2020年04月01日

正木ひろし「若き日の断想」より

 塵積れば山となる、と云ふ風に考へると一銭十銭が値切って見たくなるが、又人間は貧乏してもめったに餓死することはないと云ふ風に考へるとケチケチする気にはなれなくなる。
     ○
 私はまだ自分で失望する程の力作を書かない。
     ○
 自分は天才でないが故に世の中の天才を顧みて躊躇する暇がない。
     ○
 哲学は小なる迷信を大なる迷信に置き換へるものである。
     ○
 小人は往々如何なる程度迄他人を無視し得るかに依って自己の力を計らうとする。
     ○
 人は単なる模倣により実に大胆な事をする。
     ○
 汝の自由意志の中に汝の宿命を発見せよ。
     ○
 肉体上の刺激が夢の世界では現識の世界と全く関係の無い意味を持ってゐる。
     ○
 自己を其儀表現せむとする衝動に身を任かす喋舌家の「正直さ」は愛すべきだが、一度深い自己に醒めるならばいくら表現しようとしても喋舌とはならない。
     ○
 心の中の生きてゐる自然(所謂「非我」)に触れる時、自分はどうしても神の存在を信ぜざるを得なかった。
     ○
 物、事、のリミットを知るならば、その物、事から超越する。
     ○
 善悪の標準から超越したと称する人、往々好悪愛憎の世界に入る。
     ○
 善悪の観念は意志の世界に於ける当為(ought)から起る。故に自己の有限の意志を尽くして無限の意志に帰入した者には善悪はない。
     ○
 相手を憎むのは相手が何等かの意味でその人に権威を持ってゐるからだ。その内心を動かすだけの力を持ってゐるからだ。(「憎む」と云ふ意味を普通に解して) 
正木ひろし「若き日の断想」より

posted by koinu at 16:44| 東京 ☔| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ペンギンたち

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パソコン画面から現れた!
posted by koinu at 13:00| 東京 🌁| 観測 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

悲哀と嫌悪の根源について

 運命の神秘はその力強い秘義の中に我々全部を包みこんでいるので、生の悲劇的な不条理を残酷なまでに感じないためには、本当のところ何も考えない人間でなければならない。そこにこそ、我々の存在理由についての絶対的な無知にこそ、我々の悲哀と我々の嫌悪との根源はある。
 肉体的な苦患と精神的な苦患、魂と官能との悲惨、邪悪な人間の幸福、正しい者の屈辱、総てそうしたことも、我々がその理法と調和とをなるほどと納得して、そこに摂理を見るとしたならば、まだしも我慢できるものであるだろう。


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 神を信じる者はわが身の潰瘍を喜び、自分の敵の不正な仕打ちや暴力をも快いものと観じるものであり、自ら過ちや罪を犯しても希望を失うことはない。しかし信仰の一切の輝きが消えた世界においては、悪と苦痛とはその意味までも失ってしまい、もはや悍ましい悪ふざけや不吉な笑劇のようなものに見えるばかりである。
 アナトール・フランス『エピクロスの園』生の不条理より     

 好奇心が罪(宗教上の)となる瞬間が常にある。
  されば悪魔は常に学者の傍に身を置いて来た。
posted by koinu at 09:32| 東京 🌁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする