2020年03月19日

物語と写真について

「物語の明くる日」富岡多恵子

雨期のようにねころんで

マッチの棒をしがんでいるの

そうよ あたし

こんな日は画集でもひっぱり出して

聖者たちのうすぐらい顔に

口がだるくなるくらいの

おかしな口づけでもするのだわ  

こんな日は朝おきると

乳首をしがんでよ

聖者たちの下着はいつもまっ白だって

半分ほどの真実ね

まだよ

まつのよ

こんな時間には

たいてい納屋の中で

まっぱだかでいるのだろ

することがないんだもの

こんな時だけよ

みんなあなたまかせ

口からでまかせ

口は方便だもの

脚のしたにだれかいるとき

とてもよくねむれるものよ

(長編詩「物語の明くる日」より抜粋)


『写真の時代』富岡多恵子

〈庶民の遊び 自動焦点カメラで写してみた〉

そのキカイが、いったんだれでもいじれるものとなったうえで、玄人が存在するとなるほうが、おもしろいといえばおもしろい。こうなってくると、もし写真が芸術である時、それは常に、だれでもがすぐに写したいものが写せるカメラをもっている、という日常的写真世界にさらされていることになる。芸術が、常に芸術ではないがひょっとしたらそちらのほうが芸術かもしれない。というものにさらされることになる。----当節の写真家に、この種の恐怖、戦慄があるかどうか。

もし写真が芸術になり得たとしたら、やっと、こういうカメラの出現によって、新興芸術でなくなるのではないだろうか。

遊びは、無駄なもの、わからないものを、いじるということでもある。ジャスピンは、一方で、こういう時代の象徴である。しかも、このことが、先の写真芸術を、だれもがすなる写真にする点と重なるところが、もっとも興味深く、野次馬としてはおもしろいのである。いかに撮るか、ということと、なにを撮るかということが、正当に逆転してくる。つまり、本来なにを撮るかの果てにいかにが立ちふさがる正当性が、こういうカメラの出現で、ひょんなところからあばかれるかもしれないのである。素人には、もう、いかに撮るかはうんざりすることだった。

posted by koinu at 20:00| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『アポリネール詩集』

月と風」アポリネール

月と風(わびしからめと)

熱海懐古(昔の道をゆきかへる、)

花(凋るればこそ)

祇園鹿島屋履物店(ぽこぽこ木履《ぽつこり》。)

秋(秋の日のはてなく晴れて、)

海水浴場(太陽のヴァイタライト、)

海の二階(海にも二階がある。)

地平線(赤道直下のアフリカでも)

形見草(ひたひの皺の明すなり)

人に(花はいろ そして匂ひ)

愛(光を愛した画家モネは盲《めしひ》になつた。)

手(手。天鵞絨。闇の皮膚。)



「69」アポリネール

6と9との転倒が

怪しき数字と現れ出たのが

69であり

宿命の二匹の蛇であり

二匹の蚯蚓である

好色なそうして神秘な数

6は3と3

9は3と3と3

すなわち三位一体だ

いたるところ三位一体だらけ

さてまた三位一体は

両性論と一致する

なぜならば6は3の二倍であり

三位一体の9は3の三倍だから

されば69は両性の三位一体だ

さてまたこれらの秘術はなおなお隠密なのであるが

僕は恐ろしくなって消息子を下しかねる

ともするとそこが

人間どもをこわがらせてよろこんでいる

鼻っつぶれの死の向こう岸の

無窮であるかもしれぬから

さて今宵はなんと

退屈が外套のように僕を包むこと

陰気なダンテルの目には見えない死布のように


『アポリネール詩集』堀口大學訳より



 『秘密』アポリネール

旅愁 その一(旅は夕に身に痛し、)

旅愁 その二(うら若き身の旅すれば、)

旅愁 その三(何かジヤポンのなつかしく、)

旅愁 その四(今日黄昏のうす明《あかり》)

ふる里(生れし国にある時は)

わが身の旅路(身は唯ひとり)

さびしさ(身をふるはせて涙して)

橇の音(遠くアルプの連山の)

かなしみ(かなしみのみぞ)

posted by koinu at 13:22| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする