2020年05月31日

「東京三時間失踪術」種村季弘


(川本三郎さんとの対談「路地の博物誌」43頁)『東京迷宮考 種村季弘対談集』より



「東京三時間失踪術」から抜粋

「いまは東京を離れてしまっているが、東京に住んで勤めに出ていた頃、私は三時間失踪という忍びの術をよく使った。勤めの時間が終わると、自宅とは反対方向の電車、バスに乗る。ときにはそれを乗り継いで、何の用もない界隈でふらりと途中下車する。そこで三時間程だけ町を流す。場末らしい商店街が続き、それが途切れると横丁が四通八達して、家々の前には植木鉢の木棚があり、子どもの赤い三輪車がころがっている。魚を焼くにおいがする。磨硝子の窓ごしにテレビの明滅する輝きが映り、少女が家のなかのだれかを呼んでいる声がする。

 それだけである。たったそれだけの町の気配を横丁づたいに歩きながら確かめる。自分が恐ろしく遠いところから、場違いに見知らぬ町にまぎれ込んでしまったという感情がにわかにこみ上げてくる。

 それは根のない東京人特有の感情だ。自分のいるべき場所はここではない。かといって帰るべき具体的な故郷があるわけではない。背中がぽっかり抜けて、その空洞感がどこにもない宇宙の果てのようなところにつながっている。

 そういうヤケッ八みたいに風の吹き抜けている気分は、東京人だけが東京で味わえる感情なのではあるまいか。味もそっけもない空洞感、それでいてそのささやかな空洞感がつながっている遠い広大な空無の故郷へのノスタルジー。それが味わいたさに、夕刻の三時間だけ失踪してはそしらぬ顔で自宅へ戻っていたのである。」

『晴浴雨浴日記』(河出書房新社)収録


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「世界は動いている。世界は確実に動いてどんどん先へすすみ、自分一人だけがとりのこされている。そう思った。」

(種村季弘・同書「教養三日論者」より)

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2020年05月30日

『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』大塚英志(星海社新書)

二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』大塚英志(星海社新書)


【内容紹介】 

時は一九七八年。東京は新橋にひっそりと佇む、今はなきビルの「二階」に、その編集部はあった。そこに住み着くようにして働き始めたのは、まだ行くあてすら定かではなかった若者たち。のちに「おたく」文化の担い手として歴史に名を残すことになる彼らが集ったその「二階」は、胡散臭くもじつに「奇妙で幸福な場所」だった―。


一九八〇年にアルバイトとして「二階」で編集者の道を歩み始め、八〇年代を通して巻き起こった、今日に至る「おたく」文化の萌芽とメディア産業の地殻変動の歴史を目撃してきた大塚英志がよみがえらせる、''あの,,時代の記憶。これはサブカル文化史料にして、極上の青春譚である。


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【目次】

第1章 そもそも「徳間書店の二階」とはどういう場所だったのか

第2章 『アサヒ芸能』とサブカルチャーの時代

第3章 徳間康快と戦時下のアヴァンギャルド

第4章 歴史書編集者・校條満の「歴史」的な仕事

第5章 劇画誌編集としての鈴木敏夫

第6章 そうだ、西崎義展に一度だけ会ったのだった

第7章 『宇宙戦艦ヤマト』と「歴史的」でなかったぼくたち

第8章 『アニメージュ』は「三人の女子高生」から始まった

第9章 最初の〈おたく〉たちと「リスト」と「上映会」の日々

第10章 「ファンたち」の血脈

第11章 「アニメ誌編集の作法」を創った人たちがいた

第12章 「橋本名人」が二階の住人だった頃

第13章 「ガンプラ」はいかにして生まれたか

第14章 そもそもぼくはいかにして「二階」にたどりついたか

第15章 尾形英夫、アニメーターにまんがを描かせる

第16章 浪花愛と「アニパロ」の誕生の頃

第17章 シャアのシャワーシーン、そして『アニメージュ』と『ガンダム』の蜜月

第18章 安彦良和はアイドルである。しかし…

第19章 『アニメージュ』、宮崎駿に「転向」する

第20章 池田憲章はアニメーションを語ることばをつくらなくてはいけないと考える

第21章 「ロリコンブーム」と宮崎駿の白娘萌え

第22章 『ヤマト』の「終わり」と金田チルドレンの出現

第23章 テレビアニメを見て育った人がテレビアニメをつくる

第24章 押井『ルパン』と教養化するアニメーション

第25章 二階の「正社員」たちは「マスコミ志願」だった

第26章 「暴走アニメーター」とは何者だったのか

第27章 庵野秀明には「住む家」はなかったが「居場所」があった

第28章 データ原口のデータベースな生き方

第29章 そしてみんな角川に行った…わけではなかった


本書は2012年2月号から2014年6月号にかけて『熱風』(スタジオジブリ)に発表された同名連載を、加筆修正のうえ新書化したものです。


大塚英志   まんが原作者・批評家 

1958年東京都生まれ。筑波大学卒。80年代を徳間書店、白夜書房、角川書店で編集者として活動。詳細は『「おたく」の精神史』、本書『二階の住人とその時代』を参照。まんが原作者としての近作に『クウデタア2』『恋する民俗学者』(ともにhttp://comic-walker.com/)、「コミックウォーカー」内に自腹で自主制作サイト「大塚英志漫画」を主宰。批評家としては、文学・民俗学・政治についての著作多数。

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「あの旗を撃て!『アニメージュ』血風録」尾形英夫(発行/オークラ出版)

スタジオジブリ全面協力。『アニメージュ』を創刊、宮崎アニメをプロデュースしたアニメブームの仕掛け人が書き下ろす半生紀。


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アニメ情報専門誌「アニメージュ」の初代編集長・尾形英夫が、前史である「テレビランド」時代から、「アニメージュ」創刊する。

初期編集メンバーにはアニメーション制作に詳しい人がなく、「アサヒ芸能」などの外部から人員たちという異例な事態。それだけに他アニメ誌面とは違う、異色な取り組みとなる。そして虫プロ商事「COM」編集長くに関わった石井文男と校條満はマンガ編集経験があって、学生たち若い編集者たちを鍛えながら月刊誌として運営することになる。

マンガ「ナウシカ」連載からジブリ作品が生まれて、誌面の方針が変わってゆく。徳間書店のアニメ映画が言及され、『風の谷のナウシカ』『アリオン』『天空の城ラピュタ』、そして『となりのトトロ』。あとは『魔女の宅急便』とか『平成狸合戦ぽんぽこ』などに関わった舞台裏が語られる資料性の高い内容。


「アニメージュ」にかかわった宮崎駿、高畑勲、鈴木敏夫、富野由悠季、安彦良和、池田憲章、ササキバラ=ゴウ、古林英明らがコメントを寄せている。表紙は宮崎駿。


尾形英夫 昭和8年2月20日生。宮城県気仙沼市出身。明治大学卒。昭和36年徳間書店(アサヒ芸能出版株式会社)入社。『アサヒ芸能』編集部、『月刊テレビランド』編集長を経て、『月刊アニメージュ』を創刊、初代編集長を務める。「風の谷のナウシカ」などスタジオジブリ作品を企画プロデュース、スタジオジブリ設立にも尽力する。平成6年、徳間書店常務取締役として同社退社。現・株式会社TMF代表取締役。

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映画『アリオン』スタッフ

製作:徳間康快 磯邊律男 春名和雄 伊藤昌典

企画:徳間書店 日本サンライズ

アリオン製作委員会:

山下辰巳 熊谷繁夫 田中利通 山浦栄二 森江宏 布川功

構成:川又千秋

脚本:田中晶子 安彦良和

音楽:久石譲

キャラクターデザイン 作画監督:安彦良和

キャラクターデザイン 協力:山岸凉子

美術監督:金子英俊


音響監督:千葉耕一

撮影監督:斉藤秋男

プロデューサー:尾形英夫 中川宏徳 山田哲久


原作・監督:安彦良和


- エンディングクレジット

演出:浜津守

原画:

塩山紀生 神村幸子 稲野義信 渡辺浩 金山明博 千明孝一 うつのみやさとる 金森賢二

佐久間しげ子 小林一三 篠田章 瀬沼靖治 坂本三郎 山内貴美子

遠藤麻未 坂本英明 大川弘義 遠藤栄一 牧野行洋 加藤義貴

内田順久 竹之内節子 斉藤格 福井亨子 向山祐治 土器手司 大貫健一

スタジオサニー マジックバス

作画監督補佐:高橋久美子 大橋誉志光

動画:鈴木美穂 服部真奈美 石割悦子 福本千津子 高橋祐子 田中健一 竹之内節子 大曽根真智子 西河広実 木村光雄 川元利浩 柘植直治 吉橋さち子 村上貴信 福井智子 西沢昇 橋本千鶴子 上田和子 足立みいこ 杉山嘉苗 漆戸晃 南黒沢由美

スタジオファンタジア スタジオダブ スタジオライブ 日本動画社 NVC

動画チェック:工藤千恵子 向山祐治

背景:平田秀一 日渡ひろみ 伊藤主圭 海老沢一男 青木龍夫 柴田千佳子 下野哲人 西村くに子 横瀬直土 有田秀一 原田謙一

アートランド スタジオ風雅 スタジオ・イースター アトリエ・ムサ

色指定:水田信子

仕上:サンライズスタジオ 京都アニメーション スタジオファンタジア 協栄プロダクション スタジオゼップ

IMスタジオ スタジオビーム うさぎ屋 マキ・プロ グループ・ジョイ

日本動画社 スタジオ九魔 タカプロダクション AIC

色指定補佐:井延恭子 佐々木尚子

仕上検査:前とも子

仕上処理:吉森良子

特殊効果:干場豊 矢部貴子

タイトル:牧正宏

撮影:旭プロダクション

奥井敦 古林一太 伊藤修一 酒井幸徳

エリアル合成:平田隆文 古宮慶多

撮影協力:トランス・アーツ

編集:井上和夫 布施由美子(井上編集室)

音響制作:千田啓子

効果:佐藤一俊

効果助手:矢崎清孝

調整:井上秀司

調整助手:大谷六良 住谷真 福島弘治

音響助手:依田章良 中井聡

録音:東京テレビセンター

設定制作 演出助手:山口美浩

制作:西河稔 富岡秀行

制作進行:藤本容伯 岡田聡 太田博之

宣伝担当:井口貴史

音楽制作:徳間ジャパン

プロデューサー:三浦光紀

宣伝プロデューサー:和田豊 縣慎一

ディレクター:島袋晃 渡辺隆文

アリオン製作委員会:徳間書店 加藤博之 大塚勤 金子彰 鈴木敏夫

小林智子 横尾道男 谷中あつ子

博報堂 渡辺隆英 宮崎至朗 小島信雄 鈴木伸子

丸紅 福田耕三 矢島作男 宇佐美孝昭 高橋孝蔵 植田昌生 大川原久人

日本サンライズ 福島康正 真野昇 斉藤治子

プロモーションフィルム製作:寺沢賢 宮崎まさ夫

協力:宮田昭一 ケイコマーシャル ガルエンタープライズ DOLBY STEREO

技術協力:極東コンチネンタル梶@森幹生

現像:東京現像所

声のキャスト

アリオン:中原茂

レスフィーナ:高橋美紀

セネカ:田中真弓

アポロン:鈴置洋孝

アテナ:勝生真沙子

ハデス:大塚周男

ポセイドン:小林清志

ゼウス:大久保正信

リュカオーン:永井一郎

デメテル:武藤礼子

黒の獅子王(プロメテウス):田中秀幸

幼い日のアリオン:小宮和枝

ガイア:来宮良子

ギド:西尾徳

ヘラクレス:郷里大輔

アレース:島田敏

ピオ:太田貴子

エートス:宮内幸平

エートスの妻:京田尚子

祭司:西村知道

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空のかたまりを 砕く

「転身」 蜂飼耳


守ろう としてさしのべたつばさの

目にしみる そらとの界

西のひかりに背中を衝かれ そのはずみで

たら たり たる たれ たれ たれ

なみだに にたものを 腋のしたから

したたる アマ ミズ

したたる ユキ ドケ ミズ


いつまでも変わることのない

しかし ゆっくりと うつりつつある

おびただしい相似形がそらを

空のかたまりを 砕く

まばたきをせずにみている

あのなかに

あたしと


おもいの矛先をひたと揃え

よびかわしたものがいて、

でもな

いまや

見分けることが できない

みらいにつなぐためには記憶を

洗い流さなければならなかったひとよ

腋のした そこへ きつく抱いた

はじめてのたまごの ふたつはかえり

残るひとつは だめで つぎに


わたしはその中にいて、

ひいていく体温を

きょうだいたちのあかいあかい心拍に

捧げ


これで なん度目か

世界から こぼれ落ちるるる

「むすばれること」それさえ知らず

流れるあなたあたしあたしたち

すべての

守ろう としてさしのべられたつばさの

尖端に あつまり

無数の目が

みている

つぎの

巣の中


『蜂飼耳 詩集』(思潮社)より

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2020年05月29日

光あるところに影がある

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或る晴れた☀️陽がさんさんと降り注ぐ!
「私は中曽根と堤康次郎、田中角栄の線で、福島に原発が造られていく過程を描いた。 
また、東電がGE製の原子炉を採用したのが必然の結果であることも、 
鹿島建設と東芝がその建設と設備に深く関与していく過程も書いた。 
日本の原発にはアメリカ、否、ロスチャイルドの意向が強く働いていることも書いた。」 

鬼塚英昭著『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』 より
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2020年05月28日

「時効警察」木曜日夜11:00-深夜0:00 BS朝日

《深夜絶好調ドラマ再放送》

■ 「時効警察」528()〜夜11:00-深夜0:00BS朝日


「時効警察」あらすじ時効成立事件を趣味で捜査する、総武署時効管理課の警察官・霧山修一朗(オダギリジョー)の活躍を描くコメディーミステリー。

霧山は総武署交通課の三日月しずか(麻生久美子)と共に、自分が気になった未解決事件の真相を独自のアプローチで捜査していく。

犯人が分かっても、告知しません名刺を渡すシーンが毎回楽しみ。


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脚本・演出は三木聡、岩松了、園子温らが担当。演出とともに役者が乗り乗りで、演劇世界のユーモアに近い惚けた味がありました。


https://www.netflix.com/jp/title/81259808

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潜在意識に共鳴するカードを手にすると、あなたの世界が変わります。

シンボリズムを極めて、深い意識下の世界から、俊敏なメッセージを詠むパワーカード。
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ピクトグラム図案風タロットは、秘法22枚組のみ限定印刷。
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潜在意識に共鳴するカードを手にすると、あなたの世界が変わります。
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ペンギンタロットを使用した、占い方のページ。
限定制作カード格安販売中。

http://penguintarot.seesaa. net/

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仮にあなたがあと一年しか生きられないとしたら、何をして過ごしますか?その結論から、あなたが好きなことは何で、やりたいことはなんだと思いますか?

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ピクトグラム風・ペンギンタロットカード

ピクトグラム(pictogram

ピクトさんとは、指示・注意・警告等をメッセージする、標識に描かれた人物のこと。


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ピクトグラム風・ペンギンタロットカード

PICTOGRAM STYLE PENGUIN TAROT」大アルカナ22  キーワードのカード1枚 税込\2,200 送料

ペンギンタロット記事サイト

http://penguintarot.seesaa.net/


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「ペンギンタロット」原画図鑑

http://zerogahou.cocolog-nifty.com/photos/peintora22/index.html

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「美について」サマセット・モーム

 人は美という言葉で、審美感を満足させる額神的ないし物質的なもの「大抵は物質的なものだが」を意味していると思う。だか、これでは、水が意味するのは濡れたもの、と言うに等しい。〔中略〕私が気付いた奇妙なことは、美の評価には永続性がないという点だった。どこの美術館へ行っでも、ある時代の最高の目利きが美しいと判断したのに、現代の我々には無価値と思える作品で一杯である。私の生涯の間でも、少し以前まで最高とみなされていた絵画や詩から、美が日の出の太陽の前の白霜のように蒸発するのを見た。〔中略〕得られる結論はただ一つ、美は各時代の要求に関わるものであり。我々が美しいと思うものを調べて、絶対的な美の本質を探すのは無駄だということである。美が人生に意味を与える価値の一つであるにしても、それは常に変化しているものであり、それゆえ分析できない。〔中略〕


人間の肉体および精神構造の中には、ある音、あるリズム、ある色彩を特に魅力的だと思ってしまう要素があるのかもしれない。我々が美しいと思うものの要素には生理学的な根拠かあるのかもしれない。我々はまた、かつて愛したとか、時間の経過で感傷的な気分を誘うとか、そういう人、物、場所を思い出させるものを美しいと思う。見覚えがあるので美しいと思うときがある。その一方、珍しさに驚いて美しいと思うものもある。これらを総合してみると、類似あるいは対照による連想が美の情緒に大いに関係しているようだ。〔中略〕物の美はよく知るとともにさらに美しいと思うようになる、というだけではない。後の時代の人々が、あるものに喜びを見出していると、その美が次第に増してくるということである。

〔中略〕

絵画を見、交響曲を聴き、エロティックな興奮を覚えたり、長く忘れていた情景を思い出して涙したり、あるいは、連想によって神秘的な歓喜を昧わったりするのは〔中略〕これらの現象も、作品の均整と構造に対する冷静な満足と同じく美的情緒の大事な部分なのである。

   

 人の偉大な芸術作品に対する反応は正確に言うとどういうものであろうか。〔中略〕それは知的ではあるが、官能の喜びもある高揚感、力強い感覚と人間の束縛からの解放を伴う幸福感を与える興奮である。同時に、人間への共感に富むやさしさを自分の内部に感じる。心は休まり、穏やかな気分なのだが、どこか精神的に超然としている。事実、ある絵画や彫刻を眺め、ある音楽を聴いていると、時どき非常に強烈な感情を覚えたので、それは神秘家が神との結合を述べるときと同じ言葉でしか表現できなかった。

〔中略〕ジェレミー・ベンサムは、どんな種類の幸福も同じであり、楽しみの程度が同じなら子供の鋲遊びも詩もどちらも優劣はない、と言ったが、彼は愚か者だったのだろうか。この問題についての神秘家の答えは明白である。神秘家匝く、歓喜は、もし性格を強め、人間に正しい行為をなさしめるのでなければ、無価値である。歓喜の価値は人がいかなる仕事をするかによるのだ。


 これまで私は美的感受性のすぐれた人と付き合う機会が多くあった。といっても創作者のことを言っているわけではない。私か考えるに、芸術の作り手と受け取り手とではかなり大きな違いがある。創作者は、内なる自己を表現したくて堪らぬという衝動に突mき動かされて作品を作るのである。作ったものに美があっても、それは偶然だ。美が特別の目的であることはめったにない。彼らの目的は重荷となっているものを魂から解放することであり、その手段として、生来の才能次第で、ペン、絵の具、粘土などを使う。

私か言うのは、美を眺め鑑賞するのが人生の主たる仕事である人のことである。この連中には、尊敬すべき点ははとんどない。虚栄心が強く、自己満足の輩である。人生の実務的な仕事には不向きであり、経済的な理由から地味な仕事を黙々としている人を馬鹿にする。自分はたくさんの本を読み、たくさんの絵画を観たからというので、他の人より偉いと思っているのだ。現実から逃避するために芸術を楯にし、人間の生活に必要な活動を否定するために平凡なものには何であれ愚かしい軽蔑の目を向ける。麻薬常用者並みというか、いやもっと悪い。麻薬常用者なら、お山の大将になって仲間の人間を低く見たりはしないから。芸術の価値は、神秘主義者の考える価値と似て、どんな効果があるかにかかっている。単に楽しみを与えるというのであれば、どれほど精神的な楽しみであっても、あまり価値はない。せいぜいIダースの廿町とIパイントのモンラシェ酒くらいの価値しかない。もし美が癒し効果を持つなら、それはそれで結構。世の中は回避できない悪ばかりだから、人が一休み出来る避難所みたいなものがあれば有難い。ただし、悪から逃れるのではなく、休んでから力を盛り返して悪と対決しなくてはならない。というのは、芸術が人生における大きな価値の一つであるのなら、人間に謙虚、寛容、英知、雅量を教えるべきなのだ。芸術の価値は美でなく正しい行為である。


サマセット・モーム『サミング・アップ』行方昭夫 訳(岩波文庫)76章「美」より


https://youtu.be/uQy2MNfQpFA


W. Somerset Maugham was born in Paris in 1874. He trained as a doctor in London where he started writing his first novels. In 1926 he bought a house in Cap Ferrat, France, which was to become a meeting place for a number of writers, artists and politicians. He died in 1965.

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2020年05月27日

『マイ・ボディガード』(Man on Fire)2004アメリカ

BSテレ東 5月27日19時55分から放送。

トニー・スコット監督、ブライアン・ヘルゲランド脚本。AJ・クィネルの『燃える男』原作。デンゼル・ワシントンはこの映画で、『クリムゾン・タイド』に続いて再びトニー・スコット監督とタッグを組んだ。国内劇場では未公開作品。

https://youtu.be/AoCpKAxLCuw

かつては外人部隊で勇名を馳せたアメリカ人クリーシィも今や五十歳目前、虚無感に陥りかけていた。そんな彼が、とあるイタリア人実業家の令嬢ボディガードに雇われ、十一歳の少女との心の交流を通じて人生に希望をとり戻してゆく。だが娘は何者かに誘拐・惨殺されてしまった。

怒りに燃えたクリーシィは、たったひとり復讐に立ちあがる―クィネルのデビュー作の二回目の映画化は原作に忠実な内容となっている。

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『海底王キートン』興行大成功映画

映画『海底王キートン』

The Navigator1924年(59分)

監督/バスター・キートン ドナルド・クリスプ

出演/バスター・キートン

太平洋を漂流する豪華客船。キートンは意中の人キャサリンとたった二人きりで取り残され、あれやこれやと奮闘する。やがて客船は南海の島に漂流するが……

 興行的に最も成功したキートン作品でドル箱スターの仲間入りする。
大型客船「バフォード号」の廃棄処分の情報を知ったキートンは、2万5千ドルで買い上げて、その上でストーリーを練り上げる。船の小道具を利用したギャグが随所に生かされている。

https://youtu.be/yh6Rc_c-ABQ


【バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界(リュミエール叢書)

破天荒な天才喜劇役者の語る半生。「笑わぬ喜劇王」キートンが、映画のなかの凍りついた顔とはまた一味ちがった潤達な表情で、読む者を爆笑また爆笑に誘うことうけあいのウィットに富んだ傑作自伝。

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2020年05月26日

『ライムライト』チャップリン監督・脚本・製作 明日午後BSプレミアム放送

1952年製作、上映時間137分。

日本では1953年に公開。チャップリンが長編映画で初めて素顔を出した作品で、同時にアメリカでの最後の作品。

《美しきバレリーナによせる心を秘めて舞台に散った道化の恋… 名優の至芸と愛の名曲でうたい上げる感動のチャップリン・シンフォニー》

https://youtu.be/K8440epbXIc


英国一番の道化師カルヴェロは、中年を過ぎて落ちぶれ酒浸りの日々だった。

ある日、自殺しようと意識不明で倒れていた美しいバレエの踊り子を助ける。その娘テリーは姉が娼婦となって、レッスン代を払ってくれてたと知ってから足がマヒしてしまった。失望して生きる気力をなくした彼女をカルヴェロは介抱して、再びバレエを踊らせる。

ダンサーとして作曲家ネヴィルにも気に入られ、新作バレエの第一ダンサーに抜擢となった。カルヴェロはカムバックに失敗して、逆にテリーに励まされるのだった。

惚れ込んだネヴィルは彼女に愛を告白する。だがテリーの想いはカルヴェロにあり、結婚しようという。年齢差や自らの境遇とテリーの順風満帆の現在を比べて、結婚話を一蹴してしまう。彼女の元を離れて、辻音楽師へと落ちぶれてゆくのだった。

その後テリーはヨーロッパ各地で、興業絶賛される。第一次世界大戦が始まりネヴィルは出征してゆく。ロンドンに帰ったネヴィルはテリーを口説くが、彼女はまだカルヴェロが忘れられない。

ある日街角で偶然カルヴェロに再会したテリーは、もう一度彼を舞台に立たせる手筈を調える。再起の舞台で熱演する道化師に観客は惜しみない拍手を送る。熱演のあまり、予定より勢いよく舞台から転落して、袖に運ばれる。何も知らずに鮮やかなライムライトの脚光を浴びて踊るテリーの姿を見ながら、彼は息を引取るのだった。


映画『ライムライト』 (1952年)チャップリンの最後のハリウッド映画

http://cinepara.iinaa.net/Limelight.html


監督:製作:脚本:チャールズ・チャップリン

撮影:カール・ストラス

音楽:チャールズ・チャップリン、ラリー・ラッセル、レイモンド・ラッシュ

助監督:ロバート・アルドリッチ


【キャスト】

カルヴェロ:チャールズ・チャップリン

テレーザ・アンブローズ(テリー):クレア・ブルーム

カルヴェロのパートナー:バスター・キートン

ネヴィル:シドニー・チャップリン

ポスタント:ナイジェル・ブルース

ボダリンク:ノーマン・ロイド

オルソップ夫人:マージョリー・ベネット

アルレッキーノを演じるバレエダンサー:アンドレ・エグレフスキー

メリッサ・ヘイデン:バレリーナ(劇中バレエのコロンビーヌの舞踊シーンにおいてクレア・ブルームに代わり踊った。)

オープニング・シーンの少女:ジェラルディン・チャップリン

オープニング・シーンの少女:ジョセフィン・チャップリン

オープニング・シーンの少年:マイケル・チャップリン

テレーザの医師:ウィーラー・ドライデン

カルベロの医師:レオナルド・ムディエ

ストリート・ミュージシャン:ロイヤル・アンダーウッド

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2020年05月25日

「エミリーの薔薇」フォークナー


古い屋敷の中でエミリー・グリアソンは30歳を過ぎた頃から亡くなるまで過ごした。約40年間に人付き合いもなく、時代に取り残された彼女が亡くなった時、町に住む人々は、謎に包まれた彼女の半生を改めて好奇心を抱く。

《彼女の家の内部は、すくなくとも過去十年間、庭師兼料理人の老僕をのぞけば、だれ一人見たものがいなかったのだ。》(p. 68)

エミリーの過去を断片的に遡る。税金も払わずに、郵便物の受け取りも拒否して、一人で世間の流れを拒絶して生き続けた心の闇が、少しずつ明るみに出てくる。

亡くなる10年前に、彼女の家の一室が埃だらけで掃除が行き届いていない、また屋敷から放たれる「異臭」に周囲の住民たちが堪りかねて苦情を申し入れたという過去が続く

悲劇の結晶となる異臭の正体とは何だったのか。その秘密はばらばらに散っていた時間が再び現在に戻って明かされる。

事態を水面下で解決すべく、町の男たちが夜中に屋敷敷地内に入って、消臭のための石灰をまいた。

《いままで暗かった窓の一つが明るくなり、灯りを背にしたミス・エミリーのすわった姿が窓枠にくっきりとうかびあがり、彼女のそり身の胴体は偶像のそれのごとく不動にかまえていた》(p. 74)

彼女が肖像画に描かれた大昔の人物のように映ったのか、この時点で彼女はまだ30代半ばくらいで、幽霊ではないのに背筋がぞくっとなる。

『フォークナー短編集』 龍口直太郎 訳 (新潮文庫)

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『ザリガニの鳴くところ』Where The Crawdads Sing ディーリア・オーエンズ(早川書房)

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この少女を、生きてください。 

全米500万部突破、2019年アメリカでいちばん売れた本 


泣いたのは、森で一人ぼっちの彼女が、自分と重なったからだ。──同じ女性というだけで。島本理生氏(小説家

ずっと震えながら、耐えながら、祈るように呼んでいた。小橋めぐみ氏(俳優

素晴らしい小説だ。北上次郎氏(書評家、早川書房公式note流行出し版「勝手に文庫解説2」より

http://www.webdoku.jp/column/radio/2020/0314212254.html


ノースカロライナ州の湿地で男の死体が発見された。人々は「湿地の少女」に疑いの目を向ける。 

6歳で家族に見捨てられたときから、カイアはたったひとりで生きなければならなかった。読み書きを教えてくれた少年テイトに恋心を抱くが、彼は大学進学のため彼女を置いて去ってゆく。 

以来、村の人々に「湿地の少女」と呼ばれ蔑まれながらも、彼女は生き物が自然のままに生きる「ザリガニの鳴くところ」へと思いをはせて静かに暮らしていた。 

しかしあるとき、村の裕福な青年チェイスが彼女に近づく…… 

みずみずしい自然に抱かれた少女の人生が不審死事件と交錯するとき、物語は予想を超える結末へ──。


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ディーリア・オーエンズ

ジョージア州出身の動物学者、小説家。ジョージア大学で動物学の学士号を、カリフォルニア大学デイヴィス校で動物行動学の博士号を取得。ボツワナのカラハリ砂漠でフィールドワークを行ない、その経験を記したノンフィクション『カラハリ―アフリカ最後の野生に暮らす』(マーク・オーエンズとの共著、1984)(早川書房刊)が世界的ベストセラーとなる。同書は優れたネイチャーライティングに贈られるジョン・バロウズ賞を受賞している。また、研究論文はネイチャー誌など多くの学術雑誌に掲載されている。現在はアイダホ州に住み、グリズリーやオオカミの保護、湿地の保全活動を行なっている。69歳で執筆した初めての小説である 


友廣純 立教大学大学院文学研究科博士課程中退、英米文学翻訳家。

posted by koinu at 09:33| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月24日

タロットと星座と天体について

無意識のうちにザリガニが、這い上がる世界。ふたつの塔に挟まれた月の変化とは?

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タロット占い方のページ。

http://penguintarot.seesaa.net/

《タロットカードの星座と天体》

T魔術師 双子座・処女座(水星)

U女教皇蟹座(月)

V女帝 牡牛座・天秤座(金星)

W皇帝 牡羊座(火星)

X法王 牡牛座(金星)

Y恋人たち 双子座(水星)

Z戦車蟹座(月)

[ 獅子座(太陽)

\隠者 乙女座(水星)

]運命の輪 射手座(木星)

]T正義 天秤座(金星)

]U吊し人魚座(海王星)

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]V死神蠍座(冥王星)

]W節制射手座(木星)

]X悪魔山羊座(土星)

]Y 牡羊座(火星)

]Z 水瓶座(天王星)

][魚座「海王星)

]\太陽獅子座(太陽)

]]審判蠍座(冥王星)

]]T世界 山羊座(土星)

愚者水瓶座(天王星)

《不正は正すべきか》

「LA JUSTICE」の天秤は平衡を保とうとします。正義というより「公平」。剣は、違法を罰する力。
人は生きる上で様々な想いを重ねるので、天秤は揺れます。昂まりと鎮まり、昇りと降り、喜びと苦しみ、得ることと与えること。
そして「公平」も「法」も、時代と社会その時々の価値観で揺れ動くもの。
8番のカードはただ厳しく罰する正義ではなく、慈悲も含んでいるのでしょう。
と、いうことで、ピクトスタイルのペンギンタロットでは、剣は少しだけ傾いています。天秤は、穏やかな和を願って、左右の違いはほんの少しだけ。

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タロット解説

http://zerogahou.cocolog-nifty.com/photos/22/

「さぁて、身軽に行こうかなぁ」

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posted by koinu at 14:03| 東京 ☀| 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月23日

低音は宇宙の形に似て

「天は羽撃き

 海嘯、沿岸にうねり輝き

 美しい

 処女(おとめ)は

 壮大に

 腿をはり

 古代歌謡をうたう

 その

 ひじょうな低音は宇宙の形に似て軽やかに木をとびこえるのだ」


                             (吉増剛造「恋の山」)

posted by koinu at 14:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月22日

『雲』 山村暮鳥

山村暮鳥


  序

 人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。
 そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。

 ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。
 その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。

 むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて實をそこなひ、實をこのみて風流をわする。
 これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。
 また言ふ。――花を愛すべし。實なほ喰ひつべし。
 なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い實在自然の聲があらうか。
 自分にも此の頃になつて、やうやく、さうしたことが沁々と思ひあはされるやうになつた。齡の效かもしれない。

 藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない。藝術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。
 これまでの自分には、そこに大きな惱みがあつた。
 それならなんぢのいまはと問はれたら、どうしよう、かの道元の谿聲山色はあまりにも幽遠である。
 かうしてそれを喰べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌禮拜するだけの自分である。

 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。

 だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。

 詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。

 善い詩人は詩をかざらず。
 まことの農夫は田に溺れず。

 これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
 なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。

 ――藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。
 藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何かの上に關はる。
 その妖怪を逃がすな。
 それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。

 何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。
茨城縣イソハマにて
山村暮鳥

  春の河

たつぷりと
春の河は
ながれてゐるのか
ゐないのか
ういてゐる
藁くづのうごくので
それとしられる

  おなじく

春の、田舍の
大きな河をみるよろこび
そのよろこびを
ゆつたりと雲のやうに
ほがらかに
飽かずながして
それをまたよろこんでみてゐる

  おなじく

たつぷりと
春は
小さな川々まで
あふれてゐる
あふれてゐる

  蝶々

ふかい
ふかい
なんともいへず
此處はどこだらう
あ、蝶々

  おなじく

青空たかく
たかく
どこまでも、どこまでも
舞ひあがつていつた蝶々
あの二つの蝶々
あれつきり
もうかへつては來なかつたか

  野良道

こちらむけ
娘達
野良道はいいなあ
花かんざしもいいなあ
麥の穗がでそろつた
ひよいと
ふりむかれたら
まぶしいだらう
でつかい蕗つ葉をかぶつて
なんともいへずいいなあ

  おなじく

野良道で
農婦と農婦とゆきあつて
たちばなししてゐる
どつちもまけずに凸凹な顏をし
でつかい荷物を
ひとりのは南京袋
もひとりののはあかんぼ
そのうへ
天氣がすばらしくいいので
二人ともこのうへもなく幸福さうだ
げらげらわらつたりしてゐる

  おなじく

そこらに
みそさざいのやうな
口笛をふくものが
かくれてゐるよ
なあんだ
あんな遠くの桑畑に
なんだか、ちらり
見えたりかくれたりしてゐるんだ

  おなじく

ぽつかりと童子は
ほんとに花でもさいたやうだ
ねむてえだづら
雲雀ひばりが四方八方で
十六十七
十六十七
といつてさへづつてゐる
野良道である
なにゆつてるだあ
としよりもにつこりとして
たんぽぽなんか
こつそりとみてゐる

  雲

丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる

  おなじく

おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平いはきたひらの方までゆくんか

  ある時

雲もまた自分のやうだ
自分のやうに
すつかり途方にくれてゐるのだ
あまりにあまりにひろすぎる
はてのない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにことして
ひよつこりとでてきませんか

  こども

山には躑躅が
さいてゐるから
おつこちるなら
そこだらうと
子どもがいつてる
かみなり
かみなり
躑躅がいいぢやないか

  おなじく

おや、こどもの聲がする
家のこどもの泣聲だよ
ほんとに
あんまり長閑のどかなので
どこかとほいとほい
お伽噺の國からでもつたはつてくるやうにきこえる
いい聲だよ、ほんとに

  おなじく

ぼさぼさの
生籬の上である
牡丹でもさいてゐるのかと
おもつたら
まあ、こどもが
わらつてゐたんだよう

  おなじく

千草ちぐさの嘘つきさん
とうちやんの
おくちから
蝶々が
飛んでつた、なんて

  おなじく

とろとろと瞳々めめ
とろけかかつたその瞳々
ねむたかろ
子どもよ
さあ林檎だ、林檎だ
まつ赤な奴だぞ

  おなじく

まづしさのなかで
生ひそだつもの
すくすくと
ほんとに筍のやうだ
子どもらばかり

  おなじく

こどもよ、こどもよ
燒けたら宙に放りあげろ
たうもろこしは
風で味よくしてたべろ
風で味つけ
よく噛んでたべろ

  おなじく

まんまろく
まんまろく
どうやら西瓜ほどの大きさである
だが子どもは※(「口+云」、第3水準1-14-87)つた
お月さんは
美味うまさうでもねえなあ

  おなじく

こどもはいふ
たくさん頭顱あたま
叩かれたから
それで
大人おとなは悧巧になつたんだね

  おなじく

篠竹一本つつたてて
こどもが
家のまはりを
駈けまはつてゐる
ゆふやけだ
ゆふやけだ

  おなじく

こどもが
なき、なき
かへつてきたよ
どうしたのかときいたら
風めに
ころばされたんだつて
おう、よしよし
こんどとうちやんがとつつかまへて
ひどい目にあはせてやるから

  馬

たつぷりと
水をたたへた
田んぼだ
しろかき馬がたのくろで
げんげの花をたべてゐる

  おなじく

馬が水にたつてゐる
馬が水をながめてゐる
馬の顏がうつつてゐる

  おなじく

だあれもゐない
馬が
水の匂ひを
かいでゐる

  ゆふがた

馬よ
そんなおほきななりをして
こどものやうに
からだまで
洗つてもらつてゐるんか
あ、螢だ

  朝顏

瞬間とは
かうもたふといものであらうか
一りんの朝顏よ
二日頃の月がでてゐる

  おなじく

芭蕉はともかくも
火をこしらへて
茶をいれた
それからおもひだしたやうに
かたはらのお櫃を覗いてみて
さびしくほほゑみ
その茶をざぶりぶつかけて
さらさらと
冷飯を食べた
朝顏よ
さうだつたらう
かれには、妻も子もなかつた

  おなじく

まんづ、まんづ
この餓鬼奴がきめはどうしたもんだべ
脊中で
おつかねえやうだよ
朝顏の花喰ひたがつてるだあよ

  驟雨

沼の上を
驟雨がとほる
そのずつとたかいところでは
雲雀が一つさへづつてゐる
ぐツつら
ぐツつら
馬鈴薯じやがたらいもが煮えたつた

  おなじく

驟雨は
ぐつしよりとぬらした
馬もうまかたも
おんなじやうに

  病牀の詩

朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて

ああ、勿體なし
そのひとつびとつよ

  おなじく

よくよくみると
そのの中には
黄金きんの小さな阿彌陀樣が
ちらちらうつつてゐるやうだ
玲子よ
千草よ
とうちやんと呼んでくれるか
自分は耻ぢる

  おなじく

ああ、もつたいなし
もつたいなし
けさもまた粥をいただき
朝顏の花をながめる
妻よ
生きながらへねばならぬことを
自分ははつきりとおもふ

  おなじく

ああ、もつたいなし
もつたいなし
森閑として
こぼれる松の葉
くもの巣にひつかかつた
その一つ二つよ

  おなじく

ああ、もつたいなし
かうして生きてゐることの
松風よ
まひるの月よ

  おなじく

ああ、もつたいなし
もつたいなし
蟋蟀きりぎりす
おまへまで
ねむらないで
この夜ふけを
わたしのために啼いてゐてくれるのか

  おなじく

ああ、もつたいなし
もつたいなし
かうして
寢ながらにして
月をみるとは

  おなじく

ああ、もつたいなし
もつたいなし
妻よ
びんばふだからこそ
こんないい月もみられる

  月

ほつかりと
月がでた
丘の上をのつそりのつそり
だれだらう、あるいてゐるぞ

  おなじく

あしもとも
あたまのうへも
遠い
遠い
月の夜ふけな

  おなじく

一ところ明るいのは
ぼたんであらう
さうだ
ぼたんだ
星の月夜の
夜ふけだつたな

  おなじく

靄深いから
とほいやうな
ちかいやうな
月明りだ
なんの木の花だらう

  おなじく

竹林の
ふかい夜霧だ
遠い野茨のにほひもする
どこかに
あるからだらう
月がよ

  おなじく

月の光にほけたのか
蝉が一つ
まあ、まあ
この松の梢は
花盛りのやうだ

  おなじく

こしまき一つで
だきかかへられて
ごろんと
でつかい西瓜はうれしかろ
その手もとが
ことさらに
月で明るいやう

  おなじく

月の夜をしよんぼりと
影のはうが
どうみても
ほんものである

  おなじく

漁師三人
三體佛
海にむかつてたつてゐる
なにか
はなしてゐるやうだが
あんまりほのかな月なので
ききとれない

  おなじく

くれがたの庭掃除
それがすむのをまつてゐたのか
すぐうしろに
月は音もなく
のつそりとでてゐた

  西瓜の詩

農家のまひるは
ひつそりと
西瓜のるすばんだ
でつかい奴がごろんと一つ
座敷のまんなかにころがつてゐる
おい、泥棒がへえるぞ
わたしが西瓜だつたら
どうして噴出さずにゐられたらう

  おなじく

座敷のまんなかに
西瓜が一つ
畑のつもりで
ころがつてる

びんばふだと※(「口+云」、第3水準1-14-87)ふか

  おなじく

かうして一しよに
裸體まるはだかでごろごろ
ねころがつたりしてゐると
おまへもまた
家族のひとりだ
西瓜よ
なんとか言つたらよかんべ

  おなじく

どうも不思議で
たまらない
叩かれると
西瓜め
ぽこぽこといふ

  おなじく

みんな
あつまれ
あつまれ
西瓜をまんなかにして
そのまはりに

さあ、合掌しろ

  おなじく

みんな
あつまれ
あつまれ
そしてぐるりと
輪を
いま
眞二つになる西瓜だ

  飴賣爺

あめうり爺さん
ちんから
ちんから
草鞋脚絆で
何といふせはしさうな

  おなじく

朝はやくから
ちんから
ちんから
あめうり爺さん
まさか飴を賣るのに
生まれてきたのでもあるまいが
なぜか、さうばかり
おもはれてならない

  おなじく

あめうり爺さん
あんたはわたしが
七つ八つのそのころも
やつぱり
さうしたとしよりで
かねを叩いて
飴を賣つてた

  おなじく

じいつと鉦を聽きながら
あめうり爺さんの
脊中にとまつて
ああ、一塊ひとかたまりの蠅は
どこまでついてゆくんだらう

  二たび病牀にて

わたしが病んで
ねてゐると
木の葉がひらり
一まい舞ひこんできた
しばらくみなかつた
森の
椎の葉だつた

  おなじく

わたしが病んで
ねてゐると
蜻蛉とんぼがきてはのぞいてみた
のぞいてみた
朝に夕に
ときどきは晝日中も
きてはのぞいてみていつた

  おなじく

蠅もたくさん
いつものやうにゐるにはゐたが
かうしてやんでねてゐると
一ぴき
一ぴき
馴染のふかい友達である

  椎の葉

自分は森に
この一枚の木の葉を
ひろひにきたのではなかつた
おう、椎の葉である

  ある時

どこだらう
ひきででもあるかな
そら、ぐうぐう
ぐうぐう
ぐうぐう
ほんとにどこだらう
いくら春さきだつて
こんなまつくらな晩ではないか
遠く近く
なあ、なあ、土の聲だのに

  ほそぼそと

ほそぼそと
松の梢にかかるもの
煮炊にたきのけむりよ
あさゆふの
かすみである

  こんな老木になつても

こんな老木になつても
春だけはわすれないんだ
御覽よ
まあ、紅梅だよ

  梅

ほのかな
深い宵闇である
どこかに
どこかに
梅の木がある
どうだい
星がこぼれるやうだ
白梅だらうの
どこに
さいてゐるんだらう

  おなじく

おい、そつと
そつと
しづかに
梅の匂ひだ

  おなじく

大竹藪の眞晝は
ひつそりとしてゐる
この梅の
小枝を一つ
もらつてゆきますよ

  山逕にて

善い季節になつたので
※(「くさかんむり/刺」、第3水準1-90-91)ばらなどまでがもう
みち一ぱいに匍ひだしてゐた
けふ、山みちで
自分はそのばらに
からみつかれて
脛をしたたかひつかかれた

  ある時

まあ、まあ
どこまで深い靄だらう
そこにもここにも
木が人のやうにたつてゐる
あたまのてつぺんでは
艪の音がしてゐる
ぎいい、ぎいい
さうかとおもつてきいてゐると
雲雀ひばりが一つさへづつてゐる
これでいいのか
春だとはいへ
ああ、すこし幸福すぎて
寂しいやうな氣がする

  ある時

麥の畝々までが
もくもく
もくもく
匍ひだしさうにみえる
さあ
どうしよう

  ある時

うす濁つたけむりではあるが
一すぢほそぼそとあがつてゐる
たかくたかく
とほくの
とほくの
山かげから
青天あをぞらをめがけて
けむりにも心があるのか
けふは、まあ
なんといふ靜穩おだやかな日だらう

  櫻

さくらだといふ
春だといふ
一寸、お待ち
どこかに
泣いてる人もあらうに

  おなじく

馬鹿にならねば
ほんとに春にはあへないさうだ
笛よ、太鼓よ
さくらをよそに
だれだらう
月なんか見てゐる

  お爺さん

滿開の桃の小枝を
とろりとした目で眺めながら
うれしさうにもつてとほつた
あのお爺さん
にこにこするたんびに
花のはうでもうれしいのか
ひらひらとその花瓣はなびらをちらした
あのお爺さん
どこかでみたやうな

  ある時

あらしだ
あらしだ
花よ、みんな蝶々にでもなつて
舞ひたつてしまはないか

  ある時

自分はきいた
朝霧の中で
森のからすの
たがひのすがたがみつからないで
よびかはしてゐたのを

  ある時

朝靄の中で
ゆきあつたのは
しつとりぬれた野菜車さ
大きな脊なかの
めざめたばかりの
あかんぼさ
けふは、なんだか
いいことのありさうな氣がする

  ある時

松ばやしのうへは
とつても深い青空で
一ところ
大きな牡丹の花のやうなところがある
こどもらの聲がきこえる
あのなかに
うちのこどももゐるんだな

  朝

なんといふ麗かな朝だらうよ
娘達の一かたまりがみちばたで
たちばなししてゐる
うれしさうにわらつてゐる
そこだけが
馬鹿に明るい
だれもかれもそこをとほるのが
まぶしさうにみえる

  藤の花

ながながと藤の花が
深い空からぶらさがつてゐる
あんまり腹がへつてゐるので
わらふこともできないで
それを下から見あげてゐる
ゆらりとしてみろ
ほんとに
食べたいやうな花だが
食べられるものでないから
寂しいんだ

  ある時

ばらばらと
雨が三粒

……けふは何日だつけなあ

  ある時

木蓮の花が
ぽたりとおちた
まあ
なんといふ
明るい大きな音だつたらう
さやうなら
さやうなら

  ある時

ほのぼのと
どこまで明るい海だらう
それでも溺れようとはせず
ちりり
ちりりり
ちどりはちどりで
まつぴるまを
鬼ごつこなんかしてゐる

  野糞先生

かうもりが一本
地べたにつき刺されて
たつてゐる

だあれもゐない
どこかで
雲雀ひばりが鳴いてゐる

ほんとにだれもゐないのか
首を廻してみると
ゐた、ゐた
いいところをみつけたもんだな
すぐ土手下の
あの新緑の
こんもりした灌木のかげだよ

ぐるりと尻をまくつて
しやがんで
こつちをみてゐる

  手

しつかりと
にぎつてゐた手を
ひらいてみた

ひらいてみたが
なんにも
なかつた

しつかりと
にぎらせたのも
さびしさである

それをまた
ひらかせたのも
さびしさである

  ほうほう鳥

やつぱりほんとうの
ほうほう鳥であつたよ
ほう ほう
ほう ほう
こどもらのくちまねでもなかつた
山のおくの
山の聲であつたよ
   *
ほう ほう
ほう ほう
山奧のほそみちで
自分もないてる
ほうほう鳥もないてる
   *
自分もそこにもゐて
ふと鳴いてるとおもはれたよ
ほう ほう
ほう ほう
   *
ほう ほう
ほう ほう
ほんとうのほうほう鳥より
自分のはうが
どうやら
うまく鳴いてゐる

あんまりうまく鳴かれるので
ほんとうのほうほう鳥は
ひつそりと
だまつてしまつた

  まつぼつくり

山のおみやげ
まつぼつくり
ぼつくり
ころころ
ころげだせ
晝餉ひるだよう
鐵瓶の下さたきつけろ

  讀經

くさつぱらで
野良犬に
自分は法華經をよんできかせた
蜻蛉とんぼもぢつときいてゐた
だが犬めは
つまらないのか、感じたのか
尻尾もふつてはみせないで
そしてふらりと
どこへともなくいつてしまつた

  蚊柱

蚊柱よ
蚊柱よ
おまへたちもそこで
その夕闇のなかで
讀經でもしてゐるのか
みんないつしよに
まあ、なんといふ莊嚴な

  ある時

また※(「虫+車」、第3水準1-91-55)ひぐらしのなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい國があるんだ

  ある時

松の葉がこぼれてゐる
どこやらに
一すぢの
風の川がある

  ある時

くもの巣
松の落葉が
いい氣持さうに
ひつかかつてゐる
あ、びつくりした
晝、日中

  ある時

たうもろこしの花が
つまらなさうにさいてゐる
あはははは
だれだ
わらつたりするのは
まつぴるまの
砂つぽ畠だ

  ある時

宗教などといふものは
もとよりないのだ
ひよろりと
天をさした一本の紫苑よ

  ある時

うつとりと
野糞をたれながら
みるともなしに
ながめる青空の深いこと
なんにもおもはず
粟畑のおくにしやがんでごらん
まつぴるまだが
五日頃の月がでてゐる
ぴぴぴ ぴぴ
ぴぴぴぴ
ぴぴぴぴ
どこかに鶉がゐるな

  ある時

こどもたちを
叱りつけてでもゐるのだらう
竹藪の上が
あさつぱらから
明るくなつたり
暗くなつたりしてゐる
ほんとに冬の雀らである

  ある時

まづしさを
よろこべ
よろこべ
冬のひなたの寒菊よ
ひとりぼつちの暮鳥よ、蠅よ

  ある時

その聲でしみじみ
螽斯こほろぎ螽斯こほろぎ
わたしは讀んでもらひたいんだ
おまえ達もねむれないのか
わたしは
わたしは
あの好きな※(「田+比」、第3水準1-86-44)尼母經びにもきやうがよ

  ある時

まよなか
尿せうべんに立つておもつたこと
まあ、いつみても
星の綺麗な
子どもらに
一掴みほしいの

  ふるさと

淙々として
あまの川がながれてゐる
すつかり秋だ
とほく
とほく
豆粒のやうなふるさとだのう

  いつとしもなく

いつとしもなく
めつきりと
うれしいこともなくなり
かなしいこともなくなつた
それにしても野菊よ
眞實に生きようとすることは
かうも寂しいものだらう

  ある時

沼の眞菰の
冬枯れである
むぐつちよ
ものをたづねよう
ほい
どこいつたな

  りんご

兩手をどんなに
大きく大きく
ひろげても
かかへきれないこの氣持
林檎が一つ
日あたりにころがつてゐる

  赤い林檎

林檎をしみじみみてゐると
だんだん自分も林檎になる

  おなじく

ほら、ころがつた
赤い林檎がころがつた
な!
嘘嘘嘘
その嘘がいいぢやないか

  おなじく

おや、おや
ほんとにころげでた
地震だ
地震だ
赤い林檎が逃げだした
りんごだつて
地震はきらひなんだよう、きつと

  おなじく

林檎はどこにおかれても
うれしさうにまつ赤で
ころころと
ころがされても
怒りもせず
うれしさに
いよいよ
まつ赤に光りだす
それがさびしい

  おなじく

娘達よ
さあ、にらめつこをしてごらん
このまつ赤な林檎と

  おなじく

くちつけ
くちつけ
林檎をおそれろ
林檎にほれろ

  おなじく

こどもよ
こどもよ
赤い林檎をたべたら
美味いしかつたと
いつてやりな

  おなじく

どうしたらこれが憎めるか
このまつ赤な林檎が……

  おなじく

林檎はびくともしやしない
そのままくさつてしまへばとて

  おなじく

ふみつぶされたら
ふみつぶされたところで
光つてゐる林檎さ

  おなじく

こどもはいふ
赤い林檎のゆめをみたと
いいゆめをみたもんだな
ほんとにいい
いつまでも
わすれないがいいよ
大人おとなになつてしまへば
もう二どと
そんないい夢は見られないんだ

  おなじく

りんごあげよう
轉がせ
子どもよ
おまへころころ
林檎もころころ

  おなじく

さびしい林檎と
遊んでおやり

おう、おう、よい子

  おなじく

林檎といつしよに
ねんねしたからだよ
それで
わたしの頬つぺも
すこし赤くなつたの
きつと、さうだよ

  店頭にて

おう、おう、おう
ならんだ
ならんだ
日に燒けた
聖フランシス樣のお顏が
ずらりとならんだ
綺麗に列んだ

  おなじく

錢で賣買されるには
あんまりにうつくしすぎる
店のおかみさん
こんなまつ赤な林檎だ
見も知らない人なんかに
賣つてやりたくなくはありませんか

  おなじく

いいお天氣ですなあ
とまた
しばらくでしたなあ
おや、どこだらう
たしかにいまのは
※(「木+孛」、第3水準1-85-67)まるめろの聲だつたが……





底本:「日本現代文學全集54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」講談社 
1966(昭和41)年8月19日発行

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『S.モームが薦めた米国短篇』(未知谷)

『S.モームが薦めた米国短篇』(未知谷)

名作の案内人としても名高いサマセット・モームが、アメリカの大都市以外に住む、手軽に文学書が手に入らない読者のために選んだ20世紀初頭の英米短篇46篇から、米国作家の6篇を厳選して新訳。


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「贈り物」ジョン・スタインベック

「再訪のバビロン」F.スコット・フィッツジェラルド 

「フランシス・マカンバーの短い幸せな生涯」アーネスト・ヘミングウェイ

「エミリーに一輪のバラを」ウイリアム・フォークナー

「詩は金になる」コンラード・バーコヴィッチ

「ローマ熱」イーディス・ウォートン


モーム日本公式サイト

https://maugham.exblog.jp/28289955/

posted by koinu at 13:00| 東京 🌁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『お菓子とビール』サマセット・モーム

『人間の絆』『月と六ペンス』と並ぶ、モーム(1874-1965)円熟期の代表作。最近亡くなった有名作家の伝記執筆を託された文士の友人から、作家の無名時代の情報提供を依頼された語り手の頭に蘇る、作家とその最初の妻と過ごした日々の楽しい思い出、人間の人生の裏表をユーモラスに見つめる。


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少年の頃に初めて夫妻に出会った時、二人は堅苦しい田舎で自由奔放に暮らしていた。感じたままに行動する夫人ロウジーに惹かれる。大作家が体面を繕い、長く生き残るのを名声を獲得する様を鋭く批判する。一方で感情を大切にする自由さ率直さを賛美している。


「エリートは人気というものを軽視する。凡庸の証だというのだ。しかし、後世の人たちが選ぶのはある時代の未知の作家ではなく、よく知られた作家からであるのを、彼らは見逃している。永遠に記憶されるに値する傑作がついに日の目を見ずに終わることもないだろうが、後世の人はその噂すら知らずにいる。

後世の人が今日のベストセラーを屑箱に入れてしまうこともありえようが、選ぶとすると屑箱の中から選ぶしかないのだ。」

「そもそもドリッフィールドが偉大な作家になったのは、長寿であったからだ」

「お菓子とビール」はシェイクスピアの「十二夜」句の中で「人生を楽しくするもの」から引用。ドリッフィールドの最初の妻であるロウジーのこと。たくさんの批判と対照的に、彼女はいつも美しく描かれる。桎梏から自由に生きるヒロインを賛美する。


「彼女は欲望を刺激する女ではなかったのです。誰もが彼女に愛情を抱いてしまいます。彼女に嫉妬を感じるのは愚かなことです。譬えてみれば、林間にある澄んだ池でしょうか。

飛び込むと最高の気分になれます。その池に浮浪者やジプシーや森番が自分より前に飛び込んだとしても、少しも変わらず澄んでいるし、冷たいのです。」


 「ロイが文壇で次第に頭角を現してくる過程を結構感心して見てきた。その道程は、これから文学の世界に入ろうとしているどんな青年にも大いに参考になるだろう。

あんな僅かな才能であれだけ高い地位を得た作家は私の同年代には見当たらないと思う。

ロイの才能たるや、健康に機敏な人なら毎日服用するがよいと宣伝されているサプリメントのスプーン山盛り一杯分くらいだろうか。」


「洗いざらい全部、美点ばかりでなく汚点もすべて出す方が面白いと思わないかい?」


「それはやろうたって出来ない。そんなことをしたら、エイミが口をきいてくれなくなる。僕の慎重さを信頼したからこそ、伝記を書いてくれと頼んだのだから。紳士らしく行動しなくてはならない」


《ある夜、書評のために「お菓子とビール」を読み始めたヒュー・ウォルポールはすぐに自分が風刺されていると気付き、ショックで一睡もできなかったそうである。

すぐにモームに手紙で抗議したがモームはキアには様々な人物を組み合わせて創造したものであり、モーム自身も多分入っていると回答したのであった。

しかしウォルポールがモデルだというのは、彼を知る多くの作家たちが直ちに気付いたのである。


(中略)八十歳記念版の序文では、はっきりとウォルポールを念頭に置いたことを告白している。》

(解説 行方昭夫より引用)


「紳士と作家を両立させるのは困難だよ」

「僕はそう思わないな。それに、批評家ってものを知っているだろう?作家が事実を示せば、彼らは皮肉だと批判するんだ。皮肉屋というのは作家にとってマイナスだ。(中略)

今度の伝記は、ヴァン・ダイクの描いた肖像画に似てるな。情緒豊かで、貴族的な卓越性があり、ある種の威厳もある。大体見当つくかな?八万語くらいだろう」

彼は一瞬美的な瞑想で恍惚としているように見えた。

心に見えるのは、高級紙に余白をたっぷり取って鮮明で上質な活字で印刷した、手に取ると軽いすっきりしたロイヤル八折本である。きっと金文字で飾った、滑らかな黒クロースの装丁も見ているのだろう。

だが、数ページ前に述べたように、彼は普通の人間に過ぎぬので、美的瞑想にいつまでも耽ることは叶わなかった。率直な微笑みを浮かべた。


作家の妻ローズは美しく陽気で、そして放縦。彼女にあこがれるアシェンデン、やがて医学生となった彼が経験するローズとの甘い経験。

モーム自身が最も好きな自作と公言していた長編小説「お菓子とビール」。大作家ウォルポールを貶して、愛する小鳩を飛びただせてしまうのだった。

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posted by koinu at 08:00| 東京 🌁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする