2020年07月28日

「商人」谷川雁

おれは大地の商人になろう

きのこを売ろう あくまでにがい茶を

色のひとつ足らぬ虹を

 

夕暮れにむずがゆくなる草を

わびしいたてがみを ひずめの青を

蜘蛛の巣を そいつらみんなで

 

狂った麦を買おう

古びておおきな共和国をひとつ

それがおれの不幸の全部なら

 

つめたい時間を荷造りしろ

ひかりは桝に入れるのだ

 

さて おれの帳面は森にある

岩蔭にらんぼうな数学が死んでいて

 

なんとまあ下界いちめんの贋金は

この真昼にも錆びやすいことだ

 

谷川雁(1923−19951961年に吉本隆明、村上一郎と思想・文学・運動の雑誌「試行」を創刊。1962年に松田政男、山口健二、川仁宏らが自立学校を企画して、吉本隆明、埴谷雄高、黒田寛一たちと講師となった。

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蜂のように蜜と意味を

詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ。(リルケ『マルテの手記』)


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たとえば童の花を見ると、「可憐だ」と私たちは感ずる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは私は、董の黒ずんだような紫色の花を見たとき、何か不吉な不安な気持ちをいだくのである。しかし、その一瞬後には、私は常識に負けて、その花を可憐なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、董というとすぐ「可憐な」という形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負の決定するところだ、と私は思っている。」(本多勝一『日本語の作文技術』より)

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