2019年04月24日

荘子『占い師が逃げ去る』

鄭有神巫曰季咸、知人之生死存亡、禍福壽夭、期以歳月旬日、若神。鄭人見之、皆棄而走。列子見之而心醉、歸以告壺子。曰「始吾以夫子之道為至矣、則又有至焉者矣。」壺子曰「吾與汝既其文、未既其實、而固得道與?衆雌而無雄、而又奚卵焉。而以道與世亢必信、夫故使人得而相女。嘗試與來、以予示之。」明日、列子與之見壺子。(『荘子』応帝王 第七)

人の生き死に幸運不運や寿命を、何年何月何日まで言い当てる、神のような占い師がいた。鄭の人はそんな占い師の前では、何でも見透かされると裸足で逃げ出すという。列子は占い師に心酔してしまい、師匠の壷子に告げた。「先生に道について学んできましたが、その先の教えに占い師を見て知りました。」


師匠は語る「お前に道(TAO)について教えたが、そこから会得したつもりか? どれだけ雌鶏がいても雄鶏がいなければ、卵は孵らない。道を学ぶのが分かってないから、占い師ごときに心を見破られている。試しにその占い師を呼んで来い。」


明日、又與之見壺子。立未定、自失而走。壺子曰「追之!」列子追之不及、反以報壺子「已滅矣、已失矣、吾弗及也。」壺子曰「郷吾示之以未始出吾宗。吾與之虚而委蛇,不知其誰何、因以為弟靡、因以為波流、故逃也。」然後列子自以為未始學而歸、三年不出。為其妻爨、食豚如食人。於事無與親、彫琢復朴、塊然獨以其形立。紛而封哉、一以是終。


人の禍福や寿命を見抜いて、年月日もいいあてる占い師・季咸に心酔した列子を、翌日、師匠の壺子のもとに連れくることとなる。


季咸は「貴方の先生は間もなく死ぬ。生気のない湿った灰の相がある。」と告げる。涙ながらに語る列子に、壺子は「大地のかたちの相を見せてやった。もう一度連れてこい。」という。


再び壺子を見た季咸は「貴方の先生は私に会って回復した。十分に生気が漲っている。」と告げた。列子が壺子に伝えると「天地開闢の相をみせてやったのだ。もう一度連れてこい。」という。


翌日に季咸は「先生は人相が一定しない。私にはとても占うことができない」と語った。この事を伝えると「虚無の相を見せてやったんだ。試しにもう一度連れてこい。」と壺子と答えた。


季咸は壺子に会うと、訳が分からなくなって逃げた。壺子は「あいつにわしの本質そのものの相を見せた。自分を虚しくして周囲のままに従い、相手が何者かも考えず、ただそのままに漂った。だからあれは逃げ出したのだ。」と内情を明かす。


未熟さを悟った列子は、三年間家に引き篭もって妻のために炊事をしたり、豚を人と同じように養ったりして過ごした。物事に区別や愛憎を抱かなくなり、無心の土塊ごとく素朴さに帰って、混沌とした有様で生涯を終えたという。



【参考文献】岸 陽子『中国の思想・荘子』(徳間書店)


莊子曰「以魯國而儒者一人耳、可謂多乎?」(「荘子」田子方第二十一)

TAOと占い師の教えは違うと、荘子は思想を示した。この世に絶対者もなく、「易経」世界観から、未来を予知する愚かさを解いた。どの時点で運命に左右されなくなるのか、何も意識しない状態から学ぶ。『荘子』は「完成と破壊があるのは、昭氏が琴を弾いた場合で、完成と破壊がないのは、昭氏が琴を弾かない場合である」という。



岸陽子「中国の思想・荘子」改題
「荘子は、自然を損なうものとして、人為を否定した。人為の観点からすれば無用なものほど、実は貴いのであるという価値の転換が、ここに成立する。
無用であればあるほど、人為とのかかわりが薄れる。つまりその自然が保たれる。人間が何者の道具にもならず、自己のために生きてこそ、天寿を全うできると説くのである。『無用の用』という逆説でしか表現しえない価値こそ真の価値なのだ」


「生きるために心身を労して外物と争い、それによって心身をすりへらし滅ぼしてゆく、この動かしがたい矛盾は、なんら解明されていないのである。
その人生の不可解さを、人々はどう解釈するのであろうか」


「太古の人こそ、最高の知の所有者だったといえるのではなかろうか。
なぜならば、かれらは自然そのままの存在であり、かれらの意識は、主客未分化の、いわば混沌状態だったと考えられるからである。この混沌こそ、もっと望ましいありかたなのである」


posted by koinu at 10:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする