2008年08月16日

万葉秀歌 巻第二の一

 
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秋(あき)の田(た)の穂(ほ)のへに霧(き)らふ朝霞(あさがすみ)いづへの方(かた)に我(わ)が恋(こひ)やまむ 〔巻二・八八〕 磐姫皇后

 仁徳天皇の磐姫(いわのひめ)皇后が、天皇を慕うて作りませる歌というのが、万葉巻第二の巻頭に四首載っている。此歌はその四番目である。四首はどういう時の御作か、仁徳天皇の後妃八田(やた)皇女との三角関係が伝えられているから、感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう。
 一首は、秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう、それが叶(かな)わずに苦しんでおるのでございます、というのであろう。
「霧らふ朝霞」は、朝かかっている秋霧のことだが、当時は、霞といっている。キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない。第三句までは序詞だが、具体的に云っているので、象徴的として受取ることが出来る。「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので、万葉にも、「大船のたゆたふ海に碇(いかり)おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八)、「人の見て言(こと)とがめせぬ夢(いめ)にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある。
 この歌は、磐姫皇后の御歌とすると、もっと古調なるべきであるが、恋歌としては、読人不知の民謡歌に近いところがある。併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう。そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである。他の三首も皆佳作で棄てがたい。

君が行日(ゆきけ)長(なが)くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ (巻二・八五)
斯くばかり恋ひつつあらずは高山(たかやま)の磐根(いはね)し枕(ま)きて死なましものを (同・八六)
在りつつも君をば待たむうち靡(なび)く吾が黒髪に霜の置くまでに (同・八七)

 八五の歌は、憶良の類聚歌林に斯く載ったが、古事記には軽太子(かるのひつぎのみこ)が伊豫の湯に流された時、軽の大郎女(おおいらつめ)(衣通(そとおり)王)の歌ったもので「君が行日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」となって居り、第三句は枕詞に使っていて、この方が調べが古い。八六の「恋ひつつあらずは」は、「恋ひつつあらず」に、詠歎の「は」の添わったもので、「恋ひつつあらずして」といって、それに満足せずに先きの希求をこめた云い方である。それだから、散文に直せば、従来の解釈のように、「……あらんよりは」というのに帰着する。
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妹(いも)が家(いへ)も継(つ)ぎて見ましを大和(やまと)なる大島(おほしま)の嶺(ね)に家(いへ)もあらましを 〔巻二・九一〕 天智天皇

 天智天皇が鏡王女(かがみのおおきみ)に賜わった御製歌である。鏡王女は鏡王の女、額田王の御姉で、後に藤原鎌足(かまたり)の嫡妻(ちゃくさい)となられた方とおもわれるが、この御製歌はそれ以前のものであろうか、それとも鎌足薨去(天智八年)の後、王女が大和に帰っていたのに贈りたもうた歌であろうか。そして、「大和なる」とことわっているから、天皇は近江に居給うたのであろう。「大島の嶺」は所在地不明だが、鏡王女の居る処の近くで相当に名高かった山だろうと想像することが出来る。(後紀大同三年、平群(へぐり)朝臣の歌にあるオホシマあたりだろうという説がある。さすれば現在の生駒郡平群村あたりであろう。)
 一首の意は、あなたの家をも絶えずつづけて見たいものだ。大和のあの大島の嶺にあなたの家があるとよいのだが、というぐらいの意であろう。
「見ましを」と「あらましを」と類音で調子を取って居り、同じ事を繰返して居るのである。そこで、天皇の御住いが大島の嶺にあればよいというのではあるまい。若しそうだと、歌は平凡になる。或は通俗になる。ここは同じことを繰返しているので、古調の単純素朴があらわれて来て、優秀な歌となるのである。前の三山の御歌も傑作であったが、この御製になると、もっと自然で、こだわりないうちに、無限の情緒を伝えている。声調は天皇一流の大きく強いもので、これは御気魄(おんきはく)の反映にほかならないのである。「家も」の「も」は「をも」の意だから、無論王女を見たいが、せめて「家をも」というので、強めて詠歎をこもらせたとすべきであろう。
 この御製は恋愛か或は広義の往来存問か。語気からいえば恋愛だが、天皇との関係は審(つまびら)かでない。また天武天皇の十二年に、王女の病篤(あつ)かった時天武天皇御自ら臨幸あった程であるから、その以前からも重んぜられていたことが分かる。そこでこの歌は恋愛歌でなくて安否を問いたもうた御製だという説(山田博士)がある。鎌足歿後の御製ならば或はそうであろう。併し事実はそうでも、感情を主として味うと広義の恋愛情調になる。

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秋山(あきやま)の樹(こ)の下(した)がくり逝(ゆ)く水(みづ)の吾(われ)こそ益(ま)さめ御思(みおもひ)よりは 〔巻二・九二〕 鏡王女

 右の御製に鏡王女の和(こた)え奉った歌である。
 一首は、秋山の木の下を隠れて流れゆく水のように、あらわには見えませぬが、わたくしの君をお慕い申あげるところの方がもっと多いのでございます。わたくしをおもってくださる君の御心よりも、というのである。
「益さめ」の「益す」は水の増す如く、思う心の増すという意がある。第三句までは序詞で、この程度の序詞は万葉には珍らしくないが、やはり誤魔化(ごまか)さない写生がある。それから、「われこそ益(ま)さめ御思(みおもひ)よりは」の句は、情緒こまやかで、且つおのずから女性の口吻(こうふん)が出ているところに注意せねばならない。特に、結句を、「御思よりは」と止めたのに無限の味いがあり、甘美に迫って来る。これもこの歌だけについて見れば恋愛情調であるが、何処か遜(へりくだ)ってつつましく云っているところに、和え歌として此歌の価値があるのであろう。試みに同じ作者が藤原鎌足の妻になる時鎌足に贈った歌、「玉くしげ覆(おほ)ふを安(やす)み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)の方は稍(やや)気軽に作っている点に差別がある。併し「君が名はあれど吾が名し惜しも」の句にやはり女性の口吻が出ていて棄てがたいものである。

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玉(たま)くしげ御室(みむろ)の山(やま)のさなかづらさ寝(ね)ずは遂(つひ)にありがつましじ 〔巻二・九四〕 藤原鎌足

 内大臣藤原卿(鎌足)が鏡王女に答え贈った歌であるが、王女が鎌足に「たまくしげ覆(おほ)ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)という歌を贈った。櫛笥(くしげ)の蓋(ふた)をすることが楽(らく)に出来るし、蓋を開(あ)けることも楽(らく)だから、夜の明けるの「明けて」に続けて序詞としたもので、夜が明けてからお帰りになると人に知れてしまいましょう、貴方には浮名が立ってもかまわぬでしょうが、私には困ってしまいます、どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください、というので、鎌足のこの歌はそれに答えたのである。
「玉くしげ御室の山のさなかづら」迄は「さ寝」に続く序詞で、また、玉匣(たまくしげ)をあけて見んというミから御室山のミに続けた。或はミは中身(なかみ)のミだとも云われて居る。御室山は即ち三輪山で、「さな葛」はさね葛、美男かずらのことで、夏に白っぽい花が咲き、実は赤い。そこで一首は、そういうけれども、おまえとこうして寝ずには、どうしても居られないのだ、というので、結句の原文「有勝麻之自」は古来種々の訓のあったのを、橋本(進吉)博士がかく訓んで学界の定説となったものである。博士はカツと清(す)んで訓んでいる。ガツは堪える意、ガテナクニ、ガテヌカモのガテと同じ動詞、マシジはマジという助動詞の原形で、ガツ・マシジは、ガツ・マジ、堪うまじ、堪えることが出来ないだろう、我慢が出来ないと見える、というぐらいの意に落着くので、この儘こうして寝ておるのでなくてはとても我慢が出来まいというのである。「いや遠く君がいまさば有不勝自(アリガツマシジ)」(巻四・六一〇)、「辺にも沖にも依勝益士(ヨリガツマシジ)」(巻七・一三五二)等の例がある。
 鏡王女の歌も情味あっていいが、鎌足卿の歌も、端的で身体的に直接でなかなかいい歌である。身体的に直接ということは即ち心の直接ということで、それを表わす言語にも直接だということになる。「ましじ」と推量にいうのなども、丁寧で、乱暴に押(おし)つけないところなども微妙でいい。「つひに」という副詞も、強く効果的で此歌でも無くてならぬ大切な言葉である。「生けるもの遂(つひ)にも死ぬるものにあれば」(巻三・三四九)、「すゑ遂(つひ)に君にあはずは」(巻十三・三二五〇)等の例がある。

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吾はもや安見児(やすみこ)得(え)たり皆人(みなひと)の得(え)がてにすとふ安見児(やすみこ)得(え)たり 〔巻二・九五〕 藤原鎌足

 内大臣藤原卿(鎌足)が采女(うねめ)安見児を娶(めと)った時に作った歌である。
 一首は、吾は今まことに、美しい安見児を娶った。世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見児を娶った、というのである。
「吾はもや」の「もや」は詠歎の助詞で、感情を強めている。「まあ」とか、「まことに」とか、「実に」とかを加えて解せばいい。奉仕中の采女には厳しい規則があって濫(みだ)りに娶ることなどは出来なかった、それをどういう機会にか娶ったのだから、「皆人の得がてにすとふ」の句がある。もっともそういう制度を顧慮せずとも、美女に対する一般の感情として此句を取扱ってもかまわぬだろう。いずれにしても作者が歓喜して得意になって歌っているのが、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返しているところにあらわれている。
 この歌は単純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が読者の心に響いたので従来も秀歌として取扱われて来た。そこで注釈家の間に寓意説、例えば守部(もりべ)の、「此歌は、天皇を安見知し吾大君と申し馴て、皇子を安見す御子と申す事のあるに、此采女が名を、安見子と云につきて、今吾レ安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戯れ給へる也。されば皆人の得がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御詞也。又得たりと云言を再びかへし給へるも、其御戯れの旨を慥(たし)かに聞せんとて也。然るにかやうなるをなほざりに見過して、万葉などは何の巧(たくみ)も風情もなきものと思ひ過めるは、実におのれ解く事を得ざるよりのあやまりなるぞかし」(万葉緊要)の如きがある。けれどもそういう説は一つの穿(うが)ちに過ぎないとおもう。この歌は集中佳作の一つであるが、興に乗じて一気に表出したという種類のもので、沈潜重厚の作というわけには行かない。同じく句の繰返しがあっても前出天智天皇の、「妹が家も継ぎて見ましを」の御製の方がもっと重厚である。これは作歌の態度というよりも性格ということになるであろうか、そこで、守部の説は穿ち過ぎたけれども、「戯れ給へる也」というところは一部当っている。

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わが里(さと)に大雪(おほゆき)降(ふ)れり大原(おほはら)の古(ふ)りにし里(さと)に降(ふ)らまくは後(のち) 〔巻二・一〇三〕 天武天皇

 天武天皇が藤原夫人(ふじわらのぶにん)に賜わった御製である。藤原夫人は鎌足の女(むすめ)、五百重娘(いおえのいらつめ)で、新田部皇子(にいたべのみこ)の御母、大原大刀自(おおはらのおおとじ)ともいわれた方である。夫人(ぶにん)は後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。大原は今の高市(たかいち)郡飛鳥(あすか)村小原(おはら)の地である。
 一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。
 天皇が飛鳥の清御原(きよみはら)の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。

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わが岡(をか)の神(おかみ)に言(い)ひて降(ふ)らしめし雪(ゆき)の摧(くだけ)し其処(そこ)に散(ち)りけむ 〔巻二・一〇四〕 藤原夫人

 藤原夫人(ふじわらのぶにん)が、前の御製に和(こた)え奉ったものである。神(おかみ)というのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の神に御祈して降らせました雪の、ほんの摧(くだ)けが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。御製の御揶揄(やゆ)に対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。
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我(わ)が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)ると小夜(さよ)更(ふ)けてあかとき露(つゆ)にわが立(た)ち霑(ぬ)れし 〔巻二・一〇五〕 大伯皇女

 大津皇子(おおつのみこ)(天武天皇第三皇子)が窃(ひそ)かに伊勢神宮に行かれ、斎宮大伯皇女(おおくのひめみこ)に逢われた。皇子が大和に帰られる時皇女の詠まれた歌である。皇女は皇子の同母姉君の関係にある。
 一首は、わが弟の君が大和に帰られるを送ろうと夜ふけて立っていて暁の露に霑れた、というので、暁は、原文に鶏鳴露(アカトキツユ)とあるが、鶏鳴(けいめい)(四更丑刻(うしのこく))は午前二時から四時迄であり、また万葉に五更露爾(アカトキツユニ)(巻十・二二一三)ともあって、五更(ごこう)(寅刻(とらのこく))は午前四時から六時迄であるから、夜の更(ふけ)から程なく暁(あかとき)に続くのである。そこで、歌の、「さ夜ふけてあかとき露に」の句が理解出来るし、そのあいだ立って居られたことをも示して居るのである。
 大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌(ふき)を謀ったのが露(あら)われて、朱鳥(あかみとり)元年十月三日死を賜わった。伊勢下向はその前後であろうと想像せられて居るが、史実的には確かでなく、単にこの歌だけを読めば恋愛(親愛)情調の歌である。併し、別離の情が切実で、且つ寂しい響が一首を流れているのをおもえば、そういう史実に関係あるものと仮定しても味うことの出来る歌である。「わが背子」は、普通恋人または夫(おっと)のことをいうが、この場合は御弟を「背子」と云っている。親しんでいえば同一に帰着するからである。「大和へやる」の「やる」という語も注意すべきもので、単に、「帰る」とか「行く」とかいうのと違って、自分の意志が活(はたら)いている。名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこもるのである。「かへし遣る使なければ」(巻十五・三六二七)、「この吾子(あこ)を韓国(からくに)へ遣るいはへ神たち」(巻十九・四二四〇)等の例がある。

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二人(ふたり)行(ゆ)けど行(ゆ)き過(す)ぎがたき秋山(あきやま)をいかにか君(きみ)がひとり越(こ)えなむ 〔巻二・一〇六〕 大伯皇女

 大伯皇女(おおくのひめみこ)の御歌で前の歌の続と看做(みな)していい。一首の意は、弟の君と一しょに行ってもうらさびしいあの秋山を、どんな風(ふう)にして今ごろ弟の君はただ一人で越えてゆかれることか、というぐらいの意であろう。前の歌のうら悲しい情調の連鎖としては、やはり悲哀の情調となるのであるが、この歌にはやはり単純な親愛のみで解けないものが底にひそんでいるように感ぜられる。代匠記に、「殊ニ身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ成(なり)ナラズモ覚束(おぼつか)ナク、又ノ対面モ如何ナラムト思召(おぼしめす)御胸ヨリ出レバナルベシ」とあるのは、或は当っているかも知れない。また、「君がひとり」とあるがただの御一人でなく御伴もいたものであろう。
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あしひきの山(やま)の雫(しづく)に妹(いも)待(ま)つとわれ立(た)ち沾(ぬ)れぬ山(やま)の雫(しづく)に 〔巻二・一〇七〕 大津皇子

 大津皇子が石川郎女(いしかわのいらつめ)(伝未詳)に贈った御歌で、一首の意は、おまえの来るのを待って、山の木の下に立っていたものだから、木からおちる雨雫にぬれたよ、というのである。「妹待つと」は、「妹待つとて」、「妹を待とうとして、妹を待つために」である。「あしひきの」は、万葉集では巻二のこの歌にはじめて出て来た枕詞であるが、説がまちまちである。宣長の「足引城(あしひきき)」説が平凡だが一番真に近いか。「足(あし)は山の脚(あし)、引は長く引延(ひきは)へたるを云。城(き)とは凡て一構(ひとかまへ)なる地(ところ)を云て此は即ち山の平(たひら)なる処をいふ」(古事記伝)というのである。御歌は、繰返しがあるために、内容が単純になった。けれどもそのために親しみの情が却って深くなったように思えるし、それに第一その歌調がまことに快いものである。第二句の「雫に」は「沾れぬ」に続き、結句の「雫に」もまたそうである。こういう簡単な表現はいざ実行しようとするとそう容易にはいかない。
 右に石川郎女の和(こた)え奉った歌は、「吾(あ)を待つと君が沾(ぬ)れけむあしひきの山(やま)の雫(しづく)にならましものを」(巻二・一〇八)というので、その雨雫になりとうございますと、媚態を示した女らしい語気の歌である。郎女の歌は受身でも機智が働いているからこれだけの親しい歌が出来た。共に互の微笑をこめて唱和しているのだが、皇子の御歌の方がしっとりとして居るところがある。

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古(いにしへ)に恋(こ)ふる鳥(とり)かも弓弦葉(ゆづるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴(な)きわたり行(ゆ)く 〔巻二・一一一〕 弓削皇子

 持統天皇が吉野に行幸あらせられた時、従駕の弓削皇子(ゆげのみこ)(天武天皇第六皇子)から、京に留まっていた額田王に与えられた歌である。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回にも上るが、杜鵑(ほととぎす)の啼(な)く頃だから、持統四年五月か、五年四月であっただろう。
 一首の意は、この鳥は、過去ったころの事を思い慕うて啼く鳥であるのか、今、弓弦葉(ゆづるは)の御井(みい)のほとりを啼きながら飛んで行く、というのである。
「古(いにしへ)」即ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額田王とも御関係の深かったことであるから、そこで杜鵑を機縁として追懐せられたのが、「古に恋ふる鳥かも」という句で、簡浄の中に情緒(じょうちょ)充足し何とも言えぬ句である。そしてその下に、杜鵑の行動を写して、具体的現実的なものにしている。この関係は芸術の常道であるけれども、こういう具合に精妙に表われたものは極く稀(まれ)であることを知って置く方がいい。「弓弦葉の御井」は既に固有名詞になっていただろうが、弓弦葉(ゆずり葉)の好い樹が清泉のほとりにあったためにその名を得たので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを須(もち)いない。この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い簡勁(かんけい)にして静和な響をたたえている。
 額田王は右の御歌に「古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て和(こた)えている。皇子の御歌には杜鵑(ほととぎす)のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。そして、額田王も亦(また)古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。なぜ皇子の歌に比して遜色(そんしょく)があるかというに、和え歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つということになるからであろう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和え歌の方はどうしても間接になりがちだからであろう。

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人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世(よ)にいまだ渡(わた)らぬ朝川(あさかは)わたる 〔巻二・一一六〕 但馬皇女

 但馬皇女(たじまのひめみこ)(天武天皇皇女)が穂積皇子(ほづみのみこ)(天武天皇第五皇子)を慕われた歌があって、「秋の田の穂向(ほむき)のよれる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)かりとも」(巻二・一一四)の如き歌もある。この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、窃(ひそ)かに穂積皇子に接せられたのが露(あら)われた時の御歌である。
「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を牽(ひ)く。特に皇女が皇子に逢うために、秘(ひそ)かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。普通女が男の許に通うことは稀だからである。

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石見(いはみ)のや高角山(たかつぬやま)の木(こ)の間(ま)よりわが振(ふ)る袖(そで)を妹(いも)見(み)つらむか 〔巻二・一三二〕 柿本人麿

 柿本人麿が石見(いわみ)の国から妻に別れて上京する時詠んだものである。当時人麿は石見の国府(今の那賀(なか)郡下府上府(しもこうかみこう))にいたもののようである。妻はその近くの角(つぬ)の里(さと)(今の都濃津(つのつ)附近)にいた。高角山は角の里で高い山というので、今の島星山(しまのほしやま)であろう。角の里を通り、島星山の麓を縫うて江川(ごうのがわ)の岸に出たもののようである。
 大意。石見の高角山の山路を来てその木の間から、妻のいる里にむかって、振った私の袖を妻は見たであろうか。
 角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然的なあらわれとして歌っている。そして人麿一流の波動的声調でそれを統一している。そしてただ威勢のよい声調などというのでなく、妻に対する濃厚な愛情の出ているのを注意すべきである。

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小竹(ささ)の葉(は)はみ山(やま)もさやに乱(みだ)れども吾(われ)は妹(いも)おもふ別(わか)れ来(き)ぬれば 〔巻二・一三三〕 柿本人麿

 前の歌の続きである。人麿が馬に乗って今の邑智(おおち)郡の山中あたりを通った時の歌だと想像している。私は人麿上来の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から赤名越(あかなごえ)をし、備後(びんご)にいでて、瀬戸内海の船に乗ったものと想像している。
 大意。今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき乱(みだ)れていても、わが心はそれに紛(まぎ)れることなくただ一向(ひたすら)に、別れて来た妻のことをおもっている。
 今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを、直ぐ取りあげて、それにも拘(かか)わらずただ一筋に妻をおもうと言いくだし、それが通俗に堕せないのは、一首の古調のためであり、人麿的声調のためである。そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。飽くまで実感に即して執拗(しつよう)に歌っているから軽妙に滑(すべ)って行かないのである。
 第三句ミダレドモは古点ミダルトモであったのを仙覚はミダレドモと訓んだ。それを賀茂真淵はサワゲドモと訓み、橘守部はサヤゲドモと訓み、近時この訓は有力となったし、「ササの葉はみ山もサヤにサヤげども」とサ音で調子を取っているのだと解釈しているが、これは寧(むし)ろ、「ササの葉はミヤマもサヤにミダレども」のようにサ音とミ音と両方で調子を取っているのだと解釈する方が精(くわ)しいのである。サヤゲドモではサの音が多過ぎて軽くなり過ぎる。次に、万葉には四段に活かせたミダルの例はなく、あっても他動詞だから応用が出来ないと論ずる学者(沢瀉博士)がいて、殆ど定説にならんとしつつあるが、既にミダリニの副詞があり、それが自動詞的に使われている以上(日本書紀に濫・妄・浪等を当てている)は、四段に活用した証拠となり、古訓法華経の、「不二妄(ミダリニ)開示一」、古訓老子の、「不レ知レ常妄(ミダリニ)作シテ凶ナリ」等をば、参考とすることが出来る。即ち万葉時代の人々が其等をミダリニと訓んでいただろう。そのほかミダリガハシ、ミダリゴト、ミダリゴコチ、ミダリアシ等の用例が古くあるのである。また自動詞他動詞の区別は絶対的でない以上、四段のミダルは平安朝以後のように他動詞に限られた一種の約束を人麿時代迄溯(さかのぼ)らせることは無理である。また、此の場合の笹の葉の状態は聴覚よりも寧ろ聴覚を伴う視覚に重きを置くべきであるから、それならばミダレドモと訓む方がよいのである。若しどうしても四段に活用せしめることが出来ないと一歩を譲って、下二段に活用せしめるとしたら、古訓どおりにミダルトモと訓んでも毫(ごう)も鑑賞に差支(さしつかえ)はなく、前にあった人麿の、「ささなみの志賀の大わだヨドムトモ」(巻一・三一)の歌の場合と同じく、現在の光景でもトモと用い得るのである。声調の上からいえばミダルトモでもサヤゲドモよりも優(ま)さっている。併しミダレドモと訓むならばもっとよいのだから、私はミダレドモの訓に執着するものである。(本書は簡単を必要とするからミダル四段説は別論して置いた。)
 巻七に、「竹島の阿渡白波は動(とよ)めども(さわげども)われは家おもふ廬(いほり)悲しみ」(一二三八)というのがあり、類似しているが、人麿の歌の模倣ではなかろうか。

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青駒(あをこま)の足掻(あがき)を速(はや)み雲居(くもゐ)にぞ妹(いも)があたりを過(す)ぎて来(き)にける 〔巻二・一三六〕 柿本人麿

 これもやはり人麿が石見から大和へのぼって来る時の歌で、第二長歌の反歌になっている。「青駒」はいわゆる青毛の馬で、黒に青みを帯びたもの、大体黒馬とおもって差支ない。白馬だという説は当らない。「足掻を速み」は馬の駈(か)けるさまである。
 一首の意は、妻の居るあたりをもっと見たいのだが、自分の乗っている青馬の駈けるのが速いので、妻のいる筈の里も、いつか空遠(そらとお)く隔ってしまった、というのである。
 内容がこれだけだが、歌柄が強く大きく、人麿的声調を遺憾なく発揮したものである。恋愛の悲哀といおうより寧ろ荘重の気に打たれると云った声調である。そこにおのずから人麿的な一つの類型も聯想せられるのだが、人麿は細々(こまごま)したことを描写せずに、真率(しんそつ)に真心をこめて歌うのがその特徴だから内容の単純化も行われるのである。「雲居にぞ」といって、「過ぎて来にける」と止めたのは実に旨い。もっともこの調子は藤原の御井の長歌にも、「雲井にぞ遠くありける」(巻一・五二)というのがある。この歌の次に、「秋山に落つる黄葉(もみぢば)しましくはな散り乱(みだ)れそ妹(いも)があたり見む」(巻二・一三七)というのがある。これも客観的よりも、心の調子で歌っている。それを嫌う人は嫌うのだが、軽浮に堕ちない点を見免(みのが)してはならぬのである。この石見から上来する時の歌は人麿としては晩年の作に属するものであろう。

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磐代(いはしろ)の浜松(はままつ)が枝(え)を引(ひ)き結(むす)び真幸(ささき)くあらば亦(また)かへり見(み)む 〔巻二・一四一〕 有間皇子

 有間皇子(ありまのみこ)(孝徳天皇皇子)が、斉明天皇の四年十一月、蘇我赤兄(そがのあかえ)に欺(あざむ)かれ、天皇に紀伊の牟婁(むろ)の温泉(今の湯崎温泉)行幸をすすめ奉り、その留守に乗じて不軌(ふき)を企てたが、事露見して十一月五日却って赤兄のために捉(とら)えられ、九日紀の温湯(ゆ)の行宮(あんぐう)に送られて其処で皇太子中大兄の訊問(じんもん)があった。斉明紀四年十一月の条に、「於レ是皇太子、親間二有間皇子一曰、何故謀反、答曰、天与二赤兄一知、吾全不レ解」の記事がある。この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。皇子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で絞(こう)に処せられた。御年十九。万葉集の詞書には、「有間皇子自ら傷(かな)しみて松が枝を結べる歌二首」とあるのは、以上のような御事情だからであった。
 一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。
 無事であることが出来たらというのは、皇太子の訊問に対して言い開きが出来たらというので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。「天と赤兄と知る」という御一語は悲痛であった。けれども此歌はもっと哀切である。こういう万一の場合にのぞんでも、ただの主観の語を吐出(はきだ)すというようなことをせず、御自分をその儘(まま)素直にいいあらわされて、そして結句に、「またかへり見む」という感慨の語を据えてある。これはおのずからの写生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと謂(い)っていいほどである。作者はただ有りの儘に写生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云われる。例えば第三句で、「引き結び」と云って置いて、「まさきくあらば」と続けているが、そのあいだに幾分の休止あること、「豊旗雲に入日さし」といって、「こよひの月夜」と続け、そのあいだに幾分の休止あるのと似ているごときである。こういう事が自然に実行せられているために、歌調が、後世の歌のような常識的平俗に堕(おち)ることが無いのである。

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家(いへ)にあれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉(は)に盛(も)る 〔巻二・一四二〕 有間皇子

 有間皇子の第二の歌である。「笥」というのは和名鈔に盛食器也とあって飯笥(いいけ)のことである。そしてその頃高貴の方の食器は銀器であっただろうと考証している(山田博士)。
 一首は、家(御殿)におれば、笥(銀器)に盛る飯をば、こうして旅を来ると椎の葉に盛る、というのである。笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。
 前の御歌は、「真幸(まさき)くあらばまたかへりみむ」と強い感慨を漏らされたが、痛切複雑な御心境を、かく単純にあらわされたのに驚いたのであるが、此歌になると殆ど感慨的な語がないのみでなく、詠歎的な助詞も助動詞も無いのである。併し底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか。吾等の常識では「草枕旅にしあれば」などと、普通旅(きりょ)の不自由を歌っているような内容でありながら、そういうものと違って感ぜねばならぬものを此歌は持っているのはどうしてか。これは史実を顧慮するからというのみではなく、史実を念頭から去っても同じことである。これは皇子が、生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を直(ただち)にあらわしているのが、やがて普通の旅とは違ったこととなったのである。写生の妙諦(みょうてい)はそこにあるので、この結論は大体間違の無いつもりである。
 中大兄皇子の、「香具(かぐ)山と耳成(みみなし)山と会ひしとき立ちて見に来し印南(いなみ)国原」(巻一・一四)という歌にも、この客観的な荘厳があったが、あれは伝説を歌ったので、「嬬(つま)を争ふらしき」という感慨を潜めていると云っても対象が対象だから此歌とは違うのである。然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、斯(かか)る客観的荘厳を成就(じょうじゅ)せられた。
 皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、「磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(巻二・一四三)、「磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ」(同・一四四、長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ))、「つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」(同・一四五、山上憶良)、「後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも」(同・一四六、人麿歌集)等がある。併し歌は皆皇子の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであろう。また、穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が近江行幸(養老元年か)に供奉(ぐぶ)した時の「吾が命し真幸(まさき)くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪」(巻三・二八八)もあるが、皇子の歌ほど切実にひびかない。
「椎の葉」は、和名鈔は、「椎子和名之比」であるから椎(しい)の葉(は)であってよいが、楢(なら)の葉(は)だろうという説がある。そして新撰字鏡に、「椎、奈良乃木(ナラノキ)也」とあるのもその証となるが、陰暦十月上旬には楢は既に落葉し尽している。また「遅速(おそはや)も汝(な)をこそ待ため向つ峰(を)の椎の小枝(こやで)の逢ひは違(たげ)はじ」(巻十四・三四九三)と或本の歌、「椎の小枝(さえだ)の時は過ぐとも」の椎(しい)は思比(シヒ)、四比(シヒ)と書いているから、楢(なら)ではあるまい。そうすれば、椎の小枝を折ってそれに飯を盛ったと解していいだろう。「片岡の此(この)向(むか)つ峯(を)に椎(しひ)蒔かば今年の夏の陰になみむか」(巻七・一〇九九)も椎(しい)であろうか。そして此歌は詠レ岳だから、椎の木の生長のことなどそう合理的でなくとも、ふとそんな気持になって詠んだものであろう。

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天(あま)の原(はら)ふりさけ見(み)れば大王(おほきみ)の御寿(みいのち)は長(なが)く天足(あまた)らしたり 〔巻二・一四七〕 倭姫皇后

 天智天皇御不予(ふよ)にあらせられた時、皇后(倭姫王)の奉れる御歌である。天皇は十年冬九月御不予、十月御病重く、十二月近江宮に崩御したもうたから、これは九月か十月ごろの御歌であろうか。
 一首の意は、天を遠くあおぎ見れば、悠久にしてきわまりない。今、天皇の御寿(おんいのち)もその天の如くに満ち足っておいでになる、聖寿無極である、というのである。
 天皇御不予のことを知らなければ、ただの寿歌、祝歌のように受取れる御歌であるが、繰返し吟誦し奉れば、かく御願い、かく仰せられねばならぬ切な御心の、切実な悲しみが潜むと感ずるのである。特に、結句に「天足らしたり」と強く断定しているのは、却ってその詠歎の究竟(きゅうきょう)とも謂うことが出来る。橘守部(たちばなのもりべ)は、この御歌の「天の原」は天のことでなしに、家の屋根の事だと考証し、新室を祝う室寿(むろほぎ)の詞の中に「み空を見れば万代にかくしもがも」云々とある等を証としたが、その屋根を天に準(たと)えることは、新家屋を寿(ことほ)ぐのが主な動機だから自然にそうなるので、また、万葉巻十九(四二七四)の新甞会(にいなめえ)の歌の「天(あめ)にはも五百(いほ)つ綱はふ万代(よろづよ)に国知らさむと五百つ綱延(は)ふ」でも、宮殿内の肆宴(しえん)が主だからこういう云い方になるのである。御不予御平癒のための願望動機とはおのずから違わねばならぬと思うのである。縦(たと)い、実際的の吉凶を卜(ぼく)する行為があったとしても、天空を仰いでも卜せないとは限らぬし、そういう行為は現在伝わっていないから分からぬ。私は、歌に「天の原ふりさけ見れば」とあるから、素直に天空を仰ぎ見たことと解する旧説の方が却って原歌の真を伝えているのでなかろうかと思うのである。守部説は少し穿過(うがちす)ぎた。
 この歌は「天の原ふりさけ見れば」といって直ぐ「大王の御寿は」と続けている。これだけでみると、吉凶を卜して吉の徴でも得たように取れるかも知れぬが、これはそういうことではあるまい。此処に常識的意味の上に省略と単純化とがあるので、此は古歌の特徴なのである。散文ならば、蒼天の無際無極なるが如く云々と補充の出来るところなのである。この御歌の下の句の訓も、古鈔本では京都大学本がこう訓み、近くは略解(りゃくげ)がこう訓んで諸家それに従うようになったものである

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底本:「万葉秀歌」岩波新書、岩波書店     1938(昭和13)年11月20日第1刷発行


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詠み返せば、
人の過ごす一生よりも、
文字という暗号にこめられた
世界の奥行きがここにある。

日本では日頃から当たり前のように、
読まれている万葉の歌も、いったん魂を失ってしまえば、
難解きわまる言語となる。
というか肉体の元気な今こそ、解読の凄みが経験できること。
それはすばらしい敬虔な出来事になると約束いたします。

もうすぐ何かが終わり、激しくまた始まる。

posted by koinu at 23:01| 東京 雨| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする