スウィングまたはシャッフルのリズムによる反復フレーズでありブルース、スウィング・ジャズ、ロックンロールなどの音楽で用いられる。ブギーとも表記される。「8ビート最高の芸術」とも言われ、ビートに習慣性があり癖になる点もよく指摘される。
元々ピアノで演奏されたブギウギ(boogie-woogie)スタイルのリズムをギターやダブルベースなどの楽器に適用したもの。アルバート・アモンズ、ミード・ルクス・ルイス、ピート・ジョンソンの "ブギウギ・トリオ"は、ピアノ・トリオとして知られている。
【歴史】
1900年代、黎明期
20世紀初頭、テキサス、ルイジアナ、オクラホマ、ミズーリ各州のブルース・ピアニスト達は後のブギ・ウギを特徴づける1小節8拍のベース・パターンを取り入れ演奏していた。彼らは1曲を通してブギ・ビートを弾くことはなく、ジャズで言うダブル・タイム[注釈 1] のように4拍と8拍を織り交ぜ使用した。当時この技法には確固たる名称もなかった。ピアニストは堤防工事、テンピン油採取、材木伐採などの飯場にあるバレル・ハウス(安酒場)・サーキットをまわった。製材業の労働環境は劣悪で、黒人就労者で占められていた。最も初期の証言としてW.C.ハンディはベニー・フレンチー、ソニー・バック、セイモア・アバーナシーらの名を挙げ「エイト・ビートのブギウギのはしり」と評している。ジェリー・ロール・モートンはテネシー州メンフィス「モナーク・サルーン」でベニー・フレンチーの演奏を聴いている。「フレンチーが演奏すると、娼婦たちが壁までまっしぐらにかけていって、小走りのステップを踏みながら手を叩いて、右足をうしろの方へ蹴りあげる。それから『ああ、弾いて、ベニー、弾いて』って言うんだ」世界情勢では、1914年に第一次世界大戦が勃発している。
1920年代 - 30年代、シカゴでの隆盛
1917年、シカゴ・ディフェンダー紙主筆ロバート・S・アボットが南部の黒人たちに北部への移住を呼びかける。「北部で自由人として凍えて死ねる権利があるというのに、なぜ南部で奴隷として凍死しなければならないのか」[注釈 3]。1900年に3千人だったシカゴの黒人総数は1920年には10万9千人まで増加、その90%は他州からの移住者だった。人々が集まりピアノが置いてある所ならどこへでも行く、そんなピアノ弾きがシカゴに集まった。
1927年、ミード・ルクス・ルイス、「ホンキー・トンク・トレイン・ブルース」録音[注釈 4]。1905年イリノイ州シカゴ生まれ。「ルクス」はルクセンブルク公爵に由来するあだ名。少年時代に線路脇に住んでいた体験を元に書かれた「ホンキー・トンク・トレイン・ブルース」をパラマウントに吹き込む。
1928年、カウ・カウ・ダヴェンポート、「カウ・カウ・ブルース」録音。1894年アラバマ州アニストン生まれ。独学でピアノを学び旅回りの一座に入り鉱山キャンプなどを巡業。テキサスで聴いた「ザ・カウズ」(牝牛たち)という曲をアレンジし「カウ・カウ・ブルース」を作曲、ドーラ・カーとコンビを組み自分の一座を結成、デトロイトやシカゴなど北部のプレイヤーに影響を与える。1928年7月16日、シカゴで録音された「カウ・カウ・ブルース」ではダヴェンポート自身「自分が発明した」と主張するウォーキング・ベースが聴かれる。1955年没。
1928年、パイントップ・スミス、「パイントップス・ブギ・ウギ」録音。1904年アラバマ州トロイ生まれ。赤毛のためパイントップと呼ばれる。1927年、ピッツバーグのスター劇場出演中、カウ・カウ・ダヴェンポートに励まされる。「おい、おまえさんなんともいやらしくブギウギしてるじゃないか」スミスはシカゴに出て部屋を借りる。偶然そこにはミード・ルクス・ルイスとアルバート・アモンズが居住していた。1928年12月29日、シカゴで録音された「パイントップス・ブギウギ」は音楽史上最初のブギウギ・レコード(タイトルに「ブギウギ」の語句が使用された最初のレコードの意)となる。1929年3月、パーティで起きた喧嘩口論による発砲事件に巻き込まれ死亡。
ピート・ジョンソンは、1904年ミズーリ州カンサス・シティで生まれた。1920年代から小編成のバンドを持ちKCのクラブで活動。「サンセット・クラブ」のバーテンダー兼歌手のビッグ・ジョー・ターナーとのコンビが人気を博す。「ピート・ジョンソンはブギに優れていましたが、決してブギだけを弾いている人ではありませんでした。ただカンサス・シティ生まれのテナー・マンのベン・ウェブスターのような人が『俺を揺さぶれ、みんなを揺さぶれ。ピート、みんなをジャンプさせるんだ』とわめいたときだけ私たちのためにブギを弾いてくれるのでした。」(メリー・ルー・ウィリアムス)[注釈 9][7]1938年12月、「ライブラリー・オブ・コングレス」のために最初の録音を行う。1929年の世界恐慌で、大不況の時代になっていく。
1938年9月、トミー・ドーシー楽団「ブギ・ウギ」全米3位のヒット。ディーン・キンケイドが「パイントップス・ブギウギ」をビッグバンド用に編曲したこの曲をドーシー楽団はその後1943年(5位)、1945年(4位)と都合3回ヒットさせている。
1938年12月、ニューヨーク、カーネギー・ホールで「フロム・スピリチュアル・トゥ・スィング」開催。主催者ジョン・ハモンドの奔走によりアルバート・アモンズ、ミード・ルクス・ルイス、ピート・ジョンソンの出演が実現する。大変な評判となり翌39年には「ブギウギ・トリオ」としてシカゴの「シャーマン・ホテル」に出演、これをNBC放送が中継した。
1940年代
1941年、日本の真珠湾攻撃をきっかけに、アメリカは太平洋戦争、第二次世界大戦に参戦した。1940年代以降ブギウギは従来のピアノ演奏の一形態から、よりポピュラーな音楽として様々なジャンルの楽器演奏者、歌手に幅広い解釈をもって取り入れられる。
1944年9月、アーサー・スミス「ギター・ブギー」録音。ジャズ・ギタリストのスミスはトミー・ドーシー「ブギウギ」を元にこの曲を書き、1944年スーパーディスク・レコードから発売、1949年同じマスターを使用したMGM盤がヒットした。同曲はレス・ポール・トリオ(1946)、チャック・ベリー(1958)、フレディ・キング(1960)、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、トミー・エマニュエルなどジャンルを超え多くのギタリストに演奏、録音されるり
戦後、ブギウギ・リズムを基調としたカントリー音楽が流行。ヒルビリー・バップと呼ばれ、1950年代中期のロックンロール、ロカビリーの基礎となる。デルモア・ブラザース「フレイト・トレイン・ブギ」(1946)、テネシー・アーニー・フォード「ショットガン・ブギー」(1951 C&W1位)、ロイ・ホール「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」(1956)、など多くのカントリー・ミュージシャンがブギーをレパートリーにした。
ブルースとロック
ハダ・ブルックスは1916年ロサンゼルス生まれ。 幼少からクラシック・ピアノを学ぶ。1940年代中頃レコード店で演奏している時にジュークボックス修理工から声をかけられる。「君の最初の録音に800ドルの投資をしたい。ただし2週間でブギが弾けるようになるなら。」モダン・レコードを設立する直前のジュール・バイハリだった。1945年モダンからリリースした「Swingin' the Boogie」がヒット、「ブギの女王」と呼ばれる。1947年、「アウト・オブ・ザ・ブルー」(Out of the Blue) に歌手として出演、1951年黒人女性として最初のTV番組「ハダ・ブルックス・ショー」を持つ。2002年死去。
1948年9月、ジョン・リー・フッカーは「ブギー・チレン」を吹き込んだ。当時ブルースは一人で歌いギターを弾くスタイルは過去のものとなりバンド・アンサンブルが主流となっていた。しかしプロデューサー、バーナード・ベスマンはフッカーには弾き語りのスタイルが合うと確信。フッカーのフットストンプ音(足踏み)を強調するよう足元に板を用意、エコー効果を出すために便器に設置したスピーカーの音を拾った。「サリー・メイ」一曲に3時間を費やすなど録音は難航したがベスマンは自らブギ・ピアノを弾いて聞かせ、それをフッカーなりの解釈で演奏した「ブギー・チレン」が完成。1948年11月3日、モダン・レーベルから発売、R&B部門1位を獲得する[14]。フッカーは1961年には「ブーン・ブーン」を発表した。
ジャンプ・ブルースのルイ・ジョーダンも、ブギー・リズムのヒット曲を持っている。1959年にはフランキー・フォードが「シー・クルーズ」のヒットを放った。1970年代前半には英国のグラム・ロックでも、Tレックスやスージー・クアトロ、ゲイリー・グイッターらによって、盛んにブギーのリズムが使用された。70年代後半以降は、ブギー・リズムが使われることは減少し、カントリーやブルースの分野などで、使用が見られる程度になっている。
【Wikipedia】より