2019年05月02日

『 アルゴールの城にて』ジュリアン・グラック(安藤元雄訳、岩波文庫)

20世紀フランス文学において特異な存在感を誇るジュリアン・グラック(1910‐2007)のデビュー作。

舞台は海と広大な森を控えてそびえ立つ古城。登場人物は男2人と女1人。何かが起こりそうな予感と暗示―。練りに練った文章で、比喩に比喩を積み重ね、重層的なイメージを精妙な和音や不意打ちの不協和音のように響かせる。

倉橋由美子さんの「偏愛読書館」では能と比較して能と同じ構造を持っていると記される。

「グラックの文章は、能の舞台で起こっていることを見ながらそれを言葉で記述したような性質のものです。能の場合はその記述が、地謡とシテやワキの謡として、音声で伝えられます。しかしあれは普通の芝居のように、役者たちが日常起こること、起こりそうなことを真似して見せるものではありません。あくまでも別の世界で起こることを見せているのです。『アルゴールの城にて』もそうです。
『アルゴールの城にて』はアルベールの「城への到着」から始まります。現実の世界に住む主人公は、まず「城」という別の世界へと旅をして、そこに到着しなければならない。これは能も同じです。旅の僧が、たとえば鬼や女神や亡霊が住んでいる別の世界に到着するわけです。」(倉橋由美子『偏愛文学館』より)

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  フランスの古城アルベールで起こるゴシック的雰囲気の幻想的な小説。会話台詞がなく、城を舞台に映像的な描写になっている。

主人公の大学生アルベールが長期休暇に古城に来る。〈高貴で裕福な家柄の血を引く最後の一人〉〈実に遅くまで、片田舎にある人里離れた塀の中に厳重に閉じこめられ〉〈十五歳にして、あらゆる天与の才能と美とが彼のうちに花開くのが見られたが、パリでは誰もが類のない確信をこめて成功を約束してくれたのに、それへ背を向けてしまった〉。

〈友人をほとんど作らなかったばかりか、とりわけ一貫して女性に目もくれ〉ないで〈ときたま、ことのほか貴重な材料をたっぷり盛りこんだエッセイだの、膨大な独自の資料に裏づけられた論文だの〉を書く。〈弁証法こそはアルキメデスが嘲笑まじりに要求した、世界をすら持ち上げるあの梃子のようなものだと考えて、いまブルターニュの人里離れた屋敷に赴くにも、わびしい地方の、陰鬱で無味乾燥だろうとしか思えない日々をたっぷりと埋めるために、へーゲルの著書を運びこもうとしていたのである〉。


《回復の原理は思考の中に、そしてただ思考の中にのみ、見出されるのだ。傷を負わせる手は、また傷をいやす手でもある》


 アルベールいつも敢然と殺して来た侮蔑的な自然の愛情ではなく、認識だけが彼自身と永遠に和解させる。

《子供の無邪気さは大いに甘美かつ魅力的であるには違いないが、その理由はひたすら、精神がそれ自体のために究極的に何を征服せねばならぬかを、われわれに思い出させてくれるところにある》



 数えるほどしかない開口部の形状と配列も、負けず劣らず目を驚かせた。階という概念、今日ではおよそ調和のとれた構築物の概念からほとんど切り離せなくなっているこの概念が、ここではまったく締め出されてしまっているように見える。城壁にあいているわずかな窓は、上下の位置がほとんどどれもこれも不揃いで、内部の配置の奇妙さをうかがうに足りる。下の方の窓はいずれも低く平べったい長方形を見せているが、これは建築家が、昔の城塞で火縄銃の射撃に用いた狭間のデザインからヒントを得たものであることが見て取られる。これらの細長い割れ目は、その縁を色のついた石で飾るわけでもなく、まるで無気味な通気孔のようにむき出しの壁に口をあけている。


解説より
比喩に比喩を重ねて言葉による多層的な空間を紡ぎ出そうとする文体にうかがわれる。実際、『アルゴールの城にて』にしても『シルトの岸辺』にしても、およそ現実には存在しない想像上の舞台装置が、さながら異国の風土の記述のように、舌なめずりするほどの「語る喜び」とともに描き出されるのを見るとき、読者は知らず知らずのうちにその空間に浸り、場合によってはそこに溺れてしまうことさえある。これはほとんど、非現実的なシチュエーションが非日常的な歌と衣裳と舞台装置とで観客を酔わせる、オペラの世界である。

 このような「人里はなれた城館」の果たす役割は、グラック自身が「はしがき」で名をあげている『オトラントの城』や『アッシャー家の崩壊』の舞台と同じである。とりわけアッシャー家の場合は、豪壮な屋敷の建物全体が崩れ落ち、屋敷の前にある深い沼に呑み込まれて、破片一つ残さずに消えてしまうという、とても信じられないような終末を迎える。この屋敷はこの地上のどこかで崩壊するのではなく、読者の想像力の中で崩れ落ちるのだ。(安藤元雄)

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世界樹が枝を伸ばしている

「世界樹といわれる巨樹は天地の中央にあり、傘を広げたよう枝を伸ばしている。そうして、太陽はこの傘に沿って昇ってゆき、また降ってゆくことになる。」中西進「日本の文化構造」(岩波書店)より


宇宙は太陽の運行する傘によって三分されている。その傘の部分を太陽圏とすれば、大気圏と太陽圏と太陽圏外宇宙となる。


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『「三界図に云う。其の天の中心、皆崑崙有り。又の名須弥山なり。其の山高潤にして四方を傍障す。日月、山をめぐりて互いに昼夜をなす。」とあって、須弥山は崑論山の別名と意識されていた。』

「雲笈七籤」巻21より

道教が認識していた宇宙の構造。中国伝説で東方の果てにある巨木、扶木・ 扶桑木・扶桑樹とも言われた。


須弥山石はそんな表象であろうか。こういう認識は道教独特のものであろう。


老子の言う道とは、宇宙の原理のことであり、人間は宇宙の原理にしたがって生きていくことが大事なのである。だから、道教では、宇宙の原理について思索を重ねるとともに、天の構造についても以上のような考えを持っていたようだ。須弥山式庭園も宇宙を意識した空間であるが、斉明天皇の作った明日香の庭園も宇宙を意識した空間であったのである。先に述べたように、その庭園で化外の民をもてなすとともに、その庭を身近におくことは自らを神仙に仮託しようとした斉明天皇にとって特別の意味があったのである。


斉明天皇は、明日香の「石神の庭」で化外の民、蝦夷や異国の人たちをもてなしたらしい。「石神の庭」とは、飛鳥の石神遺跡の庭園遺構のことで、昭和50年代に奈良国立文化財研究所が発掘調査によって確認したものである。


斉明天皇は、新羅と唐の連合軍と白村江の戦いを戦って大敗を喫した。「日出(い)ずる処(ところ)の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無(つつがな)きや」という国書を隋に届けた大和朝廷としては、大ショックであったに違いない。そこで斉明天皇としては、自らが太く神仙と繋がっていることを示すために両槻宮を建立する必要があったし、蝦夷や異国の人たちに大和朝廷が異国の文化をも取り入れた大国であることを示すために「石神の庭」を作る必要があった。私はそう考える。「石神の庭」の造築に当たっては、わが国伝統文化を駆使するのは当然として、中国伝来の文化をも駆使した。総力を挙げたということである。中国伝来の文化の中に道教文化と祆教(ゾロアスター教)文化があった。したがって、石神の庭には築山と池の他に、中国伝来のさまざまな石造が作られた。須弥山石と石人像は道教のものだが、その他の石造については、中国伝来のものであろうが詳細はよく判らない。須弥山石と石人像は明らかに道教のものであるが、噴水の仕掛けの部分については、どうも祆教(ゾロアスター教)文化の技術によるものらしい。松本清張は、祆教(ゾロアスター教)の影響を重視しているが、それはその通りだとしても、須弥山石と石人像は明らかに道教のものである。「石神の庭」は正に国際感覚に満ちた庭だったのである。

なお、松本清張は、「石神の庭」は未完成に終わり、多武峯の両槻宮も完成しなかったと見ているが、それは如何なものであろうか。私は、やはり、完全に完成したものかどうかは別として、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)で述べられているとおり、多武峯の両槻宮はそれなりに建立されたと考えている。


上述したように、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では、『 ところでこの山形石を崑崙山と解することを一つの選択肢とするならば、同時に出土した石人像は、仙像である可能性が高い。それは道教の神・東王父と西王母ではないだろうか。「水経注」のその崑崙の記述の中にも 東王父と西王母は「陰陽相須ふ」とあり、陰陽相和したペアを大事なモチーフにするのは、これもまた道教の大きな特徴だからである。』と述べているが、この点が道教の心髄をついたもっとも大事な点である。

中西進「日本の文化構造」より

posted by koinu at 09:15| 東京 ☀| 観測 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする