『身体検査』ソログーブ・フョードル
(米川正夫訳)
*
この世では、いい事といやな事がまじりあい勝ちなものである。一年級ねんきゅうの生徒せいとでいるのはいい気持きもちだ――それはこの世できまった位置いちを作ってくれるからだ。しかし、一年生の生活にだって、時々いやなことがある。
夜が明けた。歩き廻わる足音や、話し声ごえなどがざわざわし始めた。シューラは目をさました。そのとき始めて気がついたのは、自分の着ているものが何か破れたという感じだった。それは気持が悪かった。何か横っ腹の辺で皺くちゃになったと思うと――やがてその中うちにシャツが破れて、もみくたになったという感覚が、もっとはっきりして来た。腋の下が裂けて、その裂口が一ばん下まで届きそうになったのが感じられた。
シューラはいまいましくなった。つい昨日、ママにそういったのを思い出した。
「ママ、僕に新しいシャツを出してよ。このシャツは腋の下が破れてんだもの。」
ママの返事はこうだった。
「あしたもう一日着てらっしゃい、シューラちゃん。」
シューラはいつも不機嫌な時によくする癖で、ちょっと顔をしかめながら、さも癪だというような調子で、
「だって、ママ、あしたになったらすっかり破れてしまうじゃないの。ぼく乞食みたいな恰好して歩くな厭だあ!」
けれども、ママはお仕事の手を止めようともしないで――一体あんなにのべつ縫物ばかりして何が面白いんだろう!――不足そうな声でいった。
「うるさいね、シューラ、今お前なんかに構ってる暇はないんだよ。ママは忙しいんですから。そうママに附まとってばかりいるなんて、いやな癖を始めたものね! あすの晩には取っかえてあげるって、そいってるじゃないの。もっと悪戯を加減したら、着物だってもう少しもつのにねえ。お前ったら、まるで身体に刃物でもくっつけてるみたいなんだもの――やり切れやしないわ。」
ところが、シューラは決して悪戯っ子ではなかったので、不平そうにいった。
「これよりか悪戯を加減するなんて、どうしたらいいの? あれよか減らせやしないや。だって、僕ほんのぽっちりしか悪戯しないんだもの。悪戯をするたって、どうしてもしずにいられないだけやってるんだよ。あれっくらいしないわけに行かないや。」
で、とうとうママはシャツを出してくれなかった。ところが、その結果はどうだったろう! シャツは裾まですっかり裂てしまった。もうこうなったら、棄てしまうより仕方がない。ほんとに何て考えのないママだろう!
壁の向こうでは、ママが早く家を出ようと思って、せかせかと歩き廻っている音が聞きこえる。ママは外にいい仕事を持っていて、たくさんおあしがもらえるので、いつまでもやめたくないのだという事を、シューラは思い出した。それはもちろん、いいことだけれど、やがて今にもママが行ってしまうと、シューラは破れたシャツを着て、学校へ出かけなければならなくなる――そうしたら、シャツは晩までには、どんなになるかわかりゃしない!
シューラは素早くはね起きて、毛布を床へおっぽり出すと、はだしで冷たい床板をぱたぱたと大きく鳴しながら、ママのところへ飛んで行き、いきなりこうわめいた。
「ほうら、ママ、これを見て頂戴! きのう僕そういったじゃないの、ほかのシャツを出ててくんなきゃ駄目だって。それだのにママがしてくれないもんだから、ね、ほうら、ご覧よ、こんなになっちまったじゃないの!」
ママは腹の立ったらしい目つきでシューラを睨んだ。そして、いまいましそうに顔を赤くして、ぶつぶつ小言をいい出した。
「いっそもう裸で駈だしたらいい、この子は! なんて恥っさらしだろう! この子にかかったら、ほんとに手こずってしまう。すっかりわがままになってしまってさ!」
いきなりシューラの両肩を掴んで、自分の寝室へ引っぱって行った。シューラは心配になって、胸がどきりとした。ママはこういった。
「わたしが急いでるのを知ってるくせに、やっぱりうるさく附きまとうんだね。ほんとに情けない子だよ!」
けれど、このシャツのままで打っちゃって置かれないのは、もう目に見えていた。仕方なしに箪笥をあけて、まだ袖を通さない新しいシャツをとり出した。というのは、ママがきょう着せてやろうと思ったシャツは、みんなまだ洗濯屋へ行っていて、夕方でなければ返って来なかったからである。
シューラはすっかり喜こんでしまった。新あたらしいシャツを着るのは、とてもいい気持だった――ごわごわして、ひやりとして、変に肌をくすぐるのが、おもしろくってたまらない。袖を通しながらも、笑ったり、ふざけたりした。けれども、ママはもうその相手をしている暇が一分ぷんもなかったので、いそいで出て行ってしまった。
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その朝学校で、お祈りの前に、講堂にいるシューラのそばへ、ミーチャ・クルイニンが寄って来て、
「君、どうした、持って来た?」とたずねた。
シューラは、新しい歌を集めた本を持って来てやると、きのうクルイニンに約束したのを思い出した。ポケットへ手を突っこんでみたが、本はなかった。
「じゃ、外套がのポケットへ置いて来たんだ。今すぐ取って来るよ。」
こういって、外套室へかけ出した。このとき小使いがベルのボタンを押したので、味もそっけもない広い校舎じゅうへ、けたたましいベルの音が響びき渡った。お祈のりに行く時間が来たのだ――これをしなくちゃ授業を始めるわけにゆかないのだから。
シューラはあわてた。外套のポケットへ手てを突っこんでみたが、手にあたらない。と、不意に気がついて見ると、それは人の外套だった。シューラはさもいまいましそうに叫んだ。
「やっ、大変だ、人の外套へ手を突っこんじゃったあ!」
こういって、自分のを捜がしにかかった。
と、すぐそばで冷かすような笑い声が聞こえた。悪たれで通っているドゥチコフのいやな声だ。シューラは思いがけなさにぴくっとなった。遅刻して、たったいま来たばかりのドゥチコフは、大きな声でこういった。
「おい、君、どうしたい、人の外套のポケットさがしかい?」
シューラはぷりぷりした声で答えた。
「それが君にどうだってんだい、ドゥチカ? 君のポケットじゃあるまいし。」
本がみつかったので、講堂へ走って帰えると、もう生徒らはお祈りの整列をしていた。背の順に長い行列を作っているので、小さいのは前の方で聖像に近く、大きいのはうしろに立っている。そして、どの列れつでも右側にいるのがちょっと高い方で、左側は低くめの子供こどもになっている。そればかりでなく、少しわきの方ほうには、讃美歌を器用にこなす子供たちが並んでいて、その中なかの一人はいつも歌い出だす前に、そっといろいろな声で唸うなるような真似をする――これを称しょうして、調子を決めるというのだ。みんな大きな声で、さっさと無表情に歌った。まるで太鼓でもたたくような工合ぐあいだ。当番の生徒は祈祷書を見ながら、歌ないで読むことになっている祈祷を朗誦した――その朗誦がやはり大声の無表情で、一口にいえば、何もかもいつもの通りだった。
お祈りのあとで、ひと騒動もちあがった。
*
二年生のエピファーノフが、ナイフと一ルーブリ銀貨をなくしたのである。この赤いほっぺたをした太っちょの子供は、盗難に気がつくと、わっと泣声をあげた。ナイフは真珠貝の柄のついた綺麗なものだったし、一ルーブリ銀貨はのっぴきならぬ用にいるのであった。で、先生のところへいいつけに行いった。
さっそく調べが始じまった。
ドゥチコフは、シューラ・ドリーニンが外套室で、人の外套のポケットを探さぐっているのを、自分の目で見たと申もうし立たてた。シューラは生徒監せの部屋へ呼よばれた。
生徒監せいとかんのセルゲイ・イヴァーヌイチは、うさん臭くさそうな目付めつきで、ひたとこの少年しょうねんを見つめた。
……やがて今に緊急教員会議が招集され、続いて小泥棒は退学処分になる……。それは何も一向いいことではない筈なのだけれど、いうことを聞かぬいたずら者の腕白どもに、老教師はもうほとほと手を焼いているので、まるで探偵みたいな顔つきをしながら、まっ赤になってもじもじしているこの少年しょうねんを見みつめていたが、そろりそろり質問しつもんを始めた。
「なぜお前まえは祈祷の時に外套室なんかにおったのだ。」
「祈祷の前です、先生。」おびえて上ずった声で、シューラは小鳥でも啼くようにいった。
「まあ祈祷の前としてもよい。」生徒監はいった。「しかし、わたしはなぜかと聞いておるのだ。」
シューラはそのわけを話した。生徒監は言葉を続づけた。
「まあ、本を取りに行いったとしてもよい。だが、なんのために他人のポケットへ手をつっ込こんだのだ?」
「間違ったんです。」とシューラは辛そうに答えた。
「困った間違いだな。」責めるように頭を振りながら、生徒監は注意した。「が、お前いっそ正直にいってしまったがよい――お前はつい間違って、ナイフと一ルーブリ銀貨を取りやしなかったかね? つい間違って、え? ひとつ自分のポケットを見てごらん。」
シューラは泣きだした。そして、涙の合間にこういった。
「僕なんにも盗みやしません。」
「もし盗まなかったのなら、なぜ泣くのだ?」と生徒監はいった。「わたしは何もお前が盗んだとはいやしない。ただ間違ってしたろうと想像するまでだ。手にあたったものを握ってそのまま忘わすれてしまったんだろう。ポケットの中なかを掻きまわしてご覧らん。」
シューラは急いでポケットの中から、この年頃の男の子につきものになっている他愛のない品々を、すっかり出して見せた――それから両方のポケットもひっくり返した。
「なんにもありません。」といまいましそうにいった。
生徒監はためすような目つきで、その顔を見つめていた。
「どこか服の下にでも紛れこんではおらんかな、え? ひょっとしたら、長靴の中にナイフが落ちてるかも知れんぞ、え?」
ベルを鳴した。小使がやって来た。
シューラはおいおい泣いた。あたりのものがばら色の靄に包つつまれて、ふわふわ動き出した。もの狂しい屈辱感に気が遠くなったのだ。シューラの身体はぐるぐる廻されたり、探りちらかされたりして、隈なく検査れた。おまけに少しずつ裸にされた。小使は長靴をぬがして、ふるって見た。万一のために、靴下もはいでみた。バンドもはずし、上着からズボンも取らせた。何から何までばたばたふるって調べてみた。
悩しいばかりの羞恥と、人に屈辱くつじょくを与えるきりで、何の役にも立たぬ型ばかりの手続を憤どおる気持、その蔭から躍あがらんばかりの喜びが、彼の心を貫いた。破れたシャツは家うちに置いて来たから、今この職務に忠実な教育家のこわばった手の動きにつれて、新しい小こざっぱりしたシャツがさやさやと、かすかな音を立ているのだ。
シューラはシャツ一枚で立ったまま、おいおい泣いていた。と、ドアの外で騒々しい人声や、賑かな叫び声などが聞えた。
ドアがどしんと壁にぶっつかって、誰やら赤い顔をしてにこにこ笑っている子供がはいって来た。はずかしさと、悲しさと、新しいシャツを思う嬉しさのこんぐらかった中で、シューラは誰かのうきうきしたような、もじもじしたような声を聞わけた。走って来きたためにやや息ぎれがしている。
「めっかりました、先生。エピファーノフが自分で持ってたんです。ポケットに穴があいてたもんですから、ナイフも銀貨も長靴ん中へ落ちてたんです。今なんだか足の工合が変だと思って見たらめっかったんです。」
すると急に生徒監はシューラにやさしくなって、頭を撫たり、慰さめたり、服を着るのを手伝ったりした。
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シューラは泣いてみたり、また笑い出したりした。家へ帰えっても、また泣いたり笑わらったりした。ママに様子を話して、訴ったえた。
「すっかり服をぬがしちまったんだよ。あの破けたシャツを着てたら、いい恥さらしをするとこだった。」
それから……それから別に何ごとがあろう? ママは生徒監のところへ出かけて行った。生徒監を相手にひと騒わぎ持ちあげた上、あとで訴うったえてやるつもりだったのである。けれどその途中で、うちの子は授業料を免除してもらってるのだったっけ、と思い出した。騒ぎを持ちあげるわけに行いかなかった。それに、生徒監はとても愛想よく母親を迎えて、さんざんお詫びをいったのだから、その上どう仕様があろう?
身体検査のときの屈辱感は、少年の心にいつまでも残っていた。それは胸に深く刻ざみ込まれてしまったのだ。窃盗の嫌疑を受けて、身体検査までされ、半裸体の姿で立ちながら、職務に忠実すぎる男の手てで自由にされる――これがはずかしくないだろうか? しかし、これも経験なのだ。人生に有益な経験なのだ。
ママは泣きながらいった。
「何なんにもいえないんだからね――大きくなったら、こんな事どこじゃない、まだまだひどい目にあうかも知れないんだよ。この世にはいろんな事があるからね。」
底本:「日本小國民文庫 第十四巻 世界名作選(一)」
(米川正夫訳)新潮社
1936(昭和11)年2月8日発行
ソログープ Fyodor Kuz'mich Sologub 1863‐1927
ロシア・デカダン派の代表的な小説家,詩人。デカダン派のなかでは最年長で,貧困のなかで育ち,30歳を過ぎてから文壇に登場した。本格的な作家活動に入ったのは,長編小説《小悪魔》(1905)が大成功を収めてからである。彼の作品には,現実嫌悪,死への憧れ,悪魔主義,サディズムが見られるが,デカダン派の他の作家よりもはるかに感覚的で,そのために同時代の人々から〈生まれつきのデカダン詩人〉と呼ばれた。詩作品の特徴は,平明さと簡潔さと脚韻の明確さで,ロシア詩史上,重要な地位を占めている。