2019年02月28日

西東三鬼『神戸』『続神戸』全話掲載

『神戸』西東三鬼

 昭和十七年の冬、私は単身、東京の何も彼もから脱走した。そして或る日の夕方、神戸の坂道を下りてゐた。街の背後の山へ吹き上げて来る海風は寒かったが、私は私自身の東京の歴史から解放されたことで、胸ふくらむ思ひであった。その晩のうちに是非、手頃なアパートを探さねばならない。東京の経験では、バーに行けば必ずアパート住ひの女が居る筈である。私は外套の襟を立てて、ゆっくり坂を下りて行った。その前を、どこの横町から出て来たのか、バーに働いてゐさうな女が寒さうに急いでゐた。私は猟犬のやうに彼女を尾行した。彼女は果して三宮駅の近くのバーヘはいっだので、私もそのままバーヘはいって行った。そして一時間の後には、アパートを兼ねたホテルを、その女から教はつたのである。(つづく)

第一話 奇妙なエヂプト人の話 

http://pengiin.seesaa.net/article/461462446.html


西東三鬼『続神戸』前説。

 かつて私は綜合俳誌「俳句」に、「神戸」十話を連載した。それは昭和十七年から昭和二十一年まで、神戸で過した間の挿話である。

「神戸」に登場した人々は、内外人すべて善人ばかりで、同時に戦争中の「非常時態勢」に最も遠い人達である。

私も亦、彼等と共に、自由こそ最高の生甲斐と考えていたので、彼等の生き方に深い興味を持った。

「神戸」は意外に多くの愛読者を得た。映画化の話ももたらされた。さて、本誌編集長は、いまや「神戸」続編を強要してやまない。

しかし「神戸十話」を書きしるした時と、現在とでは、私の住居、境遇にも大きな変化があり、加うるに老頻、ペンの泉も涸れ果てた。再びの無頼文章が、読者の一顧を得られようとは思われないが、幸いにして「からきこの世」の一微笑ともなればと、恥多き愚談を綴るのである。

内容は前編と同じく全く虚構を避けた。さればゆめゆめ、誓子先生のごとく、眉に唾を附け給うことなかれ。


西東三鬼『続神戸』全話掲載

http://pengiin.seesaa.net/archives/20181001-1.html


西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1 日)岡山県出身の俳人。日本歯科医専卒。本名、斎藤敬直。新興俳句運動の中心となるが、京大俳句事件で検挙。戦後「天狼」「断崖」を創刊。句集「夜の桃」、随筆集「神戸」「続神戸」など。
西東三鬼『神戸』全話掲載
《俳句・昭和31年6月号》連載終了
posted by koinu at 22:20| 東京 ☀| 本棚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「映画の父」D・W・グリフィス

デヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith、1875年1月22日 - 1948年7月23日)
アメリカ合衆国の映画監督、俳優、脚本家、映画製作者。

映画文法の基礎を築いた人物であり、様々な映画技術(モンタージュ、カットバック、クローズアップなど)を確立して、映画を芸術的な域へと高めた。アメリカ初の長編映画『國民の創生』や『イントレランス』などの監督作品は彼の技術の集大成的な作品であり、現在でもアメリカ映画の名作として数えられる。また、女優のメアリー・ピックフォードやリリアン・ギッシュなど数多くの映画人を輩出したことでも知られ、それらの功績から「映画の父」と呼ばれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/D・W・グリフィス


グリフィスは、映画芸術の基本を作った人物として映画史にその名が刻まれている。これまでの映画というと、ワンシーンワンショット、固定カメラ撮影が特徴で、演劇色が濃かった。しかし、グリフィスは様々な演出法や撮影技法を確立・駆使していき、映画を独自の視覚的表現・一つの芸術として発展させた。
グリフィスはこれまでのワンシーンワンショットによるシーン単位の撮影からショット単位の撮影を行い、1つの場面を複数のショットで構成させ、モンタージュを確立させた。1つの場面を複数のショットで構成することは「物語を撮る」意味で初期の作品から行われていたが、彼はショットとショットを繋いで劇的な効果を生みだすことに成功している。グリフィスのモンタージュは時間の連続性を失わせないように複数のカメラを使うマルチ・カヴァレッジという方法で撮影されたのが特徴。この方法は当初多大な撮影予算がかかるため敬遠されていたが、戦後に黒澤明が『七人の侍』の合戦シーンを複数カメラで撮影したことをきっかけにハリウッドでも普及し、このスタイルは一般的になった。モンタージュに関しては1920年代にソ連の映画人たちが「モンタージュ理論」として体系化した。
異なる場所で同時に起きている2つ以上のシーンで、それぞれのショットを交互に繋ぐ編集法であるクロスカッティング(並行モンタージュ、同時進行描写とも)もグリフィスが創始したといえる技術である。グリフィスお得意の演出「ラスト・ミニッツ・レスキュー(最後の瞬間の救出)」を使うときにクロスカッティングを用いられている。この技法は『淋しい別荘』の強盗襲撃のシーンで初めて用いられ、以降『國民の創生』『イントレランス』『東への道』などほとんどのグリフィス作品で使われた。
そのほかグリフィスが生み出した技法には移動撮影、フラッシュバック、フェードイン・アウト、アイリスイン・アウト、ポイントオブビュー(主観の切り換え)、イマジナリーラインなどがあり、一つのシーンをロングショット、ミドルショット、クローズアップといった違うショットサイズで撮影したのもグリフィスの功績である。
クローズアップを初めて使ったのもグリフィスと言われるが、グリフィスの以前から『おばあさんの虫眼鏡』『大列車強盗』などの作品でクローズアップはすでに使われていた。しかし、物語を語る点で初めて使ったのはグリフィスであり、映画評論家のH・A・ポタムキンは『シアター・ギルド』誌で「グリフィスの『網を繕う人』(1912年)で初めてクローズアップを芸術的に使った」と指摘している。
撮影技師のビリー・ビッツァー(英語版)は、1908年から16年間にわたってグリフィス作品で撮影を担当し、彼の右腕として活躍した。『國民の創生』や『イントレランス』を撮ったのもビッツァーである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/D・W・グリフィス


[主な監督作品]
1975年に米国郵便公社からグリフィスの記念切手が発行された。
ドリーの冒険 The Adventures of Dollie(1908年)
じゃじゃ馬馴らし The Taming of the Shrew(1908年)
質屋の娘の恋 Romance of a Jewess(1908年)
迷惑帽子 Those Awful Hats(1909年)
カーテン・ポール The Curtain Pole(1909年)
黄金のルイ The Golden Louis(1909年)
淋しい別荘 The Lonely Villa(1909年)
毒蛇の飼育 Nursing a Viper(1909年)
封印された部屋 The Sarled Room(1909年)
インディアンの考え The Red Man's View(1909年)
小麦の買い占め A Corner in Wheat(1909年)
罠にかかったサンタクロース A Trap for Santa Claus(1909年)
不変の海 The Unchanging Sea(1910年)
境界州にて In the Border States(1910年)
高利貸し The Usurer(1910年)
鎧戸の締まった家 The House with Closed Shutters(1910年)
老人たちをどうすべきか What Shall We Do with Our Old?(1911年)
女の叫び The Lonedale Operator(1911年)
老男優 The Old Actor(1912年)
見えざる敵 An Unseen Enemy(1912年)
大虐殺 The Massacre(1912年)
ピッグ横丁のならず者 The Musketeers of Pig Alley(1912年)
ニューヨークの帽子 The New York Hat(1912年)
強盗のジレンマ The Burglar's Dilemma(1912年)
ベッスリアの女王 Judith of Bethulia(1913年)
國民の創生 The Birth of a Nation(1915年)兼脚本
イントレランス Intolerance(1916年)兼脚本
世界の心 Hearts of the World(1918年)
散り行く花 Broken Blossoms(1919年)兼脚本
東への道 Way Down East(1920年)兼製作
嵐の孤児 Orphans Of The Storm(1921年)兼製作・脚本
アメリカ America(1924年)
素晴らしい哉人生 Isn't Life Wonderful(1924年)兼脚本
曲馬団のサリー Sally of the Sawdust(1925年)
posted by koinu at 07:59| 東京 ☀| 観測 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする