2020年03月13日

現代詩人としての清岡卓行さん

現代詩文庫シリーズが思潮社より刊行されていた。清岡卓行さんの詩集は比較的に巻数がわかかったので読んでる。『アカシアの大連』を記す以前は、シュールリアリズムに触発された前衛詩を描いていた。『氷った焔』という長編詩が印象的であった。


『氷った焔』清岡卓行


 1

きみの肉体の線のなかの透明な空間

世界への逆襲にかんする

最も遠い

微風とのたたかい


 2

きみはすでに落下地点で眼覚めている

きみはすでに絶望している


 3

きみの物語にはいない きみである動物の

不眠の 瞳が

きみの悔恨を知らない きみである液体の

滑走する皮膚と

そのための 幻覚の虹が

絶えず出発してしる現在の合図に

どうしてただちに滅されるのか

−−きみはそれを見ない

きみの鋭く 優しい 爪の動機であるうちに

きみの姿勢 きみの呼吸のなかから

死灰が層をなしている地球の表皮から

それらはどのようにして飛び去るのか

−−きみはきみの絶望を信じていることを知らない


 4

きみの意識がきみに確かめられるのはそれからだ

すると逆流する洪水のなかで化粧するきみがいる


 5

生活への扉 ときみが信じる時刻に

きみは見る

遮断された未来の壁に

モこに嵌め込まれたバック・ミラーに


でこぼこの飛行場のうえの

果物にとりかこまれた

昆虫の視線を怖れない

おお ふしぎに美しいきみの骸骨


 6

きみの記憶の組合せは気まぐれだ このとき

過去を あるやりかたで

記録することにしかきみの自由がないかのように


 7

倒れようとするビルディングに凭れて聴いた

地底からの音楽の

鉄条網にひっかかった

夢みる熱帯魚の

砂浜のなかに埋れて行く

水平線への投身の

力学的な矩形を弛緩させ燃えあがらせる

長く冷たい凝視の

そして いつも愛情で支払われたきみの

幼く成熟した肉体の

それらの ちぐはぐな思い出

おびただしい初演のなかのきみの仮死


 8

起点も終点もない あやしげな

地球の円周のうえを

モれでも交錯する探照灯の脚光を

ときおり浴びながら

きみのハイ・ヒールだけが斜めに歩く

きみに背負わされたものは きみの肉体

きみを隠匿する その親しい他人

きみの企む復讐の実験の

重すぎる予感


 9

きみの白い皮膚に張りめぐらされたそこびかりする銃眼

すでに氷りついた肉の焔たちの触れあう響き

弾丸も煙幕もない武装の脆計

きみだけが証人である

みじめな勝利


きみはまだきみが信じたきみだけの絶望に支えられている

きみが病患のなかに装填したものはほんとうは

もうひとつの肉体の影像

世界への愛

希望だ


10

どこから世界を覗こうと

見るとはかすかに愛することであり

病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり

絶望とは生活のしっぽであってあたまではない


きみの絶望が希望と手をつないで戻ってくることを

きみの記憶と地球の円周を決定的にえらぶことを

夜の眠りのまえにきみはまだ知らない

(現代詩文庫より)


岩阪恵子 1946年生れ、関西学院大学文学部卒業。1970年に師事していた清岡卓行と結婚上京。学生の時に出会った詩作との出会いがエッセイ書かれている。


◇     ◇      ◇     ◇


 ひとつの詩が私の存在の根にまで深く届いてきたのだ。詩句のいくつかが呪文のように繰り返し胸に囁かれ続けた。清岡卓行の「大学の庭で」ある。詩は現実認識において容赦ない厳しさをはらむながら、読み手を拒否するのではなく、むしろ包みこむように温かい音声で語られていた。


きみは選んだのだ

内側から ひそかに

きみ自身を


生を一方的に押しつけられたものと受けとめていた私にとって、だれもいない、私が私を選んだという認識はまったく初めてのことであったから、胸がふるえるほどの新鮮さを覚えた。そしてその選択を促したものが、自分をはるかに遡る生命の源にあるという指摘にはなにかまぶしい気さえした。


そして 生きるとは

屈することなく選びつづけること。

死ぬことをも含めて。


 という詩句には、どれだけ支えられたことだろう。むろん詩人は自殺を肯定しているのではない。死への願望は、同じ強さで生への願望でもあるのだと言っているからである。が、どれだけ私は、開放されたことだろう。

(岩阪恵子「きみは選んだのだ/きみ自身を」より)

◇     ◇      ◇     ◇


清岡卓行 1922年大連で生まれる。東大仏文卒。詩集に「氷った焔」(1959年)「日常」(1962年)「四季のスケッチ」(1966年)清岡卓行詩集(1970年)「ひとつの愛」(1970年)。評論集に「手の変幻」(1966年)「抒情の前線」(1970年)。

小説に「アカシアの大連」(1970年)「フルートとオーボエ」(1971年)「海の瞳」(1971年)など。


今回詩作を読み直して、清岡卓行さんの『四季のスケッチ』ような作風も現在では必要あるのではないかと、絵画、音楽、演劇など他のジャンルに向かって思うことだった。入手が難しい書物となっているけれど、探せば手にできる詩集もあるので再版を望みつつ紹介させていただきました。

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清岡卓行「思惟の指」とアカシア

清岡卓行「思惟の指」

 きみに欠けているもの それは 

 荒々しい野性の力 

 時として 世界をくつがえす 

 抑えがたい粗暴な正義 

 そのことか 不意に 

 愛撫への疼きに似た やるせない 

 きみへの憧れを誘うのだ 

詩集『四季のスケッチ』清岡卓行より


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広隆寺の半跏思惟像仏像の指について、詠んだ短歌だろうか。粗暴なものから遠ざかる思惟仏像のしなやかさ。

芥川賞となった清岡卓行『アカシアの大連』は、煌びやかな満洲時代を過ごした体験から情緒性のある作風だった。詩人の作者ととっては初めての小説で、しなやかな詩の印象と共通する散文となっている。もののあわれ、みやび、はかなさ。「思惟の指」に触れて後もう一度読み直すと、更に叙情ビジョンが深まるかも知れない。


人間の肉体が

かくも浄らかがありうるのか?

ああ

きみに肉体があるとはふしぎだ

『アカシアの大連』より


清岡卓行 1922年大連生まれ。帰省先の大連で敗戦、引き揚げ。51年東大仏文科卒業。プロ野球セ・リーグ事務局で13年間試合日程編成。法政大学教授。かたわら清新な詩や小説を発表。2006年6月、逝去。著作:詩集=『円き広場』(1988年、芸術選奨文部大臣賞)など多数。小説・随筆など=『アカシヤの大連』(1970年、芥川賞)、『藝術的な握手』(1978年、読売文学賞)、『マロニエの花が言った』(1999年、野間文芸賞)など多数。

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