2008年08月13日

万葉秀歌 巻第五

 
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世(よ)の中(なか)は空(むな)しきものと知(し)る時(とき)しいよよますます悲(かな)しかりけり 〔巻五・七九三〕 大伴旅人

 大伴旅人(おおとものたびと)は、太宰府に於て、妻大伴郎女(おおとものいらつめ)を亡くした(神亀五年)。その時京師から弔問が来たのに報(こた)えた歌である。なおこの歌には、「禍故重畳(ちようでふ)し、凶問累(しきり)に集る。永く崩心の悲みを懐(いだ)き、独り断腸の泣(なみだ)を流す。但し両君の大助に依りて、傾命纔(わづか)に継ぐ耳(のみ)。筆言を尽さず、古今の歎く所なり」という詞書が附いている。傾命は老齢のこと。両君は審(つまびら)かでない。
 一首の意は、世の中が皆空・無常のものだということを、現実に知ったので、今迄よりもますます悲しい、というのである。
「知る時し」は、知る時に、知った時にという事であるが、今迄は経文により、説教により、万事空寂無常のことは聞及んでいたが、今現(げん)に、自分の身に直接に、眼(ま)のあたりに、今の言葉なら、体験したという程のことを、「知る」と云ったのである。同じ用例には、「うつせみの世は常無(つねな)しと知るものを」(巻三・四六五。家持)、「世の中を常無きものと今ぞ知る」(巻六・一〇四五。不詳)、「世の中の常無きことは知るらむを」(巻十九・四二一六。家持)等がある。そこで「いよよますます」という語に続くのである。この歌には、仏教が入っているので、「空しきものと知る」というだけでも、当時にあっては、深い道理と情感を伴う語感を持っていただろう。一口にいえば思想的にも新しく且つ深かったものだろう。それが年月によって繰返されているうち、その新鮮の色があせつつ来たのであるが、旅人のこの歌頃までは、いまだ諳記(あんき)してものを云っているようなところのないのを鑑賞者は見免(みのが)してはならぬだろう。その証拠には、此処に引いた用例は皆旅人以後で、旅人の口吻の模倣といってよいのである。それから、結句の、「悲しかりけり」であるが、これは漢文なら、「独り断腸の泣(なみだ)を流す」というところを、日本語では、「悲しかりけり」というのである。これを以て、日本語の貧弱を云々してはならぬ。短詩形としての短歌の妙味もむずかしい点も此処に存するものだからである。大体以上の如くであるが、後代の吾等から見れば、此歌を以て満足だというわけには行かぬ。それはなぜかというに、思想的抒情詩はむずかしいもので、誰が作っても旅人程度を出で難いものだからである。併しそれを正面から実行した点につき、この方面の作歌に一つの基礎をなした点につき、旅人に満腔(まんこう)の尊敬を払うて茲(ここ)に一首を選んだのであった。
 旅人の妻、大伴郎女の死した時、旅人は、「愛(うつく)しき人(ひと)の纏(ま)きてし敷妙(しきたへ)の吾が手枕(たまくら)を纏(ま)く人あらめや」(巻三・四三八)等三首を作っているが、皆この歌程大観的ではない。序にいうが、巻三(四四二)に、膳部王(かしわでべのおおきみ)を悲しんだ歌に、「世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は満闕(みちかけ)しける」という作者不詳の歌がある。王の薨去は天平元年だから、やはり旅人の歌の方が早い。

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悔(くや)しかも斯(か)く知(し)らませばあをによし国内(くぬち)ことごと見(み)せましものを 〔巻五・七九七〕 山上憶良

 大伴旅人の妻が死んだ時、山上憶良(やまのうえのおくら)が、「日本挽歌」(長歌一首反歌五首)を作って、「神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良上」として旅人に贈った。即ちこの長歌及び反歌は、旅人の心持になって、恰(あたか)も自分の妻を悼(いた)むような心境になって、旅人の妻の死を悼んだものである。それだから、この「山上憶良上」云々という注が無ければ、無論憶良が自分の妻の死を悼んだものとして受取り得る性質のものである。因(よ)って鑑賞者は、この歌の作者は憶良でも、旅人の妻即ち大伴郎女(おおとものいらつめ)の死を念中に持って味うことが必要なのである。
 一首の意は、こうして妻に別れねばならぬのが分かっていたら、筑紫の国々を残るくまなく見物させてやるのであったのに、今となって残念でならぬ、というのである。
 この歌の「知る」は前の歌の「知る」と稍違って、知れている、分かっている程の意である。次に、「あをによし」という語は普通、「奈良」に懸る枕詞であるのに、憶良は「国内」に続けている。そんなら、「国内」は大和・奈良あたりの意味かというに、そう取っては具合が悪い。やはり筑紫の国々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たのであるが、憶良は必ずしも伝統的な日本語を使わぬ事があるので、或は、「あをによし」の意味をただ山川の美しいというぐらいの意に取ったものと考えられる。(憶良は、「あをによし奈良の都に」(巻五・八〇八)とも使っている。)次に、この歌は、初句から、「くやしかも」と置いているのは、万葉集としては珍らしく、寧ろ新古今集時代の手法であるが、憶良は平然としてこういう手法を実行している。もっともこの手法は、「苦しくも降り来る雨か」などという主観句の短いものと看做(みな)せば説明のつかぬことはない。
 この歌を味うと、内容に質実的なところがあるが、声調が訥々(とつとつ)としていて、沁(し)み透(とお)るものが尠(すくな)いので、つまりは常識の発達したぐらいな感情として伝わって来る。併し声調が流暢(りゅうちょう)過ぎぬため、却って軽佻(けいちょう)でなく、質朴の感を起こさせるのである。家持の歌に、「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(巻十七・三九五九)というのがある。これは弟の書持(ふみもち)の死を悼(いた)んだものであるが、この憶良の歌から影響を受けているところを見ると、大伴家に伝わった此等の歌をも読味ったことが分かる。
 この日本挽歌一首(長歌反歌)は、憶良が旅人の心になって、旅人の心に同感して、旅人の妻の死を哀悼(あいとう)したという説に従ったが、これは、憶良の妻の死を、憶良が直接悼んでいるのだと解釈する説があり、岸本由豆流(ゆずる)の万葉集攷證(こうしょう)にも、「或人の説に、こは憶良の妻身まかりしにはあるべからず、こは大伴卿の心になりて、憶良の作られけるならんといへれど、さる証もなければとりがたし」と云っている程である。(なお、大柳直次氏の同説がある。)併し、歌の中の妻の死んだのも夏であり、その他の種々の関係が、旅人の妻の死を悼んだ歌として解釈する方が穏(おだや)かのように思える。「筑前国守山上憶良上」をば、憶良自身の妻の死を悼んだ歌を旅人に示したものとして、「大伴卿も同じ思ひに歎かるゝころなれば、かの卿に見せられけるなるべし」(攷證)というのであるが、ただそれだけでは証拠不充分であるし、憶良の妻が筑紫で歿したという記録が無いのだから、これを以て直ぐ憶良の妻の死を悼んだのだと断定するわけにも行かぬのである。併し全体が、自分の妻を哀悼するような口吻であるから、茲に両説が対立することとなるのであるが、鑑賞者は、憶良が此歌を作っても、旅人の妻の死を旅人が歎いているという心持に仮りになって味えば面倒ではないのである。

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妹(いも)が見(み)し楝(あふち)の花(はな)は散(ち)りぬべし我(わ)が泣(な)く涙(なみだ)いまだ干(ひ)なくに 〔巻五・七九八〕 山上憶良

 前の歌の続(つづき)で、憶良が旅人の心に同化して旅人の妻を悼んだものである。楝(おうち)は即ち栴檀(せんだん)で、初夏のころ薄紫の花が咲く。
 一首の意は、妻の死を悲しんで、わが涙の未だ乾かぬうちに、妻が生前喜んで見た庭前の楝(おうち)の花も散ることであろう、というので、逝(ゆ)く歳月の迅(はや)きを歎じ、亡妻をおもう情の切なことを懐(おも)うのである。
 この楝の花は、太宰府の家にある楝であろう。そして、作者の憶良も太宰府にいて、旅人の心になって詠んだからこういう表現となるのである。この歌は、意味もとおり言葉も素直に運ばれて、調べも感動相応の重みを持っているが、飛鳥・藤原あたりの歌調に比して、切実の響を伝え得ないのはなぜであるか。恐らく憶良は伝統的な日本語の響に真に合体し得なかったのではあるまいか。後に発達した第三句切が既にここに実行せられているのを見ても分かるし、「朝日照る佐太(さだ)の岡辺に群れゐつつ吾が哭(な)く涙止む時もなし」(巻二・一七七)、「御立(みたち)せし島を見るとき行潦(にはたづみ)ながるる涙止めぞかねつる」(巻二・一七八)ぐらいに行くのが寧ろ歌調としての本格であるのに、此歌は其処までも行っていない。この歌は、従来万葉集中の秀歌として評価せられたが、それは、分かり易い、無理のない、感情の自然を保つ、挽歌らしいというような点があるためで、実は此歌よりも優れた挽歌が幾つも前行しているのである。
 天平十一年夏六月、大伴家持は亡妾を悲しんで、「妹が見し屋前(やど)に花咲き時は経ぬわが泣く涙いまだ干なくに」(巻三・四六九)という歌を作っている。これは明かに憶良の模倣であるから、家持もまた憶良の此一首を尊敬していたということが分かるのである。恐らく家持は此歌のいいところを味い得たのであっただろう。(もっとも家持は此時人麿の歌をも多く模倣して居る。)

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大野山(おほぬやま)霧(きり)たちわたる我(わ)が嘆(なげ)く息嘯(おきそ)の風(かぜ)に霧(きり)たちわたる 〔巻五・七九九〕 山上憶良

 此歌も前の続である。「大野山」は和名鈔(わみょうしょう)に、「筑前国御笠郡大野」とある、その地の山で、太宰府に近い。「おきそ」は、宣長は、息嘯(おきうそ)の略とし、神代紀に嘯之時(ウソブクトキニ)迅風忽起とあるのを証とした。
 一首の意は、今、大野山を見ると霧が立っている、これは妻を歎く自分の長大息の、風の如く強く長い息のために、さ霧となって立っているのだろう、というので、神代紀に、「吹きうつる気噴(いぶき)のさ霧に」、万葉に、「君がゆく海べの屋戸に霧たたば吾(あ)が立ち嘆く息(いき)と知りませ」(巻十五・三五八〇)、「わが故に妹歎くらし風早(かざはや)の浦の奥(おき)べに霧棚引けり」(同・三六一五)、「沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを」(同・三六一六)等とあるのと同じ技法である。ただ万葉の此等の歌は憶良のこの歌よりも後であろうか。
 此一首も、「霧たちわたる」を繰返したりして強く云っていて、線も太く、能働的であるが、それでもやはり人麿の歌の声調ほどの顫動が無い。例えば前出の、「ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎわかれなむ家のあたり見ず」(巻三・二五四)あたりと比較すればその差別もよく分かるのであるが、憶良は真面目になって骨折っているので、一首は質実にして軽薄でないのである。なお、天平七年、大伴坂上郎女が尼理願(りがん)を悲しんだ歌に、「嘆きつつ吾が泣く涙、有間山雲居棚引き、雨に零(ふ)りきや」(巻三・四六〇)という句があり、同じような手法である。

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ひさかたの天道(あまぢ)は遠(とほ)しなほなほに家(いへ)に帰(かへ)りて業(なり)を為(し)まさに 〔巻五・八〇一〕 山上憶良

 山上憶良は、或る男が、両親妻子を軽んずるのをみて、その不心得を諭(さと)して、「惑情を反(かへ)さしむる歌」というのを作った、その反歌がこの歌である。長歌の方は、「父母を見れば尊し、妻子(めこ)見ればめぐし愛(うつく)し、世の中はかくぞ道理(ことわり)」、「地(つち)ならば大王(おほきみ)います、この照らす日月の下は、天雲(あまぐも)の向伏(むかふ)す極(きはみ)、谷蟆(たにぐく)のさ渡る極、聞(きこ)し食(を)す国のまほらぞ」というのが、その主な内容で、現実社会のおろそかにしてはならぬことを云ったものである。
 反歌の此一首は、おまえは青雲の志を抱いて、天へも昇るつもりだろうが、天への道は遼遠(りょうえん)だ、それよりも、普通並に、素直に家に帰って、家業に従事しなさい、というのである。「なほなほに」は、「直直(なほなほ)に」で、素直に、尋常に、普通並にの意、「延(は)ふ葛の引かば依り来ね下(した)なほなほに」(巻十四・三三六四或本歌)の例でも、素直にの意である。結句の、「業(なり)を為(し)まさに」は、「業(なり)を為(し)まさね」で、「ね」と「に」が相通い、当時から共に願望の意に使われるから、この句は、「業務に従事しなさい」という意となる。
 この歌も、その声調が流動性でなく、寧(むし)ろ佶屈(きっくつ)とも謂(い)うべきものである。然るに内容が実生活の事に関しているのだから、声調おのずからそれに同化して憶良独特のものを成就(じょうじゅ)したのである。事が娑婆(しゃば)世界の実事であり、いま説いていることが儒教の道徳観に本(もと)づくとせば、縹緲(ひょうびょう)幽遠な歌調でない方が却って調和するのである。由来儒教の観相は実生活の常識であるから、それに本づいて出来る歌も亦結局其処に帰着するのである。憶良は、伝誦されて来た古歌謡、祝詞(のりと)あたりまで溯(さかのぼ)って勉強し、「谷ぐくのさわたるきはみ」等というけれども、作る憶良の歌というものは何処か漢文的口調のところがある。併し、万葉集全体から見れば、憶良は憶良らしい特殊の歌風を成就したということになるから、その憶良的な歌の出来のよい一例としてこれを選んで置いた。

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銀(しろがね)も金(くがね)も玉(たま)もなにせむにまされる宝(たから)子(こ)に如(し)かめやも 〔巻五・八〇三〕 山上憶良

 山上憶良は、「子等を思ふ歌」一首(長歌反歌)を作った。序は、「釈迦如来、金口(こんく)に正しく説き給はく、等しく衆生(しゆじやう)を思ふこと、羅羅(らごら)の如しと。又説き給はく、愛は子に過ぎたるは無しと。至極の大聖すら尚ほ子を愛(うつく)しむ心あり。況(ま)して世間(よのなか)の蒼生(あをひとぐさ)、誰か子を愛(を)しまざらめや」というものであり、長歌は、「瓜(うり)食(は)めば子等(こども)思ほゆ、栗(くり)食(は)めば況してしぬばゆ、何処(いづく)より来(きた)りしものぞ、眼交(まなかひ)にもとな懸(かか)りて、安寝(やすい)し為(な)さぬ」というので、この長歌は憶良の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで実事を歌い、恐らく歌全体が憶良の正体と合致したものであろう。
 この反歌は、金銀珠宝も所詮(しょせん)、子の宝には及ばないというので、長歌の実事を詠んだのに対して、この方は綜括(そうかつ)的に詠んだ。そして憶良は仏典にも明るかったから、自然にその影響がこの歌にも出たものであろう。「なにせむに」は、「何かせむ」の意である。憶良の語句の仏典から来たのは、「古日(ふるひ)を恋ふる歌」(巻五・九〇四)にも、「世の人の貴み願ふ、七種(ななくさ)の宝も我は、なにせむに、我が間(なか)の生れいでたる、白玉の吾が子古日(ふるひ)は」とあるのを見ても分かる。七宝は、金・銀・瑠璃(るり)・(しゃこ)・碼碯(めのう)・珊瑚(さんご)・琥珀(こはく)または、金・銀・琉璃(るり)・頗(はり)・車渠(しゃこ)・瑪瑙・金剛(こんごう)である。そういう仏典の新しい語感を持った言葉を以て、一首を為立(した)て、堅苦しい程に緊密な声調を以て終始しているのに、此一首の佳い点があるだろう。けれども長歌に比してこの反歌の劣るのは、後代の今となって見れば言語の輪廓として受取られる弱点が存じているためである。併し、旅人の讃(ホムル)レ酒ヲ歌にせよ、この歌にせよ、後代の歌人として、作歌を学ぶ吾等にとって、大に有益をおぼえしめる性質のものである。

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常知(つねし)らぬ道(みち)の長路(ながて)をくれぐれと如何(いか)にか行(ゆ)かむ糧米(かりて)は無(な)しに 〔巻五・八八八〕 山上憶良

 肥後国益城(ましき)郡に大伴君熊凝(おおとものきみくまこり)という者がいた。天平三年六月、相撲部領使(すまいのことりづかい)某の従者として京へ上る途中、安芸国佐伯郡高庭(たかにわ)駅で病死した。行年十八であった。そして、死なんとした時自ら歎息して此歌を作ったとして、山上憶良が此歌を作った。この歌の詞書に次の如くに書いてある。「臨死(みまから)むとする時、長歎息して曰く、伝へ聞く仮合(けがふ)の身滅び易く、泡沫(はうまつ)の命駐(とど)め難し。所以(ゆゑ)に千聖已(すで)に去り、百賢留らず、況して凡愚の微(いや)しき者、何ぞも能(よ)く逃避せむ。但(ただ)我が老いたる親並(ならび)に菴室(あんしつ)に在り。我を待つこと日を過さば、自ら心を傷(いた)むる恨あらむ。我を望みて時に違(たが)はば、必ず明(めい)を喪(うしな)ふ泣(なみだ)を致さむ。哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母、一身死に向ふ途を患(うれ)へず、唯二親世に在(いま)す苦を悲しぶ。今日長く別れなば、何れの世にか覲(み)ることを得む。乃(すなは)ち歌六首を作りて死(みまか)りぬ。其歌に曰く」というのである。そして長歌一首短歌五首がある。併しこれは、前言のごとく、熊凝(くまこり)が自ら作ったのではなく、憶良が熊凝の心になって、熊凝臨終のつもりになって作ったのである。
 一首の意は、嘗て知らなかった遙かな黄泉の道をば、おぼつかなくも心悲しく、糧米(かて)も持たずに、どうして私は行けば好いのだろうか、というのである。「くれぐれと」は、「闇闇(くれくれ)と」で、心おぼろに、おぼつかなく、うら悲しく等の意である。この歌の前に、「欝(おぼほ)しく何方(いづち)向きてか」というのがあるが、その「おぼほしく」に似ている。
 この歌は六首の中で一番優れて居り、想像で作っても、死して黄泉へ行く現身(げんしん)の姿のようにして詠んでいるのがまことに利いて居る。糧米も持たずに歩くと云ったのも、後代の吾等の心を強く打つものである。糧米をカリテと訓むは、霊異記(りょういき)下巻に糧(可里弖)とあるによっても明かで、乾飯直(カレヒテ)の義(攷證)だと云われている。一に云、「かれひはなしに」とあるのは、「餉(かれひ)は無(な)しに」で意味は同じい。カレヒは乾飯(カレイヒ)である。憶良の作ったこのあたりの歌の中で、私は此一首を好んでいる。

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世間(よのなか)を憂(う)しと恥(やさ)しと思(おも)へども飛(と)び立(た)ちかねつ鳥(とり)にしあらねば 〔巻五・八九三〕 山上憶良

 山上憶良の「貧窮問答の歌一首并に短歌」(土屋氏云、憶良上京後、即ち天平三年秋冬以後の作であろう。)の短歌である。長歌の方は、二人貧者の問答の体で、一人が、「風雑(まじ)り雨降る夜の、……如何にしつつか、汝(な)が世は渡る」といえば、一人が、「天地は広しといへど、あが為(ため)は狭(さ)くやなりぬる、……斯くばかり術(すべ)無きものか、世間(よのなか)の道」と答えるところで、万葉集中特殊なもので、また憶良の作中のよいものである。
 この反歌一首の意は、こう吾々は貧乏で世間が辛(つら)いの恥(はず)かしいのと云ったところで、所詮(しょせん)吾々は人間の赤裸々で、鳥ではないのだからして、何処ぞへ飛び去るわけにも行くまい、というのである。「やさし」は、恥かしいということで、「玉島のこの川上に家はあれど君を恥(やさ)しみ顕(あらは)さずありき」(巻五・八五四)にその例がある。この反歌も、長歌の方で、細かくいろいろと云ったから、概括的に締めくくったのだが、やはり貧乏人の言葉にして、その語気が出ているのでただの概念歌から脱却している。論語に、邦有レ道、貧且賤焉耻也とあり、魏文帝の詩に、願レ飛安ゾ得ンレ翼、欲レ済(ワタラント)河無レ梁(ハシ)とあるのも参考となり、憶良の長歌の句などには支那の出典を見出し得るのである。

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慰(なぐさ)むる心(こころ)はなしに雲隠(くもがく)り鳴(な)き往(ゆ)く鳥(とり)の哭(ね)のみし泣(な)かゆ 〔巻五・八九八〕 山上憶良

 山上憶良の、「老身重病経レ年辛苦、及思二児等一歌七首長一首短六首」の短歌である。長歌の方は、人間には老・病の苦しみがあり、長い病に苦しんで、一層死のうとおもうことがあるけれども、児等のことを思えば、そうも行かずに歎息しているというのである。
 この短歌は、そういう風に老・病のために苦しんで、慰めん手段もなく、雲隠れに貌(すがた)も見えず鳴いてゆく鳥の如く、ただ独りで忍び泣きしてばかりいる、というので、長歌の終に、「彼(か)に此(かく)に思ひわづらひ、哭(ね)のみし泣かゆ」と止めたのを、この短歌で繰返している。
 このくらいの技巧の歌は、万葉には幾つもあるように思う程、取り立てて特色のあるものでないが、何か悲しい響があるようで棄て難かったのである。

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術(すべ)もなく苦(くる)しくあれば出(い)で走(はし)り去(い)ななと思(も)へど児等(こら)に障(さや)りぬ 〔巻五・八九九〕 山上憶良

 同じく短歌。もう手段も尽き、苦しくて為方がないので、走り出して自殺でもしてしまおうと思うが、児等のために妨げられてそれも出来ない、というので、此は長歌の方で、「年長く病みし渡れば、月累(かさ)ね憂ひ吟(さまよ)ひ、ことごとは死ななと思へど、五月蠅(さばへ)なす騒ぐ児等を、棄(うつ)てては死(しに)は知らず、見つつあれば心は燃えぬ」云々というのが此短歌にも出ている。「障(さや)る」は、障礙(しょうがい)のことで、「百日(ももか)しも行かぬ松浦路(まつらぢ)今日行きて明日は来なむを何か障(さや)れる」(巻五・八七〇)にも用例がある。
 この歌の好いのは、ただ概括的にいわずに、具体的に云っていることで、こういう場面になると、人麿にも無い人間の現実的な姿が現出して来るのである。「出ではしり去ななともへど」というあたりの、朴実とでも謂うような調べは、憶良の身に即(つ)き纏(まと)ったものとして尊重していいであろう。なお此処(ここ)に、「富人(とみびと)の家(いへ)の子等(こども)の着る身無(みな)み腐(くた)し棄つらむ絹綿らはも」(巻五・九〇〇)、「麁妙(あらたへ)の布衣(ぬのぎぬ)をだに着せ難(がて)に斯くや歎かむ為(せ)むすべを無み」(同・九〇一)という歌もあるが、これも具体的でおもしろい。そして、これだけの材料を扱いこなす意力をも、後代の吾等は尊重すべきである。この歌の「絹綿」は原文「※[#「糸+包」、上-188-1]綿」で、真綿の意であろうが、当時筑紫の真綿の珍重されたこと、また名産地であったことは沙弥満誓の歌のところで既に云ったとおりである。
 憶良は娑婆界の貧・老・病の事を好んで歌って居り、どうしても憶良自身の体験のようであるが、筑前国司であった憶良が実際斯くの如く赤貧困窮であったか否か、自分には能く分からないが、自殺を強いられるほどそんなに貧窮ではなかったものと想像する。そして彼は彼の当時教えられた大陸の思想を、周辺の現実に引き移して、如上(じょじょう)の数々の歌を詠出したものとも想像している。

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稚(わか)ければ道行(みちゆ)き知(し)らじ幣(まひ)はせむ黄泉(したべ)の使(つかひ)負(お)ひて通(とほ)らせ 〔巻五・九〇五〕 山上憶良

「男子(をのこ)名は古日(ふるひ)を恋ふる歌」の短歌である。左注に此歌の作者が不明だが、歌柄から見て憶良だろうと云って居る。古日(ふるひ)という童子の死んだ時弔った歌であろう。そして憶良を作者と仮定しても、古日という童子は憶良の子であるのか他人の子であるのかも分からない。恐らく他人の子であろう。(普通には、古日は憶良の子で、この時憶良は七十歳ぐらいの老翁だと解せられている。なお土屋氏は、古日はコヒと読むのかも知れないと云って居る。)
 一首の意は、死んで行くこの子は、未だ幼(おさな)い童子で、冥土(めいど)の道はよく分かっていない。冥土の番人よ、よい贈物をするから、どうぞこの子を背負って通してやって呉れよ、というのである。「幣(まひ)」は、「天にます月読壮子(つくよみをとこ)幣(まひ)はせむ今夜(こよひ)の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ」(巻六・九八五)、「たまぼこの道の神たち幣(まひ)はせむあが念ふ君をなつかしみせよ」(巻十七・四〇〇九)等にもある如く、神に奉る物も、人に贈る物も、悪い意味の貨賂(かろ)をも皆マヒと云った。
 この一首は、童子の死を悲しむ歌だが、内容が複雑で、人麿の歌の内容の簡単なものなどとは余程その趣が違っている。然かも黄泉の道行をば、恰(あたか)も現実にでもあるかの如くに生々(なまなま)しく表現して居るところに、憶良の歌の強味がある。歌調がぼきりぼきりとして流動的波動的に行かないのは、一面はそういう素材如何にも因(よ)るのであって、こういう素材になれば、こういう歌調をおのずから要求するものともいうことが出来る。

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布施(ふせ)置(お)きて吾(われ)は乞(こ)ひ祷(の)む欺(あざむ)かず直(ただ)に率行(ゐゆ)きて天路(あまぢ)知(し)らしめ 〔巻五・九〇六〕 山上憶良

 これも同じ歌で、「布施」は仏教語で、捧げ物の事だから、前の歌の、「幣」と同じ事に落着く。この歌も、童子の死にゆくさまを歌っているが、この方は黄泉でなく、天路のことを云っている。共に死者の往く道であるが、この方は稍(やや)日本的に云っている。初句原文「布施於吉弖」は旧訓フシオキテであるが、略解(りゃくげ)で、「布施はぬさと訓べし。又たゞちにふせとも訓べき也。こゝに乞(こひ)のむといへるは、仏に乞(こふ)にて、神に祷(いの)るとは事異なれば、幣(ヌサ)とはいはで、布施と言へる也。施をの誤として、ふしおき(臥起)てとよめるはひがこと也」と云った。いかにもその通りで、「伏し起きて」では意味を成さない。この歌もこれだけの複雑なことを云っていて、相当の情調をしみ出でさせるのは、先ず珍とせねばなるまい。
posted by koinu at 09:05| 東京 霧| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする