富岡多惠子は詩人として出発し、のち小説に転じ、さらに評伝も手がけるようになった。多才。富岡多惠子の詩は若い頃から好きだった。ぶっきらぼうでおよそ感傷がない。乾いたユーモアがある。(川本三郎)
「静物」
きみの物語はおわった
ところできみはきょう
おやつになにを食べましたか
きみの母親はきのう云った
あたしゃもう死にたいよ
きみはきみの母親の手をとり
おもてへ出てどこともなく歩き
砂の色をした河を眺めたのである
きみはきのう云ったのだ
おっかさんはいつわたしを生んだのだ
きみの母親は云ったのだ
あたしゃ生きものは生まなかったよ
「去年の秋のいまごろ」
天気にかんしては
あたしゃどうでもよいと云った
ただしあたしは水を撒かねばならない
かな盥に水をいれて
肩にのせてみなくてはならぬ
会話ははじまるだろう
たいていの日の正午ごろ
男のともだちがきているのであった
その男のともだちは女のともだちを
つれているのであった
そのふたりは下界からきて
枕元に腕時計を忘れていって
あたしは得をしたかわりに
かの女に化粧水をかしてやる
男のともだちは
あめりかとか
ぷえるとりことかいう国からきて
おまいさんはわいせつが上手であると
あたしをよろこばせた
ので
あたしの瞳孔はすくなくとも三倍に
ひらいて
舌をひっこめたのである
いままでの詩なら詩というカタチにことばを書いていくことは、書いていく方のにんげんが詩から自分をズラセルということがしにくかった。つまり、詩の正面に坐っていたから自分も見物衆もたいしておもしろくないのであった。わたしは、自分がことばを書くとき、詩であれ何であれ、自分がどのようにズレル所に坐るかに興味をもっている。(富岡多恵子「詩への未練と愛想づかし」)
「水いらず」
あなたが紅茶をいれ
わたしがパンをやくであろう
そうしているうちに
ときたま夕方はやく
朱にそまる月の出などに気がついて
ときたまとぶらうひとなどあっても
もうそれっきりここにはきやしない
わたしたちは戸をたて錠をおろし
紅茶をいれパンをやいて
いずれ
あなたがわたしを
わたしがあなたを
庭に埋めるときがあることについて
いつものように話しあい
いつものように食物をさがしにゆくだろう
あなたかわたしが
わたしかあなたを
庭に埋める時があって
のこるひとりが紅茶をすすりながら
そのときはじめて物語を拒否するだろう
あなたの自由も
馬鹿者のする話のようなものだった
「返禮」富岡多恵子
誇ってよい哀しみがふたつある
部屋のドアをバタンと後に押して
家の戸口のドアを
バタンと後に押して
梅雨の雨で視界のきかない表通りで
一日の始まる時
これからどうしよう
これから何をしよう
どちらにも
味方でも敵でもないわたくし
この具象的疑問を
誰に相談しよう
戦争ぎらいで
平和主義者ではないわたくし
ただ目を見開いてゆくための努力
その努力しか出来ない哀しみ
誇ってよい哀しみはふたつある
あなたと一緒にいるわたくし
あなたがわからない
だからあなたが在るのだとわかるわたくし
だからわたしが在るのだとわかるわたくし
あなたがわからない哀しみ
あなたがあなたである哀しみ
『現代詩文庫・富岡多恵子詩集』より
かの女はくる約束をした
今日はまだこないので
今日死んだのかもしれない
――「女友達」
喋ることと喋らないことのあいだで、言葉の意味と無意味はずるがしこくいれかわる。(富岡多恵子『女友達』あとがき)
「この世の中でかなりおもしろいことは、ウソをつくこと、つまりだましあいであろう。恋は誤解だなぞというのはありふれた言い草であって、ほんとうにウソに酔っているのであり、酔っていたウソにさめて、ウソからはい出るのではなくてウソに徹するのが恋から愛への約束であるだろう」
(『厭芸術浮世草子』富岡多恵子)
富岡多恵子『その日は明るい晴れた日だった』作編曲・坂本龍一 写真・荒木経惟 1976年10月録音。
物語のようにふるさとは遠い みんな知らないヒトばかり 知らないヒトと恋に落ち 物語のように恋は終る 物語のようにふるさとは遠い 想い出すのは死んだヒトばかり 生きてるヒトには怨みがのこる 帰りたくないふるさとへ 物語のようにふるさとは遠い みんな死んだら一人で帰る 腕にいっぱい花を抱えて帰る