デヴィッド・アレン(G) 1974年
オーストラリア出身のヒッピー、デヴィッド・アレンは、放浪先のパリでビート文学の巨匠、ウィリアム・バロウズと出会う。バロウズとラジオの仕事などを行っていた時、ブリストル生まれのロバート・ワイアットと出会う。アレンはロンドン滞在時にワイアットの母の営む下宿に住んだりもしており、学生時代からの知り合いでオックスフォード大学在学中だったカンタベリー生まれのマイク・ラトリッジも加わり、一つのサークルが形成されていく。この頃にアレンとワイアットに加え、ワイアットやラトリッジと学生時代から交流のあったブライアン・ホッパーの弟、ヒュー・ホッパーとトリオを組んでライブを行ったこともあった。
『ソフトマシーン』ファーストアルバム
https://youtu.be/zs441a1O658?si=g1H1OTkBcYNFRfpS
トリオが短期で終了した後、アレンはヨーロッパ各地を巡り歩き、その中でケヴィン・エアーズや後に伴侶ともなるジリ・スマイスとの交流を深めていく。そのエアーズは1964年にホッパー兄弟、ワイアットと共に「ワイルド・フラワーズ」というバンドを結成し、カンタベリーを本拠に活動した。
そして1966年の夏、カンタベリーに戻ったアレン(ベース、ボーカル)は、ワイルド・フラワーズを脱退したエアーズ(リズム・ギター、ボーカル)とワイアット(ドラム、ボーカル)、ラリー・ナウリン(ギター)の4人でミスター・ヘッドというバンドを結成。そしてラトリッジが合流した後にバンド名を変更することになり、ラトリッジがパリのバロウズに電話をかけ直接使用許可を得てつけたその名は、「ソフト・マシーン」。バロウズの著書に同名のタイトルがあり、ソフト・マシーン(柔らかな機械)とは女性型アンドロイドのことを指していると思われる。ラトリッジはこれにインスパイアされたらしい。なお、ナウリンは最初期に行われた数回のギグで脱退した。
サイケデリック・ロック期(1966年 - 1969年)
ロバート・ワイアット(Dr) 1967年
4人組で本格始動したバンドは、ロンドンのUFOクラブを拠点にヨーロッパ各地で精力的に演奏活動を行いつつ独自の音楽を模索していく。その音楽のかたちは、いわゆるサイケデリック・ポップとも呼べるものだった。ロンドンのサイケデリック・シーンで注目を浴びるようになった彼等は同じくUFOクラブを中心に活動していたピンク・フロイドやジミ・ヘンドリックスらとも交流を持つようになり、ステージを共にすることもあった。1967年、パリ公演からの帰途、アレンがイギリスへの入国許可が下りずバンドから離脱(麻薬の保持等の理由が取り沙汰されたが、実際はビザの期限切れが理由。彼はそのままパリに留まり、スマイスと共に後にゴングへと発展するプロジェクトを立ち上げる)。
〈1969年ライブ〉
https://youtu.be/d_lRSl_z0BU?si=SwsnYhCnmRaAy-Eg
この後、3人となったメンバーはギタリストを補充せずキーボード・トリオとして活動する。アレンの抜けた穴を埋めるためであろうか、ラトリッジのかねてからのジャズ志向のためか、この頃から彼の弾くオルガンの音をファズをかけて歪ませるようになる。このような音色はいわゆるサイケデリックに分類されていた彼等の当時の音楽に、モノクロームな色彩を与えるようになる。これがカンタベリー系と呼ばれる音楽の一つの指標ともなっていく。
3人はジミ・ヘンドリックスのアメリカ長期ツアーに帯同。ツアー途中の1968年、ニューヨークにてデビュー・アルバム『ソフト・マシーン』を制作する。この頃のステージで、後にポリスのメンバーとなるギタリスト、アンディ・サマーズをアレンの代役に起用している。デビュー・アルバムは評判が良く、レーベルは次回作の制作を打診するが、当のメンバーは余りにも長きにわたったツアーに疲れ果て、バンドはほとんど解散状態にあった。そんな状況に嫌気のさしたエアーズは、地中海に浮かぶバレアレス諸島のイビサ島へと移住して脱退する。
活動再開を期したメンバーは、ワイルド・フラワーズを辞めた旧友ヒュー・ホッパーを新しいベーシストに加えトリオ編成となり、1969年にセカンド・アルバム『ヴォリューム2』を制作(ホッパーの兄、ブライアンもホーン奏者としてアルバムに参加)。ジャズ志向が強く、実験音楽などにも造詣の深いアヴァンギャルドな感性の持ち主・ホッパーの加入により、バンドはアレン=エアーズ主導時代のサイケ・ポップ路線から、ホッパー=ラトリッジ主導のジャズ・ロック路線へと変革を遂げていく。
『ソフトマシーン』セカンドアルバム
https://youtu.be/GSkAtjqHPD0?si=DeUfPLWxoJakEpAN
ジャズ・ロック期(1970年 - 1972年)
エルトン・ディーン(Sax) 1977年
独自のジャズ・ロックを模索し、新たにホーン奏者を探していたバンドは、当時キース・ティペット・グループ (KTG)に在籍していたエルトン・ディーン (アルト・サックス、サクセロ)と出会う。彼を筆頭にKTGのメンバー5人 (ジミー・ヘイスティングス、マーク・チャリグ、ラブ・スポール、ニック・エヴァンス、リン・ドブソン)が参加。バンドは一気に大所帯の8人編成となり、1970年に3枚目のアルバム『3』を制作。しかし、経済上の理由でホーン奏者はディーン1人となり、バンドはカルテット編成に落ち着く。
そして1971年、4枚目のアルバム『4』を制作 (このアルバムの1曲目に収録された「Teeth」にてダブルベースを弾いたロイ・バビントンも、後に正式なメンバーとなる)。ディーンの加入で音楽性は更にジャズ色を強めて行くことになるが、それと引き換えに、元々アレンの影響でエピキュリアン的な感性を持っていたワイアットは、徐々にシリアスなジャズへと向かっていくバンドの中で存在感が薄れていく。彼のボーカル曲も『3』に収録された「Moon in June」が最後となり、バンドは完全にインストゥルメンタル・グループと化す。ワイアットの居場所はますます狭められることとなり、彼はこの年のうちに脱退した (その直後に自らのバンド、マッチング・モウルを立ち上げアルバムを制作)。
『ソフトマシーン3』
https://youtu.be/F7wm24_KGb8?si=LJ4qP0naUkkMxVrR
後任のドラマーにはディーンのバンド・メイト、フィル・ハワードが参加し、5枚目のアルバム『5』の制作を開始する。しかし、この頃からより先鋭的なフリー・ジャズ化を志向するディーン&ハワードと、譜面化されたジャズ・ロックを志向するホッパー&ラトリッジとの間に軋轢が生まれるようになる。その結果、ハワードはアルバム制作中にバンドを脱退。次のドラマーとしてイアン・カーの率いるジャズ・ロック・バンド、ニュークリアスからジョン・マーシャルが加入し、アルバムは完成する。時を同じくして、自分のバンド活動を優先させるためにディーンも脱退する。なお、今日では『3』の発表された1970年から『5』発表の1972年までの時期の様々な音源が発掘され日の目を見ていることからも、この頃をバンドの最盛期とする見解がある。
ジャズ・フュージョン期(1973年 - 1984年)
カール・ジェンキンス (2017年)
脱退したディーンに代わって、マーシャルと同じくニュークリアスから転籍したのがカール・ジェンキンス (オーボエ、サックス、キーボード)である。ディーンのフリー・ジャズ的かつスポンティニアスなインプロヴィゼーションとは異なり、ジェンキンスのプレイはスコアとアンサンブルを重視したものであり、その影響でバンドの音楽性は洗練された都会的な雰囲気を醸し出すようになる。また、彼のペンになる曲はミニマル・ミュージックの影響からかリズムやフレーズの反復を多用し、幻想的な音像を提示するようになる。フリー・ジャズへの接近が目立っていたディーン時代と比べ、聴きやすいジャズ・ロックへと向かってジェンキンスがイニシアティヴを握るようになっていく。ラトリッジもこの動きに追随するが、フリー志向のホッパーには物足りなかったようで、彼は1973年の『6』制作終了後に脱退する。
後任のベーシストには、かつて『4』にてゲストとしてダブルベースを演奏した、ニュークリアス出身のロイ・バビントンが就く。ここに於いてオリジナル・メンバーはラトリッジのみ、残りはニュークリアス組が占めることになり、この4人編成で『6』と同じく1973年に『7』を制作発表。この時点でラトリッジの志向するジャズ・ロックと、ジェンキンスの志向するミニマリズムとが拮抗・均衡し、独特の音世界が提示されていた。また、オルガンや電子ピアノのほか、シンセサイザーが導入されたこともバンドの音の質的変化を促した。
アラン・ホールズワース(G) 1978年
そして、1975年に発表された『収束』に於いて、バンドはアレン脱退以来のギタリスト、アラン・ホールズワース (ニュークリアス、テンペスト)を加える。このホールズワースのギターによってバンドはフュージョン路線を進む。ファズ・オルガンよりも強い音圧を持つリード奏者が入ったことで、今度はラトリッジが脱退。ついにオリジナル・メンバーは完全に姿を消し、バンドはニュークリアス人脈によって乗っ取られた形になる。
ラトリッジ脱退を機にバンドは更にフュージョン路線を邁進。アルバム1枚のみで脱退したホールズワースに代わり、元ダリル・ウェイズ・ウルフのギタリスト、ジョン・エサリッジをメンバーに迎える。また、ホーン奏者としてアラン・ウェイクマン(イエスのリック・ウェイクマンの従兄弟)を加え、ジェンキンスはキーボード専任となる。この編成で1976年にバンドとしては実質ラストとなるスタジオ・アルバム『ソフツ』を制作・発表する。ジェンキンス流ジャズ・ロックの決定版とも呼べる後期の名作とも評価された。
しかしその後、バビントンが脱退。ブランドXのパーシー・ジョーンズが一時在籍したが、程なくアラン・ゴーウェンのバンド、ギルガメッシュからスティーヴ・クックが正式加入。ヴァイオリニストのリック・サンダースをメンバーに加えて行われた1977年のパリ公演を収録し、これまでのジャズ・ロックやフュージョンを更に超越し、半ばテクノにまで接近した感も抱かせるライブ・アルバム『アライヴ・アンド・ウェル(ライヴ・イン・パリ)』を発表した段階(1978年)で、バンドとしてのソフト・マシーンは実質的に終わっていた。
その3年後、1981年に発表されたラスト・アルバム『ランド・オブ・コケイン』に於いては、バンドのメンバーはジェンキンスとマーシャルの二人だけのユニット状態となっており、その他のパートは全員ゲスト参加という編成で制作されている。ジャズ系のプレイヤーを多数ゲストとして起用した豪華な内容のイージーリスニング・アルバムとなった。(ソフト・マシーン名義ながら、実質的ジェンキンスのソロ・プロジェクト)そして1984年を最後に活動が途絶える。
ソフト・ヒープ / ソフト・ヘッド
1978年、本家のソフツとは別に、旧メンバーのエルトン・ディーンとヒュー・ホッパーは、ナショナル・ヘルスのアラン・ゴーウェン、ピップ・パイルというメンバーでスーパーグループを結成。メンバーの頭文字を組み合わせ「ソフト・ヒープ (Soft Heap)」と名乗る。その後メンバー交代を機に「ソフト・ヘッド (Soft Head)」と改名し、1982年頃まで断続的に活動した。
【Wikipedia】より
人間の身体をグループ名称にした,ロックトリオだった。ロバート・ワイアットの曲がとても印象に残っているバンドは短命だった
〈7月の月〉
https://youtu.be/soQN0sMU0Ck?si=oTXOzuOKo7-pUTor
posted by koinu at 09:00| 東京 ☔|
音楽時間
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