2019年05月14日

『黄金の果実』 ナタリー・ サロート Sarraute, Nathalie:平岡篤頼 訳

『黄金の果実』 ナタリー・ サロート Sarraute, Nathalie:平岡篤頼 訳
架空の本の題名「黄金の果実」は、夢想の対象になる書物ではない。「黄金の果実」が出版されて、知識人たちで話題になり、後世に残る記念碑的作品だと称賛されるが、そうした空気が醒めて、誰の話題にもならなくなるまでの過程を描いた。
「黄金の果実」の内容について具体的に言及されるのは殆どない。特別な登場人物も存在しないで、会話が漂っているだけである。
「あの本は、思うに、文学のなかに、あるひとつの照応を補足するに至った特権的言語を導入したのであり、その照応があの本の構造そのものとなっている。これは、律動的記号群のきわめて新しく且つ完全な掌握であり、それらの記号群がその緊張によって、あらゆる意味域の内に存在する非本質的なものを超越するんだ。」

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「黄金の果実」ナタリー・サロート(本文より)
 彼の訴えが誰かの耳に届いて欲しい、彼らのうちのただひとりでいいから、やって来て彼の味方になって欲しい……ただひとりでいいから、彼以外の誰かの目が、彼の目に見えているものを見て欲しい……それ以上のことは要求しない。彼が絶対に自信があり、不屈であると感じることができるためには、真理が凱歌をあげることができるためには、ほんのそれだけが必要なのだ、ただひとりの証人が。彼の目は四方を見廻し、恍惚とした顔、一種の麻疹状態に石化した表情の上を滑り過ぎる。
(平岡 篤頼 訳 87-88)

「黄金の果実」の評価が凋落していった会話が挿入する。
「無気味な波の音・・・・・・足がのめりこむ・・・・・・彼が飛び込んだのは、こんな水気の多い土地なのだ。これを彼は、斧を手に、松明を手に、開拓しようなどと思ったのだ・・・・・・(中略)見渡すかぎり目に入るのは、泥まじりの灰色の拡がりばかり、生気のない形象がそこから現れ出ては、目に見えない波のまにまに、気の抜けたように旋転する・・・・・・」

「傑作」といった常套句から「駄作」という常套句へと落ちつくのを、植物が光の方向に茎を伸ばすように、非人称的で方向性があり、散文的な喋りの連続で捉える。濃厚な渋さを醸し出す「黄金の果実」である。


解説:平岡篤頼
 一見したところ、本書「黄金の果実」と最近作『生と死の間』では、文学とは何かという重大問題を前面に据えることによって、サロートは、『プラネタリウム』までの彼女の作品の特徴となったことさら平板陳腐な世界を捨て。いっそう深刻な意味をもった作品を書こうとしたかに見える。すなわち、「黄金の果実」の主人公は、プレイェなる作家の同名の小説であり、『生と死の間』の主人公は、現に小説を書こうとし、しだいに書いて行き、やがて書き終った小説家自身なのである。そして『黄金の果実』は、ブレイェの『黄金の果実』にたいするさまざまな人間の評価、というよりはもっと衝動的な反応の変遷だけから成り、「生と死の間」には、さまざまな人間やみずからの作品にたいする、作家自身のおなじような反応の変遷しか見出せない。当然、前者では文学作品の評価における価値規準の問題、後者では文学的創造の秘密とでもいった根源的な問題か問われ得るはずで。これは文学そのもの、書くという行為そのものへの反省が小説の内容となるという、サロートのみならず、ロブ・グリエらヌーヴォー・ロマンの作家たちにも共通する傾向の必然的帰結と言うことができる。
『黄金の果実』新潮社 (1969年)。 より

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ドキュメンタリー映画『エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館』

フレデリック・ワイズマン監督によるニューヨーク公共図書館に関する2017年のアメリカ合衆国のドキュメンタリー映画。第74回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門で上映され、FIPRESCI賞を獲得。
http://moviola.jp/nypl/


ナレーションなし、テロップなし、音楽なしのスタイルを貫くフレデリック・ワイズマン監督の新作。
世界中の図書館員の憧れの的であり、ニューヨーク有数の観光スポット。本作の主役は、荘厳な19世紀初頭のボザール様式の建築で知られる本館と92の分館からなる世界最大級の<知の殿堂>ニューヨーク公共図書館だ。
この図書館は、作家サマセット・モーム、ノーマン・メイラー、トム・ウルフ、画家アンディ・ウォーホルなど文学、芸術などの分野でも多くの人材を育ててきた。またここは世界有数のコレクションを誇りながら、“敷居の低さ”も世界一と言えるほど、ニューヨーク市民の生活に密着した存在でもある。その活動は、「これが図書館の仕事」と私たちの固定観念を打ち壊し、驚かす。


【ナレーションがないことについて】
見ている人と作品に出ている人の距離を近づけたいと思っています。見ている人がその場にいるかのような感覚を持ってもらい、自分たちが見たものを、自分たちで判断してもらいたいのです。私の作品は強い表現はしません。どちらかといえば、シークエンスを準備し、メッセージを間接的に表現しています。
【立命館大学でのフレデリック・ワイズマン監督インタビュー】より
http://blog.livedoor.jp/yumiakane/archives/52795467.html
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