二次世界大戦後の先進国では、だれもが毎日、大量生産の製品に囲まれ、それらを消費し、テレビや雑誌でその広告にさらされる生活を送っている。Pop art(ポップアート)の運動の中には、これら下世話な製品やサブカルチャー、生活様式を批判する意図をこめたものもあれば、むしろ自分達を取り巻く大量生産・大量消費社会の風景を、山や海や農村にかわる新しい「風景」ととらえ、親しみ深い風景の一部である商品や広告を、淡々とあるいは美しく「風景画」に描こうとするものもあった。
最初にポップアートが盛んになったのはイギリス(特にロンドン)であった。エドゥアルド・パオロッツイは戦後間もなく、米軍兵士らと共に持ち込まれたアメリカの雑誌の切り抜きでコラージュを作り、すでにポップアートの始まりとなる作品を作っていた。
1952年から、ロンドンのICAというギャラリーで、パオロッツイら若い美術家やローレンス・アロウェイなど評論家が集まり、「インディペンデント・グループ」というグループを組んで芸術と大衆文化のかかわりの研究を続けていた。これには、第二次世界大戦後の疲弊したイギリスに豊かなアメリカから急速に浸透し、若者を夢中にさせていた広告やSFや漫画や大衆音楽などのアメリカ大衆文化に対する皮肉で客観的な目もあった。しかし、これらを敵とするよりは、むしろ現代を見直す新しい素材を提供するものとしてどんどん活用しようという発想もあった。「Pop art」という言葉の誕生は、この研究のさなか、ローレンス・アロウェイが1956年に商業デザインなどを指して「ポピュラーなアート」という意味で使用したときである。
同年、この成果を元にロンドンで『これが明日だ』展が開催された。ここで発表されたリチャード・ハミルトンの作品『一体なにが今日の家庭をこれほどまでに変化させ、魅力的にしているか』は、雑誌や広告の魅力的な商品やゴージャスなモデル写真を切り貼りしたコラージュで、ポップアートの先駆的作品といわれている。特にボディビルダーの男性が持つロリポップキャンディーの包み紙の「POP」の文字が強い印象を与えた。
ハミルトンは翌年、この展覧会を振り返って「ポップ」(大衆文化)を次のようなものだとした。
「通俗的、一過性、消耗品、安価、大量、若々しい、しゃれた、セクシー、見掛け倒し、魅力的、大企業」
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イギリスのポップアートは1961年、デイヴィッド・ホックニーら多くの若い美術家が出展した『ヤング・コンテンポラリーズ』展で全盛を迎えた。
ニューヨークでは1950年代以来ジャクソン・ポロックらに代表される抽象表現主義が全盛を極めており、人間より大きなキャンバスに色彩を展開させ、始めも終わりもない抽象的な色面で全面を覆うオールオーバーな絵画が主流を占めていた。批評家クレメント・グリーンバーグらに主導され、より平面的で、より壮大で崇高な絵画を目指した彼ら抽象表現主義の人々は、モダニズムを信奉する立場であり、「グッド・デザイン」を規範とし、大衆文化を芸術の前進する方向とは逆らう「キッチュ」(ドイツ語の"verkitschen" 「低俗化する」が語源)として退けていた。
これに対し、1950年代末にロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズらが、廃物や既製品のがらくたなど現実から持ってきた物体を絵に貼り付けたり、標的や数字や星条旗の図柄などおよそ絵にはならないありふれたイメージを描き始め、モダニズムの好む「グッド・デザイン」に反するような行動を始めた。彼らのようなアメリカのポップアートの作家は、しばらくの間は「ネオダダ」とも呼ばれていた。ポップアートにはその辺にある既製品をそのまま使用して芸術とするレディメイドの手法など、ダダイズムや反芸術が強く影響していたからである。既製品や既成のイメージを使った彼らネオダダは、抽象表現主義に取り組んでいたアーティストや抽象表現主義に飽き始めていた観客らに衝撃を与えた。
ポップアートは映画や漫画などの大衆文化同様に、観客の心を一瞬で掴む強い魅力的なイメージを持っているのでわかりやすく、しかもアメリカの大量生産品や大衆文化をテーマにしているため、アメリカの豊かさを賛美する魅力的な芸術のように見えた。逆にここからアメリカの大量生産品や大衆文化の貧相さ、悪趣味さや、商品を大量に消費しどんなに豊かになってもなお逃げられない死の影を見出す者もいた。
また、ウォーホルとリキテンスタインらポップアートの作家たちは大衆絵画としても成功した。大衆文化の多くはマーケティングにより顧客を調査し、大量に販売し、大量に使い捨て忘れ去られることが常だったが、大衆(特に若者)の側もマーケティングによる工業製品的なイラストレーションばかりでなく、多少いびつでもアーティストと呼べる者が作った個性的な作品による知的刺激や現状への異議申し立てを求めていた。ポップアートも商品やメディアに囲まれて育った世代の若者の原風景であるスターや商品を魅力的に描いて若者に刺激を与え、その版画作品は熱狂的に受け入れられた。
ポップアートの熱狂は1960年代末になると、クールで静謐なミニマルアートや大地いっぱいに作品をつくり売買を拒否するようなアースワークに押され、美術の世界から急速に冷める。大衆文化も、異議申し立てを行う若者向けのカウンターカルチャーは再び巨大産業の消費システムに取り込まれ、その先はフォークロア、ヒッピー、ドラッグという現実逃避の方向に流れた。ポップアートの末期は、ドラッグによる幻覚を表現したピーター・マックスらのサイケデリックアートへと変質し、美術作品というより商業デザインとして使われ、それゆえ消費され今日ではほとんど忘れ去られてしまった。
むしろ、広告美術がポップアートを継承したとも言える。特に、ポップアートが示した、商品や大衆文化のイコンをもとに大衆の求める刺激的な作品を作るという発想は、広告美術を単に大衆に迎合し商品の情報を提供して消費をあおるだけのものから、商品を記号化し新しいヴィジュアルイメージを構築し、大衆の視覚文化をリードするものに変えた。広告には優れた写真家やイラストレーター、美術家が起用され、個性的な純粋芸術の要素を取り入れたより新鮮で洗練された広告美術が登場し、大衆文化の一部としてうけいれられた。ここにおいて、ポップアートが突き崩した純粋芸術と大衆文化の間の壁はますます崩れてゆくこととなる。
その後も今日に至るまで、商品や広告のイメージは洗練される一方、広告による大量消費の呼びかけは日常生活を完全に侵食してしまっている。純粋芸術と大衆文化の間の壁がますます失われるにつれ、大衆的なイメージや大量生産商品を用いた美術はすでに当たり前のようになっている。
たとえば1980年代のニューヨークで大衆文化からの盗用を積極的に推し進めたシミュレーショニズムは、純粋芸術の崩壊と資本主義の高度化に対してポップアートをさらに過激にしたようなものだった。またソ連時代の1960年代からロシアでひそかに制作されていた、ありふれた公式美術の社会主義リアリズムを流用しながらソ連体制やロシア社会を批判した作品群は、ソ連末期以後公開されるようになり、ポップアートをもじって「ソッツ・アート」とよばれていた。日本でも1960年代以降、大衆的なイメージを流用した作品はネオ・ダダや反芸術の影響下、多くの美術家によって制作され、今日でもたとえば村上隆は1990年代初頭にはシミュレーショニズムに影響された作品を作っており、やがて江戸期の日本絵画などの伝統のもとにアニメのイメージを流用した作品を1990年代半ば以来制作している。アニメや特撮など日本の大衆的イメージを流用した作家たちは一時「ネオポップ」や「トーキョーポップ」などと呼ばれていたことがあった。

