2020年09月03日

『氷の涯』夢野久作 著(春陽堂)

氷の涯 (こおりのはて

夢野久作が書いたロシア内戦中の満州内ロシア租借地、ハルピンを舞台とする手記形式の中編探偵小説。

『氷の涯』夢野久作 春陽堂出版昭和8年刊行。


「戦雲渦巻く陰謀の地ハルピンを舞台に、一兵卒が陥し入れられる奈落の底は……国境廃絶の予感に満ちた、土着の抒情と情念が白昼の午後開花する。」


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「氷の涯」より

「退屈な、話相手もない、兵卒の中の変り種である文学青年の僕に取っては、読書以外の何の慰安もなかったので……

 事実……屋上の展望と散歩を除いた哈爾賓の生活は、僕に取って退屈以外の何ものでもなかった。町のスケールが大きければ大きいだけ、印象がアクドければアクドいだけ、それだけ哈爾賓の全体が無意味な空っぽなものに見えた。(中略)その中で毎日毎日判で捺したような当番の生活をする僕……眺望と、散歩と読書以外に楽しみのない無力な兵卒姿の僕自身を発見する時、僕はいつも僕自身を包んでいる無限の空間と、無窮の時間を発見しないわけにはゆかなかった。宇宙は一つのスバラシク大きな欠伸である。そうして僕はその中にチョッピリした欠伸をしに生まれて来た人間である……という事実をシミジミと肯定しないわけにゆかなかった。」


「妾は主義とか思想とか言うものは大嫌いだ。チットモ解らないし面白くもない。『理屈を言う奴は犬猫に劣る』って本当だわ。

 ……妾には好きと嫌いの二つしか道がないのだ。妾はその中で好きな方の道を一直線に行くだけだわよ。」


「でも、そんなに苦労をしたお陰で、アンタと妾だけが、こうして助かる事が出来たんだから嬉しい。ホントウの事を正直に話す勇気のある者は、アンタと妾だけだから……。」


「そうして見る見る取り返しのつかなくなってゆく自分自身の運命を、千万無量の思いに湧きかえる上流の火の粉と艇尾の波紋の美観と一緒にして、ウットリと見惚れていたのであった。

 そのうちに僕はヤット気がついてニーナの方を振り向いた。無言のままブルブルと震える指をソッと彼女の肩に置いた。

 「……マア……キレイ……」とニーナは振り返りざま日本語で叫んだ。ピタリと機械を止めながら、危険を忘れて河の中流にコースを取った。それにつれて火光を真正面に受けたニーナの顔が見る見る真赤に輝やき出した。僕の顔をチラリと見ながら露語で尋ねた。」

「「……アンタが火を放(つ)けたんでしょう……


「その中にニーナは突然に僕の顔を振り返ってニッコリ笑った。

 「ねえアンタ。妾たちモウ駄目なのよ」

 トテモいい気持ちに陶酔しかけていた僕は、しかし平気で煙を吹き上げた。「フーン、どうして駄目なんだい」

 ニーナは平生の通り、梨の汁を飲み込み飲み込み話し出した。平気な、茶目気を帯びた口調で……

 「こっちの方へもスッカリ手が廻ってんのよ」と言うのであった。」


「「惜しい事をしたな。無罪の証拠になるんだったのに……

 「証拠なんかなくたってアンタは無罪じゃないの……

 「お前に対してだけはね……

 「妾は有罪だって何だって構やしないわ」」


「「ねえアンタ」

 「何だい」

 「……妾と一緒に死んでみない……

 僕はだまっていた。ちょうど考えていたことを言われたので……

 「ねえ。……ドウセ駄目なら銃殺されるよりいいわ。ステキな死に方があるんだから……」」


「僕らは今夜十二時過にこの橇に乗って出かけるのだ。まず上等の朝鮮人参を一本、馬に噛ませてから、ニーナが編んだハンド・バッグに、やはり上等のウイスキーの角瓶を四、五本詰め込む。それから海岸通りの荷馬車揚場の斜面に来て、そこから凍結した海の上に辷り出すのだ。ちょうど満月で雲も何もないのだからトテモ素敵な眺めであろう。

 ルスキー島をまわったら一直線に沖の方に向って馬を鞭打つのだ。そうしてウイスキーを飲み飲みどこまでも沖へ出るのだ。

 そうすると、月のいい晩だったら氷がだんだんと真珠のような色から、虹のような色に変化して、眼がチクチクと痛くなって来る。それでも構わずグングン沖へ出て行くと、今度は氷がだんだん真黒く見えて来るが、それから先は、ドウなっているか誰も知らないのだそうだ。」

(夢野久作 「氷の涯」 より)


底本:昭和四十九年三月二十日角川書店発行『押絵の奇蹟』収録

夢野久作「氷の涯」全文

https://ja.wikisource.org/wiki/氷の涯


氷の涯著者夢野久作 出版者春陽堂出版年月日昭和8年


ハルピン−小説「氷の涯」から見る夢野久作の世界

https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/ten_download/dlf69/hkd98442.pdf

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posted by koinu at 15:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

絵に描いたような空

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きょうもころしすぎる

あなたがせきをはずすのを

いまかいまかとまちながら

〔三角みづ紀「残酷な人」より〕

posted by koinu at 08:39| 東京 ☁| 観測 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする