2019年08月30日

ペンギンタロットの世界へ

◆タロットカードは不可思議なシンボルが描かれて、これらキーワードを繋ぎ合わせることでタロットは世界の側面を照らし出すとことができる。漠然とした無意識の断片が、元型のイメージとしてのカードによって具現化され、その人固有の無意識の形を喚起させる。
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◆非合理的なシンボルやイメージこそが、無意識の世界を解く鍵。 
◆無意識の領域に存在して無意識に人を動かす全人類に共通する心理パターン。このパターンが自然界にもあったことを符合させた図形こそタロット。 無意識の中にあるものを喚起させ、導き出されたキー  ワードを解釈することでその人だけに当てはまるパターンがある。
◆“シンクロニシティ(共時性)”という無意識の領域にあるものと現実の世界に起こることには一種のアナロジーが存在し、人が偶然として片付ける出来事も、すべては無意識の中にある原因により必然的に起きている。
◆自分の無意識を知ることで、これから自分の身に起こることや、未来に起こる出来事を予測することができる。
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◆タロットは普遍な無意識を発掘する道具であり、その無意識を意識化する手段として、占い師が相談者の未来を予測する際に行うカード解釈は、まさしく医師が患者に質問を出して、その内容から医学的に解釈し、患者の精神状態を推測しながらカウセリングを行う心理学の手法そのものです。
◆大アルカナ22枚組・解説書付 
◇Amazonにて「ペンギンタロット」を限定販売中。シリアルナンバー入り。800部のみ再販予定なし。
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「ペンギンタロット」の世界へ・・・」 http://koinu.cside.com/
「ペンギンタロット」履歴紹介。
眺めているだけで楽しいサイトなので、是非興味のある方は是非。
「カードの履歴」 http://www.phgenki.jp/item/1607/
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posted by koinu at 21:00| 東京 ☁| Comment(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サリンジャー『フラニーとズーイ』(新潮文庫)

短編「フラニー」と中編「ズーイ」が収録されている。爆笑問題の太田光さんが学生の頃に、感銘のあまり演劇にしてた作品。野崎孝さんと村上春樹さんの翻訳がある。


「フラニー」

バーバリのレインコートを着たレーン・クーテルは、淡いブルーの便箋にタイプされたフラニーからの手紙を読みながらプラットフォームで待っていた。フラニーと週末を過ごす予定だった。

「レーン!」とフラニーはいかにも嬉しそうに彼に声をかけた。そもそも表情を顔から一掃してしまおうと考えるようなタイプではない。彼女は両腕を彼の身体にまわし、キスした。それは駅のプラットフォームでよくあるキスだった。最初はさっと自然に出てきたものなのだが、それが終わり切らないうちに気恥ずかしくなり、うっかり額をぶっつけあったときみたいに、なんとなく居心地悪くなる。「私の手紙は届いた?」と彼女は尋ねた。それからほとんど間を置かずにこう付け加えた。「あなたって、まるで氷みたいに冷えきった顔をしてるじゃない。どうして暖かいところで待っていなかったの? それで私の手紙は届いた?」

下町の「シックラー」というレストランで食事をするレーンとフラニー。レーンは自分がとりかかっている論文や今後の研究テーマについて、フラニーにずっと語り続けていた。

フラニーはマティーニのことなど他のことを話そうとしましたがレーンは取り合わず、フラニーは段々具合が悪くなってしまいます。レーンに攻撃的な態度を取ったフラニーは、化粧室へと姿を消して……。


「ズーイ」

それから2日が経った1955年11月の月曜日朝。俳優をしている青年ズーイ・グラスは風呂の中で、兄のバディー・グラスから4年前に来た手紙を読んでいる。

手紙はこの小説の書き手の文章とよく似ており、この作品が、「短篇小説というようなものからは程遠く、むしろ散文によるホーム・ムーヴィーに近いものである」と語られる。

1927年から1941年もの間、入れ替わりながら『イッツ・ア・ワイズ・チャイルド(なんて賢い子ども)』というラジオのクイズ番組に出演して、リスナーを驚嘆させたグラス家の七人の子供たち。

今では俳優として活躍しているズーイは、手紙を読み終えると脚本を読み始めた。そこへ母親のミセス・グラスがやって来て、フラニーの様子がおかしいから相談に乗ってやってと言う。

落ち込んでいるフラニーから、台無しになった週末の話を聞く。

「その話は昨夜少しばかり聞いた。一度聞けばじゅうぶんだよ」とズーイは言った。そして再び窓の外に目をやった。「まずだいいちに、自分自身を厳しく責めるかわりに他人やらまわりのものごとにあたりまくるのは正しくないことだ。しかし僕らは二人ともそういう傾向を持っている。それと似たことを、僕はテレビ業界に向かってやっている。間違ったことだとわかっているんだが、どうしてもやめられない。それが僕らなんだ。僕はそのことをずっと君に言い続けている。その話になると、どうしてそんなにわかりが悪いんだ?」

「何もその話についてわかりが悪いわけじゃない。ただあなたが言ってるのはずっと――」

「それが僕らなんだ」とズーイは相手を遮るように繰り返した。「僕らはフリークだ。まさに畸形人間なんだよ。あのろくでもない二人組が早いうちから僕らを取り込み、フリーク的な規範をせっせと詰め込み、僕らをフリークに変えてしまった。それだけのことなんだ。僕らはいわば見世物の刺青女であり、それこそ死ぬまで、一瞬の平穏を楽しむこともできないんだ。ほかの全員が同じように刺青を入れるまではね」。ずいぶん陰鬱な顔で彼は葉巻を口にくわえ、一服しようとした。しかし火は消えていた。

二人の兄シーモアとバディーの思想に強く影響されて、一方的に喋ることしか出来ないラジオの呪縛から逃れられていないと語るズーイはフラニーを攻撃して、追い詰めて泣かせてしまう。

『単純な論理で考えれば、物質的な宝をほしがる人間とーー知的な宝でも同じことだけどーーそれと精神的な宝をほしがる人間との間に、ぼくの目に見える相違は全然ないね。きみが言うように、宝は宝だよ、なんていったって。そして、これまでの歴史に現れた世を厭う聖者たちの九十パーセントまでは、ほかのわれわれとまったく同じように、欲が深くて魅力のない人間だったようにぼくには思えるな』

やがて隠遁生活を送るバディーから電話がかかって来のであった。

『じつはだね、きみ、うちに戻ってきたときに、観客の馬鹿さ加減をわあわあ言ってやっつけたろう。特等席から『幼稚な笑い声』が聞こえてくるってさ。そりゃその通り、もっともなんだーーたしかに憂鬱なことだよ。そうじゃないとはぼくも言ってやしない。しかしだね、そいつはきみには関係ないことなんだな、本当言うと。きみには関係ないことなんだよ、フラニー。俳優の心掛けるべきはただ一つ、ある完璧なものをーー他人がそう見るのではなく、自分が完璧だと思うものをーー狙うことなんだ。観客のことなんかについて考える権利はきみにはないんだよ、絶対に。とにかく、本当の意味では、ないんだ。分かるだろ、ぼくの言う意味?』

「他人がそう見るのではなく、自分が完璧だと思うものを狙うこと」は、文学の営みであり、視聴率、アクセス数、顧客満足をもとに活動する現代社会の通俗的な活動とは全く異なるものなのでしょう。しかし、だからといって、現代社会のあり方を馬鹿馬鹿しいとやっつけることは、もっともなことだが、やるべきことではありません。それは自分には関係ないことであり、本当のエゴに基づいて生きる者にとっては、くしゃみをする時間も残されていないのです。

最後にはグラース一家の長兄シーモアの輝かしい創造物、「太っちょのオバサマ」の思想が語られる。

『ある晩、放送の前にぼくは文句を言いだしたことがあるんだ。これからウェーカーといっしょに舞台に出るってときに、シーモアが靴を磨いてゆけと言ったんだよ。ぼくは怒っちゃってね。スタジオの観客なんかみんな低能だ、アナウンサーも低能だし、スポンサーも低能だ、だからそんなののために靴を磨くことなんかないって、ぼくはシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね。シーモアは、とにかく磨いてゆけって言うんだな。『太っちょのオバサマ』のために磨いてゆけって言うんだよ。(…)彼女は一日じゅうヴェランダに坐って、朝から夜まで全開にしたラジオをかけっぱなしにしたまんま、蠅を叩いたりしてるんだ』

フラニーもかつてシーモアから、太っちょのオバサマのために面白くやるんだと言われた。

『とっても太い脚をして、血管が目立ってて。わたしの彼女は、すさまじい籐椅子に坐ってんの。でも、やっぱし癌があって、そして一日じゅう全開のラジオをかけっぱなし! わたしのもそうなのよ!』

フラニーはズーイのことばを受けとめ、ベッドに入り、微笑む。わたしも明るい気持ちになって、眠りに入ることができた。

『きみにすごい秘密を一つあかしてやろうーーきみ、ぼくの言うこと聴いてんのか? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。それから何十何百っていう彼の兄弟分もそっくり。シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分からんかね? この秘密がまだきみには分からんのか? それからーーよく聴いてくれよーーこの『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほからならいんだよ、きみ』

村上春樹氏が「ゾーイーを関西弁で翻訳したい」と語っていた。物語より対話によって展開する小説なので、関西の語り言葉はありえると思う。

J・D・サリンジャーが1955年1月29日に『ザ・ニューヨーカー』に発表した『フラニー』と、1957年5月4日に同誌に発表した『ゾーイー』の連作二編の小説。『ライ麦畑でつかまえて』に並ぶ代表作、1961年9月14日刊行。

posted by koinu at 13:00| 東京 ☁| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする