※女(うねめ)の袖(そで)吹(ふ)きかへす明日香風(あすかかぜ)都(みやこ)を遠(とほ)みいたづらに吹く 〔巻一・五一〕 志貴皇子
明日香(あすか)(飛鳥)の京から藤原(ふじわら)の京に遷(うつ)られた後、明日香のさびれたのを悲しんで、志貴皇子(しきのみこ)の詠まれた御歌である。遷都は持統八年十二月であるから、それ以後の御作だということになる。※女(うねめ)[#「女+釆」、上-44-13](采女)は諸国から身分も好く(郡の少領以上)容貌も端正な妙齢女を選抜して宮中に仕えしめたものである。駿河※[#「女+釆」、上-44-14]女(巻四)駿河采女(巻八)の如く両方に書いている。
一首は、明日香に来て見れば、既に都も遠くに遷(うつ)り、都であるなら美しい采女等の袖をも飜(ひるがえ)す明日香風も、今は空しく吹いている、というぐらいに取ればいい。
「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、泊瀬(はつせ)風、佐保(さほ)風、伊香保(いかほ)風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。今は京址となって寂(さび)れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然にこうなったものであろう。采女の事などを主にするから甘(あま)くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは楽(らく)に解釈して好い。
初句は旧訓タヲヤメノ。拾穂抄タハレメノ。僻案抄ミヤヒメノ。考タワヤメノ。古義ヲトメノ等の訓がある。古鈔本中元暦(げんりゃく)校本に朱書で或ウネメノとあるに従って訓んだが、なおオホヤメノ(神)タオヤメノ(文)の訓もあるから、旧訓或は考の訓によって味うことも出来る。つまり、「采女(ウネメ)は官女の称なるを義を以てタヲヤメに借りたるなり」(美夫君志)という説を全然否定しないのである。いずれにしても初句の四音ウネメノは稍不安であるから、どうしてもウネメと訓まねばならぬなら、或はウネメラノとラを入れてはどうか知らん。
引馬野(ひくまぬ)ににほふ榛原(はりはら)いり乱(みだ)り衣(ころも)にほはせ旅(たび)のしるしに 〔巻一・五七〕 長奥麿
大宝二年(文武)に太上天皇(おおきすめらみこと)(持統)が参河(みかわ)に行幸せられたとき、長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)(伝不詳)の詠んだ歌である。引馬野は遠江敷智(ふち)郡(今浜名郡)浜松附近の野で、三方原(みかたがはら)の南寄に曳馬(ひくま)村があるから、其辺だろうと解釈して来たが、近時三河宝飯(ほい)郡御津(みと)町附近だろうという説(今泉忠男氏、久松潜一氏)が有力となった。「榛原(はりはら)」は萩原(はぎはら)だと解せられている。
一首の意は、引馬野に咲きにおうて居る榛原(萩原)のなかに入って逍遙しつつ、此処まで旅し来った記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、というのであろう。
右の如くに解して、「草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける芽子(はぎ)かも」(巻八・一五三二)の歌の如く、衣に薫染せしめる事としたのであるが、続日本紀(しょくにほんぎ)に拠(よ)るに行幸は十月十日(陽暦十一月八日)から十一月二十五日(陽暦十二月二十二日)にかけてであるから、大方の萩の花は散ってしまっている。ここで、「榛原」は萩でなしに、榛(はん)の木原で、その実を煎(せん)じて黒染(黄染)にする、その事を「衣にほはせ」というのだとする説が起って、目下その説が有力のようであるが、榛の実の黒染のことだとすると、「入りみだり衣にほはせ」という句にふさわしくない。そこで若し榛原は萩原で、其頃萩の花が既に過ぎてしまったとすると、萩の花でなくて萩の黄葉(もみじ)であるのかも知れない。(土屋文明氏も、萩の花ならそれでもよいが、榛の黄葉、乃至は雑木の黄葉であるかも知れぬと云っている。)萩の黄葉は極めて鮮かに美しいものだから、その美しい黄葉の中に入り浸って衣を薫染せしめる気持だとも解釈し得るのである。つまり実際に摺染(すりぞめ)せずに薫染するような気持と解するのである。また、榛は新撰字鏡(しんせんじきょう)に、叢生曰レ榛とあるから、灌木の藪をいうことで、それならばやはり黄葉(もみじ)の心持である。いずれにしても、榛(はん)の木ならば、「にほふはりはら」という気持ではない。この「にほふ」につき、必ずしも花でなくともいいという説は既に荷田春満(かだのあずままろ)が云っている。「にほふといふこと、〔葉〕花にかぎりていふにあらず、色をいふ詞なれば、花過ても匂ふ萩原といふべし」(僻案抄)。
そして榛の実の黒染説は、続日本紀の十月十一月という記事があるために可能なので、この記事さへ顧慮しないならば、萩の花として素直に鑑賞の出来る歌なのである。また続日本紀の記載も絶対的だともいえないことがあるかも知れない。そういうことは少し我儘(わがまま)過ぎる解釈であろうが、差し当ってはそういう我儘をも許容し得るのである。
さて、そうして置いて、萩の花を以て衣を薫染せしめることに定めてしまえば、此の歌の自然で且つ透明とも謂うべき快い声調に接することが出来、一首の中に「にほふ」、「にほはせ」があっても、邪魔を感ぜずに受納(うけい)れることも出来るのである。次に近時、「乱」字を四段の自動詞に活用せしめた例が万葉に無いとして「入り乱れ」と訓んだ説(沢瀉氏)があるが、既に「みだりに」という副詞がある以上、四段の自動詞として認容していいとおもったのである。且つ、「いりみだり」の方が響としてはよいのである。
次に、この歌は引馬野にいて詠んだものだろうと思うのに、京に残っていて供奉の人を送った作とする説(武田氏)がある。即ち、武田博士は、「作者はこの御幸には留守をしてゐたので、御供に行く人に与へた作である。多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準備時代の作であらう。御幸先の秋の景色を想像してゐる。よい作である。作者がお供をして詠んだとなす説はいけない」(総釈)と云うが、これは陰暦十月十日以後に萩が無いということを前提とした想像説である。そして、真淵(まぶち)の如きも、「又思ふに、幸の時は、近き国の民をめし課(オフス)る事紀にも見ゆ、然れば前(さき)だちて八九月の比(ころ)より遠江へもいたれる官人此野を過る時よみしも知がたし」(考)という想像説を既に作っているのである。共に、同じく想像説ならば、真淵の想像説の方が、歌を味ううえでは適切である。この歌はどうしても属目の感じで、想像の歌ではなかろうと思うからである。私(ひそ)かにおもうに、此歌はやはり行幸に供奉して三河の現地で詠んだ歌であろう。そして少くも其年は萩がいまだ咲いていたのであろう。気温の事は現在を以て当時の事を軽々に論断出来ないので、即ち僻案抄に、「なべては十月には花も過葉もかれにつゝ(く?)萩の、此引馬野には花も残り葉もうるはしくてにほふが故に、かくよめりと見るとも難有(なんある)べからず。草木は気運により、例にたがひ、土地により、遅速有こと常のことなり」とあり、考にも、「此幸は十月なれど遠江はよに暖かにて十月に此花にほふとしも多かり」とあるとおりであろう。私は、昭和十年十一月すえに伊香保温泉で木萩の咲いて居るのを見た。其の時伊香保の山には既に雪が降っていた。また大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はそう寒くなかったのかも知れないのである。
また、「古にありけむ人のもとめつつ衣に摺りけむ真野の榛原」(巻七・一一六六)、「白菅の真野の榛原心ゆもおもはぬ吾し衣(ころも)に摺(す)りつ」(同・一三五四)、「住吉の岸野の榛に染(にほ)ふれど染(にほ)はぬ我やにほひて居らむ」(巻十六・三八〇一)、「思ふ子が衣摺らむに匂ひこせ島の榛原秋立たずとも」(巻十・一九六五)等の、衣摺るは、萩花の摺染(すりぞめ)ならば直ぐに出来るが、ハンの実を煎じて黒染にするのならば、さう簡単には出来ない。もっとも、攷證では、「この榛摺は木の皮をもてすれるなるべし」とあるが、これでも技術的で、この歌にふさわしくない。そこでこの二首の「榛」はハギの花であって、ハンの実でないとおもうのである。なお、「引き攀(よ)ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入(こき)れつ染(し)まば染(し)むとも」(巻八・一六四四)、「藤浪の花なつかしみ、引よぢて袖に扱入(こき)れつ、染(し)まば染(し)むとも」(巻十九・四一九二)等も、薫染の趣で、必ずしも摺染めにすることではない。つまり「衣にほはせ」の気持である。なお、榛はハギかハンかという問題で、「いざ子ども大和へはやく白菅の真野の榛原手折りてゆかむ」(巻三・二八〇)の中の、「手折りてゆかむ」はハギには適当だが、ハンには不適当である。その次の歌、「白菅の真野の榛原ゆくさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」(同・二八一)もやはりハギの気持である。以上を綜合(そうごう)して、「引馬野ににほふ榛原」も萩の花で、現地にのぞんでの歌と結論したのであった。以上は結果から見れば皆新しい説を排して旧(ふる)い説に従ったこととなる。
いづくにか船泊(ふなはて)すらむ安礼(あれ)の埼(さき)こぎ回(た)み行(ゆ)きし棚無(たなな)し小舟(をぶね) 〔巻一・五八〕 高市黒人
これは高市黒人(たけちのくろひと)の作である。黒人の伝は審(つまびらか)でないが、持統文武両朝に仕えたから、大体柿本人麿と同時代である。「船泊(ふなはて)」は此処では名詞にして使っている。「安礼の埼」は参河(みかわ)国の埼であろうが現在の何処(どこ)にあたるか未だ審でない。(新居(あらい)崎だろうという説もあり、また近時、今泉氏、ついで久松氏は御津(みと)附近の岬だろうと考証した。)「棚無し小舟」は、舟の左右の舷(げん)に渡した旁板(わきいた)()を舟棚(ふなたな)というから、その舟棚の無い小さい舟をいう。
一首の意は、今、参河の安礼(あれ)の埼(さき)のところを漕(こ)ぎめぐって行った、あの舟棚(ふなたな)の無い小さい舟は、いったい何処に泊(とま)るのか知らん、というのである。
この歌は旅中の歌だから、他の旅の歌同様、寂しい気持と、家郷(妻)をおもう気持と相纏(あいまつわ)っているのであるが、この歌は客観的な写生をおろそかにしていない。そして、安礼の埼といい、棚無し小舟といい、きちんと出すものは出して、そして、「何処にか船泊すらむ」と感慨を漏らしているところにその特色がある。歌調は人麿ほど大きくなく、「すらむ」などといっても、人麿のものほど流動的ではない。結句の、「棚無し小舟」の如き、四三調の名詞止めのあたりは、すっきりと緊縮させる手法である。
いざ子(こ)どもはやく日本(やまと)へ大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜松(はままつ)待(ま)ち恋(こ)ひぬらむ 〔巻一・六三〕 山上憶良
山上憶良(やまのうえのおくら)が大唐(もろこし)にいたとき、本郷(ふるさと)(日本)を憶って作った歌である。憶良は文武天皇の大宝元年、遣唐大使粟田真人(あわたのまひと)に少録として従い入唐し、慶雲元年秋七月に帰朝したから、この歌は帰りの出帆近いころに作ったもののようである。「大伴」は難波の辺一帯の地域の名で、もと大伴氏の領地であったからであろう。「大伴の高師の浜の松が根を」(巻一・六六)とあるのも、大伴の地にある高師の浜というのである。「御津」は難波の湊(みなと)のことである。そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。
一首の意は、さあ皆のものどもよ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の浜のあの松原も、吾々を待ちこがれているだろうから、というのである。やはり憶良の歌に、「大伴の御津の松原かき掃きて吾(われ)立ち待たむ早帰りませ」(巻五・八九五)があり、なお、「朝なぎに真楫(まかぢ)榜(こ)ぎ出て見つつ来し御津の松原浪越しに見ゆ」(巻七・一一八五)があるから、大きい松原のあったことが分かる。
「いざ子ども」は、部下や年少の者等に対して親しんでいう言葉で、既に古事記応神巻に、「いざ児ども野蒜(ぬびる)つみに蒜(ひる)つみに」とあるし、万葉の、「いざ子ども大和へ早く白菅の真野(まぬ)の榛原(はりはら)手折りて行かむ」(巻三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行している。「白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競(きほ)ひて萩の遊びせむ」(巻十・二一七三)もまたそうである。「いざ児ども香椎(かしひ)の潟(かた)に白妙の袖さへぬれて朝菜採(つ)みてむ」(巻六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れている。つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。
この歌は、環境が唐の国であるから、自然にその気持も一首に反映し、そういう点で規模の大きい歌だと謂うべきである。下の句の歌調は稍弛(たる)んで弱いのが欠点で、これは他のところでも一言触れて置いたごとく、憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。一首としてはもう一歩緊密な度合の声調を要求しているのである。後年、天平八年の遣新羅国使等の作ったものの中に、「ぬばたまの夜明(よあか)しも船は榜(こ)ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(巻十五・三七二一)、「大伴の御津の泊(とまり)に船泊(は)てて立田の山を何時か越え往(い)かむ」(同・三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。なお、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌に、「ひさかたの天の露霜置きにけり宅(いへ)なる人も待ち恋ひぬらむ」(巻四・六五一)というのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。斯くの如く憶良の歌は当時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢学者であったのみならず、歌の方でもその学者であったからだとおもうが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した声調となったためとも解釈することが出来る。即ち憶良のこの歌の如きは、細かい顫動(せんどう)が足りない、而してたるんでいるところのあるものである。
葦(あし)べ行く鴨の羽(は)がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 〔巻一・六四〕 志貴皇子
文武天皇が慶雲三年(九月二十五日から十月十二日まで)難波(なにわ)宮に行幸あらせられたとき志貴皇子(しきのみこ)(天智天皇の第四皇子、霊亀二年薨)の詠まれた御歌である。難波宮のあったところは現在明かでない。
大意。難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の翼(はね)に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもい出されてならない。鴨でも共寝をするのにという意も含まれている。
「葦べ行く鴨」という句は、葦べを飛びわたる字面であるが、一般に葦べに住む鴨の意としてもかまわぬだろう。「葦べゆく鴨の羽音のおとのみに」(巻十二・三〇九〇)、「葦べ行く雁の翅(つばさ)を見るごとに」(巻十三・三三四五)、「鴨すらも己(おの)が妻どちあさりして」(巻十二・三〇九一)等の例があり、参考とするに足る。
志貴皇子の御歌は、その他のもそうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑に陥るということがない。この歌でも、鴨の羽交(はがい)に霜が置くというのは現実の細かい写実といおうよりは一つの「感」で運んでいるが、その「感」は空漠(くうばく)たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。そこで、「霜ふりて」と断定した表現が利くのである。「葦べ行く」という句にしても稍(やや)ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写象はただのぼんやりではない。
集中には、「埼玉(さきたま)の小埼の沼に鴨ぞ翼(はね)きる己が尾に零(ふ)り置ける霜を払ふとならし」(巻九・一七四四)、「天飛ぶや雁の翅(つばさ)の覆羽(おほひは)の何処(いづく)もりてか霜の降りけむ」(巻十・二二三八)、「押し照る難波ほり江の葦べには雁宿(ね)たるかも霜の零(ふ)らくに」(同・二一三五)等の歌がある。
あられうつ安良礼松原(あられまつばら)住吉(すみのえ)の弟日娘(おとひをとめ)と見(み)れど飽(あ)かぬかも 〔巻一・六五〕 長皇子
長皇子(ながのみこ)(天武天皇第四皇子)が、摂津の住吉海岸、安良礼松原で詠まれた御歌で、其処にいた弟日娘(おとひおとめ)という美しい娘と共に松原を賞したもうた時の御よろこびである。この歌の「と」の用法につき、あられ松原と弟日娘と両方とも見れど飽きないと解く説もある。娘は遊行女婦(うかれめ)であったろうから、美しかったものであろう。初句の、「あられうつ」は、下の「あられ」に懸けた枕詞で、皇子の造語と看做(みな)していい。一首は、よい気持になられての即興であろうが、不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、寧ろ勁健(けいけん)とも謂(い)うべき歌調である。これは日本語そのものがこういう高級なものであったと解釈することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。「見れど飽かぬかも」の句は万葉に用例がなかなか多い。「若狭(わかさ)なる三方の海の浜清(きよ)みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(巻七・一一七七)、「百伝ふ八十(やそ)の島廻(しまみ)を榜(こ)ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも」(巻九・一七一一)、「白露を玉になしたる九月(ながつき)のありあけの月夜(つくよ)見れど飽かぬかも」(巻十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。これも写生によって配合すれば現代に活かすことが出来る。
この歌の近くに、清江娘子(すみのえのおとめ)という者が長皇子に進(たてまつ)った、「草枕旅行く君と知らませば岸(きし)の埴土(はにふ)ににほはさましを」(巻一・六九)という歌がある。この清江娘子は弟日娘子(おとひおとめ)だろうという説があるが、或は娘子は一人のみではなかったのかも知れない。住吉の岸の黄土で衣を美しく摺(す)って記念とする趣である。「旅ゆく」はいよいよ京へお帰りになることで、名残を惜しむのである。情緒が纏綿(てんめん)としているのは、必ずしも職業的にのみこの媚態(びたい)を示すのではなかったであろう。またこれを万葉巻第一に選び載せた態度もこだわりなくて円融(えんゆう)とも称すべきものである。
大和(やまと)には鳴(な)きてか来(く)らむ呼子鳥(よぶこどり)象(きさ)の中山(なかやま)呼(よ)びぞ越(こ)ゆなる 〔巻一・七〇〕 高市黒人
持統天皇が吉野の離宮に行幸せられた時、扈従(こじゅう)して行った高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が作った。呼子鳥はカッコウかホトトギスか、或は両者ともにそう云われたか、未だ定説が無いが、カッコウ(閑古鳥)を呼子鳥と云った場合が最も多いようである。「象の中山」は吉野離宮のあった宮滝の南にある山である。象(きさ)という土地の中にある山の意であろう。「来らむ」は「行くらむ」という意に同じであるが、彼方(かなた)(大和)を主として云っている(山田博士の説)。従って大和に親しみがあるのである。
一首の意。(今吉野の離宮に供奉して来ていると、)呼子鳥が象の山のところを呼び鳴きつつ越えて居る。多分大和の京(藤原京)の方へ鳴いて行くのであろう。(家郷のことがおもい出されるという意を含んでいる。)
呼子鳥であるから、「呼びぞ」と云ったし、また、ただ「鳴く」といおうよりも、その方が適切な場合もあるのである。而してこの歌には「鳴く」という語も入っているから、この「鳴きてか」の方は稍間接的、「呼びぞ」の方が現在の状態で作者にも直接なものであっただろう。「大和には」の「に」は方嚮(ほうこう)で、「は」は詠歎の分子ある助詞である。この歌を誦しているうちに優れているものを感ずるのは、恐らく全体が具象的で現実的であるからであろう。そしてそれに伴う声調の響が稍渋りつつ平俗でない点にあるだろう。初句の「には」と第二句の「らむ」と結句の「なる」のところに感慨が籠って居て、第三句の「呼子鳥」は文法的には下の方に附くが、上にも下にも附くものとして鑑賞していい。高市黒人は万葉でも優れた歌人の一人だが、その黒人の歌の中でも佳作の一つであるとおもう。
普通ならば「行くらむ」というところを、「来らむ」というに就いて、「行くらむ」は対象物が自分から離れる気持、「来らむ」は自分に接近する気持であるから、自分を藤原京の方にいるように瞬間見立てれば、吉野の方から鳴きつつ来る意にとり、「来らむ」でも差支がないこととなり、古来その解釈が多い。代匠記に、「本来の住所なれば、我方にしてかくは云也」と解し、古義に「おのが恋しく思ふ京師辺(アタリ)には、今鳴きて来らむかと、京師を内にしていへるなり」と解したのは、作者の位置を一瞬藤原京の内に置いた気持に解したのである。けれどもこの解は、大和を内とするというところに「鳴きてか来らむ」の解に無理がある。然るに、山田博士に拠ると越中地方では、彼方を主とする時に「来る」というそうであるから、大和(藤原京)を主として、其処に呼子鳥が確かに行くということをいいあらわすときには、「呼子鳥が大和京へ来る」ということになる。「大和には啼きてか来らむ霍公鳥(ほととぎす)汝が啼く毎に亡き人おもほゆ」(巻十・一九五六)という歌の、「啼きてか来らむ」も、大和の方へ行くだろうというので、大和の方へ親しんで啼いて行く意となる。なお、「吾が恋を夫(つま)は知れるを行く船の過ぎて来(く)べしや言(こと)も告げなむ」(巻十・一九九八)の「来べしや」も「行くべしや」の意、「霞ゐる富士の山傍(やまび)に我が来(き)なば何方(いづち)向きてか妹が嘆かむ」(巻十四・三三五七)の、「我が来なば」も、「我が行かば」という意になるのである。
み吉野(よしぬ)の山(やま)のあらしの寒(さむ)けくにはたや今夜(こよひ)も我(わ)がひとり寝(ね)む 〔巻一・七四〕 作者不詳
○
ますらをの鞆(とも)の音(おと)すなりもののふの大臣(おほまへつぎみ)楯(たて)立(た)つらしも 〔巻一・七六〕 元明天皇
和銅元年、元明(げんめい)天皇御製歌である。寧楽(なら)宮遷都は和銅三年だから、和銅元年には天皇はいまだ藤原宮においでになった。即ち和銅元年は御即位になった年である。
一首の意は、兵士等の鞆の音が今しきりにしている。将軍が兵の調練をして居ると見えるが、何か事でもあるのであろうか、というのである。「鞆」は皮製の円形のもので、左の肘(ひじ)につけて弓を射たときの弓弦の反動を受ける、その時に音がするので多勢のおこすその鞆の音が女帝の御耳に達したものであろう。「もののふの大臣(おほまへつぎみ)」は軍を統(す)べる将軍のことで、続紀に、和銅二年に蝦夷(えみし)を討った将軍は、巨勢麿(こせのまろ)、佐伯石湯(さへきのいわゆ)だから、御製の将軍もこの二人だろうといわれている。「楯たつ」は、楯は手楯でなくもっと大きく堅固なもので、それを立てならべること、即ち軍陣の調練をすることとなるのである。
どうしてこういうことを仰せられたか。これは軍の調練の音をお聞きになって、御心配になられたのであった。考に、「さて此御時みちのく越後の蝦夷(エミシ)らが叛(ソム)きぬれば、うての使を遣さる、その御軍(みいくさ)の手ならしを京にてあるに、鼓吹のこゑ鞆の音など(弓弦のともにあたりて鳴音也)かしかましきを聞し召て、御位の初めに事有(ことある)をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。此大御哥(おほみうた)にさる事までは聞えねど、次の御こたへ哥と合せてしるき也」とある。
御答歌というのは、御名部皇女(みなべのひめみこ)で、皇女は天皇の御姉にあたらせられる。「吾が大王(おほきみ)ものな思ほし皇神(すめかみ)の嗣(つ)ぎて賜へる吾無けなくに」(巻一・七七)という御答歌で、陛下よどうぞ御心配あそばすな、わたくしも皇祖神の命により、いつでも御名代になれますものでございますから、というので、「吾」は皇女御自身をさす。御製歌といい御答歌といい、まことに緊張した境界で、恋愛歌などとは違った大きなところを感得しうるのである。個人を超えた集団、国家的の緊張した心の世界である。御製歌のすぐれておいでになるのは申すもかしこいが、御姉君にあらせられる皇女が、御妹君にあらせらるる天皇に、かくの如き御歌を奉られたというのは、後代の吾等拝誦してまさに感涙を流さねばならぬほどのものである。御妹君におむかい、「吾が大王ものな思ほし」といわれるのは、御妹君は一天万乗の現神(あきつかみ)の天皇にましますからである。
飛(と)ぶ鳥(とり)の明日香(あすか)の里(さと)を置(お)きて去(い)なば君(きみ)が辺(あたり)は見(み)えずかもあらむ 〔巻一・七八〕 作者不詳
元明天皇、和銅三年春二月、藤原宮から寧楽(なら)宮に御遷りになった時、御輿(みこし)を長屋原(ながやのはら)(山辺郡長屋)にとどめ、藤原京の方を望みたもうた。その時の歌であるが作者の名を明記してない。併(しか)し作者は皇子・皇女にあらせられる御方のようで、天皇の御姉、御名部皇女(みなべのひめみこ)(天智天皇皇女、元明天皇御姉)の御歌と推測するのが真に近いようである。
「飛ぶ鳥の」は「明日香(あすか)」にかかる枕詞。明日香(飛鳥)といって、なぜ藤原といわなかったかというに、明日香はあの辺の総名で、必ずしも飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)(天武天皇の京)とのみは限局せられない。そこで藤原京になってからも其処と隣接している明日香にも皇族がたの御住いがあったものであろう。この歌の、「君」というのは、作者が親まれた男性の御方のようである。
この歌も、素直に心の動くままに言葉を使って行き、取りたてて技巧を弄(ろう)していないところに感の深いものがある。「置きて」という表現は、他にも、「大和を置きて」、「みやこを置きて」などの例もあり、注意すべき表現である。結句の、「見えずかもあらむ」の「見えず」というのも、感覚に直接で良く、この類似の表現は万葉に多い。
うらさぶる情(こころ)さまねしひさかたの天(あめ)の時雨(しぐれ)の流(なが)らふ見(み)れば 〔巻一・八二〕 長田王
詞書(ことばがき)には和銅五年夏四月長田王(ながたのおおきみ)(長親王(ながのみこ)の御子か)が、伊勢の山辺(やまべ)の御井(みい)(山辺離宮の御井か壱志郡新家村か)で詠まれたようになっているが、原本の左注に、この歌はどうもそれらしくない、疑って見れば其当時誦した古歌であろうと云っているが、季節も初夏らしくない。ウラサブルは「心寂(こころさび)しい」意。サマネシはサは接頭語、マネシは「多い」、「頻(しき)り」等の語に当る。ナガラフはナガルという良(ら)行下二段の動詞を二たび波(は)行下二段に活用せしめた。事柄の時間的継続をあらわすこと、チル(散る)からチラフとなる場合などと同じである。
一首の意は、天から時雨(しぐれ)の雨が降りつづくのを見ると、うら寂(さび)しい心が絶えずおこって来る、というのである。
時雨は多くは秋から冬にかけて降る雨に使っているから、やはり其時この古歌を誦したものであろうか。旅中にあって誦するにふさわしいもので、古調のしっとりとした、はしゃがない好い味いのある歌である。事象としては「天の時雨の流らふ」だけで、上の句は主観で、それに枕詞なども入っているから、内容としては極く単純なものだが、この単純化がやがて古歌の好いところで、一首の綜合がそのために渾然(こんぜん)とするのである。雨の降るのをナガラフと云っているのなども、他にも用例があるが、響きとしても実に好い響きである。
秋(あき)さらば今(いま)も見(み)るごと妻(つま)ごひに鹿(か)鳴(な)かむ山(やま)ぞ高野原(たかぬはら)の上(うへ) 〔巻一・八四〕 長皇子
長皇子(ながのみこ)(天武天皇第四皇子)が志貴皇子(しきのみこ)(天智天皇第四皇子)と佐紀(さき)宮に於て宴せられた時の御歌である。御二人は従兄弟(いとこ)の関係になっている。佐紀宮は現在の生駒郡平城(へいじょう)村、都跡(みあと)村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであろう。志貴皇子の宮は高円(たかまと)にあった。高野原は佐紀宮の近くの高地であっただろう。
一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るような景色の、高野原一帯に、妻を慕って鹿が鳴くことだろう、というので、なお、そうしたら、また一段の風趣となるから、二たび来られよという意もこもっている。
この歌は、「秋さらば」というのだから現在は未だ秋でないことが分かる。「鹿鳴かむ山ぞ」と将来のことを云っているのでもそれが分かる。其処に「今も見るごと」という視覚上の句が入って来ているので、種々の解釈が出来たのだが、この、「今も見るごと」という句を直ぐ「妻恋ひに」、「鹿鳴かむ山」に続けずに寧ろ、「山ぞ」、「高野原の上」の方に関係せしめて解釈せしめる方がいい。即ち、現在見渡している高野原一帯の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添えてそのうえ鹿の鳴く声が聞こえるという意味になる。「今も見るごと」は「現在ある状態の佳き景色の此の高野原に」というようになり、単純な視覚よりももっと広い意味になるから、そこで視覚と聴覚との矛盾を避けることが出来るのであって、他の諸学者の種々の解釈は皆不自然のようである。
この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が濃(こま)やかに動いているにも拘(かかわ)らず、そういう主観の言葉というものが無い。それが、「鳴かむ」といい、「山ぞ」で代表せしめられている観があるのも、また重厚な「高野原の上」という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している。また「今も見るごと」の入句があるために、却って歌調を常識的にしていない。家持が「思ふどち斯くし遊ばむ、今も見るごと」(巻十七・三九九一)と歌っているのは恐らく此御歌の影響であろう。
この歌の詞書は、「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあり、左注、「右一首長皇子」で、「御歌」とは無い。これも、中皇命の御歌(巻一・三)の題詞を理解するのに参考となるだろう。目次に、「長皇子御歌」と「御」のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであろう。
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底本:「万葉秀歌」岩波新書、岩波書店 1938(昭和13)年11月20日第1刷発行


