2019年05月02日

世界樹が枝を伸ばしている

「世界樹といわれる巨樹は天地の中央にあり、傘を広げたよう枝を伸ばしている。そうして、太陽はこの傘に沿って昇ってゆき、また降ってゆくことになる。」中西進「日本の文化構造」(岩波書店)より


宇宙は太陽の運行する傘によって三分されている。その傘の部分を太陽圏とすれば、大気圏と太陽圏と太陽圏外宇宙となる。


DA99F77F-3B02-4216-AC9A-4EC5529F2A66.jpeg


『「三界図に云う。其の天の中心、皆崑崙有り。又の名須弥山なり。其の山高潤にして四方を傍障す。日月、山をめぐりて互いに昼夜をなす。」とあって、須弥山は崑論山の別名と意識されていた。』

「雲笈七籤」巻21より

道教が認識していた宇宙の構造。中国伝説で東方の果てにある巨木、扶木・ 扶桑木・扶桑樹とも言われた。


須弥山石はそんな表象であろうか。こういう認識は道教独特のものであろう。


老子の言う道とは、宇宙の原理のことであり、人間は宇宙の原理にしたがって生きていくことが大事なのである。だから、道教では、宇宙の原理について思索を重ねるとともに、天の構造についても以上のような考えを持っていたようだ。須弥山式庭園も宇宙を意識した空間であるが、斉明天皇の作った明日香の庭園も宇宙を意識した空間であったのである。先に述べたように、その庭園で化外の民をもてなすとともに、その庭を身近におくことは自らを神仙に仮託しようとした斉明天皇にとって特別の意味があったのである。


斉明天皇は、明日香の「石神の庭」で化外の民、蝦夷や異国の人たちをもてなしたらしい。「石神の庭」とは、飛鳥の石神遺跡の庭園遺構のことで、昭和50年代に奈良国立文化財研究所が発掘調査によって確認したものである。


斉明天皇は、新羅と唐の連合軍と白村江の戦いを戦って大敗を喫した。「日出(い)ずる処(ところ)の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無(つつがな)きや」という国書を隋に届けた大和朝廷としては、大ショックであったに違いない。そこで斉明天皇としては、自らが太く神仙と繋がっていることを示すために両槻宮を建立する必要があったし、蝦夷や異国の人たちに大和朝廷が異国の文化をも取り入れた大国であることを示すために「石神の庭」を作る必要があった。私はそう考える。「石神の庭」の造築に当たっては、わが国伝統文化を駆使するのは当然として、中国伝来の文化をも駆使した。総力を挙げたということである。中国伝来の文化の中に道教文化と祆教(ゾロアスター教)文化があった。したがって、石神の庭には築山と池の他に、中国伝来のさまざまな石造が作られた。須弥山石と石人像は道教のものだが、その他の石造については、中国伝来のものであろうが詳細はよく判らない。須弥山石と石人像は明らかに道教のものであるが、噴水の仕掛けの部分については、どうも祆教(ゾロアスター教)文化の技術によるものらしい。松本清張は、祆教(ゾロアスター教)の影響を重視しているが、それはその通りだとしても、須弥山石と石人像は明らかに道教のものである。「石神の庭」は正に国際感覚に満ちた庭だったのである。

なお、松本清張は、「石神の庭」は未完成に終わり、多武峯の両槻宮も完成しなかったと見ているが、それは如何なものであろうか。私は、やはり、完全に完成したものかどうかは別として、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)で述べられているとおり、多武峯の両槻宮はそれなりに建立されたと考えている。


上述したように、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では、『 ところでこの山形石を崑崙山と解することを一つの選択肢とするならば、同時に出土した石人像は、仙像である可能性が高い。それは道教の神・東王父と西王母ではないだろうか。「水経注」のその崑崙の記述の中にも 東王父と西王母は「陰陽相須ふ」とあり、陰陽相和したペアを大事なモチーフにするのは、これもまた道教の大きな特徴だからである。』と述べているが、この点が道教の心髄をついたもっとも大事な点である。

中西進「日本の文化構造」より

posted by koinu at 09:15| 東京 ☀| 観測 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする