2019年06月19日

「日本語ほど面白いもの はない邑智小学校六年一組特別授業」 柳瀬尚紀著/新潮社刊

天才の柳瀬先生、すばらしい時間をありがとう―『チョコレート工場の秘密』の訳者が島根県の山奥・美郷町で学ぶ十六名の前で教壇に立った。さて、事の顛末は...。子供たちの可能性は無限大!感動の教育ドキュメント。

生徒は六年生全員の十六人。2009年10月28日に行われた特別授業。

1 子どもの本屋さんに誘われて・・・著者の経歴、特別授業のきっかけについて 

2 みんな日本語という世界の住人−第一回特別授業

3 六年一組十六名からの手紙
4 邑智小学校は開校七年目・・・過疎という現実と、教育環境の素晴らしさについて
5 最大の奇蹟は言語である−第二回特別授業
6 子どもたちの創作
7 空想授業:邑智中学校一年生に向けて

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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
一連のロアルド・ダール翻訳を世に出してみて、「子供」というものは決して侮れないと知ったこともある。読者ハガキに書かれている感想の言葉がすばらしかった。工夫を凝らした訳語に対して、常識にとらわれない新鮮な反応が返ってくる。少年・少女というものがどれだけの可能性を秘めているか、ぼくはいささか無知でありすぎた。

「言葉のはじまり」を考えるとき、ぼくの頭にはいつも、人間同士が共通に持っている気持、通じ合っている気持というものが浮かびます。なにかとても近い間柄同士で交わされている気持の通じ合い方があって、そんな中から言葉が生まれてきたのではないかとも思うのです。言葉はもともと暖かい関係の中から生まれてきたのではないか、そんなふうにも考えたくなるときがあるのです。

言葉があるおかげでおたがいに通じ合える、言葉は他人に何かを伝える。そしてもう一つ、当たり前すぎていちいち意識しないでしょうが、言葉は他人だけでなく、自分に何かを伝えるんですね。
つまり、ほとんど一日中、話相手がいなくても言葉といっしょなんですね。いつも言葉がいっしょにいてくれるから安心できる。
言葉は生き物です。ですから、大切に、ていねいに、使ってあげなくてはいけません。
「本」という文字は、「木」という文字に横棒が一本ついています。
この横棒は木の根もとを表します。本は、言葉を手に入れて文字を手に入れた人間の根もとになってくれるんですね。
木の葉は次から次へと生い茂ります。言葉というものも、みんながどんどんしゃべったり書いたりすることにより、言葉が言葉をどんどん生んで、葉っぱのように増えてゆく。「言葉」と書くようになった理由は、だいたいこういうことではないかと、古い国語の学者たちは言っています。
芥川の文章の中に、「最大の奇蹟は言語である」という言葉があります。人間にとって、ほんとうに珍しく貴重な出来事は「言語」、言葉を持ったことだと言っているんです。
「すごくいい」と言ったのは、言葉が、ええと、どう言ったらよいかな…言葉が、そう、きみらの瞳みたいに生き生きしてる。言葉が、きみらの瞳のように、ひたむきなんです。うそがない。ごまかしがない。
去年、坂井先生とゆっくりお話したとき、小六のきみたちについてこうおっしゃっていました。
「みんな、力いっぱい遊んでいます」
いい言葉だなあ、と、心打たれました。「力いっぱい」という言葉には、充実感があります。
何が「本」で、何が「末」か。
これはなかなか厄介な問題です。中学生になって、これからぐんぐん大人になっていくきみたちは、将来、この難問に出会うことがしょっちゅうあるはずです。それは自分で決めなくてはいけない。自分で決めるしかない。きみたちなら大丈夫だと信じていますから、ああしろ、こうしろと、ぼくは言いません。
きみたちなら大丈夫だと信じていますと言ったのは、きみたちの六年生のときの「学級目標」を知っているからです。目にしたとき、ぼくはほんとに感心しました。
「利他の行動」
「物事を追究」
「力を出し尽くす」
この三つですね。
この言葉さえ忘れなければ、これから先の人生で、何が「本」で何が「末」かという問題を正しく解いていけるはずです。
強烈に印象に残ったボードレールの言葉があります。天才とは、随意に再発見される幼少期である。天才というのは、好きなときに好きなように思い起こす幼少期なのだ、と、天才詩人は言っているのです。
(本書から引用)
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ランボーの10月詩篇

Jean Nicolas Arthur Rimbaud

(中原中也/ 翻訳)



「災難」


霰弾の、赤い泡沫しぶきが、ひもすがら

青空の果で、鳴つてゐる時、

その霰弾を嘲笑あざわらつてゐる、王の近くで

軍隊は、みるみるうちに崩れてゆく。


狂気の沙汰が搗き砕き

幾数万の人間の血ぬれの堆積やまを作る時、

――哀れな死者等は、自然よおまへの夏の中、草の中、歓喜の中、

甞てこれらの人間を、作つたのもおゝ自然おまえ!――


祭壇の、緞子の上で香を焚き

聖餐杯(せいさんはい)を前にして、笑つてゐるのは神様だ、

ホザナの声に揺られて睡り、


悩みにすくんだ母親達が、古い帽子のその下で

泣きながら二スウ銅貨をハンケチの

中から取り出し奉献する時、開眼するのは神様だ

〔一八七〇、十月〕Jean Nicolas Arthur Rimbaud

(中原中也/ 翻訳)



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「シーザーの激怒」


蒼ざめた男、花咲く芝生の中を、

黒衣を着け、葉巻咥へて歩いてゐる。

蒼ざめた男はチュイルリの花を思ふ、

曇つたその眼めは、時々烈しい眼付をする。


皇帝は、過ぐる二十年間の大饗宴に飽き/\してゐる。

かねがね彼は思つてゐる、俺は自由を吹消さう、

うまい具合に、臘燭のやうにと。

自由が再び生れると、彼は全くがつかりしてゐた。


彼は憑かれた。その結ばれた唇の上で、

誰の名前が顫へてゐたか? 何を口惜くやしく思つてゐたか?

誰にもそれは分らない、とまれ皇帝の眼めは曇つてゐた。


恐らくは眼鏡を掛けたあの教父、教父の事を恨んでゐた、

――サン・クルウの夕べ夕べに、かぼそい雲が流れるやう

その葉巻から立ち昇る、煙にジツと眼めを据ゑながら。

〔1870年10月〕Jean Nicolas Arthur Rimbaud

(中原中也/ 翻訳)


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「キャバレールにて」


午後の五時。

五六日前から、私の靴は、路の小石にいたんでゐた、

私は、シャルルロワに、帰つて来てゐた。

キャバレールでバタサンドヰッチと、ハムサンドヰッチを私は取つた、

ハムの方は少し冷え過ぎてゐた。


好い気持で、緑のテーブルの、下に脚を投出して、

私は壁掛布かべかけの、いとも粗朴な絵を眺めてた。

そこへ眼の活々とした、乳房の大きく発達した娘こが、

――とはいへ決していやらしくない!――


にこにこしながら、バタサンドヰッチと、

ハムサンドヰッチを色彩いろどりのある

皿に盛つて運んで来たのだ。


桃と白とのこもごものハムは韮の球根たまの香放ち、

彼女はコップに、午後の陽をうけて

金と輝くビールを注いだ。

〔一八七〇、十月〕 Jean Nicolas Arthur Rimbaud

(中原中也/ 翻訳)

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