2008年12月28日
黄金に染まる湖、ドイツ
ドイツ連邦共和国 (Wikipedia)
ドイツの地形図ドイツの地形は北から南へ、大きく5つの地域に分けられる。北ドイツ低地、中部山岳地帯、南西ドイツ中部山岳階段状地域、南ドイツアルプス前縁地帯、バイエルン・アルプスである。
北ドイツ低地は全体的に標高100m以下の平坦な地域で、エルベ川などの川沿いにはリューネブルクハイデと呼ばれる大きな丘陵地がある。バルト海沿岸は平坦な砂浜や、断崖をなす岩石海岸となっている。中部山岳地帯は、おおよそ北はハノーファーの辺りから南はマイン川におよぶ地域で、ドイツの西部と中部に広がり、ドイツを南北に分けている。地形的に峡谷や低い山々、盆地など変化にとんでおり、山地としては西部のアイフェル丘陵とフンスリュック山地、中央部のハルツ山地、東部のエルツ山脈がある。南西ドイツ中部山岳階段状地域にはオーデンヴァルトや、ドイツ語で「黒い森」を意味するシュヴァルツヴァルトの標高1000mを超える広大な森林がある。アルプスはドイツ国内ではもっとも標高が高い地域で、南部の丘陵や大きな湖の多いシュヴァーベン=バイルン高原に加えて、広大な堆石平野とウンターバイエルン丘陵地、そしてドナウ低地を包括している。ここにはアルプスの山々に囲まれた絵のように美しい数々の湖や観光地があり、オーストリアとの国境地帯にはドイツの最高峰ツークシュピッツェがそびえ立つ。
ドイツにおける火山活動は先カンブリア代に収束している。先カンブリア代末から始まったカレドニア変動や、後期古生代におこったバリスカン(ヘルシニアン)変動はいずれも主要活動帯がドイツを横切っているものの、地表には痕跡が残っていない。バリスカン変動は2000kmにおよぶ規模の大陸間の変動であった。現在のドイツの地形を決定したのは新生代における褶曲運動である。アルプス変動帯の活動により、最南部は標高1200mにいたるまで隆起した。ドイツにおけるアルプス変動帯は東アルプスと呼ばれている。同時に西部フランス国境に近いライン川に相当する位置に、ライン地溝を形成する。ライン地溝は、約500kmに渡って南北に伸びる。
ドイツ北部(北ヨーロッパ平野)の地表は氷河地形の典型例である。最終氷期においては北緯51度線に至るまで氷河が発達し、ヨーロッパを横切る数千km規模の末端堆石堤を残した。その100から200kmの海岸線方面にはモレーンが残る。末端堆石堤とモレーンの北側にそっていずれも氷食性のレスが堆積し、農業に適した肥沃な土壌が広がる。いっぽう、モレーンの南側は土地が痩せている。ドイツに残る長大な河川はいずれも最終氷期の河川に由来するが、ポーランドのヴィスワ川、ポーランド国境に伸びるオーデル川、エルベ川、ドイツ西部のヴェーザー川が互いに連結し、網目状の流路を形成するなど、現在とは異なる水系が広がっていた。
[日本との関係]
来日した最初のドイツ人の一人に、江戸時代に徳川綱吉とも会見した博物学者エンゲルベルト・ケンペルがいる。ケンペルが著した浩瀚(こうかん)な『日本誌』は詳細な紀行文にして博物誌でありゲーテも愛読した。その後来日して西洋医学を伝えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもドイツ人であり、明治以降も日本は盛んにドイツから医学を学んだ。
直接の外交は、幕末のプロイセンの軍艦の品川沖への来航に始まり、アメリカ合衆国のペリーのように武力で外交を開こうとした。このため、明治期の日独関係は、不平等条約で結ばれていた。しかし、後述のように文化面では重要な国となった。
明治時代初期の日本ではドイツ文化全般が非常に熱心に学ばれ、近代化の過程に特に深い影響を与え、日本の近代化は、「ドイツ的近代化」であるともいわれる。伊藤博文は大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学の憲法学者グナイストとウィーン大学のシュタインに師事し、歴史法学を研究している。 当時の東京帝國大学がヨーロッパから招聘した教員にはドイツ人が多く、明治9年エルヴィン・フォン・ベルツが来日したのをはじめ、哲学では夏目漱石もその教えを受けて「ケーベル博士」と親しまれたラファエル・フォン・ケーベル、化学ではゴットフリード・ワグネルなどがいる。
工学においては、大久保利通の命を受けた井上省三がザガン市のカール・ウルブリヒト工場で紡績の生産技術を学び、日本に伝えている。その知識は現代の日本の製造業の礎となった。軍事においても陸軍は普仏戦争後、軍制をフランスからプロイセンへと変え、その制度と理論による近代化に努め、日露戦争の勝利に繋がった。
日清戦争後にはロシア、フランスとともに日本に対し三国干渉を行った。さらに第一次世界大戦が勃発すると日本が日英同盟により連合国側に与したため、ついにドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国など中央同盟国側とは山東半島やミクロネシア、地中海などで戦火を交えるに至った(参照、第一次世界大戦下の日本)。また、日中戦争では蒋介石政権に最新の兵器と軍事顧問団を送り込み日本軍を苦しめた。このように、明治期〜昭和戦前期の日独関係は必ずしも友好一辺倒であったとはいえない。しかし日本とドイツが英米と対立して互いに孤立を深めると、両国は急速に接近して日独伊三国軍事同盟へと発展し、第二次世界大戦では同盟国として共に戦うこととなった。
また、文化面では、第一次世界大戦期においてすら、捕虜収容所において人道的に扱われたドイツ軍捕虜を通じてゴム製品や洋菓子などの生産のノウハウが日本に導入されたり、クラシック音楽・ドイツ体操などが捕虜収容所周辺地域に伝授されるなどの文化交流があったことも重要といえる。
戦後も特に技術・経済面での交流は活発で、日本にとってヨーロッパ最大の貿易相手国となっている。特にドイツの自動車は日本でも高い人気があり、日本の輸入車の販売数上位3つはフォルクスワーゲン、メルセデス・ベンツ、BMWが占めている。文化面では明治期ほどの影響力を持たなくなったものの、クラシック音楽ではバッハやベートーヴェンをはじめとするドイツ(およびオーストリア)の作曲家の楽曲が愛好されている。
1999年1月から2000年9月までは「ドイツにおける日本年」と定められて日本が総合的に紹介され、また2005年と2006年には「日本におけるドイツ年」の諸企画が行われ、新しい形の日独交流が形成されている。
(Wikipedia)


