2020年04月03日

『寺山修司青春歌集』角川文庫

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき――恋人、故郷、太陽、桃、蝶、そして祖国、刑務所。含羞にみちた若者の世界をみずみずしい情感にあふれた言葉でうたい続け、詩の世界にひとつの大きな礎を築いた寺山修司。

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この書名に違和感あるほど、老成された内容に驚異する。例えば、


「歌ひとつ覚えるたびに星ひとつ熟れて灯れるわが空をもつ」


寺山修司の刊行した、歌集が発表順に収録。第一歌集『空には本』から『血と麦』『テーブルの上の荒野』『田園に死す』、さらには「初期歌篇」と続く重厚な書物だが、文庫本としてスマートな冊子。まず寺山修司は「私」が登場しない客観視点として、三人称で短歌を書くという離れ技から初めている。


だれも見ては黙って過ぎきさむき田に抜きのこされし杭一本を


めつむりていても濁流はやかりき食えざる詩すらまとまらざれば


にんじんの種子庭に蒔くそれのみの牧師のしあわせ見てしまいたる


枯れながら向日葵立てり声のなき凱歌を遠き日がかえらしむ


群衆のなかに昨日を失いし青年が夜の蟻を見ており


「私」のない歌は第一歌集『空には本』から、寺山修司のカメラ向こう側にある語句たちである。三人称で語られる物語の登場人物に近い。歌のなかに「私」が現れてても同じなのである。


銃声をききたくてきし寒林のその一本に尿まりて帰る


朝の渚より拾いきし流木を削りておりぬ愛に渇けば


胸の上這わしむ蟹のざわざわに目をつむりおり愛に渇けば


わが野性たとえば木椅子きしませて牧師の一句たやすく奪う


夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず


小説では一人称と三人称どちらが優れている描写なのか。私小説のような詩作は誰しもが手を染めるダサイ要素がある。しかし定型俳句や短歌の世界で、人称を自在に操ると「われ」の存在から現実味が乖離されて「われ」の言葉が美しく翔ぶ。


雲の幅に暮れ行く土地よ誰のためわれに不毛の詩は生るるや


目つむりて春の雪崩をききいしがやがてふたたび墓掘りはじむ


一本の骨をかくしにゆく犬のうしろよりわれ枯草をゆく


わが影を出てゆくパンの蠅一匹すぐに冬木の影にかこまる


これらは第一歌集『空には本』短歌で人称が自在に変転される技法を十代で身に付けていた。「あとがき」の文章も掲載されている。


「新しいものがありすぎる以上、捨てられた瓦石がありすぎる以上、僕もまた「今少しばかりのこっているものを」粗末にすることができなかった。のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。

 定型詩はこうして僕のなかのドアをノックしたのである。縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕の言語に自由をもたらした」(「僕のノオト」『空には本』より)


帆やランプなどが生かしむやわらかき日ざしのなかの夏美との朝


青空のどこの港へ着くとなく声は夏美を呼ぶ歌となる


どのように窓ひらくともわが内に空を失くせし夏美が眠る


空を呼ぶ夏美のこだまわが胸を過ぎゆくときの生を記憶す


わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして


わが埋めし種子一粒も眠りいん遠き内部にけむる夕焼


水草の息づくなかにわが捨てし言葉は少年が見出ださむ


わが内に獣の眠り落ちしあとも太陽はあり頭蓋をぬけて


とにかく収録歌数が多すぎて、圧縮された作品がぎっしり記された歌集五冊分を紐解くのは心的には充満した本。「種子」という言葉が多くあり、発芽して数年後には樹に育っていくイメージは歌集にも拡っている。


地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり


砂糖きびの殻焼くことも欲望のなかに数えんさびしき朝は


ドラム罐に顎のせて見るわが町の地平はいつも塵芥吹くぞ


電線はみなわが胸をつらぬきて冬田へゆけり祈りのあとを


寝台の上にやさしき沈黙と眠いレモンを置く夜ながし


愛されているうなじ見せ薔薇を剪るこの安らぎをふいに蔑む


地下鉄の入口ふかく入りゆきし蝶よ薄暮のわれ脱けゆきて


思い出すたびに大きくなる船のごとき論理をもつ村の書記


もうこれは現代詩のやってる不定型の表現を、短歌の領域でパンチを繰り出している。構想された長篇小説のエッセンスを読んでいる印象となる。

十代で同人誌活動にピリオドをうち、寺山修司は二十代から本格的に詩作、演劇、映画へと進んでいくのだった。


アスピリンの空箱裏に書きためて人生処方詩集と謂ふか


地下鉄の真上の肉屋の秤にて何時もかすかに揺れてゐるなり


撞球台の球のふれあふ荒野までわれを追ひつめし 裸電球


地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針


生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘


売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき


見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし


かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭


映画プロットのようにも読める定型俳句。ただならない予感がする歌の数々である。東北から上京した少年が、才能を展開していく様子は、インターネットで彼の履歴を検索しただけでも解る。詩作品は初期俳句を水割りして、飲みやすくされたとも読める。


春の野にしまひ忘れて来し椅子は鬼となるまでわがためのもの


地球儀の陽のあたらざる裏がはにわれ在り一人青ざめながら


とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を


知恵のみがもたらせる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱


倖せをわかつごとくに握りいし南京豆を少女にあたう


わが夏をあこがれのみが駈け去れり麦藁帽子被りて眠る


失いし言葉がみんな生きるとき夕焼けており種子も破片も


駈けてきてふいにとまればわれをこえてゆく風たちの時を呼ぶこえ


「今日までの私は大変「反生活的」であったと思う。そしてそれはそれでよかったと思う。だが今日からの私は「反人生的」であろうと思っているのである」(「私のノオト」『血と麦』より)


「地球儀を見ながら私は「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」と思っていたのである」(「跋」『田園に死す』より)


『テーブルの上の荒野』『田園に死す』にある「新・病草紙」や「新・餓鬼草紙」は最高傑作の極みにあると賞賛されている。歌集を購入した理由はそのことを確認したかったからだった。


新しき仏壇買ひ行きしまま行方不明のおとうとと鳥


生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘 


地平線揺るる視野なり子守唄うたへる母の背にありし日以後


かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭


漫才の声を必死につかまむと荒野農家のテレビアンテナ


炉の灰にこぼれおちたる花札を箸でひろひて恩讐家族


死の日より逆さに時をきざみつつつひに今には至らぬ時計


空罐を蹴りはこびつつきみのゐる刑務所の前通りすぎたり

(寺山修司『田園に死す』より)


今日も閉ぢてある木の窓よマラソンの最後尾にて角まがるとき


もの言へば囀りとなる会計の男よ羞づかしき翼出せ

(寺山修司『テーブルの上の荒野』より)


「まことに今宵は書斎の里のざこ寝とて定型七五 花鳥風月 雅辞古語雑俳用語、漢字ひらがな、形容詩詞にかぎらず新旧かなづかひのわかちもなく みだりがはしくうちふして 一夜は何事も許すとかや。いざ、是より、と朧なる暗闇に、さくら紙もちてもぐりこめば、筆はりんりんと勃起をなし、その穂先したたるばかり。言葉之介、一首まとめむと花鳥風月をまさぐれば、まだいはけなき姿にて逃げまはるもあり。そのなかをやはらかく こきあげられて絶句せるは、老いたる句読点ならむか」(「初期歌集」より)


「新・病草紙」は、ぞっとする奇怪な散文詩ごときをユーモラスな文体で、連綿と演劇のように描かれている。


「ちかごろ男ありけり、風病によりて、さはるものにみな、毛生ゆるなれば、おのれを恥ぢて何ごとにも、あたらず、さはらず。ただ、おのがアパートにこもりて、妻と酒とにのみかかはりあひて暮しゐたり」


「花食ひたし、という老人の会あり。槐、棕櫚、牡丹、浦島草、茨、昼顔などもちよりて思案にくれてゐたり。一の老、鍋に煮て食はむと言へども鍋なし。さればと地球儀を二つに割りて鍋がはりに水をたたえて花を煮たれど、花の色褪めて美食のたのしびうすし。また二の老、焼き花にせむと火の上に串刺しの花をならべて調理するも、花燃えてすぐにかたちなし。されば三の老、蒸し花、煎り花料理をこころみしが、これも趣きなし。花は芍薬、罌粟、紫蘭、金魚草などみな鮮度よければ、なまのまま食はむと四の老言ひて盛りつけたれど、老、口ひらくことせまく、花を頬ばり、咀嚼すること難し」


「無才なるおにあり、名づくる名なし、かたちみにくく大いなる耳と剝きだしの目をもちたり。このおに、ひとの詩あまた食らひて、くちのなか歯くそ、のんどにつまるものみな言葉、言葉、言葉―ひとの詩句の咀嚼かなはぬものばかりなり」

(「新・病草紙」より)


中井英夫による「解説」

「いったい、十六年という歳月は、長いのか短いのか、どちらだろう。むろん作者にとっても、それはどうともいえないはずだが、変貌という点ではめざましく、出現の当時が十八歳、早稲田の教育学部の学生だったのが、現在は劇団天井桟敷の主宰者で前衛演劇の中心人物となり、その成果を世界の各国に問うているのを見ても肯けよう。一方、千年の歴史を持つ短歌の中においてみると、その年月は、あたかも掌から海へ届くまでの、雫の一たらしほどにもはかない時間といえる。だがこの雫は、決してただの水滴ではなく、もっとも香り高い美酒であり香油でもあって、その一滴がしたたり落ちるが早いか、海はたちまち薔薇いろにけぶり立ち、波は酩酊し、きらめき砕けながら「いと深きものの姿」を現前させたのだった」(中井英夫「解説」より)


寺山修司を語る―物語性の中のメタファー

http://www.1101.com/yoshimoto_voice/


『田園に死す』の長歌「修羅、わが愛」 にも困りました。そこには、こう書いてほしいということが全部書いてある。

https://1000ya.isis.ne.jp/0413.html

posted by koinu at 13:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

繁殖と色彩を観る!

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観るのだ、観るのだ、観るのだ!
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