2021年08月25日

『挑戦する脳』茂木健一郎(集英社新書)

「未知の領域に挑戦してきたからこそ、人類は文明を築き上げてきた。

挑戦することをやめてしまったら、人間は人間以外の何ものかになってしまうことだろう。」


脳の働きを一言で表せば、「学習」することで、決して完成することなく、その学習プロセスはオープン・エンド」な「旅」だと述べている。

そして挑戦は私たちが気付かないうちに、日常に忍び込んでいると指摘。


〈まえがき〉

「挑戦」とは、文脈を乗り越えていくことである。「大学入試」や「語学検定」といった特定の「文脈」の中で学習し、次第に正答率を上げていくことも、確かに一つの挑戦ではある。しかし、それは生という現場が私たちに提供する「挑戦」の本来の大らかさからは遠い。文脈にとどまっていては、生の本来の挑戦はできない。文脈を乗り越えること、あるいは、そもそも文脈さえもがないような状況に身をさらし、その中で踊り続けることが、生の本来の挑戦である。


 誰も見ていないところで、誰も見ていないからこそ、踊り続けるのだ。

 私たちは、困難な時代に生きている。グローバル化に伴うさまざまな混乱は、世界各地に共通のことではあるが、私たち日本人は、そのことを、より一層、骨身にしみて感じているのではないか。


日常生活においては、自分がある部分を注視しているということが、相手に対する心理的なメッセージともなる。「見る」「見られる」という関係性が、注視点のやりとりを通してダイナミックに変貌していく。そのような「晴眼者」どうしのコミュニケーションに慣らされている身からは、こちらがどこを見ているのか、全く気にしないかのようなその子の態度は、いかにも大らかでゆったりしたものに感じられた。


 最初にあった構えが、いつの間にか嘘のように消えていた。急速なこだわりの消滅は、今振り返れば、彼が私の視点の行く先を全く気にかけていなかったことによるとしか思えない。


 今振り返っても素晴らしいと思うのは、その子が、自分が視覚において「不自由」であるということにこだわっていなかったこと。そんあことは気にせずに、自分の人生を楽しむということに、全身全霊をかけているように見えたこと。

 とりわけ、「耳を澄ます」という態度の純度が心を動かした。私たちも、目に見えないものに耳を傾けるということはある。しかし、私たちはあまりにも視覚に依存し、それに左右されているがために、目に見えないものの気配を懸命に探るという態度が、人生の中で時々しか訪れない。

『挑戦する脳』第1 より


 そもそも、ある人間が存在すること自体が、必然的なことではない。たとえば、「茂木健一郎」この宇宙にいるのは偶然の結果であって、存在しないことも有り得た。この世界の中にいること自体が、さまざまな事象の作用が重なり合った、いわば「ボーナス」のようなもの。その存在には、本来何の保証もなかったのである。


 起源においては「偶然」であったにもかかわらず、いったんそのように存在してしまった以上、それが最初からの「必然」だったかのように作用し始める。このように、「偶然」から「必然」への命がけの跳躍が介在すること、すなわち「偶有性」こそが人間本来の本質である。

『挑戦する脳』第6 より 


このような「偶有性」の時代に求められているのは、ある決まった知識を身に付けることではない。むしろ、大量の情報に接し、取捨選択し、自らの行動を決定していく能力である。異なる文化的バックグラウンドの人たちと行き交い、コミュニケーションしていく能力である。

 そのような時代に、日本の教育現場の実態は「偶有性」から逃げてばかりいる。初等教育から高等教育まで、「標準化」と「管理」が支配的なモチーフであり、子どもたちが偶有性に適応するための能力が磨かれていない。旧態依然の教育観、学力観によって、時代遅れの教育が行われているのである。それでは「挑戦する脳」は育たない。

『挑戦する脳』第11 より 


 私たちの命は、そして意識は、何という奇跡に満ちていることだろう。確かに、この世は時に凄まじい。何も保証されているわけではない。大切なものも、奪われいってしまうこともある。すべてはつながっている。自然法則は、生きているものと死んでいるものを区別しない。悪意や、邪念があるわけではない。いつかは衰える。破壊される。死ぬ。しかし、その凄まじい世界の中で、私たちは生きている。震える意識を持っている。美しい、夕日が沈むその光景を目にして、涙することもある。

 踊ろう、と思った。この世は、畢竟、無意味かもしれない。やがては、全ては熱的死に飲み込まれてしまうかもしれない。永遠などない。やがてはもろもろが失われる。しかし、だからこそ、私たちは、「今、ここ」にあることの軌跡を、打ち震える魂の中でつかむことができる。

 目の前のことをしっかりやろうと思った。いつか、また、「その時」が来るかもしれない。それまでの、つかの間の日だまりのような日常。たとえ、それが、神様から与えられた執行猶予に過ぎないとしても、私は、「今、ここ」があたかも宇宙の万有であるかのように、踊り続けたいと思う。

 意味を問うな。踊れ。人生のさまざまことに悩みを深化させていた高校生のときに、フリードリヒ・ニーチェに教えてもらったこと。踊ることが、生きることの偶有性に対する、最も「強靭な」答えであり得ること。

 意味は、重力の魔である。負けてはいけない。踊れ。目の前の人を救え。生活を、立て直せ。エネルギーの将来を、必死になって考えよ。恋せよ。酒を呑め。花を見よ。愛せ。走れ。微睡め。空を見上げろ。「今、ここ」に没入せよ。耳に聞こえない音楽に合わせて、内側に耳を傾けて、踊れ。

 日本は必ず立ち直る。いつかまた、日だまりの中で、花を眺めて、みんなで笑えるときが来る。そのときまで、みんなで踊れ。

『挑戦する脳』第18 より 


あとがき

「人はなぜ挑戦するのか?」それは「新しい風景」を見るためだ。新生児の話や盲目の方の話。決断に際して怖さや迷いを感じても、「新しい風景」を見るために、あえて困難な、新しいことに挑戦しよう。それが脳の本質だから。


『挑戦する脳』茂木健一郎(集英社新書)より


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「人間の価値は、何よりもその人がどれくらい自分自身から解放されているかということで決まる。」アインシュタイン

posted by koinu at 10:25| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする