに狂ってしまった。


「実はな、相談したいと思っとったんだがな・・・いいか、重大な秘密だぞ・・・おれはな、この船を買いとったんだぞ・・・しかし、実をいうとな、君も知っとるとおり、おれは重大な使命をもっておる・・・それで、こうして、身をかくしておらんとならんのでな・・・いや、わざわざ尋ねてきてくれて、ありがとう」

 薄気味わるくなってきた。思わず身を引こうとして、高の強い腕に抱きとめられた。単調に、うたうように高がつづける。「まて・・・その話というのはだな・・・誰も聞いておらんだろうな・・・実は、私は、満州共和国亡命中央政権樹立の任務をおびてきておる。・・・しかし、どうやら情勢が緊迫しておるんでな、ここでとりあえず、大統領の就任式をやろうと思っとるんだがな・・・むろん極秘だ・・・そこで、君にも、参列してもらいたいと思っとるんだが・・・分るかな・・・私は任務をおびているんでな・・・しかし、こいつは極秘でな、日本人だけに教えるんだが、私は本当は日本人なんだ。久木久三と言いましてな」


久三は焦る。高から阿片の分け前をもらうはずであったのだ。船長の部屋をひっくり返し、阿片を探していた所を捕まってしまい、暴れ回った挙げ句、ついには高と一つの手錠で結び合わされ、外から錠をおろされる。


船は日本を眼前として、沖合で何やら怪しい取引をすすめ、決して上陸することもない。日本はそこに見えているにも関わらずず、高と一緒に繋がれなけれればならないのか。


・・・ちくしょう、まるで同じところをぐるぐるまわっているみたいだな・・・いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない・・・もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな・・・おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。日本はどんどん逃げていってしまうのだ・・・

「アー、アー、アー。」と高が馬鹿のようにだらしなく笑いだした・・・そうだな、もしかすると、おれははじめから道をまちがえていたのかもしれないな・・・「戦争だぞ、アー、アー、戦争だぞ、アー。私は主席大統領なんだぞ、アー。」・・・きっとおれは、出発したときから、反対にむかって歩きだしてしまっていたのだろう・・・たぶんそのせいで、まだこんなふうにして、荒野の中を迷いつづけていなければならないのだ・・・

 だが突然、彼はこぶしを振りかざし、そのベンガラ色の鉄肌を打ちはじめる・・・けものになって、吠えながら、手の皮がむけて血がにじむのにもかまわずに、根かぎり打ちすえる。




 (大日本雄弁会講談社1957年 ) 

満洲を舞台にした唯一の長篇小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れたものであり、のちに安部はエッセイ「一寸先は闇」に私小説を書かない理由を記している。

映画『けものたちは故郷をめざす』(脚色:恩地日出夫。恩地氏のシナリオは、『映画評論』1965年8月号掲載。)


『けものたちは故郷をめざす』安部公房(新潮文庫)

第一章 錆びた線路
第二章 旗
第三章 罠
第四章 扉
解説 磯田光一

https://www.shinchosha.co.jp/sp/book/112103/


posted by koinu at 23:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする