かくのごとく、「黒死館」の「浪漫性」は、「閉塞された浪漫性」であり、「道具立ての浪漫性」であり、「酵母の活きない浪漫性」であった。
夢野久作は『ドグラ・マグラ』を一九三五年に、小栗虫太郎は『黒死館殺人事件』を一九三四年に、それぞれ世に出した。また久作は四十七歳で急逝し、虫太郎もまた四十五歳で没した。こうした類似点を取り出して「この二人が生き長らえていれば、どのような果実を実らせただろうか」式の言葉でその早逝を名残惜しむのは、やや雑駁ような気もする。
例えば『ドグラ・マグラ』は構想と執筆に十年以上の歳月を費やした作だが、『黒死館殺人事件』は「完全犯罪」でデビューした翌年の作である。また久作がこの世を去ったのは『ドグラ・マグラ』を発表した翌年だが、小栗の方は『黒死館』発表からその逝去まで十二年の執筆期間がある。つまり久作は作家としての終着点が『ドグラ・マグラ』であったが、虫太郎は『黒死館』がほぼ作家としての始発点であり、むしろそこから彼の変化と進化が始まるのである。
http://pengiin.seesaa.net/article/500360592.html
その証拠として、松山が『潜航艇「鷹の城」 小栗虫太郎傑作選〈四〉』解説冒頭に示した虫太郎の創作活動年表を掲げておこう。
T習作雌伏時代(大正一一・二年〜昭和七年)
U本格全盛時代(昭和八〜九年)
V変格斉放時代(昭和一〇〜一一年)
W失意苦闘時代(昭和一二〜一三年)
X面従腹背時代(昭和一四〜十九年)
Y捲土重来時代(昭和二〇〜二一年)
『黒死館』で一つの頂点を極めてしまった虫太郎が次に目指したのは「新伝奇小説」である。虫太郎自身は「明日の探偵小説を語る座談会」(出席者:海野十三・江戸川乱歩・小栗虫太郎・木々高太郎)でそれを次のようにと語った。
《小栗 あれはね、僕にとるとACの型と云うのになるんです。と云うのは、「黒死館」で代表されるものをAとし、「白蟻」で代表ーいや、これは一つしかないがーとにかくBとします。それから、「紅毛傾城」なんかをCの型とする。所が、AとBの結合を試みて、「お岩殺し」で失敗した。そこで、次のAC型ですね。それが僕の云う新伝奇小説なんです》
やや躁病気味に語る虫太郎が印象的だが、しかしこれだけでは「新伝奇小説」の内実は未だ顕かでない。再び松山の力を借りよう。
《結局、虫太郎の「新伝奇小説」とは、「新・浪漫・伝奇・(探偵)・大衆小説」という欲張りなものであり、ともかくこの条件を充たした実作は、後にも先にも「二十世紀鉄仮面」しかなかったのである》
松山は虫太郎がこの方面に新たな野望を抱いた理由を冒頭の引用文によって指摘した。
《これに対して、「二十世紀鉄仮面」は、「解放された浪漫性」「人間関係の浪漫性」「血湧き肉躍る浪漫性」を縦横に発揮すべきものとして、構想されるのである》
しかし私はそれにもう一つつけ加えておきたい誘惑に駆られる。それは、虫太郎の心底に自らの劇的な文体を《縦横に発揮》したいという意識が流れていたのではないかということである。ここでいう劇的≠ヘ慣用句としての意味合いではない。文字どおり演劇的≠ニいう意味においてである。例えば『黒死館』は詩劇「ファウスト」を下敷きにしていることからも解るよう、その台詞は極めて演劇的である。嘘だと思うなら、試しに音読してみるとよいだろう。晦渋で、ともすれば退屈とも思える文体が、舌に乗せた瞬間、生き生きと立ち現れてくるはずだ。そして、それを証明するかのように虫太郎は前述の座談会において《新伝奇小説は、僕の重要な上演目録(レパートワール)の一つ》と語っている!
「二十世紀鉄仮面」は『黒死館』において十二分に躍動し得なかった自らの文体に、浪漫性を注入することによって新たな地平を拓こうとする虫太郎の野心の助走であった。虫太郎が生き長らえていれば、必ずや『黒死館』に並ぶ高塔が現れたに違いない。
《新たな探偵小説の創作に意欲を燃やした虫太郎に、天は第三の高塔の建築を許さなかったのである》
★松山俊太郎(1930〜2014)サンスクリット研究者の他、稀覯書蒐集家・幻想文学研究家としても知られ、特に小栗虫太郎には教養文庫版〈傑作選〉を編纂し、自ら詳細な解説を付すなど並々ならぬ執着を見せた。
『綺想礼讃』(国書刊行会)。
posted by koinu at 10:00| 東京 ☀|
本棚
|

|