『風の王国』五木寛之(新潮文庫)
闇にねむる仁徳陵へ密やかに寄りつどう異形の遍路たち。そして、霧にけむる二上山をはやてのように駆けぬける謎の女…。脈々と世を忍びつづけた風の一族は、何ゆえに姿を現したのか?メルセデス300GDを駆って、出生にまつわる謎を追う速見卓の前に、暴かれていく現代国家の暗部。彼が行く手に視るものは異族の幻影か、禁断の神話か…。現代の語り部が放つ戦慄のロマン。
〈その女はお遍路のような格好をし、しかしお遍路とはどこか違う黒い衣装の背中に神の文字が染め抜かた法被を纏い、霧の中をまるで翔ぶように速水の前を駆け抜けていきます。歩くことには自信を持っている速水が必死になって追いかけても追いつけないんです。〉
「翔ぶ女」は「天武仁神講」「同行五十五人」という字の染めてある法被をはおり
「天武仁神講の講主代行」として挨拶を始めるのですが、それは射狩野総業が近年、事業拡大し、自然破壊をし、開発を押し進める事に対しての痛烈な批判でした。
女の名は葛城哀。天武仁神講の2代目講主、葛城天浪の娘。
「では、私が先に歩かせていただきます。同行でノルときには、二人が一人の心になって歩くわけですから、そのおつもりで」
「手加減しなくてもいいですよ。かなわない時には、遠慮なくギブアップしますから」
「これは行なんです。勝負ではありません」
「共にノルことで、一人の人間の力の二倍も三倍もの高い境地へ達することが出来なければ、同行の意味はないんです。私が速水さんをためすとすれば、それは人と共に助け合って歩く、自然と一体になって歩む、その心の広さや優しさを、あなたが待てるかどうか、それを知りたいだけです。速水さんが只のつよい体力と意思の持ち主に過ぎないとわかったら、わたしは同行をその時点でご辞退します。そして、あなたはわたしたちとハナれて、二度とお目にかかることは、ないでしょう」
先行する葛城哀に、休ませてくれと一言いえば、彼女はもちろん足をとめてくれただろう。だが、それだけはどんなことがあってもしたくはなかった。ルト砂漠を歩き、シラーズの砂礫の荒野を歩き、ラリーカーが150キロですっ飛んで来るサファリーラリーの道を歩き、ガンジスの源流を歩いた自分が、どうしてこんな遊園地のような島国の海岸でギブアップできるだろうか。
だが、今度はこれまでのトレイルとはまるでスピードが違っていた。夜明け前に一度、公園の端で休んだだけで、あとはずっと歩き通しなのだ。しかも、彼女の歩速はおそらく分速160メートルを超えている。旧陸軍の約二倍の歩速だ。彼女の下半身は踊っているように奇妙な動きを続けていた。だが首から上は能役者のように静かに風の中をすべってゆく。速水卓は、すでに歩くのをやめて走っていた。心臓の鼓動も限界にちかく震えていた。
だが、彼女は決して速水卓を無視して歩いてはいなかった。葛城哀の背中からは絶えず彼にはげましの無言の声が送られていた。
がんばるのよ。さあ、いっしょにいきましょう、どこまでも。二人で手をとりあって
速水卓には、その声がはっきりと聞こえた。