2019年07月04日

明恵上人伝記

「梅尾明恵上人伝記 巻上」より


「十三歳の時、心に思はく、今は早十三に成りぬ。既に年老いたり。死なん事近づきぬらん。老少不定(ふぢやう)の習ひに、今まで生きたるこそ不思議なれ。

自ら鞭を打ちて、昼夜不退に道行を励ます。或る時は後の山の、木の空に木の葉深く積れる上に常に行きて座し、或る時は見解おこる様、かゝる五蘊の身の有ればこそ、若干の煩ひ苦しみも有れ。帰寂したらんには如かずと思ひて、何なる狗狼(くらう)・野干(やかん)にも食はれんと思ひ、三昧原へ行きて臥したるに、夜深けて犬共多く来りて、傍なる死人なんどを食ふ音してからめけども、我をば能々嗅ぎて見て、食ひもせずして、犬共帰りぬ。恐ろしさは限り無し。此の様を見るに、さては何に身を捨てんと思ふとも、定業ならずは死すまじき事にて有りけりと知りて、其の後は思ひ止まりぬ。」


「或る時、行法の最中に侍者を召して、「手水桶に虫の落ち入りたると覚えぬ。取り上げて放て」と仰せあり。仍りて出でて見るに、蜂落ち入りて死なんとす。急ぎ取り上げて放ちけり。

 又、坐禅の中に侍者を召して云はく、「後の竹原の中に、小鳥物にけらるゝと覚ゆる。行きて取りさへよ」と仰せられけり。急ぎ行きて見れば、小鷹に雀のけらるゝを追ひ放ちけり。此の如きの琴、連々也。

 或る時、夜深けて炉辺に眠るが如くして坐し給へるが、俄に、「あら無慙や。遅く見付けて、はや食ひつるぞや。火を燃して、急ぎ行きて追ひ放て」と驚き仰せられけるに、前なる僧、「何事候ぞ」と申せば、「大湯屋の軒にある雀の巣に、蛇(くちなは)の入りたるぞ」と仰せらる。深の闇にて有るに、怪しからずやと思へども、蠟燭急ぎ燃して行きて見れば、はや鎧毛に生ひて、羽なんども生ひてある雀の子を、大蛇飲みかけて、巣に纏ひ付きたり。急ぎ取り放ちにけり。」


「又、或る夜の夢に見給ふ、大海の中に五十二位の石とて、其の間一丈許(ばか)り隔てて、大海の興に向きて、次第に是を双べ置けり。我が踏みて行くべき石と思ひて、其の所に至る。信位の石の処には、僧俗等数多の人あり。然るに、信の石を躍りて初住の石に至るよりは、人なし、只一人初住の石に至る。又躍りて第二住の石に至る。此の如く次第に躍り著きて、十住の石を躍りて、又初行の石に至る。一々に踏みて、乃至第十地・等覚・妙覚の石と云ふまで至りて、彼の妙覚の石の上に立ちて見れば、大海辺畔なし。十方世界悉く礙(さはり)無く見ゆ。来れる方も遙かに遠く成りぬれば、此の所をば、人是を知らず。今は帰りて語らんと思ひ、又逆次に次第に踏みて、信位の石の処に至りて、諸人に語ると見る。」


「凡そこの上人、蟻・螻(けら)・犬・鳥・野人に至るまで、皆是、仏性を備へて甚深の法を行ずる者也、賤しみ思ふべからずとて、犬の臥したる傍にても、馬・牛の前を過ぎ給ふとても、さるべき人に向へるが如く問訊し、腰を屈めなどしてぞ通り給ひける。」




「梅尾明恵上人伝記 巻下」より


「上人常に語り給いひしは、「幼少の時より貴き僧に成らん事を恋願ひしかば、一生不犯(ふぼん)にて清浄ならん事を思ひき。然るに、何なる魔の託するにか有りけん、度々に既に婬事を犯さんとする便り有りしに、不思議の妨げありて、打ちさまし打ちさましして終に志を遂げざりき」と云々。

 上人禅定をのみ好み給ひて、一両年は少さき桶を一つ用意して、二三日、四五日の食を請ひ入れて肱にかけ、後の山に入り、木の下、石の上、木の空(うつほ)、巌窟(いはあな)などに、終日(ひねもす)終夜(よもすがら)坐し給へり。「すべて此の山の中に、面の一尺ともある石に我が坐せぬはよもあらじ」とぞ仰せられける。」


「或る時、又人の許より糖桶を進せたりけるを、後日に「其れこなたへ」とて前へ取り寄せ給ひけるを、結構の由に上に巻きたる藤の皮をむきて指出したりければ、やがて泣き給うひて、「糖桶は上を巻きたるこそ糖桶のあるべき様にて有るに、あるべき様を背きたる」とて、又いひ出してぞ泣き給ひける。此の如き事常に有りけり。」


「「譬へば、一日の中に行き著くべき所あるに、一人は、苦しく足痛けれども、杖にすがり兎角して暫くも止まらず、悩みながら其の処へ日の中行き著けり。一人は、余りに苦しく足の痛きまゝに、こらへずして有る石の上に休めり。心閑かに身安くして、歓喜極り無くして、此の石の上に仰のきに臥して空を見るに、浮雲(ふうん)風に随ひて西に行くこと速かなり。是をつくづくと守る程に、我が臥したる石東へ行く心地す。


歩は甚だ苦しく足の痛きに、此の石、船の如くして行く事速かなりと大いに悦び思へり。風吹き立ちて雲の早き時は、此の石はやく走る心地する時、独りごとに石に云ふ様、『目のまはるに、あまりはやくな行きそ、静かに行くべし。何となくとも、かくてはとく行き付くべきぞ』と云ふ。」」


(岩波文庫)より

posted by koinu at 15:00| 東京 ☔| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする